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母の恋人  作者: jinxx.
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母の日記

「葬式ってさ、なんでこんなに面倒臭いんだろうな。通夜やって、葬式をしてさ。その後も四十九日、百日、初盆、一周忌、三回忌とかさ」


樟脳の匂いが染みついた喪服に腕を通しながら、父が面倒臭そうに呟いた。


「人が一人死んだんですから、大変なのは当たり前です。簡単に済ませることなんか、できるわけがないでしょう」


そんなことを言っていた母が事故死したのは、高校卒業が目の前に迫った深夜だった。

 父は喪主の席に座りながら、あの時のように面倒臭いと思っているのだろうか。そっと横顔を覗き込むと、父は肩を震わせながら泣いていた。

 何度も何度も浮気をして母を苦しめていた癖に、一体何が悲しくて泣いているのだろうか?それとも、これは後悔の涙なんだろうか。男って言うのは、どうにもならない状態にならないと、分からない生き物なのだろうか。

 帰って来ない父をキッチンで待つ母が、暗闇をボーッと見つめていた姿が思い出されて、切なくて、苦しくて。でも遺影の母は、思いっきり笑っている。良く分からない感情に、苛々して制服のプリーツを握りしめる。けれど、そんな混乱した私でも、泣き続ける父が情けないことだけははっきりしていた。


 母はいつも能面のような顔で、背負う苦しみや悲しみの、一人の独りの世界で暮らしていて。私はそんな両親とは全く違う次元の、まるで病院の無菌室のような、綺麗な綺麗な世界に住まわされていた。

 だから幸か不幸か、母がいなくなっても寂しいとは感じなかった。だって、生きてた時から、母は私の傍にはいなかったんだから。 

 感じの悪い警察官が、「自殺の可能性がある」なんて唐突に言った時、怒鳴り出す父を尻目に、それもあり得えると思ったのは、私も女だから。

女の私が、理解できるから。


 深夜、農道を猛スピードで走っていた母は、ハンドル操作を誤って土手下へ転げ落ちた。ブレーキ跡が無かったから、自殺の可能性があると言う。それに過剰に反応している父は、探られたら痛い腹を持っている。

 感じの悪い警官は、父みたいな裕福な男を嫌な気持ちにさせて、心の底では楽しんでいるように見えた。どんなに引き締めても、口の端が少し上がる。私の視線に気付いたのか、警官は拳でそこを拭った。

車が土手に落ちた衝撃で、母の体はフロントガラスを突き破った。宙を舞った母の体は、田んぼ横の用水路に叩き付けられ、後頭部が粉々に砕け散った。他に外傷はなかったから、運が悪かったとしか言えないと思う。十八歳の私でも分かる。自殺するなら、もっと確実な方法を選ぶ筈だ。


 あの夜、警察から連絡があって、私は父の携帯に、何度も、何度も、何度も連絡をした。けれど、自宅からの電話だったからだろう。父は電話に出なかった。それどころか、最後には電源を切ってしまった。

 翌日、母の冷たい視線を覚悟して帰ったら、こんなことになっていた。父はパニックになって、泣き、狂い、荒れた。


「何で夜遅く、あんな所を走ってるんだ!」


やっと落ち着いた父の口からは、母を責める言葉しか出てこなかった。あぁ、この人は、父、夫、男としてじゃなく、もう人間としても駄目になってしまったのか。


「走らずにはいられなかったんじゃないの?」


呟く私を、酔った父が睨み付ける。


「お前に何が分かるんだ!」


 父が泣き続けたのは、母の死を悲しんだからではなく、自分が悪人になってしまった、このシチュエーションへの悔しさからだった。それに気付いてしまったから。父と暮らす理由が、探しても、探しても、もう何処にも見付からなかった。


 母の遺骨は、祖母によって実家へ持ち帰られた。勿論、世間体を気にした父は猛烈に反対した。けれど、そんな自分は、世間では不倫なんて言われる人の道から外れたことをしているのから、勝手過ぎる。四十歳半ばの女好きな父が、再婚する確率は高い。


