母の呪縛3
「死にそうになったからって、悟りを開かなくていいんだよ」
カズミは何時も笑う。
そんなつもりは無いけれど。こんな状況になって、変わらない人の方がおかしい。
そして意識を取り戻した私を待っていたのは、私が一番嫌いな「努力」を必要とすること。リハビリ。毎日、汗だくになりながら単純動作の「歩く」ことを続ける。時には癇癪を起こし、叫びたくなるけど。でも昨日よりは着実に歩けるようになる自分を、褒めてあげたい。
そして今日もそんなリハビリから帰ると、かすみ草が花瓶に生けてあった。私が病室に居ない時間を知っているだろうその人は、恐らく彼じゃないだろうか?皆が敢えて口にしないその名を、私も口にする勇気は無い。新婚の幸せの中にいる彼に、私の惨めな姿を見られるのは耐えられない。でも、その可憐な小花の中に鼻先を埋める。すると優しい香りと切なさが、胸一杯に広がった。会いたくて……、会いたくてしょうがない。
「リハビリの時間だよ!」
今日もカズミの非情な声が、病室に響く。けれど、彼女のお陰で松葉杖で歩けるようになった。
「――あれ?」
リハビリ室の前になって、私はタオルが無いことに気付いた。
「取って来てやるよ」
「いい。自分で取って来るから。待ってて」
病室の扉に手をかけると、人の気配がした。トクン……、鼓動が早くなる。急いでカズミの元へ帰ろうとしたが、聡への恋しさに勝てなかった。 勢い良く開けた扉の向こうには、驚いて固まる亜矢香の姿があった。
「繭美さん!リハビリは?」
「亜矢香!何であんたが!」
「見ての通り、花を生けてるのよ!」
「分かった!惨めな私を笑いに来たんでしょ!自分が幸せだからって!」
私の悪態もそこまでだった。何故なら亜矢香が、余りにも寂しそうな顔をしていたから。
「何よ。どーしたのよ?何でそんな顔してるのよ?」
裁ち鋏を持つ彼女の手が、微かに震えている。
「――止めたのよ」
「何を?」
「聡さんとの結婚よ!死にそうな貴女にすがりつく彼を見て、結婚なんかできるわけないでしょ?」
「笑いなさいよ」
涙を堪えて、亜矢香が挑発的に言った。
「笑えるかよ。こんな格好で……」
「――そう、よね」
亜矢香は急に肩の力を抜いて、溜息と共に敵意を捨てた。そして、私も。
「かすみ草、いつも飾ってくれてたの?」
「貴女の部屋、余りにも殺風景だから……」
「ありがとう」
「聡は……」
言い掛けて止める。聞いてどうする?
「聡さん?また売れない画家に戻るみたいよ」
「今、何処に?」
遠慮がちに聞く私に、「ふん」と亜矢香は横を向く。
「私に聞くの?」
「ごめん」
亜矢香が、松葉杖の先に視線を落とす。それは哀れみの表れか、同情なのか?どちらにしろ、それは悪意からの感情じゃない。出てきそうになる、悪態を慌ててしまった。
「リハビリに戻らなきゃ」
「――ねぇ」
「ん?」
ぎこちない動作で振り向くと、亜矢香の真摯な瞳とぶつかった。
「また、お花飾りに来るから」
「――うん」
私はそう答えるのが精一杯だった。それ以上話したら、泣けて来そうだった。今までもこうやって、誰かが私の知らないところで気遣ってくれていたのかも知れない。
「繭美の世界は綺麗だよ」
いつか、カズミが言った言葉を思い出した。