03 詮索
彼を初めて見たのは私が十二の時だった。
この城に来て随分と時間が経った。仕事にも慣れた。故郷を思って寂しいと思うこともなくなった。
同室に住む年上の少女ともよく気があった。彼女は様々なことを親切に教えてくれたし、明るい性格だったから話題に途切れることも無かった。
その日は城内の掃除を任されていた。いつも行っている飼育舎や客間ではなく、騎士団などの城内で働く人々の周囲を初めて掃除する日だった。
ブラシと木桶を持って歩いていると、中庭で騎士団が鍛錬をしているのが見えた。よく晴れて日差しが強かったと記憶している。
その掛け声を聞きながら中庭に沿ってある廊下を渡っていると、曲がり角から飛び出してきた人影があった。
驚いて立ちすくむと、その人の膝に丁度持っていた木桶がぶつかって衝撃で手から離れる。派手な音をたててそれが転がり、人影が立ち止まった。
「あ、ああ、ごめん」
とその人は言った。驚いた私は一瞬声が出ず、ただ視界の端でその人の着ている服が騎士団のものだとわかってから謝罪の言葉が出る。
「ごめんなさい」
すぐに木桶を拾おうとかがむと相手の腕がそれより早く落し物を攫った。
「メイドさんか? あんまり見ない顔だな」
「……普段はもっと下の階での仕事を任されておりますので」
相手の首辺りを見ながらそう応える。顔を見たらただでさえ無口な自分がますます喋れなくなりそうで、目線を泳がせては彼の胸元に戻した。
話すのは苦手だ。同じ背丈の少女たちと喋ることにはある程度慣れたけれど、自分より大柄な男性を相手にすることは特に避けたいことだった。表情は強ばるし目線は合わせられない。
拾ってくれた礼を言うと、彼は小さい笑い声を上げてそれから軽く私の頭に手を乗せた。行動の意味がわからなくて一瞬呆然として、目を見開いたまま視線を上げる。
「女の子は笑ってた方がかわいいぜ」
白い歯を見せたその人は、眩しい髪色だった。彼自身色白、細身の割に背丈があって騎士というには少し頼りなく見えるというのが一番の印象。しかし驚くほどに良い笑顔をしている。
「な?」
くしゃ、と最後に頭を撫でて彼の手は離れた。それから踵を返して鍛練する騎士団の中に溶けていく。
―――……誰? 今の、なに?
しばらくその場を動けなかった私は我に返って早足で目的の場所に向かうことにした。
一体いつぶりだろう。誰かの顔を見上げたのは。
ただ、触れられた髪だけが微かな熱を持っている。これはなんだろうと疑問に思う気持ちを振り払いながら必死に仕事のことを考えようとした。
―――――――――――――――――――
修行は二週目に突入していた。
エミーさんとの修行は厳しさの極みだ。とにかく走って、その次は腕立てよ。腹筋背筋よ。ほら、もっと早く、そんなことも出来ないの?
横から聞こえる小言にもう反応する暇もなかった。相変わらずのドラゴンの宿舎前、芝生に突っ伏しながら私はこの一週間を思い返す。
「一日目持久走、二日目筋トレ、三日目打ち合い……」
柔らかい芝生が私の痛んだ体を包み込む。スパルタ講師の授業のせいで、痣と傷は増え全身が悲鳴を上げていた。
そして今日のメニュー、再び城内三周。
―――帰りたい。すごく帰りたい。帰って寝たい。
しかも走り始めたらエミーさんは必ず姿をくらます。一体どこに行っているやら、戻ってくることはなかった。そのためエミーさんに言われたメニューを終えると勝手に帰っているのだが、果たしてこれでいいものか。
いや絶対よくないだろコレ!