「最終的に、何人の女をお宅のお墓に入れるつもり?」


祖母に言われて黙るしかなかった。否定しなかったのは、直ぐに愛人を呼び寄せたいかも知れない。


「繭美は、うちに引き取りますからね」


私は父を嫌悪しながら、それでも繭美は僕が育てます!と、祖母の申し出を断ってくれるのを待っていた。いや、そう信じていた。


「――必要なだけの金は、送ります」


父は顰めっ面で、そう言い放った。


「娘が必要なのは、お金だけじゃないんですよ!まあ、貴方にそれを言っても、分からないでしょうけどね!」


一石二鳥、一挙両得、漁夫の利、なんだか似たような言葉が頭に浮かんだ。母と私を、一度に厄介払いできた父。一生懸命に眉間に皺を寄せているのは、笑いたいのを堪えているから?瞬間、父が可哀想になった。この人は気付いてないんだ。平凡で退屈な家庭があったから、他の女とヤルのが楽しかったんだって。たまに会う愛人が始終自分の傍にいたら、母と同じように煩わしくなる。


「繭美、元気でな」


元気でな?最後の別れのように挨拶をする父は、私の顔さえ見ようとしない。熱い怒りが、鳩尾辺りまで迫り上がって来る。でも私は母のように、冷たい視線を投げつけるだけにした。父はそれに気付くと、今まで見たこと無いくらいに項垂れた。可哀想なパパ。憐れなパパ。貴方は全然、分かってないよ。


「元気でなって。貴方、自分の娘に一生会わないつもり?」


「いや、そんなつもりじゃ……」


祖母の顔は、父への憎しみでドス黒く変色している。母を殺したのは父である。そんな祖母の考えを変えるのは、きっと一生無理だ。父は諦め顔で、視線を逸らした。


「ママの遺品は全部祖母の家に持って行くか処分して、ここには残さないように するから」


私の言葉に、父は青白い顔で頷いた。




 母の衣類、驚くほど少なかった。


「歯科医の奥様なのにねえ、お洒落もさせてもらえなかったなんてねぇ……」


祖母はそう言って目頭を押さえたが、そうじゃないことを私は知っている。母は父が浮気し出した頃から、「女」であることを止めたんだ。顔立ちは綺麗なのに、化粧もせずに不機嫌な顔で生きる。こんなに醜くしたのは、父だと思い知らせる為に。


「繭美ちゃん、ちょっとその段ボールを開けて」

「はい」


押し入れの奥に、半ば風化した状態で残っていた段ボール。……何故だか、心がざわついた。


「まあ、この着物。結婚した時、私が持たせたものじゃない。これ着たことあるのかしら?」

「見たこと、ない」

「まったく。あの子は本当に、侘びしい生活をしてたのねぇ」


 祖母が母を哀れに思いつつ、感慨深げに洋服を一枚一枚丁寧に畳んでいているのを確認して、私はゆっくりと、その秘密の香りがする段ボールを開けた。

 中には黴臭い本が詰まっていて、もう長い間放って置かれたように思えた。そう言えば、「繭美が生まれる前までは、読書ばっかりしていた」と、母が言っていた。そして、あの時の母の口調は、少し、私を責めていた。


「ママの本みたいだけど、お祖母ちゃんどうする?」

「持って行ってあげましょ。でもその箱ボロボロねえ、これに入れ替えて頂戴」


  その赤い革表紙の本は、セピア色の風景にパッと咲いたバラのように、艶やかに光輝いて私の目に飛び込んで来た。

 手に取ると、ハラリと茶褐色に変色した押し花が落ちた。慌てて広げたページには母の美しい文字が書き綴ってあり、私はハッと祖母を盗み見る。


「この髪飾り、私が買ってあげた物だわ」


祖母は気付いてない。パラパラと捲ると、何処のページにも同じ名前があった。


「聡」


聡…、聡…、聡……。これは母が書いていた、日記のようだった。しかし日常を綴ったものではなく、この聡と言う人との関係を書いた記録帳。それは二年前の八月から始まり、事故で亡くなる当日まで続いていた。鳩尾辺りが、ぐう、と締め付けられた。


