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母の恋人  作者: jinxx.
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母の欲望

 ◆八月十三日◆

 

 夫はグアムでゴルフ三昧だと言って、朝早くに出掛けて行った。思い起こせばあの人は、私達と休日を一緒に過ごしたことがない。

 二十年近くも一緒に暮らしているのに、私は夫が全く理解できない。何故、夫は私をこんな風に扱うんだろう?私の何が、夫をあんなに苛立たせるのだろう?

 それでも夫が気に入るような、食事やインテリアや服装や仕草や、全ての全てを合わせて来たのに……。夫は私を愛してくれない。愛してくれないどころか、私に興味がない。まるでそこに存在していないように無視するから、私は夫の気に障るようなことは避けて、気配を消して生きて来た。


 私は生きてる。けど、死んでる。


まるで土に埋められたように、息苦しい。身動きできない。けれど、そんな生活は一変した。今日、彼に会ったから。


 いつも行くガソリンスタンドで、彼は車のフロントガラスを磨いていた。


「この車、可愛いですね。何かコロコロしてて、黄色みたいなオレンジみたいな色もいい」

「――カボチャみたいでしょ?」


言って後悔した。と言うより、若い男に声をかけて貰って、上機嫌で返事をした自分が嫌だった。中年女のプライド。くだらない、プライド。


 それは、灰皿を彼に手渡した時だった。彼の髪から滴り落ちた濁った汗が、ハンドルを握る右手の甲に落ちた。彼は、気付いていない。


「今サービスキャンペーン中で、満タンのお客さんにティッシュを差し上げてます!」


私は右手を動かせない。左手で無造作にそれを受け取ると、滴を落とさぬように車を走らせ、スタンドから遠く離れた所で停めた。

 半濁色の彼の汗を、暫く眺める。そのアイデアは何処から湧き出て来たのか?良く分からない。兎に角、淫らで狂ったことをしたくなった。


 私は舌を突き出して、その滴を味わおうとしたのだ。でも舌先がそれに付く瞬間、滴は私の歪んだ欲望から逃れてこぼれ落ちて、大きく開いたブラウスの谷間に流れて行った。その時の感覚は、彼がそこをスッと撫でたようだったから、私は鳥肌を立ててその快感に酔いしれた。


 彼の汗の混じった体臭や、薄く髭の残る顎のラインを思い出して、体の何処からか溢れる熱い欲情に涙ぐみ。涙ぐんだ後で、彼が繭美と大して変わらない年齢であることを考えた。

 私は病んでいるのだろうか?若い男に、我慢ならない程に欲情している自分を、激しく嫌悪する。

 でもバックミラーを覗くと、化粧もしてないのに頬も唇も赤らんでいて、やっと生気を取り戻した、女の、生きた私が微笑んでいた。

 ――少しの喜び、嫌悪感。

 考えていたら、何だか眠れなくなってこうして書き記している。私にだって、欲望はあるんだ。





 ◆八月十五日◆

 

 帰って来た夫が私にトランクを投げて、無言でシャワーを浴びに行った。トランクを開けると、汚れたゴルフシャツの饐えた匂いが鼻を突く。中年の男の、汗。酸っぱい物が込み上げて、慌てて洗濯機に放り込んだ。

 免税店の袋を開けてると、衛生士さん達にだろうか?チョコレートの包みが幾つかと、趣味の悪いTシャツが何枚か入っていた。子猫柄のは、繭美にだろうか?あの子は絶対に着ないだろう。


 それと、翡翠色の香水瓶が一つ。


「――それ、お前にだ」


腰にタオルを巻いただけの夫が、得意気な顔で立っていた。ゴルフシャツの形に赤銅色に日焼けした姿が滑稽で、思わず笑ってしまった。


「俺は良く分からないけど、人気あるらしいから」

「綺麗な瓶ね、ありがとう」


夫は何時になく上機嫌だった。きっとこの香水も、女に選んで貰ったんだ。今回の旅行にも、あの女と行ったんだろう。どうでも、いいか。


 グアムではロクな食事をしてなかったからと言いながら、美味しそうに酢の物を食べている。


「お前は料理だけは上手い」


それが夫の口癖だ。男は性欲ではなく、胃袋で家に帰って来るから料理はちゃんと覚えなさい。良く聞く話だが、夫に関しては未だ性欲が優先らしい。勿論、年老いたらそうなるかもしれないが。私はその時まで、ずっと食事を作るだけの女でいればいいのか?そう考える度、切なくなって来る。


