母の狂気4
「――うん…、うん…、だからさ……」
さっきから和之は、電話の相手に何度も反論を試みていたが、失敗に終わっているようだった。
最初は私の胸を愛撫しながら余裕で答えていたのに、今ではその手はイライラと枕を叩く。電話の相手は、勿論奥さんだ。
時折、和之は興奮して自分の唇を舐めるから、唾液に濡れたそれで早く私にキスして欲しいと思う。愚鈍な女と妻を侮った男は、その愚鈍さ故の率直さにやられている。
「だから今すぐは駄目だよ。俺にだって付き合いがあるんだから」
どんな付き合いだ?私は笑い声を立てないように、慌てて口を塞ぐ。
「もう切るよ。君らしくないな。そんなに取り乱して。――じゃ」
強引に電話を切った和之は、私を強く抱きしめて足を絡めて来る。
「あぁ、疲れた」
「どうしたの?奥さん大丈夫?」
「近所の人が、俺と繭美ちゃんが一緒の所を見たみたい。うちの奥さん、凄い剣幕だったよ」
「ふーん。じゃ暫く会うのを止めにする?」
「繭美ちゃんも、意地悪なことを言うようになったね」
「和之さんから学んだんだよ」
「――そうか」
短く笑うと、私から呆気なく離れてしまった。
「俺が癒やされるのは繭美ちゃんだけだから、あんまり虐めないでよ」
弱々しい声を出す和之は、いつもより老けて見える。
「奥さんと離婚すれば?そんなに、大変ならさ」
「結婚ってさ、繭美ちゃんが考える程、単純じゃないんだよね」
また携帯が鳴った。和之は番号を確認すると、眉を顰める。
「奥さん?」
「うん……。うざったい女って苦手」
携帯の電源を切ると、私の上に覆い被さって来た。でも、人間関係ってそもそもうざったいもんじゃないの?和之は本当に、勝手な男だ。
「繭美ちゃん、今日お泊まりできる?」
「――いいよ」
和之は狡い。男は狡い。父も和之のように、あの女に甘え癒やされていたのだろうか? 和之の背中を優しくさすると、不思議な感情が芽生えて来た。今まで以上に、私の中に女を感じる。
久しぶりに父の家に来ていた。ずっと使っていなかった鍵を差し込んでゆっくり回すと、過去の扉がふわりと開いて、沢山の思い出が私を包む。しかしその思い出は、まだ私の中で柔らかく懐かしく美化されていない。押し寄せてくる感情に苦しくなって、慌てて頭を振った。
「何してるの?」
急に声を掛けられて、リビングで体を竦める。振り返る私を、唖然とした目で見つめるのは聡だった。
「貴方こそ、何をしてるの?」
「お袋が買い出しに行ってて。待ってるんだ。」
「貴方のお袋さんは、もうすっかり奥さん気取りな訳だ」
「――まぁね」
私の憎まれ口に全く動じず、聡はさらっと言った。
「今夜は君のお父さんに相談することがあるから、帰るのを待ってるんだ」
「あっそ」
「繭美ちゃんも出席してくれるよね?結婚式」
「私はまだ、パパの結婚を許してないよ!」
「違うよ。俺達の結婚式だよ」
怒鳴り出す私に、聡が慌てて訂正した。そうなのか、こんなに早く聡と亜矢香が結婚するとは思っていなかった。
「式はいつ?」
「来月、七月に。亜矢香さんの友達が経営するホテルが、たまたま空いてるらしいから」
「――急だね」
「お父さんが亡くなって、彼女も寂しいんだよ」
「本当に、結婚したいの?」
前々から思っていた疑問が、つい出てしまった。
「したいと、思う。彼女のことが、とても大事だ」
「思う?来月に結婚しようとする男にしては、随分と曖昧じゃん」
「そうだね……」
聡は何か言い掛けて口籠もる。気まずい沈黙が流れた。
「ねぇ――」
聞くのは今だと思った。あの事を。母と、聡のことを。私は大きく息を吸い込んで、あの質問を吐き出した。
「私の母と、親しかったんでしょ?」
途端に聡の顔が青ざめ、唇が微かに震え。何を慌てているんだろうか?いつかバレるって、考えなかったんだろうか?開き直ったら良いじゃないか。日記の中のように。
「母の日記に、貴方のことがびっしり書いてあった」
「あんなことになるなんて、誰も予想してなかったんだ」
「あんなこと?貴方が、そうさせたんでしょ?母を追い込んだんでしょ?」
「違う、違う!」と、聡は激しく首を振った。
「日記にどんなことが書いてあったか知らない。それに、君のママのことを悪く言いたくない」
「勝手なもんね。みんな死んでから、ママのことを気にし出して」
「亡くなる前から、僕達はママを心配してた。そして君を守ろうと、必死だったんだ」
「私を守る?――私に、何を隠してるの?」
「俺の口からは言えない。君を傷つけたくないから」
「じゃあ、パパに聞けばいいの?」
聡は私から目を逸らして俯いた。急に怖くなって、足が震えて立っていられなくなる。私は何も知らない。最悪なことに、真実はあの日記より酷いのかも知れない。
「――大丈夫?」
縋り付いた聡の腕は、思っていた以上に逞しくて私を戸惑わせた。
「皆、君を大事に思ってるんだ。それだけは分かって欲しい」
聡の腕の中は心地よかった。誰の腕の中より、私を落ち着かせる。ママが縋った胸でもいい。このまま暫くこうしていたい。
「――君が、好きなんだ」
聡は微かに聞こえるような、弱々しい声でそう告白した。
「聞き返さないで。ただ……、気持ちを伝えたら、それで満足なんだ」
それで満足?やっぱり男はどいつもこいつも勝手だ。私の弱った心に、滑り込んで来る切ない声。こんな時に、卑怯だ。なのに、胸が苦しいのは何故だろう?
「暫くこうしていよう?」
その提案には、和之のような嫌らしさや性的な匂いは無かった。
「――聡」
聡、聡、聡、私も、母のように囁く。私の言葉に聡は鼓動を早くして、腕に力を入れた。私が今まで欲してた物が何なのか、はっきり分かった。でも、分かりたく無かった。知りたくなかった。
何故なら聡の肌の温もりは、そのままそれに触れていた母の記憶に直結している。この掌で母の頬や、項や、胸元に触れて、この腕で母を抱いた?その度に母は喜びと戸惑いの吐息を漏らしたのだろうか。
おぞましすぎる――。
私は間違っている。でも聡から離れられない。