母の狂気
「――繭美ちゃん、いる?」
祖母の声と、遠慮がちなノックの音。
「はい?」
私の声は、思った以上に尖っている。開けられたドアの隙間から、祖母の萎びた笑顔が覗く。
「何?」
「最近、繭美ちゃんが塞ぎ込んでいるから……。大学で、何かあったのかと思って」
祖母らしい発想だと思った。子供の人生には、家と学校の二つしかないと思っている。
「――別に。何もないよ」
「ねぇ繭美ちゃん。近所の人がね、繭美ちゃんが男の人の車に乗るのを見たって言ってたんだけど。ボーイフレンドなのかしら?」
「友達」
「お友達だったら、ここに呼んでいいのよ。お祖母ちゃんは、賑やかなのが好きだから」
「分かった。誘ってみる」
祖母はにっこりと満足そうに微笑むと、部屋を出て行きそうになったが、
「あら?」と、立ち止まった。
「綺麗な手帳ね。貴女のママにプレゼントしたのに似てるわ」
そしてお約束のように、「あの子が生きていたら」と目頭を押さえ足早に去って行く。
祖母の背中が急に小さく見えて、私を切なくさせた。でも、私は憐れな祖母に優しく接する、ほんの少しの思いやりさえ持ち合わせてない。最悪、最悪、最悪、最悪な気分だ。
◆十二月二十五日◆
クリスマスなのに、繭美は不機嫌な顔をして部屋に閉じ籠もっている。
「彼氏のシュウ君と出掛けないの?」と聞くと、それには答えず、不味そうにケーキを頬張っていた。
「美味しくないの?」
「――普通」
ぶっきらぼうに答えると、紅茶のカップを掴み部屋へ上がって行く。繭美が小さい頃
から大好きだったケーキ屋さんに、わざわざ注文したと言うのに……。
時計を見ると、十時近かった。夫は勿論帰って来ない。もう、どうだっていい。
今日、聡の居場所を突き止めた。例の汚い女、佐々木カズミのアパート。カズミと聡は小学校からの付き合いで、彼女も今は美大生。調べは付いていた。今夜はカズミと仲良くケーキを食べてるんだろう。悔しい。苦しい。悔しい。苦しい――。
「繭美、ママちょっと出掛けて来るから……」
部屋のドア越しに声を掛けても、何の返答もない。私は一人だ。これで 私を唯一認めてくれた聡に拒否されたら、もう、消えて無くなるしかない。
カズミのアパートは、聡が最初に住んでいた所と同じように、古く汚く貧乏臭い匂いがした。
聡のジープを確認して、表札に「佐々木」と「溝呂木」と並ぶ名前を見た時、頭の中が怒りでパンパンに膨れあがった気がした。
その激情のまま、木製のドアを力任せに叩き続ける。慌てて開けられたドアから覗いた聡の顔は、驚きよりも恐怖に引きつっていた。その顔を見たら、私の怒りは一気に萎えた。
「ゆ、祐子さん?」
聡の怯えた顔の背後から、気の強そうなカズミの瞳がこっちを見ている。
「オバさん、何を狂ってんのさ。醜いよ」
その瞳は、そう語っている。
「祐子さん!もう終わりにして下さい。お願いします!」
悲鳴に近いその声が、萎んだ怒りに火をつける。私から欲しい物を全て奪ったら、「終わりにして下さい」だと? 冗談じゃない!
「貴方が終わりとか、終わらないとか、決められる立場にいると思う?思い上がるのもいい加減にしなさいよ!」
一歩前に踏み出すと、聡が泣きそうな顔を背けた。そんな顔しないで!けれど、この怒りを、燃えたぎる怒りを吐き出すまで、私はこの口を閉じることができない。
「貴方は野良犬。餌が欲しくて中年の女にホイホイ付いて来て、簡単に腰を振って……。野良犬が、でかい口を叩くんじゃないよ!貴方なんか、私のお金がなければ、ただの貧乏フリーターじゃない!」
呆気に取られて佇む聡を突き飛ばして、私は車に飛び乗った。許せない!許せない!許せない!どいつもこいつも、殺してやる!