 

 夜になって、夫が私に手を伸ばして来た。それは滅多に無いことで、私もそれを受け入れるのことも滅多にないのだけど。グアムでは、若い女が自由にならなかったのだろうか?けれど、私も持てあます欲情の捌け口が必要で。


 別の誰かに魂がある状態でも、体は正常に反応するのだから、不思議。


 明日あの香水を付けて、ガソリンスタンドに行ってみようか……。





◆八月十六日◆



 ガソリンスタンドの前を一度通ったけど、彼の姿は見えなかった。スーパーで買い物してから、もう一度通ってみる。やはり、いない。今日は、お休みなのかも知れない。

 繭美の塾に迎えに行くと、大きなバイクに跨った青年があの子と親しげに話していた。日焼けした肌と金色の髪、見るからに軽薄そうな男だ。男が耳元に囁く度に、繭美が小さい笑い声を立てる。繭美の視線が、男に媚びを売るそれであることに気付き、愕然とした。この子はもう、女なんだと。


「――あの人、誰?」

「塾のアルバイト講師。大学院生なんだって」

「何か軽そうな男ねえ、あんまり親しくならないでよ」

「はーい」


 繭美は子供の頃からストーカーに悩まされたり、男に好かれる雰囲気を持っていた。一度などは、近所の男の子に家に忍び込まれたことがあったけ。その辺りは父親に似ているかもしれない。口答えは絶対しないが、腹の中では何を考えているか分からない。そんな所は、私に似ているのだろう。

 夫は繭美の聞き分けの良さを賢さと評価しているが、私は違う。賢さは賢さだが、ずる賢さ。親を欺く、強かさ。繭美みたいな子ほど、裏では何をしているか分からないのに。男親は単純だ。

 そう言えば、子供の嫌な部分は親の欠点らしい。どこかの学者が、言っていた。そんなこと、言われなくても分かっている。私は繭美の中に女を見付ける度に、言いようのない嫉妬に駆られる。そして、怖い。嫌だ。私の中に既にない、女を見付けるのが嫌。


 もう深夜一時を回っている。


夫はまだ、帰って来ない。でも、何だか気にならない。どうでもいい。





 ◆八月二十三日◆




 ガソリンスタンドの前を通ると、彼が車を送り出して深々と頭を下げた所だった。そのままそこを通り越して、急いで自宅に帰る。

 クローゼットを開けて、洋服を眺めては見たが……。我ながら、センスの無い服ばかりだ。

 最後に服を買ったのは、繭美の小学校入学の時だ。ベージュのAラインのワンピースは、夫と繭美と三人で銀座のデパートで買った。

 あの時の私は夫の不貞に気付いておらず、完璧な妻と母を演じる自分に酔いしれていた。その頃を思い出して、ふいに泣きたくなる。けれどそんな気持ちを振り払うように、頭から勢いよくワンピースを被った。


 久しぶりに着てみると、胸の部分が妙にスカスカして変な感じだ。それは体の張りが無くなっているからだと気付いた時、愕然として暫くベッドから立ち上がれなかった。

 確かに、鏡に写る私の顔には生気がない。昔あった輝きが、今はもうない。皺や弛みが問題なんじゃない。私にはもう人を、男を惹き寄せる力がないんだ。それが本当に悲しくて、悲しくて、悲しい。

 お洒落して彼に会えば、少しは私のことを気に留めてくれるんじゃないかって、馬鹿なことを考えていた。


 

