母の喪失3
◆十二月十日◆
聡が必要最小限の荷物を持って、姿を消した。私が買ってやった物は全部置いていった。一つだけ。ジープを除いては。それだけ、私との関係が嫌になったってことか。私を思い出す物は、持っていたくないほどに。
若い男と付き合えば、いつかは別れがやって来る。いや、単純な別れじゃない。若い男との別れは、心臓に杭を打たれたドラキュラのように、一瞬にして、私を殺す。そして、女の私は二度と目覚めない。
でも、私は死ねない。ズルズルと杭を引き摺りながら、聡の姿を探し求める。そしてとうとう、聡が働いていたコンビニに来てしまった。
「聡?辞めましたよ」
髪を金色に染めた若い男が、警戒心丸出しの表情で見詰め返す。
「次は、何処で働くって言ってましたか?」
「さぁ」
目を伏せたその態度で、聡の居場所を知っているのが分かった。
「変なオバさんが来ても、いないって言ってくれよ」
聡の声が、聞こえた気がした。
「教えて下さい。お願いします」
深々と頭を下げる。
「お客さん困ります。こんな所で!」と、カウンターから飛び出して、オロオロと私の項垂れた背中に触れた。
「他のお客さんの目もあるんで!」
「だったら」
私が顔を上げると、男の怯えた瞳とぶつかった。
「教えなさいよ!聡の居場所を!」
男は呆気なく、聡の居場所を吐いた。それどころか、一万円札を渡すと急に饒舌になって、何処に身を寄せているかまで話してくれた。
聡はカラオケ店でバイトをしながら、カズミ、あの下品な女の所に居るらしかった。許せない。でも許したい……。このモヤモヤした気持ちは、どうしたら晴れるのか。
‥ ◇ ‥ ◇ ‥
家の前に、聡のジープが停まっていた。本人はシートを倒して爆睡中だ。迷ったけれど、私は窓を小さく叩いた。
「あ、お早う」
「何してるの?」
「大学まで送るよ」
ドアを開けた聡が、爽やかに言った。
「――結構です」
私は冷たく言い放つと、聡を無視して駅まで歩き出した。
「繭美ちゃん、待ってよ!」
「私を待ってたんですか?正直、気持ち悪いです」
ジープは私の歩く速度に合わせて、ゆっくりと横を走る。
「だってさ、君のパパが、仲良くして欲しいって言うんだもん」
「だからって、待ち伏せですか?理解に苦しむんだけど」
「説明するから、車に乗ってくれない?」
玄関先を掃いている近所のオバさんが、その手を止めて私達を観察していた。
「もう、止めてください!近所の人が見てるじゃないですか!」
「じゃ、乗って」
私は溜息を吐いて、聡に惨敗する。乱暴な仕草でシートベルトをする私を、聡が面白そうに眺める。そんな余裕の表情が、私の苛々に拍車をかける。
「――あの、さ」
聡がゆっくりと、語り出した。
「何で?俺が嫌いなの?」
「さぁ」
「パパを寝取った女の子供だから?でも、それだけじゃないよね?」
「さぁ、なんだろう?生理的に、駄目んじゃないかなー」
生返事を繰り返す私に、聡は悲しそうに溜息を吐いた。
ふと、フロントガラスを見ると、母の日記のフレーズが頭をよぎった。
「フロントガラスが曇る位に、キスをした」
恐らく、このジープでも……。
「君が俺を嫌いなのには、もっと他に理由があるんじゃないかって……」
「俺みたいな好青年を、嫌うヤツはいない。って言う自信?」
歪んだ私の口元が、ドアミラーに映る。自分でもびっくりするような、意地の悪い表情をしていた。こんな顔を向けられても平気でいられるなんて……。
聡の強張った横顔を眺めた。母親の為に、息子はこんな顔をするものなのか。母の日記の一文が、思い出される。
「私に息子がいたら、こんな気持ちになったのだろうか?夫に罵られた時、息子だったら庇ってくれたのだろうか?」
きっと、母に息子がいたなら。私ではなく、兄や弟がいたなら。こんなに必死に、母親の幸せを願う息子がいたなら、母の人生は変わっていただろうか。
「好青年だって、思ってない。俺は、自分のことは良く分かってるつもりだよ」
「だいたいさぁ。私はパパと暮らしてないんだから、どうだっていいじゃん?私なんか、無視して下さい」
「そう言う訳には、いかないよ」
「パパなんか今まで家庭なんか顧みなかったのに、いきなり良い関係を作ろうとか。ムシが良過ぎるんだよ!」
気付いていた。私は今まで誰の言葉にも、こんなに怒りを感じたことがない。こんなに正直に、自分の気持ちをぶつけたことがない。
「正直、君のパパとママがどんな関係だったか知らない。それにまだ亡くなって間もないことも分かってる。けど、前にも言ったように、お袋には幸せになって欲しいんだ。お袋は、苦労してるから」
「――あのさぁ」
私は態と、呆れた口調で言い返した。
「貴方がお袋さんを思うように、私だって母親を思ってるって考えないの? 」
はっとしたように聡が車を止めるから、私は頬を流れる涙に気付いて唖然とする。何故、泣いているのか?私は慌てて、拳で涙を拭う。けれど聡は謝まりもせず、また他の男のようにオロオロしないことが、私を更に動揺させた。
「俺は君の彼氏みたいに、洗練されたことは言えない。ごめん。ただ――」
聡の吐息を、唇に近くに感じた。
「泣いてる君は、普段よりもっと綺麗だ」
逆らわなかったのは、私と聡でもフロントガラスが曇るのか知りたかったから。
「貴方は、パパやお袋さんなんて、実はどうだっていいんでしょ?」
御影石みたいに黒目がちな瞳が、真っ直ぐに私を捕らえている。その視線に負けないように、私は言葉で聡を押し返えした。
「本当は、私が欲しくて堪らないんでしょ?」
私の生意気な言葉に聡は苦笑し、次に自嘲的な笑いに変わる。
「俺は、ただ――」
聡は冷静になって、エンジン音を響かせた。
「――今のことは、忘れて欲しい。ごめん」
キスは初めてじゃない。勿論、和之に何度もされてる。けれど、唇にはいつまでも聡の余韻が残って、私はそれを消す為に何度も拳で拭った。