母の真実 4
「カズミ、久しぶり!」
心なしか男らしくなった聡が、入り口に立っていた。くしゃくしゃだった髪は短く刈り上げられ、ソフトスーツを着こなしている。そんな彼には、もう「あの聡」は存在しない。それは成長したと言うよりは、何か大事な物を吹っ切った潔さ。後ろを振り返らない強さに思えた。私はそんな彼に気後れし、素早く目を逸らした。
じゃ、と、当然のように席を立つカズミに、「気を遣わせて悪いな」と、聡が声をかける。聡が話す機会を作ろうと声を掛けるのを、私はずっと避けて来ていた。だから、カズミを利用したのか。
「話しておかなきゃならない事がある。沢山の、沢山の誤解があって、どこから話し当て良いか分からないけど。もしかしたら、君のママを悪く言ってしまうかもしれないけど……。君に恨まれたり、嫌われたりするのには耐えられないから。僕は、狡いから」
「――狡いのは、とっくに知ってる」
こんな時でさえ、私は素直になれない。亜矢香のように、愛される馬鹿な女を演じることができない。
「最初から彼女の好意を拒否していたら、あんな事にはならなかったと思う。――溝呂木の父に死なれて、金銭的にも困っていて。それと、誰かに賞賛される心地良さに酔ってたんだと思う。けど、俺が彼女に会う理由は他にあった」
「その…」
聡は言いにくそうに、下唇を噛んだ。
「君のママに会い続けたのは、彼女が君のママだったから。僕は君に会えると言う下心から、誘われるままに食事に行った」
私の母だから?下心?激しく動揺する私を置いてけぼりにして、聡はどんどん話を進めていく。
「僕は時々ガソリンスタンドに現れる、君が好きだった。いつも不機嫌そうに俯いている、綺麗な君が好きだった」
好きだった?聡はその気持ちを勝手に整理して、「好きだった」と言う。なのに私の気持ちは、まだ、始まったばかりだ。
「――本当にごめん。俺が警察なんかに」
「もういい。もういい!」
私は力なく頭を振る。今更、聡に謝って貰っても、何も変わりはしない。私の気持ちが、激しく乱れるだけだ。
「俺達、家族になれるかな?」
わざと陽気な口調で呟く聡。貴方はもう、私を好きではないのですか? そんな問いは、口が裂けても言ってはならない。
「――努力する」
ぶっきらぼうに答える私を、聡が強く強く抱きしめた。
「悔しい」
もし、あの時、もし、こうでなければ、こうなってなかった。もし、もし、もし……。混乱した頭へ響く聡の、正直な言葉。では、私は何と言おう?
「しょうがないじゃない」
「最後に言ってくれないかな。君の、本当の気持ちを。それを聞けば、亜矢香の優しい夫になれる気がするんだ」
優しい夫になる為に?私は聡にしがみついて、その腕の中で叫んだ。
「――あんたみたいな勝手な男、好きな訳ないじゃん!」
聡を突き放すと、そこを飛び出した。あぁ、和之に会いたい。唐突に思った。会って全てを、忘れさせて欲しい。
ホテルに着くと、冷たいシャワーを頭からかけ続けた。聡が最後に私を見て、目を細めて柔らかく笑った。その仕草が、頭から離れなかった。
「繭美ちゃん、まぁ~だ?」
「急かさないでよ!」
和之が、ベッドの上で私を待ってる。その笑顔には、若い女を抱くと言う汚れた欲望ばかりある。聡とは、違う。
「久しぶりだね」
「最近色々あったから……」
バスタオルを巻いた体からは、まだ雫が滴り落ちている。
「髪、濡れてるよ、ほら……」
和之にタオルで髪を拭いて貰うと、とても懐かしい記憶が蘇った。小さい頃、私は父とお風呂に入っていた。母は私がお風呂から上がるのを待って、大きなバスタオルで包んでくれるのだ。
「――子供の頃、ママがこうして髪を拭いてくれた」
急に押し寄せて来た感情の波が、私を飲み込んだ。赤子のように体を丸めて、和之の胸で激しく声を上げて泣いた。
パパ、貴方は私が邪魔ですか?
