06 笑い
慌ただしく扉を開き足早に出て行ったハルを見ていたディアは、やがて視線を落として本棚に寄りかかった自分の足元を確認する。そして自分で組んだ手の指を見て悟られないように溜息をついた。
「どうしたんだよディア、今日は特別元気無いな」
しかしジェラルドが言うのだから、古くから付き合いのある二人には知れているようだった。エルガーからも同じような空気を感じる。
「後で父上に会うのかと思うと、もう気が気でないよ……」
「いいじゃねーか、甘い物たくさん食えて」
ジェラルドが頭の後ろで腕を組みながらまだハルの温かみが残る椅子に腰かける。その時に紙の潰れる音がしたので、彼はもう一度立ち上がった。
「げ、ハル忘れていったぞ。王と話し合ったときの書き物」
椅子の上には体重で皺のついた紙が一枚縮こまっている。
「しかし異世界の文字だけあって、何が書いてあるのか全然分からねーな。今から行けば追いつくか?」
「僕も行くよ」
怪訝そうな顔で髪をつまみ上げたジェラルドは歯を見せ笑って頷いた。軽々しい足取りで扉の前まで進むと、エルガーを振り返る。
「じゃ、ちょっと行ってくるわ」
「ああ」
そしてディアがドアノブを捻り、廊下の空気が頬を掠めたその瞬間である。
ア―――……と雄叫びにも似た悲鳴がどこからか響いた。獣じみた声に、その場にいた三人が反応する。座っていたエルガーも腰を上げ、ドアまで近付いた。
「な、なんだ今の……変な動物でも紛れこんだか?」
「向こうって確か、共同シャワーの方じゃない? ハルとエミーももしかしたら……」
顔を見合わせた彼らは、急いで部屋を飛び出した。周囲の部屋からも他の隊員たちが顔を出して何の騒ぎか話し合っている。
「中庭からドラゴンが侵入したとか?」
「まさか。あの鳴き声はドラゴンじゃねえだろ」
話しつつ廊下を曲がるともう一声。今度は甲高い悲鳴だった。前方に集まる人垣を確認した彼らは、その奥から聞こえる絶叫に聞き覚えがあった。
「エミー!?」
人垣の間を縫って三人が進むと、中庭に近い廊下で争う二人分の人影が見えた。それを囲む十数人の使用人たち。男も数名混じっているが、止めにいけないのは争う人間が団服を着ているからだろう。
「エミー、何やってるんだ!」
一目でエミリアだと分かる者は、今はおそらくこの三人しかいない。数名のメイドがぎょっとしたように喧嘩中の片方に目を向ける。なにせ普段は長い金髪の飄々とした女性でしかないのだから、目の前で拳を振りかざす一見華奢な男とはまず体つきが違う。
「この小娘! ドラゴンに喰わせてやるんだからぁぁぁぁ―――ッ!」
そう叫んだエミリアの顔には三本のミミズ腫れが縦に走っていた。血が滲み、最早女性としての品性も何もかもなくなっている。
そしてその顔に更にもう一発、平手を食らわせたのがハルだった。
「できるもんならやってみな味噌っかす!」
もう一発と振り上げた腕を掴んだのはディア。一方エミリアもジェラルドによって押さえつけられる。
「二人共何やってるんだ」
低い声でエルガーが問いかける。先に口を開いたのはエミリアだった。
「こいつが、アタシのことを罵ったのよ!」
「なんて?」
「ババアって! 顔だけが取り柄ってそう言ったわ!」
エミリアの憤りは相当のようで、ジェラルドが押さえつけていても今にも飛び出しそうな剣幕である。
「使用人の皆さんは持ち場に戻ってくださいねー」
ハルはどうやら暴れる気の無い様子だ。ディアが手を離し周囲の使用人たちを散らすが、野次馬精神旺盛な人々が去るには少し時間がかかった。
「で、それでこの有様か」
エミリアの顔も酷いがハルの顔も相当なものだった。片頬は赤く腫れて唇の端からは血が流れているし、首にも引っかき傷がある。暴れはしないが瞳に残る闘志は強いものだ。
「言ったのか? ハル」
「言った」
「ほらみなさいよ!」
そう喚くエミリアにすかさずハルが言い返す。
「先に喧嘩売ってきたのはエミーさんでしょう? 先に私の首を絞めようとしたのもあなたじゃないですか。それに私は、言ったことに間違いは無かったと思いますけど」
「それくらいにしておけ」
エルガーが手で制したと同時、エミリアの瞳から大粒の涙が零れた。それから彼女の膝が落ちすすり泣く声だけが辺りを占める。
「と、とりあえずエミリア、医務室行くぞ。ほら」
「ハルも一緒に……」
「いい」
きっぱりと言い放ったハルはさっと踵を返して早足で廊下の奥に進んでいく。エルガーがディアに視線を向け、ついていけ、とアイコンタクトを送った。しかしディアは口元の動きで「父上」と示した。先程王のところに呼ばれているとディア本人から話を聞いていたのでその意味は察せる。
年頃の娘の相手、特に怒っている娘というのは扱いづらいものだ。後ろ姿を見るだけでわかる。
「お願いだよエルガー、ね?」
小声で言ったディアは元来た道を戻って行った。彼はことごとくタイミングが悪く、ここぞという時にいない。
―――どうして俺が……。
髪の毛を乱暴に掻きまわしたエルガーは、ハルの歩いた後を辿った。
―――――――――――――――――――――
苛々する苛々する苛々する――――――っ!
