21 獅子像の精
暗闇に埋もれた埃とカビの匂いがする階段を下っていくとサソリの咆哮が轟いた。階段の入口を仰ぐと、私たちを通すために開いていた床が重厚な音と共に閉まっていくのが見える。
腰に差した剣から弱々しい光が漏れて、それが狭い階段通路の中を照らし出した。魔物や嫌なものの気配はしない。足音だけが淡々と響く静かな場所だ。
「ねえエルガー」
「なんだ」
「この世界に精霊って……いるの?」
「俺は現物もほとんど見たことが無いが、存在しているらしい。姿は千差万別、醜い者も美しい者もいると聞く。人をたぶらかし連れ去って喰う奴もいるし凶暴さも種族によって違うだろう」
「そうなんだ」
階段が途切れ、砂の混じった床の上に立つ。硬い岩盤で包まれているような「そこ」は真上から青色の光が差し込み、それが中央にある岩の姿を露わにしていた。
剥き出しで窪みの多いその岩と対照的に、そこに座る女性の線は細く丸みを帯びている。独特の色気と華のある彼女は立ち上がって私に視線を据えた。
「ようやく辿り着いたのですね、アルカナ様」
唐突な会話の始まりに、私は一瞬呆気に取られた。ハリのある声音もその美貌も確かに夢で見たものだった。ただそこに、あの白昼夢とは違う雰囲気を感じたから。
―――って待て待て、あれは夢じゃなくて本当に私は幽体離脱してたってことか! 私の未知なる潜在能力が歌を歌えと言っていた……みたいな感じじゃなく!
「えーっと……精霊さんは何故私がアルカナだと?」
「神から使命を託された者ならわかるものなのです。確かにあなたはアルカナ、この世界の救世主でしょう」
岩から下りたその精霊さんはゆっくりと私に近付き、目を伏せた。
「あなたがここに来た時、暗闇の中から現れたあなたの瞳を見た時に直観しました。黒い瞳は異世界から来た人間、それか」
「事情があって黒くなってしまったか」
横槍に、精霊さんが緩やかにエルガーを見た。私に対しての温情のあった顔とは違って若干すかした表情だった。
「そなたは?」
「こいつの上司だ」
「言うにも事欠いて神の使いをこいつなどと無礼な」
精霊さんの周囲から鈴の音が小刻みに聞こえてきた。音源はわからないけれど、どうやら精霊さんの気持ちと共鳴してこの音の様子が変わるようだ。ちなみに雰囲気から察するに怒っている。
「あ、あの精霊さん! 私は神の使いなんてそんな大仰なものじゃないので!」
「いいえ、アルカナはこの世界の神を救う者。私たちの主の未来の恩人を、こいつなどと呼ばせてはたまりません!」
殺伐とした空気の中で睨みあう二人に、私は「とりあえず預言書を!」と叫びたい気分だ。そこは抑えて、エルガーを軽く小突くと溜息が聞こえた。
「で、預言書は?」
「そなたには渡さないので安心なさい。アルカナ様、こちらへ」
エルガーがなんとか話の流れをつくってくれたけど、精霊さんとはどうもソリが合わないみたい。小さな舌打ちが聞こえたけどそこは恐いのでスルーしておこう。
色白で闇の中に浮き立って見える手に引かれて岩の前まで連れて行かれる。
「ここでじっとしていてください」
上を見上げると眩しいくらいの青い光が差し込んでいる。光源は多分木の根なんだろうけど、あまりの眩しさに直視はできなかった。
「では、預言書を」
精霊さんが私の手を取って目を瞑る。神聖な空気には一人息を呑んだ。
彼女の口元が僅かに動き、何かの言葉が紡がれる。静かに聞いているとメロディの無い歌の歌詞であることがわかった。
―――もしかして、呪文?