聡、 貴方は私を好きですか?
和之、貴方は私が大事ですか?
ママ、貴女は私を愛してましたか?
お祖母ちゃん、ごめん。ごめん。ごめん。ごめん。
「繭美ちゃん!どうしたの?」
自分の感情を一度も露わにしなかった私が、こんなに激しく泣いている。和之は慌てた様子で私の背中を撫で、優しく語りかけた。
「繭美ちゃん、泣かないで、話してごらんよ。長い付き合いじゃない。繭美ちゃんのこと、一番分かってるのは俺だよ」
「私、どうしていいか分からない」
ん?と、首を傾げる和之に、あの日記を差し出した。
「――読んで」
和之は眉間に皺を寄せて、真剣な顔でページを捲った。
「で?繭美ちゃんは、これを全部読んだの?」
中程まで読み進んだ和之が、上目使いで私の顔色を窺う。
「殆ど読んだ……」
「女ってのは厄介だなぁ。これ信じたの?」
「よく、分からない」
和之が私を引き寄せて頭を優しく撫でるから、涙が流れて流れて流れた。私を子供扱いしてくれるのは、和之だけ。そんな彼に依存して甘えてたのは、私の方だったかも知れない。
「これは時限爆弾だな、きっと」
「爆弾?」
「自分が死んだ後、バーンって爆発して、繭美ちゃんが聡君に近づかないように」
「私が?」
「ママは、聡君が君を好きなこと、気付いてたんじゃないのかな?だから自分が死んだ後、君達がそう言う関係にならないように、時限爆弾を仕掛けたんだよ」
「君達って……?」
「最初に会った時に分かったよ。若い男は真っ直ぐで真摯で清潔感があって……。あぁ…、オジさんは敵わないなぁってさ。聡君は、繭美ちゃんのことが好きなんだよねー。すっごく、一途にさ」
そして和之は、私の顔をマジマジと見つめた。
「繭美ちゃん。大人になったんだね」
「私は昔から……」
「君の心の中にはずーっと膝を抱えた少女がいて、俺はそんな君が愛おしかった。でも、君は一瞬にして大人の女になった。聡君を好きになったから、だよね?」
「止めてよ!私は聡なんて」
そう言うと、ベッドに押さえ付けられた。今まで感じた事が無い不快感が、足先からじわじわと上がって来る。それが和之に対する嫌悪感だと分かると、私はそれを認めるしかなかった。聡が好きだという、事実を。
「――オジさんとはもう、駄目なんだろ?」
私は答えることができず、迫って来る和之から顔を背ける。
「あいつが、好きなんだろ?」
何だろう?泣きたくなるようなこの感情は? 今まで、感情をコントロールできないことなんかなかった。なのに……。母も、母もこんなだったんだろうか。
「和之さん!聡は、結婚するんだよ!どうしよう、どうしよう、どうしよう」
「だから?既婚者の俺と付き合っておきながら、急に道徳心が芽生えたの?」
和之は私を優しく抱き起こすと、洋服を着せ始めた。
「――あーあ、これで終わりか。繭美ちゃんと一緒に過ごした数年は、本当に楽しかったよ」
これで、本当に和之とはお終いなんだろうか?口を開きかけた瞬間に、素早く命令される。
「あいつの所に行きなよ」
「だけどママが、聡のことを好きだったんだよ!」
柔らかく背中を押されても、私は不安で前に踏み出すことができない。
「だから?二人とも好きなんじゃん?取り敢えず、気持ちを聡に伝えて後は……、なるようになるさ。そういうもんだよ、人生って」
なるようになるさ?和之らしい。
「――和之さん、ありがとう」