「繭美ちゃん、早く入れてね。こんな家からは、早く帰りたいわ!」

「は、はい」


祖母に急かされて、私はそれを慌ててセーターの中に忍び込ませた。




 祖母の家は、父の所から電車で一時間ほどの埼玉の奥地にあった。祖父はまだ母が高校生の時に亡くなり、祖母が一人で寂しく暮らしている。

 電車に乗っていると風景からビルがどんどん少なくなって、かわりに田園や山が広がる。きっと私の住む世界は、この景色のように百八十度変わるだろう。不安も、興奮も無かった。何も感じる必要はないのだ。私には、それしかできないのだから。じたばたせずに、静かに受け入れよう。そう、決心していた。


「お祖母ちゃん、引き取ってくれてありがとう」

「何言ってるの。こんな広い家に一人で住むのも退屈なんだから!」


祖母は始終ハイテンションで、私と暮らすことにやや興奮気味だった。私はそんな祖母に合わせて、「すごーい」と繰り返し叫ぶ。そして、気付く。祖母と暮らすことは、つまりこんな偽りの自分を演じ続けるということに。


 母が寝ていたというベッドに横になり、黒光りする古い天井を眺めた。そして、ゆっくりと、母の日記を開く。

 栞のように挟まっていたのは、ガソリンスタンドの従業員らしい男が、賢明に車を磨いている写真。この人が、恐らく聡。

 遠くから撮られた写真には、母の無数の指紋が付着していた。遠過ぎて顔さえ分からないのに、母は何度も眺めたのだろうか?まるで、同じクラスの、あの女子達みたいに。


 クラスの女子達の中には、仲良し、と、される子が数名いた。けど肝心な事は何一つ話せない、孤立しない為の、私が変わった子供じゃないことの物的証拠だった。

 それでも毎日メールを交わし、休日は互いの買い物に付き合い、私は普通に普通に見えるように装っていた。彼女達は同級生の男子にキャーキャー奇声を上げ、告白するだの、失恋しただのと言っては、くだらない詩を作ったりしていた。遠くから携帯で好きな男の子の写真を撮っては、待ち受けにしていたりする。私には、彼女達が分からなかった。彼女達の価値観の全てが、理解できなかった。


「繭美、ショウ君とはどうするの?」

「ん?あいつ関西の大学に行くらしいから。」


ショウは、私のダミー彼氏だ。同級生の男子になんて、全然魅力を感じなかった。けれど、友達と話を合わせる為に適当な子を選んだんだ。サッカー部で成績は中の上で、顔もまあまあで、何よりお育ちが良くて両親の受けが良い。そしてなにより、「清い関係」で満足してくれる、純粋培養された良いとこの子だ。童貞とするなんて、ぞっとする。誰かの初めての女になるなんて、気持ち悪すぎる。


「別れちゃうの?」

「――うん、あいつは遠距離でもいいって言ってたけどね」


本当は、同じ大学を受験する約束をしていた。寸前になって、約束を破ったのは私。高校で知り合った男に、一生を左右されるなんて勘弁して欲しい。


「えー、悲しくない?」

「まぁ、ね」


悲しいのは本命の和之が、結婚するから関係を終わらせようって言って来た事。


 和之が大学院生の時、私が通う塾でバイトをしていた。生徒だった十三歳の私の「世の中、全然つまんないー」って顔が目に留まったらしい。事実、私は本当に、退屈な毎日を過ごしていた。何の不満もないし、でもそこが問題なんだと、自分でも気付いていた。不満がないのは、多分期待してないから。