周囲に降り注いでいた青い光が急に点滅をはじめ湿っぽい木々の香りが辺りを包む。強風よりも荒っぽい風が吹き荒れて前髪がぐちゃぐちゃになった。
「さあアルカナ様、これをご覧になってください」
精霊さんは彫りの深い笑みを浮かべると、優雅な所作で私の視線を岩の向こう側に導いた。光の入らない暗闇の中から砂の擦れる音が近付いてくる。
波のようにうねった砂漠の柔らかい砂がこの空間に入ってきた。空中を蛇のように漂い精霊さんの手元まで砂が泳いでくる。
「これは?」
精霊さんは戸惑う私の表情を見てまた笑った。うなる砂がやがて精霊さんの手の上で形を作っていく。たくさん集まっていた砂が薄い二枚の羊皮紙になった。
「これが、ここで守られてきた預言書です」
手渡された紙にはウォーターフォードの古い文字が書いてある(らしい)。残念ながら私には読むことができないけれど、シュヴァイツ城に持って帰れば解読してもらえる。
「ありがとうございます」
これでまた一歩、日本へ近づけたわけだ。
「歌は呪文だったんですね」
「あの歌にはもとより魔力が宿っています。この砂漠の中で歌えば、砂や魔物を呼び寄せる。もしこの神殿に悪しき者が入ってきても、ここに入ることも叶わずよほどの魔力がなければ砂から預言書も形成できません。この砂漠に住む者が造った、守るための魔法なのです」
―――だからここにたくさんの人たちが迷い込んでしまったのか。
「精霊さん、歌を歌う必要はもうないんですか?」
「ええ。あなたがここに来れるように歌った歌ですから、もう魔法を使う必要はありません」
「だったらもうこの歌を歌わないでほしいんです」
図々しいお願いだろうけど、人を呼び寄せてしまうこの歌が原因で青の森の魔物に食べられた人は多い。それを防ぐには精霊さんに歌ってもらわないこと。
「ごめんなさい、初対面でこんなことを」
「いいんです。この歌は無関係の人間を巻き込んでしまう。それでも異世界からあなたが来るとわかった時から……神を救う者の存在を知った時から、歌い待っていればあなたは必ずここに辿りつくと思っていましたよ」
「二ヶ月も前からわかっていたんですか」
私がウォーターフォードに来たのは一ヶ月。それよりも前に私の存在を知っていたなんて、オニキスが聞いてもびっくりするんじゃないだろうか。
「女の勘、というのはなにも人間だけに限ったものではない、とだけ申しておきます」
悪戯っぽく笑った精霊さんには何故か「確かにこの人なら」と思わせる何かがある。大半は私が思うところのイイ女の色気な気もするけど。
「安心なさってください。私はもう歌を歌うつもりはありません。それにこの青の森も神殿も、預言書が無いならば必要ないでしょう」
「え?」
「たくさんの魔物が集まってしまったここに、踏み入る者はいません。青の森は、もう要らないものなのです。この神殿も役目を終えました。人々にとってここは美しく魅惑の土地に見えるはずですが、それでは危険でしょう?」
精霊さんは冷たい手の甲を私の頬にあてた。白くて少し痩せた手は、精霊ではなく人間のものにしか思えなかった。
「ハル」
背後から呼ばれた声を無視して精霊さんの顔を見る。
「……壊すんですか?」
「いいえ、本当の自然に還るのです。木々も魔物も、この砂漠の一部になるのです」
「それって精霊さんも一緒にってことですよね。この森を統治するのがあなたなら、森がなくなって困るのは精霊さんでしょう。生きていけるんですか?」
彼女は問いかけには答えず、エルガーを見た。私も振り返ってその様子を見守る。
「アルカナ様をその命にかけても守ってくださいね」
「……」
エルガーは無反応だけど精霊さんは何故か嬉しそうに微笑んだ。そして私の頬を両手で挟み、顔を上に上げさせる。少し背の高い彼女は、私の額に軽い口づけを落とした。
「これはあなたの命を一度だけ救うでしょう。たった一度きりです。気をつけて下さい」
額の辺りが熱くなった。触ってもなんの変化も感じないけれど、精霊さんがくれた何かの存在感がある。
「この奥に外へ続く出口があります。そこから出れば安全です。行ってください」
さっき砂が出てきた方向を指差し、精霊さんは私の目を見た。私よりも、精霊さんの表情の方が柔らかかった。
「大丈夫ですよ」
後ろから手を引かれて、仕方なく精霊さんから離れる。同時に大きな地響きが足元から這いあがってきた。
