母の真実 2
「ママだ……」
「繭美は、ママが作った世界に、住まわされていたんじゃないかな?」
私は日記を握り締める。母は死んでも、私を自分の世界に引き留めるようとしている。この日記で。怖い。怖い。怖い――。
「その日記と私と、どっちを信じてもいいけどさ。だけど、聡は日記に出てくるようなそんな男じゃない。それだけは、信じてやって」
「分からない。何故ママは、私を不幸にしようとしたの?何故、父を、皆を、憎ませるようにし向けたの?」
「――さぁね。うちの母親は、殴られてる私をニヤニヤしながら見てたけど?どうしても分からないことが、世の中にはあると思うよ」
「私はどうすればいいの?」
忘れる?受け入れる?
「油絵の良い所はね」
カズミは聡の絵、「野望」を眺めながら言った。
「気に入らない色なら、渇いてから違う色を重ねられるとこ。何色も重ねて行く内、素晴らしい色が出るんだよね。……人生も、同じじゃない?」
色を重ねるように、人生を重ねる?それが答え?それは過去を塗り潰せってことなんだろうか。忘れて、前に進む。この母の心を、忘れてしまっていいのだろうか。
「私の世界は醜かった。だから私が不細工なのはしょうがないけど。繭美の世界は綺麗だよ。いい加減気付きなよ」
「カズミは、不細工じゃないよ」
「本当に?」
大袈裟に驚いてみせた。
「じゃ、ちゅーして」
戯けるカズミを押し退けると、携帯が鳴った。
「繭美か?」
何時になく、取り乱した父の声がした。
「お義母さんが倒れたんだ。直ぐに市民病院に行きなさい。パパも行くからな!」
「お祖母ちゃん?どうしたの?」
「後で説明するから急ぎなさい!間に合わないかも知れない。」
――間に合わない?祖母の、痩せてカサカサの手を思い出した。その手が私の顔に掛かる髪を、優しく耳に掛ける仕草を。あぁ何故だろう?こんな瞬間にならないと、私は何も、何も、何も、分からない。
祖母の心臓が悪いことなど、知りもしなかった。本当は入院を勧められたのに、私の傍にいたいからと、頑なに拒み続けていたのだそうだ。久しぶりに会った叔父が、私の顔色を窺いながら話してくれた。
ICUに入れられた祖母は、危険な状態だった。いつも綺麗にセットしていた白髪が、乱れて顔に掛かっている。その姿を見て初めて、祖母を失う怖さを知る。もし、もし、祖母が逝ってしまったら……、私は本当に一人だ。苦しいとか悲しいとかではなく、本当に怖かった。たった一人になることが。
「お祖母ちゃん、どうして、どうして……」
どうして?それしか、言葉が見付からなかった。どうして、どこから、私と私の関わる人達の人生はねじ曲がってしまったのだろうか。
それから私は毎日、祖母に付き添い続けた。濡れたガーゼで顔や手を拭き、乾燥した唇にクリームを塗る。そして祖母が目を開けてくれると信じて、語り続けた。こうしてずっと傍にいれば、祖母の魂を私の元に引き留めておくことができると信じた。
大勢の人が、ベッドに横たわる祖母を見舞った。その殆どが、これで最後というように祖母の手を取り、私を励まして行く。皆「大丈夫よ」と私を力づけるが、誰一人として大丈夫だと思っていないことは明らかだった。
それは一週間後の早朝だった。祖母の傍で眠りこけていた私は、髪を撫でる手に気付いてゆっくり目を開ける。霞んだ視界の先には、窶れた祖母の笑顔があった。
「お祖母ちゃん!」
祖母は人工呼吸器を外し、優しく微笑んでいる。
「お祖母ちゃん!大丈夫?先生を呼んで来るね!」
祖母はそんな私の手を、しっかりと握り締めた。
「繭美ちゃん、よく聞いて」
祖母の真剣な顔に、私はコクリと頷いた。
「ママが、貴女が三歳くらいの時に言ってたの。子供は三歳までに親孝行してくれるのねって、繭美ちゃんを本当に、本当に愛しそうな顔で、見つめて、そう言ったのよ……」
祖母は残された力を振り絞って、母の言葉を、まだ、母親の心が残っていた時の言葉を、必死で伝えようとしていた。声を発する度に、空気を求めて激しく喘ぐ。私の手を掴む、祖母のカサカサの手先が紫色に鬱血していた。私はそこを、激しく擦る。この暖まった血液が、祖母の心臓を動かしてくれると願って。
「貴女のことが可愛くて、可愛くて……、幸せだから、ママはもう、親孝行はして貰ったって。ママは、心の病気だったから、許してあげて。ね、お願い、お願い」
私に萎びた両手を合わせて、何度も、何度も、繰り返す。
「うん、分かった。分かったよ」
「ありがとう。繭美ちゃん、ありがとう」
それが、祖母と言葉を交わした最後だった。
祖母が亡くなって、日記の最後のページの謎は残った。
どうしてだろう?テレビドラマ、映画、小説、何にだって結末がある。恋は成就し、悪人は罰を受ける。
でも現実では、謎は謎のまま。お互いを思いやりながらも、分かり合えないまま。残された人達はその蟠りを心の片隅にある小さな小箱に入れて、何も無かったかのように過ごす。そして友人の「大丈夫?」と言う間抜けな問いに、「大丈夫よ」と答える。大丈夫?大丈夫な訳がない。大事な人を亡くしたら、大丈夫でいられる訳がない。人は他人の痛みに無神経で、鈍感だ。
今までの私のように……。