 ――馬鹿。馬鹿。本当に馬鹿だ。





 ◆九月十日◆


「お久しぶりですね」


 彼が真っ白な歯を見せて微笑んだ時、私は激しく動揺して思わず泣きそうになった。それを誤魔化すように咳払いをすると、「風邪ですか?」と私の顔を覗き込む。


「最近、急に涼しくなって来ましたからね」

「そ、そうね」


彼は覚えててくれたんだ!私は勇気を出して、その理由を聞いてみた。


「この車の色、珍しいですから」


夫の趣味なの。言いそうになって、慌てて口を継ぐんだ。私と彼の関係に、夫の情報は必要ない。


「お客さん、印象的だから」


印象的?彼の中に、私はどんな印象を残したのだろう?それ以上の答えが聞きたいと思ったが、乾いた私の唇からは思うように言葉が出なかった。

 印象的だから、印象的だから、今日一日、その言葉を繰り返し考えていた。どう、印象的なのだろうか?その答えを、自分で繰り返し、繰り返し、考えている。それが私を喜ばせるような、答えでありますように!


 夫が酔って帰って来た。酔った時は必ず、私を責めたてる。辛気くさい顔。何をしても鈍臭い。化粧くらいたまにはしたらどうだ。気が利かない。次から次へと、良く思いつくもんだと感心する。

 ストレス発散できるのは、夫が我が侭言えるのは、私だけ。それを受け止めてやるのが、妻の務め。そう、自分自身に暗示をかけていた。ずっと。何年も何年も。

 でも夫から罵声を浴びせられても平気でいられるのは、彼の言葉を考えているから。彼の縮れた髪先が汗に濡れて余計に縮れて、子犬のように可愛くて、可愛くて。


 私に息子がいたら、こんな気持ちになったのだろうか?夫に罵られた時、息子だったら庇ってくれたのだろうか?繭美は青い顔をして俯く私を、面倒臭そうに眺めてさっさと部屋に上がって行く。冷たい子なのか、あの子には私が情けなく見えるのか。


悲しい。


虚しい。





◆九月三十日◆




 それまで何回も何回もガソリンスタンドの前を通ったけど、彼の姿を見つけることができなかった。どうしたのだろう?具合でも悪いのだろうか?私は意を決して、従業員の男の子に聞いた。


「あの……、いつもいた、髪がチリチリした男の子。最近見掛けないけど――」

「辞めたんですよ」  


あの子とは全く正反対な、陰気な男が言った。


「ここの仕事、きついから」


フロントガラスを拭く彼の手は、カサカサに乾燥して血が滲んでいる。真夏の太陽と、冬は凍った水。彼の手も、こんなにカサカサだったのだろうか。私は彼のこんな苦労を、知ろうともしなかった。私はただ、愛らしい笑顔の彼を、玩具のように好いていた。

 しかしこの瞬間に、彼が私の中で生身の男に変わった。だから、どうしようもなくなった。どうしても彼に会いたくなった。けれど、彼はもういない。


「そう、だったの」


私は落胆を隠しきれない。


「でも、近くのコンビニにでバイトしてるみたいですよ」


近く。彼にとって近くとは半径百メートルか、二百メートルか一キロメートルか。


「あら、そう?」


声が裏返ってしまって、陰気男がニヤリと笑った。私の魂胆は見え見えなのだろうか。私が彼に感じている愛しさは、こんな男でさえ「ニヤリ」とさせてしまう類の物なのだろうか?急に恥ずかしくなって、慌てて車を発進させる。


けど、いいんだ。


誰が私のこの感情にニヤリとしようと、知ったことか。明日から「近くのコンビニ 」を探す楽しみができた。こんなに心が踊るのは、久しぶりかもしれない。


「ママ、なんか最近、嬉しそうだね。何かあったの?」


繭美にそんなことを言われて、ドキッとした。でも繭美はいつもの無表情な顔のままだったから、この心躍る出来事を話すのは止めよう。


 私はどうしても、どうしても、繭美に愛情を感じることができない。でも、それをあの子に知られるのが恐いから、絵に描いたような母親を演じてしまう。



 こんな心のない母親の娘だから、あの子は冷たいんだ。無理もない。



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