デタラメに城内を歩きまわり、日の差す窓際の前を歩いていると背後から足音が聞こえた。
「ついてこないでよ」
刺々しく言うと背後の足音は止まった。私が無視して歩いていると、再び追いついてくる。
「何か用?」
「……どうしてエミリアを殴った」
この声はエルガーに違いない。
あんなことって、普通「あんたは所詮空気程度よ」みたいなこと言って黙ってられるかっての。喧嘩売られたから買っただけだし。
―――って、こんな子供みたいな思考じゃダメだよなぁ……。
自分のしたことに嫌気が差したが、それよりも今は憤りが消えない。
「後で話す」
「躍起になるな。とりあえずお前、酷い顔だぞ」
「んなこと知っとるわ!」
振り返って怒鳴りつけるとエルガーが立ち止った。相変わらず無表情の落ち着いた瞳でこちらを見ている。
「特にその頬な」
「そりゃあご親切にどうも! わかったからついてこないで!」
「お前、腹空かないか」
まさかの返しに、目が点になったのを隠しきれなかった。
腹? え、腹?
「食いに行くぞ」
こっちに歩み寄って来たエルガーはそのまま私の手首を取り引きずるようにまた歩き出した。戸惑っている私のことは全スルーである。
「ちょ、ちょ、ちょっと待って。いきなり何言ってんの? 食べに行くって?」
「奢りだ奢り。何を食う? 女はやっぱり甘い物か?」
エルガーが奢り? というか、ウォーターフォードで奢りって言葉を聞いたのは初めてじゃなかろうか―――ってそうじゃないだろ私ぃぃ!
「説明を所望いたします」
「いいからさっさと歩け」
どうしてあの鉄壁仮面魔王エルガーの口から奢りなんて言葉が出たのか、驚きで先程までの怒りを忘れて段々冷静になってきた。
「今は甘い物って気分じゃない……」
「だったら塩っぽいものか?」
「辛い物で」
―――――――――――――――――――
城下町に出たのは久々だった。
慌ただしく城の外に出ることが多かったためほとんど一瞬しか見ることができなかった街の形。女性向けの小物や服を売っているお店から、洒落たレストランまでありまるでショッピングモールみたいだ。
そんなお店を横目に、手元のものをもう一口。口内に染みて痛い。
―――辛いなぁ……どちらかというと甘辛、だろうか。
香辛料を使っているらしいそれは、四角いパイだった。中にはとろみのある赤い液体。トマトでも入っているのだろうか。この世界にトマトがあるのかわからんけど。とは言っても辛さに容赦はない。
「辛い物を食ったら次は甘い物だな」
「エルガーって意外とグルメなんだね」
「ぐるめ?」
「食べ物が好きだとか、詳しい人のこと。これも美味しいし」
普段は城内食堂の食事で全然事足りるが、たまにはこういった刺激のある味もいいものだ。
「で、そろそろ話してくれ。エミリアとどうしてあんなことになったんだ?」
ちなみにエルガーも同じものを齧っている。どこへ向かうやら、人にぶつかりそうになりながら二人して歩いているわけだが私を落ち着かせるためだったか。
「うーん、実はねぇ……最初は仲直りしようと思ってたの」
「仲直り? 喧嘩でもしていたのか?」
「ううん。エミーさん私の教育係任されて、負担を感じていたように見えたから。だから友好関係を結び、お互い負担にならない程度にうまくやっていこうと思ったわけ」
そこまではエルガーも頷いた。
「ただ、私に対しての小さな親切は単なる興味から。私が異世界人だってわかったら、ハイ終わり。興味は無いから所詮空気、アンタはアタシの視界に入らないでねー、なんて言われて」
「それであんな揉み合いになったと」
「私も大人げなかったけどね。罵詈雑言は正論のうちには入らないし、ババアとか力任せに言う事じゃなかった」
もう一口パイを齧る。うむ、旨辛い。カレーとは違うな、どちらかと言うと唐辛子方面の味か。
「案外冷静なんだな」
「冷静だったらこんな顔面ボコボコにされないよ……」
エルガーが私を見下ろして確かに、という風に頷いた。鏡で見ていないからわからないけど仮にも男性に思いっきり平手打ちされたし血も出てるし、それになんだか熱いし腫れていることだろう。
「ちゃんと仲直りしようと思ったんだけどなぁ……辛抱が足りないのかもしれない」
肩を落としながら呟くと、エルガーが顔を逸らした。右側に立つ彼を不審に思い、顔を覗き込んでみる。
「え、なんで笑ってるの?」
あのエルガーが笑ってる。あの、鉄壁無表情仮面のエルガーが笑っている。完全に私から死角で笑ってるけど、雰囲気がもう……笑ってる!