それでもここで「もう出来ません」宣言をしたら女が廃る。今はなんとか耐えて乗り切るしかない。暫くすれば相手の真意も見えてくるはずだ。彼女が本当は一体何をしたいのか。
お腹がすいていたので真っ先に食堂に向かうことにした。城内の道もおおかた覚えてきたので一人で歩き回ってもある程度は平気だ。
ぐったりしたまま階段を上っていた時、上の階から小さな笑い声と走って行く足音が聞こえた。視界の端に黒い衣服が移り、人気のない廊下に消える。
「……ん?」
反対側を覗いてみるとこれまた薄暗い廊下が続いている。天井に向かう柱についた燭台の灯火が風で揺れた音。その合間を縫って何かを叩く音が聞こえてきた。
―――こっちの方はあまり行ったこと無いな。知り合いの部屋も少ないし。
先ほど横切った人影は小さかった。おそらくこの城のメイドさん達。笑い声は高く、そして何処か嘲笑っているようだった。
―――なんだか嫌な予感がするんだけど……
城内は広く夕方になれば晩ごはんなどで人影はまばらになる。春は訪れたのに人の見えない廊下は寒々しい。
断続的に続くその音は廊下を曲がった更に奥、もう燭台の無い暗い通路から聞こえてきた。自分の踵が出す足音と、近付いてくるその音。やがて掠れた女の咳が耳に入った。
「……誰?」
咳が止まったタイミング、小声で問う。数歩先の木製のドア。ドアノブが忙しなく回転するが扉が開くことは無い。
「誰かいるんですか?」
扉の前に立って今度ははっきり問いかけてみる。響いていた音は止み、ドアノブが回されることもなくなった。
やがて掠れた声で
「―――ハル様?」
「……えっ」
聞き覚えのある声音だ。
いつでも落ち着きを払って私を励ましてくれた、大切な友人の声。
「ルー!? どうしたの!?」
「すいませんハル様、少し手違いがあって閉じ込められてしまって……外のかんぬきを外してもらってもよろしいですか?」
ノブの上についていた小さなかんぬきを外しドアを開けると、目の前に暗い影が見える。自分より小さな人影が向き合うようにして立っていた。
「ルー、大丈夫? 早く外に……」
外に出ようとルーの腕を掴むと異様な感覚がある。一瞬手を離し暗闇の中で彼女の顔を確認するけど、小さな水音が響いただけだった。
「なんで……濡れてるの?」
「すみません、先程転んで木桶の水をひっくり返してしまって」
―――そんなことで全身ずぶぬれになるわけないじゃん……
寒い室内からルーを連れ出すと、僅かに漏れた明りで彼女のメイド服が完全に濡れてしまっていることがわかった。絞れるほどに水が滴っている。服からも、髪からも。
「どうしてこんなことになったの……?」
「……すみません」
足元にしゃがんで服の水分を絞った私にルーは力無く謝罪した。今の彼女に謝る理由は無いはずだ。
「別に責めているわけじゃない……」
―――もしかして、誰かにやられたの?
そう訊いたらまた謝れる気がした。かんぬきが勝手に外から掛かるわけはない。木桶で転んだだけでこんなに濡れるものか。だったら誰かにやられたに決まっている。
でもルーのことだ。問い詰めたところで誰にやられたかなんて教えてくれるとは思えない。
「すみません、ありがとうございました。もう部屋に戻りますので」
「送るよ」
「いえ、結構です。ハル様、晩ごはんがまだでしょう。疲れてらっしゃるんですから無理をなさらないでください」
私の手を振りほどいた彼女は、すっと目を細めて手を握ってくる。その瞳が言外に、誰にも言わないでと告げている。
わかっている。ルーはきっと誰にも心配をかけたくないんだろう。現状に抗うこと、それが事を尚更荒立てるとわかっているから。
「では、また後日」
―――――――――――――――――――
「……ということがありましてですね……」
「そんなことをなんでアタシに相談してくんのよ」
磨きあげた爪をチェックしながら吐き捨てたエミーさん。なんとも冷たい対応である。
現在の位置、今日は珍しく中庭。しかしながら本日は騎士団の鍛練はなく、城内の警備にあたっているらしい。
「えっと、一応身のまわりの女性と言ったらエリーさんぐらいしかいないもので」
「そりゃあ騎士の御身分だものね。じゃあ遠慮なーくアタシから一言言わせてもらうけど」
お、これは珍しい。普段は私の存在すらほぼスルーのエリーさんのこと、アドバイスまでいただけるとは思わなかった。
「放っておきゃいいのよ」
「はい?」
「別に相手はアンタに助けてほしいとか言ってきたわけじゃないんでしょ? なら放っておきなさいよ。わざわざ首突っ込むこともないでしょう」
「いやそれはそうなんですけど……」
確かに言ってることは間違っていない。人の問題に関わる前に、まず私の前の課題をどうにかしなくちゃいけない。
