母の呪縛
ホテルを出て見上げると、真っ青な空が広がる。ここに来る時も、帰る時も、殆どが夜だった。駆け出したい気持ちを抑えて、私はゆっくりと歩き出す。聡に会ったら、冷静に自分の気持ちを伝えよう。伝えて、私達が今後どうすればいいのか、真剣に話し合おう。
私は気持を落ち着かせる為に立ち止まって、また空を見上げた。その時だ。衝撃と痛みは一瞬だった。背中と、振り向いた腹部と。体内から流れる血は、こんな真っ黒な心の私にしては綺麗な綺麗な赤だった。ふわりと後ろに倒れると、アスファルトの熱を背中に感じた。このまま、水滴が蒸発するように私も消えて無くなりたい。
「あぁ……、空が青い」
トクトクと体から命が流れる音を聞きながら、その空へ吸い込まれるように意識が遠のいて行く。気持ち良い……。でもその時、黒い影が私の視野を遮った。
「死ね!」
そいつは言った。ドス黒い顔をした、不気味な女。
「シネ!」
シネ!シネ!シネ!
「貴女は――」
その女の顔を思い出した時、母のあの言葉が蘇った。
「繭美が悪いんでしょ!」
ママ、あの時は、私は悪くなかったんだよ。でも、今度は私が悪いね……。何故ならこの女は、和之の奥さんだから――。
「ごめん、ママ」
不思議と痛みはなかった。血が流れるその場所が、熱い。けれどその熱さも、襲って来る眠気にだんだんと薄れて行く。静かだった。道路の真ん中に横たわっているのに、何も聞こえなかった。
霞んだ意識の中を漂う私に、ハラハラと紙切れが落ちて来る。まるで雪のように沢山、沢山……。眠くて眠くてしょうがないのに、私は力を振り絞ってその紙切れを手に取る。
「――モウナニモカモイヤ。マユミヲコロシテ、ワタシモシヌ」
どの紙にも、どの紙にも同じ文が書き殴ってあった。
「マユミヲコロシテワタシモシヌ」
「マユミヲコロシテワタシモシヌ」
「マユミヲコロシテワタシモシヌ」
これは母の字だ。ならば?私は光に貫かれたような、衝撃を受ける。これは母の日記の最後のページだ。祖母は実の母が娘を殺そうとした事実を、隠したかったんだ。
母が私を殺そうとした事実に、恐怖と、そして何とも言えない安堵感に包まれる自分がいた。母は、私も一緒に連れて行こうとしたんだ。私も、一緒に……。
日記のページが、沢山、沢山、落ちてくる。私を覆い隠すように。
「マユミヲコロシテワタシモシヌ」
「マユミヲコロシテワタシモシヌ」
ママ…、私も連れて行って――。
目を開けて暫くすると、少しずつ体の感覚が蘇って来た。それは痛みや、気怠さだったが、何故か腰から下が重く、起きあがることができなかった。私を見下ろすカズミに助けを求めようと、必死に腕を伸ばした。
「ね、起こして、ここ、どこ?」
「ここは病院。分かる?」
「――足が動かない、何で?」
「今は上手く動けないだけで、一生って訳じゃないらしい。心配すんな」
少しずつ、あの時の記憶が蘇って来た。私に覆い被さった真っ黒な影、あれは、和之の奥さんだった。私は刺されて、お腹と、背中、血が真っ赤だった。――足が、動かない。断片的な記憶がしっかり繋がると、激しい恐怖が襲って来た。
「私、どうなるの!?」
本当は、暴れたい。けれど自由に動くのは、両腕のみ。その腕すら、微かに痺れている。
「しっかりしろよ!」
カズミに怒鳴られて、別の疑問が浮かぶ。何故、父はいないのだろう?
「何で、カズミだけなのの?パパは?」
「わたしゃ、繭美パパに頼まれた」
「パパは、私の傍にいたくなかったの?」
「いたよ、最初は……。繭美が、寝過ぎなんだよ」
「――何日、経ったの?」
私は、はっとして聞き返す。勿論それは、自分の病状を聞く為ではなかった。聡と亜矢香の結婚式が、どうなったか知りたかったからだ。
「一ヶ月近く寝てたんだよ。あっ!先生と、繭美パパに連絡して来るからさ。取り敢えずまだ起きてろよ!」
一ヶ月近く?なら聡は、亜矢香と結婚してしまったじゃないか。けれど、二人の結婚式に、出席しないで済んだ。幸せそうな二人を、見ないで済んだ。
日記の最後のページを握った感触が、まだ右手に残っていた。それが例え幻であったとしても、このまま母の気持ちを知りつつ聡と結ばれる訳にはいかない。真っ白な天井を見上げたまま、声を上げて泣いた。
「腹部の傷は浅く、傷も殆ど残りませんが、問題は背中でして。その、足に繋がる神経を切断していて……、手術は成功したんですがリハビリが必要でしょう」
そして医者は私の手を取り、潤んだ目で宣言した。
「僕が力になりますから!一緒に頑張りましょう!」
その若い医者が出て行くと、カズミが苦笑してこう告げた。
「あいつ、繭美に惚れたみたいだよ。日に何回も何回もここに現れてさぁ。魂胆がみえみえなんだよねー」
私を気遣うカズミが、似合わない冗談を言う。
「そう言えば、パパも直ぐ来るってさ。あと聡なんだけど……」
「――聡のことは、聞きたくない」
こんな状態で、聡の幸せな結婚生活なんて聞きたくなかった。
「分かった」