エルガーは構わず私の手首を掴んだ。ここにいるのは危険と察知したのかもしれない。地響きの度に、上からパラパラと砂が落ちてきた。
―――私が来る前から決めていたんだ。
「行くぞ」
預言書を持った手を握りしめてしまいそうになる。
それでも仕方なく、暗く続く洞窟に向かうしかなかった。地響きの間隔は短くなりつつある。精霊さんはすぐにでもここを亡くすつもりなんだろう。
「あ、ありがとう!」
最後に何を言おう、と一瞬考えてそれしか出てこなかった。ここに入れたのも預言書をくれたのもあの精霊さんだったし、何度もここへ導こうとしてくれたんだろう。
苦しいけど、引きつる口角を上げると精霊さんは私と同年代の女の子のように無邪気で明るい笑顔を見せた。
「エルガー、一人で走れるよ」
エルガーがぱっと手を離し、暗闇の中で精一杯足を踏み出した。時折襲う地響きにバランスを崩しつつも預言書は放さない。
走り続けて、やっと着いた場所は行き止まりだった。真上に続く梯子を目で追うと明るい光が漏れている。色は白、ということは外の太陽だ。
「先に行け」
「わかった」
預言書を口に咥えて梯子に足をかける。本当のラストスパートだ、ここで落ちたりしたら元も子もない。痛む足の裏に鞭打って奥歯を噛みしめながら、それでも脳裏に浮かんだのは精霊さんのことだった。
―――――――――――――――――――
「崩れるぞ!」
誰かの上げた声に、隊員たちの首が一斉に同じ方向を見た。多くの視線の先には遠く離れた青の森。それが砂煙を上げて砂漠に飲み込まれていく。更には青の森の周辺が次々と陥没し、砂が雪崩れ込んでいた。
おおよそこの辺りまで巻き込まれるとは思わないが、アークツルスに跨った隊員たちの戦意は完全に喪失したようである。何かが否応なく自然に飲み込まれていく姿は、ちっぽけな人間を嘲笑っているようだった。
分断された騎士団の第一隊は二人の欠員を出して合流した。砂漠の上で青の森を発見したものの魔物の多さに何人か怪我人を出しつつもなんとか離れて様子を窺っていたのだが、やがて地響きが起こるようになり更に距離を取った。
「ハル……」
「ナナセ隊員……」
と、その騎士団の団長代理で指揮を取っていたジェラルドの耳に口々に唯一の女性隊員を惜しむ声が上がる。
「おいお前ら! めそめそしてないでこの辺りを捜索しろ!」
ジェラルドが声を張り上げると、既に意気消沈している隊員の数名が振り返って彼を見た。
「なんだよその顔は」
「副隊長はナナセ隊員の損失を大きいとは思わないんですかっ」
「思わないことはねーけど、エルガーがついてるし本人の生命力も尋常じゃないんだ。今頃どっかで元気に跳ねまわってるよ」
「そんなこと言ったって……」
言いかけた隊員の動きが止まった。
周囲の人々もジェラルドを見て表情を硬くさせる。本人はわけがわからず戸惑った声で「お、おい?」と呼びかけた。
一人が腕を上げて指を伸ばす。示されたのはジェラルドの背後だった。
彼が振り返るとすぐそこに先程までは無かった枯れ井戸が忽然と姿を現した。そして砂を被っている井戸から指先が覗いている。
「うおわああああああああ!」
やがて白い腕がもう一本井戸の縁に手をかけ、ずるずると黒髪の肢体を引き上げた。
騎士団は基本的に魔物や敵といった戦う対象のものには慣れているものの、残念ながら心霊的なものは苦手という隊員が多くいる。
「落ち着けお前ら!」
突然焦りだした隊員たちに、ジェラルドはもう一度井戸から這い出てきたそれを見て―――呆然と動きを止める。
「ハ、ハル!?」
「ん! ふふふふ!」
咳き込んで井戸から這いずり出たのは口に紙を咥えた騎士団唯一の女性隊員、七瀬ハルだった。砂を被って全身汚れてはいるけれども本人はいたって元気そうだ。
「よかった、ジェラルド合流してたんだね!」
口から紙を抜いた動作に、そこにいた全員がハルではなく紙に集中した。
「ハル……まさかそれ……」
「ああ、うん。預言書だよ」
その答えで隊員たちの表情が喜々としたものに変わり、皆大きな歓声を上げた。ところどころ帰って酒が飲めるだの女と遊べるだの不純な声が聞こえるが幸いハルには聞こえていない。
「じゃあさっさとここから退散するぞ」
しかし騎士団の面々を凍てつかせる声の持ち主が井戸の中から出てきた。本来美しいはずの金色の瞳は隊員たちにとって恐々とするものであり、なぜか体が勝手に畏怖してしまう力がある。
「団……長……」