「放ってはおけない、といいますか」
「なに甘いこと言ってんの。いいこと、アンタ達ぐらいの歳になって女が女を敵に回すのはよっぽど性格が悪いか」
その言葉に私は全力で首を振る。ルーは物静かだけど、卑しいところはない。
「それか男絡み」
「男ォ!?」
「声がでかいわよバカ」
指摘されて口元を抑える。他部隊の騎士団員や、使用人が振り返ったところをやり過ごして再びエミーさんを見た。
「男って? 男絡みってどういうことか詳しく、詳しく説明をお願いします!」
「アンタだってそんな顔して女のはしくれなんだから察しなさいよ」
いやそんなこと言われても異性関係云々の問題事なんて……
今までの人生思い返してみると、視界の中に家族を抜いて男性がいたことがあったか。いやほとんどない。というより女子ばっかりだ。
―――あ、でも一回ヨーコが「あんたと一緒にいるといちゃもんつけられるんだよね(笑)」と言っていたがあれがもしかして
「男絡み……というより私絡み……」
「なんだか思い当たる節があるみたいじゃない。まぁいいわ。とりあえず、今日はアタシからもアンタにいくつか聞きたいことがあるのよ」
エミーさんが私に向けて何かを尋ねてくるのは珍しい。というか多分初めてだ。
彼女は端正な顔を私に向けて冷たく言った。
「アンタ、一体何者なわけ?」
「へ?」
唐突に放たれた言葉に、一瞬呆然として素っ頓狂な声を上げてしまう。
「突然ここに現れて騎士団に入団してるわよね? ちょっと調べさせてもらったのよ。ナナセハルっていう人間の経歴。出生や故郷、家族構成。何の情報も無いわ。異世界者名簿にも名前は載っていない。これってどう考えてもおかしいわよね」
げっ。
これはマズイ、冷や汗が背中を伝う感覚が妙にリアルだ。
私が異世界者名簿とやら―――多分名前から察するに報告された異世界人の情報が載った物のことだろう―――に私の存在は無いのか。
確かに不審がられても仕方ない。
だけどこれはすごく……すごく困る事態ですよ団長さーん!
「えええっと、その」
多分エルガーやディア達が周囲に隠しているとすれば、それには何らかの理由があるはずだ。きっと私が勝手に口外してはますますまずい事態に陥るだろう。
「あんたのその目と何か関係があるの?」
「あ……あぁ、ハイ! そうなんです、だからあの、あんまり詮索しないでほしいんですよねぇ……」
エミーさんは私の元まで大股で歩いてきてぐっと顔を覗き込んでくる。無表情で向けられる視線に耐えながら薄ら笑いを浮かべていると彼女の背後から声がかかった。
「ハル! よかった丁度いいところに!」
この声、救世主! エミーさんが勢いよく振り返ると中庭横の廊下からディアが顔を出して手招きしていた。
「エミー、ちょっと今日はハルを借りて行くね!」
「はぁ!? なんでよ。今取り込み中なの!」
「いいからいいから。ハル、ちょっとこっち来て!」
今ほどディアが天使に見えたことはない。冷や汗を拭いてディアの元まで歩いていくとそのまま腕を引っ張られた。
「ほらさっさと行こう」
「いや助かったよディア。私の出生とか尋ねられて一体どうしたもんかと……」
「ひゃー、それは危ないところだった。ハルのこれからをどうするか、これから話し合いに行くからね」
「話し合い?」
早足で歩くディアの後姿を見ながら首を傾げる。そして納得した。
「私のウォーターフォードでの立ち位置が決まるんだ!」
「というよりこちらの世界で安全に生きる為の細かい設定、かな」
安全に生きるって……今まで探索であれだけアドベンチャーな体験をしてきたから今更という感じがするのだが。
その意思をくみ取ったようにディアは薄く笑った。
「探索のことは抜いて、ね? 一番恐いのは人間だからさ」
「うん?」
少し難しいことを話された気がする。ムズカシイ、というよりは実感の湧かないという方が適切だろうか。ともかく映画の台詞のような言葉だ。
「で、どこに向かってるの?」
「ハルに一回会いたいっていう人がいてね。いや、いつかは会うことになるんだろうと思ってはいたんだけどさ」
歩く足音は二人分、それ以外の足音は段々となくなってきた。階段を上り、廊下を進むたび荘厳な雰囲気になる。空気が少しずつ重くなっている、というべきなのか。
「……それって、誰?」
暫く時間が経った頃だった。一本の柱に施される彫刻は優美で細かく、日の光が差し込む場所は大きい。城の上の方に上って来たはずなのに、緑の匂いが濃かった。
「この国のね、王様だよ」
また遅れてしまった・・・(´;ω;`)
次回はついに王様とご対面です
ここまで読んでいただきありがとうございました!