母の真実 3
私は父の申し出を素直に受けて、自宅に戻って来た。勿論、父との会話はぎこちなく素っ気無い。その間に入って円滑油になっているのが、聡の母親の祥子さんだった。
許してない。許してない。と、口では言いながら、私は彼等を許しつつある。だからこうして、祥子さんが家に泊まって行くのも黙認しているんだ。
それは「生前はママを裏切ったことは無い」と言う父の言葉を信じたからではなく、祥子さんに、母にはなかった包容力や思いやりや優しさを感じたから。
祥子さんの作る、納豆や焼き魚やお味噌汁の朝ご飯には慣れた。でも、急に現れる、聡の笑顔にはいつまでも慣れない。けれど私は努めて行儀良く、彼と仲良く接していた。
「繭美さん、無理しないでね」
「――うん、大丈夫」
「繭美さんは、本当はパンが良いんでしょ?」
お約束通りに聞く祥子さんに、「本当はね」といつもの返事を返す私。でも前と違うのは「お味噌汁、美味しいよ」と、フォローを忘れないところ。
「聡君の結婚式の準備は順調なのか?二週間後だったよな?」
「亜矢香さんが張り切ってますよ。女の子にとっては、一世一代の晴れ舞台だものね」
祥子さんは父にお茶を注ぎながら私の顔色を伺うから、この人には嘘が付けないと思う。
「――でも先生。私はあの結婚は、早すぎるんじゃないかと思ってるんですよ。聡だって、あの会社の後継ぎになる器かどうか」
「聡君が夢を諦めるのは残念だが、男が夢を追えるのはやるべきことが見付かるまでだからな……」
私が黙ってお茶を啜って立ち上がると、二人揃って「行ってらっしゃい」と声を掛ける。
「どうかしたか?」
クスクス笑う私に、父が訝しげな顔で聞く。
「こんな朝、小学校以来かもね」
自分でも思いも寄らない言葉が出て、恥ずかしくなった。今のこの生活が綺麗なパステルカラーでも、私の心が真っ黒過ぎてなかなか良い色にならない。そうカズミに愚痴ると、「重ね方が足りないね」とニヤリと笑われた。
「大学、つまんねぇの?」
聡の個展が終了したので、カズミは小さな雑貨店でバイトしていた。私は毎日のようにそこに入り浸っている。
「ここのオーナー、儲ける気ないからさぁ」
そう言って入れてくれるコーヒーは、濃くて甘ったるい。あぁ、カズミらしいなぁと思う。きついけど、優しい。
「――また、だ……」
携帯が鳴る。いつもの非通知だから、出ると必ず切れる。
「無言電話なの?」
「うん。最近、多いんだ」
私は嫌な視線を感じて、後ろを振り返る。
「どうしたの?」
「なんか最近、誰かに見られてる気がするんだよね」
「誰かって?誰よ。繭美さぁ、疲れてんじゃないの?色々あったからさ。少しゆっくりしなよ」
労りの優しい言葉が、どれだけ心地良いか最近やっと分かった。
「――そうかも知れない。ありがと」
そしてその優しさを、受け入れられるようになった。
また、携帯が鳴った。非通知だ。そして、この誰かに見られている感覚は初めてじゃなかった。
十歳の時のことだった。近所の中学生に付け回され、彼は両親が留守の時に家に侵入して来た。私をベッドに押さえつけ 「一緒に寝よう」と囁いた。
私が激しく泣き暴れたことで動揺した彼は、急に態度を変え慰め始めた。それでも泣き止まなかった私に嫌気が差したのか、彼は慌てて家から逃げて行った。ショック状態になって、家の周りをふらふらと数時間歩き回った。どうしていいか、分からなかった。不安で怖くて、裏庭に蹲って泣きながら母の帰りを待った。
「繭美が悪いんでしょ!」
母は、震える私を叱りつけた。まるで私があの男を家に引き入れたように、嫌悪感を露わにした顔をして。父が、「繭美が悪い訳がないうだろう!」と怒鳴っても、彼女は顰めっ面で私から視線を逸らした。
警察には届けなかった。しかし彼の両親に事の顛末を報告すると、彼等は逃げるように引っ越して行った。
「――私が悪い?」
なぜ?不安げな顔で母を見上げた。あの日からだ。急に母が私に冷たくなって、汚い物を見るような目つきになったのは。あの瞬間に母は、父を誑かす女達の姿を私の中に発見したのだろうか。