―――ええええ、どうしようこれは本日最大の不測の事態かもしれない。エミーさんと喧嘩したことよりも強いアタックかもしれない!
「お前はあの……時々わけのわからないことを言う」
「いや、そんなことはないと思うけども……」
それよりも私はあんたの笑顔にビックリだよ。はー、久々に大笑いしたぁ、みたいな顔してるけど一般人に比べて全然笑ってないからね。
―――やっぱり顔が良いと笑顔も映えるもんだなぁ。
というよりどうしてドキドキとしているんだ私。驚きすぎだろ私!
頭を振りエルガーの笑顔を記憶の彼方に吹き飛ばしてからもう一度口を開く。
「ともかく、反省もしている。向こうから手を出されたとはいえ、手加減もせず爪をたてまくったわけだから。普段は女性の格好をしているわけだし、エミーさん泣いてたし」
女々しい、は特に相手を傷つけただろう。
あたしだって昔からこんなんじゃなかった。彼女はそう言っていた。
じゃあエミーさんの「今」はなに?
「エミリアは昔、女に男を奪われたらしい」
「……昔からあんな感じだったの?」
「いや、前は男の格好をしていた。女装を始めたのは男を奪われてからだな」
そうか、ちゃんとあの姿だったわけね。でもそれって随分昔の話じゃなかろうか。ルー達は何も言っていなかったし。
「それから奴は生粋の女嫌いになった。声と体をより女に近付け、ついには本物の女と見間違えるほどになった。全てはその女に復讐するために」
「復讐?」
「その女に、こう言われたそうだ。『男にも女にもなれない半端者、華奢で強くも無い癖に私の男に手を出すな。あなたみたいな薄っぺらくて気持ちの悪い人間は、独りで寂しく生きてなさい』。酒を飲ませると基本的にその話しかしなかった」
それは……失恋をした人間に吐き捨ててはいけない言葉じゃなかろうか。
今美しい姿を保っているエミーさんはその人に負けないように、と思ったんだろうか。いつか復讐し、同じことを言うために日々を過ごしているのだろうか。
パイは冷めていた。辛みの薄まったそれを口に含む。
「復讐なのかな」
言うとエルガーの表情は疑問顔になった。
「私には、エミーさんが好き好んで復讐したがっているようには見えなかった。復讐って言いつつあの人、一生懸命だし。きっとその女に言われた事よりも、男の人に対する愛情の方が大きかったんだね」
―――私、すごく酷いことをした。あんたのことなんて何も知らない、なんて言う事じゃなかったんだ。わからずとも、最初に知ろうとすれば良かった。
額を小突かれそうになったので、驚きつつ回避しエルガーを横目で睨む。
「そう暗い顔をするな」
「暗い顔? してた?」
「ああ」
そう言われたので、口角を上げてもう一度彼を見てみた。にい、とセルフの効果音もつけてみたら怪訝な顔をされたのですぐにやめる。
「甘い物食べて帰ろう」
で、エミーさんともう一度話してみよう。
パイの最後の一口を飲み込んで、余った紙に描かれたロゴを見る。ウォーターフォードの文字だった。
人の笑顔っていいもんですね