生きていたんですね、とは誰も言わない。その代わりけろりとした様子で話しかけたのはジェラルドだった。
「ようエルガー! 生きてたか、よかったよかった」
「あいつのお守りをするとロクな目に合わない」
「ちょ、失礼な! 私だってまさかあんな大きい魔物に出くわすなんて思ってなかったって! 不可抗力です!」
ハルとジェラルドの補正もあってか最近はそこまで「鬼団長」らしく目を光らせていることはなさそうだったのだが、と皆一様に考えは一致している。
「とりあえず荷物はまとめてあるな。少なくとも三日以内の帰還を目指したい」
しかしここはスタミナ勝負の騎士団なだけあって、なんとか耐えられる仕事内容だ。家に帰れるとあらばむしろ体力の湧く者の方が多い。
「まずここから離れるぞ」
「……ちょっと待てエルガー、一つ聞いていいか? さっきハルが言ってた魔物ってまさかとは思うが……」
「そこは個人で察してもらいたい」
数名の隊員が引きつれてきたダチョウに似た騎乗用のアークツルスに軽々跨りながらエルガーがそう返す。
その言葉に隊は静かになり、地面の底から微かに聞えた雄叫びのような音に戦慄した。
―――――――――――――――――――
走り去るアークツルスの背に跨って後ろを振り返ると、青の森はもう壊滅状態だった。魔物のほとんども逃げ場なく埋まってしまったんじゃなかろうか。あのサソリはわからないけれど。
「どうしたハル?」
前でアークツルスの手綱を握るジェラルドがフードを押さえて振り返る。
「んー、預言書をくれた人のことを考えてて」
「人? 誰かがいたのか?」
「人っていうか精霊さん? 青の森を統治する精霊で、あの地下で預言書を守ってたんだって」
ちなみに美人だったよ、と付け足すとジェラルドの頭がピクリと動いた。
「なんだとっ! こんなところに美女一人置いて立ち去れるか!」
「ジェラルド落ち着いて落ち着いて!」
手綱を引いてアークツルスを止めようとする操縦士に焦ってそう叫ぶと、無言の騎士団のなか数名が振り返った。
なんとか静かになったジェラルドの背中に向かって実は、と切り出してみる。
「その精霊さんは、私たちに預言書をくれてその後は青の森を自然に還すって言ってた。預言書がなくなったから、この魔物がたくさんいる場所は無くなった方がいいって」
「それを気に掛けてるのか?」
「もしかしたら精霊さんをあそこから連れ出してあげた方が良かったのかもしれないって思って。あそこでずっと日の光も浴びずに私を待っていたなら、外に出てあの森から自由になる選択も……あったんじゃないかな」
遠くの一枚岩を目指して進むアークツルスの集団が上げる砂煙で、青の森の跡地が煙った。
あそこで多くの命が失われていく。
―――私にはまだ誰かを説得する力もない。
「その精霊が自分で決めた死に様なら、本人だって幸せだったんじゃないか?」
「そうかな」
「いいかハル、俺達騎士の中には死に様なんて選べずに戦いの中で死ぬ奴もいる。それが本望だって言う人間もいるし、中には家族を残して死んじまうやつもいるんだよ。死は人を選ばない……だからそいつはある意味幸せだったと思う」
ジェラルドの言い方には妙に力があって、私は何も返せなかった。
「あっ、いやハルは優しいからなぁ! ガハハハハ!」
「ガハハハハって何……」
取ってつけた笑い方に突っ込みを入れると、ジェラルドは笑うのを止めた。
「ハルが気に病むことじゃないさ」
周囲の隊員が肩の力を抜いたのが視界の端で見えて、みんなが聞き耳を立てていたことを知る。
「ありがとう」
「おう」
最後にもう一度だけ砂漠を振り返る。
でも、私をずっと待ってくれた人なんだ。
―――私を待って、ずっと呼んでいてくれた。私の命を守る魔法をくれた。私のことを、アルカナとしてでも想ってくれてた人だったんだよ。
誰かがいなくなることを乗り越えなくちゃいけない、そんな場面がこれからたくさんあるだろう。それに慣れないと私はやっていけなくなる。
それでも、一つ一つの別れを惜しむことくらい許してくれるかな。
アークツルスの列は傾く太陽の鋭い日差しの下、アマルテアに急いだ。
ようやく三章完結です
長文お疲れさまでした(n‘∀‘)η
次章のメインはシュヴァイツ城でのおはなしになります
そろそろアクションだけじゃない要素も盛っていきたいと思います(笑)
ここまで読んでいただきありがとうございました!