母の狂気2
‥ ◇ ‥ ◇ ‥
日記の中の母は、どんどん狂って行く。だけど記憶の中の母は、暗く沈んでいた。でもあの淀んだ瞳の奥に、聡への憎悪を隠していたのだとすれば、そうさせたのは私と父に違いない。申し訳ないと言う気持ちと、何故そこまで頑なに殻に閉じこもる必要があったのか不思議に思う。
私はいつも、母に拒絶されてるように感じていた。母には母の世界があって、私がどんなに良い子でいても、その世界に呼び入れてはくれなかった。寂しさはいつの日か、そんな母を疎んじる気持ちへと繋がった。
何故母は、私を抱きしめてくれなかったのだろうか?何故、愛してくれなかったのだろうか?考えても、考えても、答えは出ない。
「なぁんだ。またあんたか」
カズミは、眉間に皺を寄せた顔を私に向けた。
「――聡は、いないよ」
「別に、彼に会いに来た訳じゃないから」
乱暴に五百円玉を彼女へ渡し、中へ入った。
「あんたさぁ」と、舐めるように私を見た。
「結構、好きだよ」
「はぁ?」
「あの溝呂木のお嬢さんより、よっぽどいいい。聡のこと、取っちゃいなよ」
赤く染めた髪を掻き上げたその指には、何色ものマニキュアが塗られている。この女はまるで、南国の巨大なインコだ。
「そう言うあんたが、取ればいいんじゃないの?」
くくく……、今度は喉の奥で低く笑った。
「わたしゃ、無理」
「何で?彼の事を好きなんでしょ?」
「好きだけど、そう言う好きじゃない」
「どう言う意味?」
「わたしゃ、男は愛せない」
「――え?」
唐突に告白された事実に、私は唖然とした顔で黙り込んだ。
「あんたでも、そんな顔をするんだ~。面白れぇ」
カズミは私の弱味を直ぐに見付ける。そんな、力に長けていた。
「何よ、嘘なんでしょ?」
「マ、ジ、だよ」
煙草に火を付けて、一気に吸い込んだ。そして瞳を細めると。煙を勢いよく私の爪先辺りに吐き出す。
「先にカミングアウトしたのは、私のせいで聡の初恋を壊したくないないから。奴は私が信用した、初めての男だから」
「――初恋?」
「あんたさぁ、頭が良さそうなのにさぁ、意外と鈍感だね」
「あんた、あんた、っていい加減にしてよ」
居心地が悪い。カズミには私の心の中などお見通しで、見通した上で小馬鹿にしているのが分かった。しかし、悔しいけれど、この女には敵わない。別のステージにいる女、そう感じた。
「帰る」
去ろうとすると、「繭美!」と、まるで昔から知ってる幼馴染みのように呼び止められた。
「真実の愛を、見失っちゃいけないよ」
「真実の愛」その言葉の気恥ずかしさと突き刺さる真直ぐさにたじろぎながら、くるりとカズミを振り返る。
「恥ずかしげもなく、色んな事を語るね」
「生き方自体が、恥を晒してるようなもんだからさ――」
陽気な声に反して、私を見つめる瞳は真剣だった。
「昔から、好きなの?」
「――女が?」
曖昧に聞いたら、真っ向から切り替えされた。この瞬間に、私はカズミに負けたと思った。私の安っぽい気遣いなんて、カズミにとっちゃお笑いでしかない。そう感じた。
「うん」
「意識したのは、中学校。色々とうざい事が立て続けに起こってさ」
そう言って左手のリストバンドを外すと、醜い毛虫が這っていた。深い傷に、容赦なく入った糸の跡。
「リスカなんて生易しいもんじゃないよ。私は出刃包丁で手首を落としかけた」
「あれ?」
黒く縁取りした目が、私を覗き込む。
「何で?って聞かないの?」
「じゃ、なんで?」
「母親の再婚相手に、虐待とレイプを繰り返しされてたから」
「手首を切り落としたらさ」と、彼女は陽気に言った。
「少しは可哀想に思って、優しくしてくれるかもしんないじゃん?」
「――で、優しくしてくれたの?」
「いやぁ」と、ケラケラ笑い出す。
「病院から退院したら、俺への当てつけか?ってもっと殴られた。そんな馬鹿男でも、死んで生命保険を残してくれて、そのお陰で大学に行けてるから、まぁいっかって感じだよ」
そして後悔したように、カズミは顔を顰めた。
「あ~あ。べらべら喋べっちゃった。綺麗な子を見ると、気を引きたくてつい……」
「不幸自慢?」
「すげぇ。私の話を聞いてそう言ったのは繭美が始めてだよ。惚れたよ、マジで」
「で、今の話のポイントは何よ?」
「――悲劇のヒロインぶってんじゃ、ねぇよ」
「むかつく女」
でも、カズミの態度がむかつくのは、彼女のいうことが当たってるからだ。
「ねぇ、本当に女が好きなの?聡とはなんでもないの?」
「仲の良い幼馴染みだよ、聡とは」
そして、そろそろ閉めるから、と私を追い立てた。
カズミの告白は、本当なのだろうか?ならば……、母の日記の中の、カズミと聡の関係は何なのだろうか?床をモップで拭くカズミに、思い切って聞いてしまいたかった。カズミなら、母の気持ちを、人間を、女を、分かる気がした。
「ちょっと、早く帰ってよ」
「分かったよ――」
けれどどうしても、カズミに問い質す勇気がでなかった。