母の狂気5
そんな時、気配を感じて私から体を離したのは聡だった。
「――君のパパの、ご帰還だ」
父の足跡と、亜矢香の幸せそうな笑い声が聞こえて来た。
「何だ繭美、来てたのか?」
不機嫌そうに冷蔵庫を開けるとビールを掴んで、聡にも差し出す。父は母の代わりに、私を疎んじるのか?上等だ。
「繭美さん、ずーっといらしたの?」
亜矢香の探るような視線が、勘に触った。
「居たら何?ここは私の家なんですけど」
「別に……。ただ、驚いてしまって……」
何で驚く訳?言いそうになったが、聡の堅い表情に気付いて口を閉じた。
「――で、繭美どうしたんだ?」
「ママのことで、話があるの」
「何で今更!アイツは死んだんだ。もういいだろ?」
「私……。ママの日記を、見つけたの。そこに書いてあった。ママと聡のこと」
「そんなのは、アイツの妄想だ!」
父は悲鳴のように、高い声で叫んだ。
「妄想?パパは日記を読んだことあるの?」
「無いが。――大体分かるさ!」
吐き捨てるように言う父に、私は尚も食い下がった。
「パパ教えて!ママは、どうしたの?」
「お前は知らなくていい!もうアイツの話は、うんざりだ」
「パパ!」
そんな親子の会話に、割って入ったのは亜矢香だった。
「御父様の仰る通り、繭美さんのお母様は、精神を病んでいて妄想を……」
その言葉を止めたのは、聡の掌だった。亜矢香の頬が、赤くなっている。聡が亜矢香を殴った?その事実に唖然としていると、怒りに震えた聡の低い声がする。
「亜矢香さん、君は余計なことを話し過ぎる……。この件には、口を挟まないでくれないか」
亜矢香はそれ以上何も言えず、聡の顔を怯えた瞳で見つめ返した。
「――みんな、知ってるんだ……。何なのよ!私を中に入れてよ!一人にしないでよ!」
「お前は一人じゃない」
「じゃあ、お祖母ちゃんに引き取られる時に、どうして一緒に暮らそうって言ってくれなかったの?どうしてママが死んだ夜、電話に出てくれなかったの?私はずーっと一人 だった! 一人だった!」
情けない位に涙に歪んだ顔が、窓ガラスに映っている。小さい頃、悪夢に魘されて母のベッドに潜り込むと、母がこんな泣き顔で抱きしめてくれた。ああ……、母も一人だったんだ。
「もう、いい!」
逃げ出すように玄関に向かう私を追って来たのは、頬を赤く腫らした亜矢香だった。
「もう来ないでいただける?」
亜矢香は世間知らずなお嬢さんが持つ素直な残酷さで、私にそう宣言した。
「私達、結婚を控えてやることが一杯あるの。邪魔されたくないから」
「――それだけ」と、クルリとターンすると、いつもの清楚な白いワンピースの裾が揺れた。
「残念ながら、聡はあんたなんか好きじゃないわよ」
その後ろ姿に、意地の悪さでは負けない私の言葉を投げつける。
「聡はあんたの親に恩義を感じて、あんたと結婚しようとしてるんだよ」
「ふん」亜矢香が鼻で笑う。
「それは貴女の妄想じゃないの?その辺は母親そっくりね。……恐ろしいわ」
でも亜矢香の顔が蒼白なのは、今の言葉を彼女自身も感じていたからだ。
「他の女を愛してる男と、結婚する気持ちってどうなの?」
「彼は私を――、大事に思ってるわ」
大事に思ってる?でも、それは愛じゃない。和之の言葉が蘇った。そう、そんなの「愛の王道」から外れてる。
「私が妄想癖なら、あんたのは暗示じゃないの?聡に愛されてるって、自分に暗示をかけてるだけ!」
「それでも、私は幸せよ!」
「馬鹿な女程、幸せって言うんだよね、可哀想」
捨て台詞を残して、私はそこを後にした。今の言葉が、亜矢香に突き刺さっていることを願って。