母の狂気3
ギャラリーを出ると、聡の驚いた顔をぶつかった。
「あれ?来てたの?」
私達は数日前の衝動的な行動を、忘れてしまったかのように振る舞った。そうすることで、互いの気まずさを誤魔化すことができる。
「もう帰るの?」
「あの子と、かなり深い話をしたよ」
「カズミと?あいつ、君と話したの?」
「色々と、カミングアウトしてくれたよ」
聡が「まいったなぁ」とくしゃくしゃと髪を掻き上げる。私は母がしたように、自然に、自分でも驚くほど自然に、聡の髪を直してやる。
「――ありがとう」
母が言うように黒目がちな大きな瞳。その奥には何があるのか?私には分からない。
「恋人と、一緒?」
恋人なんて古くさい言葉で、聡が私との間に壁を作ったのを感じた。柔らかな、拒否。
「一人」
「それに」
私は意を決して告白する。
「彼は恋人じゃない。奥さんがいるもん」
「へ~」
彼の瞳が、一回り大きくなった。
「彼の結婚生活は、不幸なの?」
「不幸というより、退屈なんだと思う」
「退屈?じゃあ、幸せな結婚なんだな。狡いな、男は狡い」
「貴方も?貴方も、狡い?」
「そうだな……。狡いな、きっと」
くしゃくしゃと髪を掻き毟ると、大げさに肩の力を抜いた。
「時々、自分の馬鹿さ加減に嫌気が差す」
「――傷つけた、女がいるの?」
「そんなつもりはなかったんだけど……。これは言い訳か。俺は最初から、その人の優しさを、利用しようと思ってたから」
「ふん」
私は鼻を鳴らす。
「貴方でも、反省するのね」
「繭美ちゃんの中で、俺って相当の悪人なんだね」
「実際そうでしょう?」
「そうかも知れないな……。繭美ちゃんには、嘘がつけないよ」
真っ直ぐに私を見つめる瞳の奥には、聡と母の過去は見えない。その奥が、見たい。
「じゃ、帰る」
私の小指に、聡の手が一瞬触れた。それは偶然だったか、何かの合図だったか……。私はそれを確めもせず、その場を後にした。確かめたくなかった。知りたくなかった。聡の本心など。
また、あの日記を手に取ってしまった。そして、明かに薄くなったことに気付く。パラパラと捲ると、最後の数ページが乱暴に破られていた。祖母だ。日記を、読んだんだ。また、私を無菌室に入れようとしている。
真実から遠ざけようとしている。
「――どうして?」
台所に立つ祖母は、「何?」と弾かれたように振り返った。
「日記。読んだでしょ?」
「ああ、それ――」
「勝手に部屋に入るのはしょうがないことなのよね?ここはお祖母ちゃんの家なんだから」
「そんな……」
祖母は一瞬、悲しそうな顔をしたが、直ぐにいつもの優しい表情が戻った。
「ママの日記、読んだの?」
「――ええ」
「最後のページを、破ったの?」
「栞が挟まってた。繭美ちゃんはまだ、読んでないわよね?」
祖母は私の質問には答えず、まずそのことを確認した。
「読んでない……。何が書いてあったか、教えて」
私が家族の誰かに意志表示したのは、これが初めてかも知れない。祖母は家事に気を取られている振りをして、私の目を見ようとしなかった。誤魔化そうとしている。直感で、そう感じた。
「繭美ちゃんは、知らなくても良いことよ」
「私が知らなくても良い事?知るべきかどうかは、私自身が決めるよ!」
その剣幕に、祖母は一瞬たじろいだ。そして、私の追求を逃れることは難しいと悟ったのだろう、別の作戦へ打って出た。
「私はあの子の母親なの。あの子を悪く言いたくないのよ。勘弁して。死んでからまで、あの子を辱めたくないの」
「――悪く言いたくない?」
「繭美ちゃん、許して」
祖母の萎びた頬に、涙が伝う。私の足下に跪いて、許してやってと繰り返す。
「でも……」
言いかけて、祖母の泣き顔に挫けてしまった。私の心が、今までない位に激しく乱れている。
「分かった。お祖母ちゃんもういいよ」
祖母は私を抱きしめて「ごめんね」と、泣きながら言い続けた。何が「ごめんね」なんだろうか?私は訳も分からず、そんな祖母の背中をさすり続けた。