 和之は初めて私に興味を持ってくれて、あの無菌室から引っ張り出してくれた男だ。しかも私に「イク」ことを教えてくれた男だから、二度と会えなくなるとかなり寂しい。


「私、和之さんを愛してるかも」


勇気をふり絞って、苦手な媚びの仕草で言ってみたら、何とも言えない酸っぱい物を口に含んだような顔で肩を竦めた。


「それは愛じゃなくて、執着なんだと思うよ。俺の場合は、使い古したバスタオルがなかなか捨てられない」

「執着?それも、愛の一種でしょ?違う?」


恐る恐る聞いてみたら、今度はややシリアス気味な顔になった。


「愛かもしれないけど、愛の王道からは外れているよ」

「え、王道って何?」

「つまりはね……」


トランクスを脱ぎ捨てた妙に白い臀部が、私の笑いを誘う。南の国に行って来たんだって、お菓子やらTシャツやらを詰め込んだ袋を貰った。


 婚約者の手前、女の子っぽい可愛い物は買えなかったって、甘えた声で言い訳をする、健気な、和之。


「ちょっと、そんな格好で語らないでよ。もう、いいよー」


和之の肩がトースト色に焼けていてとてもお美味しそうだったから、私はお土産の甘ったるいクッキーを代わりに囓った。間に白いクリームが挟まっていて、和之がそれを舌で掬って突き出すから、胸をムカムカさせながら舐め尽くす。


「甘いね……」

「――甘い」


この体に悪そうなクリームは、私達の関係にぴったりだ。嘘臭くて、甘過ぎる。


「和之さんは、婚約者さんが大事なんだね」

「うん、繭美が僕と同じ年なら、君と結婚したかもしれないけど」


何か勘違いした和之が、ほんのちょっとの優しさを覗かせる。同情。それを敏感に察知した私は、今時の生意気な女の子に戻る。


「私、別に結婚とかしたくないんだけどなー」


時々こうして、安っぽいラブホテルや、都心の味気ないビジネスホテルで会って、ただ、気持ち良くさせて貰いたいだけ。そう続けたかったけど、和之の面倒臭そうな顔に気持ちが折れてしまった。


「俺が結婚したいんだよ。もう直ぐ三十歳だからね。君みたいな女の子と、一生こうしてクリームを舐め続けられたらいいんだけどね~」

「そろそろ落ち着くってことか。だったら和之さんも、愛の王道から外れてるね」


和之がシュンと項垂れるから、私も何だか切なくなってしまった。


「――時々、私とも会ってくれればいいのに」

「俺、そう言う面倒臭いの嫌いなんだ。つか、俺って、あんまり器用じゃないし。奥さんにばれて、修羅場?みたいなさ、そういうの嫌だからさ」


冷たい口調で突き放すから、私は使い古してもなかなか捨てられないタオル以下なのだと思った。なんだか、ゴミ箱に投げ捨てられた気持ちになった。


「でも死ぬまで、ことあるごとに繭美を思い出すかな。傍でどんどん老いて、体型も変わって行く奥さんを眺めながら、繭美の若々しい裸体を思い出して夢想に耽ったりしてさ。あぁ、何であの時、俺は繭美を捨てたかなぁ~、とか、後悔するんだよきっと」


身を捩りながら、芝居がかった台詞を吐く。


「俺の記憶の中で、繭美はいつまでも可愛いまんまだよ。俺はいつまでも、そんな繭美に恋し続ける。これ、今はやりの純愛じゃない?」


なんて勝手な理屈だ。呆れると同時に、可笑しくなった。


「和之さん、ちょっと相談したいことがあるの」

「え、何?」


さっきの話の延長なのか?和之はあからさまに嫌な顔をして、シャワー室に逃げていった。本当は、母の日記のことを相談したかったのに。バックの中には、赤い革表紙の日記がある。抱きしめると、和之の暢気な鼻歌が聞こえて来た。母の感情は、娘の私が受け止めるしかないのかも知れない。


 こうして私は誰にも相談することをせず、母の日記を開いてしまった。それが、母の仄暗い心の中を覗くことになるとは知らず。


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