婚約破棄されたので何もせずにいたら、元婚約者のすべてが壊れました
――本日をもって、君との婚約を破棄する。
王城の大広間で、彼はそう宣言した。
周囲がざわめく。
視線が一斉に私へと向けられる。
けれど私は、特に驚かなかった。
ああ、ついに来たのね。
そう思っただけだ。
「……理由を、お聞きしても?」
一応、形式だけは整える。
彼――第二王子アルベルトは、いかにも正義を振りかざす顔で言った。
「君の振る舞いは目に余る。高慢で、冷酷で、民を見下している」
どこかで聞いたような言葉だった。
恐らく、最近よく耳にする噂をそのまま口にしたのだろう。
「それに――」
彼は隣に立つ少女の肩を抱いた。
「彼女をいじめていたそうだな」
その少女は、わずかに肩を震わせながら私を見上げる。
いかにも“被害者”らしい顔で。
……なるほど。
そこまで来ているのね。
「否定は?」
「必要ありません」
私はあっさりと答えた。
会場がざわめく。
「……何?」
「殿下がそうお決めになったのであれば、それで結構です」
私は一歩、下がった。
「婚約破棄、謹んでお受けいたします」
その言葉に、逆に彼が戸惑った。
「……は?」
予想外だったのだろう。
もっと取り乱すと思っていたに違いない。
泣き叫ぶか、言い訳をするか、あるいは彼女に詰め寄るか。
けれど私は、何もしない。
ただ、受け入れただけ。
「よろしいのですか?」
私は確認する。
「今ここで正式に破棄が成立する、ということで」
「……あ、ああ」
アルベルトは頷いた。
その顔には、わずかな不安が浮かんでいる。
気づいていないのね。
本当に。
「では、これにて」
私は軽く一礼し、その場を後にした。
背後で何か声が上がったが、振り返らなかった。
屋敷に戻ると、執事が静かに頭を下げた。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
「ただいま」
「……いかがなさいましたか?」
「予定通りよ」
私はコートを脱ぎながら答える。
「婚約は、正式に解消されたわ」
「そうでございますか」
執事は一瞬だけ目を細め、それ以上は何も言わなかった。
理解しているのだろう。
この状況を。
「報告を」
「すでに各所へ連絡済みでございます」
「早いわね」
「お嬢様のご指示通りに」
私は頷いた。
これで、第一段階は終了。
「では、次に進めて」
「かしこまりました」
数日後。
王都では、ある噂が流れ始めた。
「最近、妙じゃないか?」
「何がだ?」
「第二王子殿下の周り」
酒場で、そんな会話が交わされる。
「商会との契約がいくつも打ち切られてるらしい」
「は?」
「資金の流れもおかしいって話だ」
「そんな急に……?」
「さあな。だが、事実らしい」
噂はすぐに広がった。
貴族社会でも、同じような話が出回る。
「殿下の後ろ盾だった家が距離を置き始めている」
「いくつかの事業も停止したとか」
「どういうことだ……?」
誰も理由を知らない。
ただ、何かが崩れ始めていることだけは、はっきりしていた。
「……どういうことだ」
アルベルトは机を叩いた。
「なぜ契約が切られる!」
「そ、それが……理由は明確には……」
側近がしどろもどろに答える。
「ただ、各所から“見直し”の申し出が……」
「見直しだと!?」
そんなはずはない。
これまで順調に進んでいたはずだ。
婚約も破棄した。
あの女も排除した。
すべては、これからのはずだったのに。
「……彼女は?」
「はい?」
「あの女だ。今どうしている」
「特に、何も……」
「何も?」
「はい。静かに過ごしているとの報告が……」
「……ふざけるな」
アルベルトの顔が歪む。
「何もしていないはずがない……!」
その頃、私はいつも通りの生活をしていた。
朝に起きて、書類に目を通し、必要な指示を出す。
昼には軽く外出し、情報を確認する。
夜は屋敷で静かに過ごす。
変わったことといえば――
「最近、静かですね」
侍女が言った。
「ええ」
「以前は、もう少し騒がしかった気がします」
「そうかもしれないわね」
私は紅茶を口にする。
確かに、少し静かだ。
余計な音が減ったというか。
「平和なのは良いことです」
「……そうね」
その通りだ。
問題が起きていない状態は、価値がある。
それがどれだけ脆いものか、知らない人も多いけれど。
さらに数日後。
事態は決定的に動いた。
「殿下!」
側近が慌てて駆け込んでくる。
「資金の流れに関して、正式な調査が――」
「なに……?」
「さらに、複数の証言が……」
「証言?」
「はい……その、これまでの取引に関して……」
アルベルトの顔が青ざめる。
心当たりはあった。
だが、それは表に出るはずのないものだった。
「……なぜだ」
呟きが漏れる。
「なぜ今になって……」
そのとき、ふと一つの考えが浮かんだ。
「……まさか」
あの女。
婚約者だった、あの令嬢。
あいつが――
その日の夕方。
屋敷に来客があった。
「お嬢様。第二王子殿下が」
「お通しして」
応接室で待つ。
しばらくして、彼が現れた。
顔色は悪く、明らかに余裕がない。
「……久しぶりだな」
「ええ」
「単刀直入に聞く」
彼は言った。
「お前、何をした」
「何も」
私は即答した。
「……嘘をつくな!」
「本当に、何もしていません」
事実だ。
私は直接、何かをしたわけではない。
「ではなぜ――」
「ご自身の行いを、思い返してみてはいかがですか?」
「……何?」
「問題が起きているのは、私のせいではありません」
私は静かに言う。
「もともと存在していたものが、表に出ただけです」
「そんなはずが……!」
「私はただ、婚約者としての責務を果たしていただけです」
彼の目が揺れる。
「……責務?」
「ええ」
例えば――
危うい契約を止めること。
不自然な資金の流れを修正すること。
信頼を損なう行為を未然に防ぐこと。
そういった“当たり前のこと”を。
「それを、やめただけです」
「……っ」
言葉を失う。
理解し始めているのだろう。
「私は何もしていません」
繰り返す。
「ただ、いなくなっただけです」
沈黙が落ちる。
重く、逃げ場のない沈黙。
「……戻れ」
彼は絞り出すように言った。
「今なら、まだ間に合う……!」
「お断りします」
即答だった。
「なぜだ!」
「理由は簡単です」
私は微笑む。
「もう必要とされていませんから」
かつて、彼が言った言葉。
そのまま返しただけ。
「……っ」
彼の顔が歪む。
怒りか、後悔か、それとも。
「では、これで」
私は立ち上がる。
話は終わりだ。
これ以上、何を言う必要もない。
その後。
アルベルトは、すべてを失った。
地位も、信頼も、支えも。
そして、ようやく理解したのだろう。
何が自分を支えていたのかを。
けれど、もう遅い。
私は、以前と変わらぬ生活を続けている。
特別なことは何もしていない。
ただ――
「静かですね」
「ええ」
侍女の言葉に、頷く。
「とても」
余計な問題がなくなっただけ。
それだけのこと。
けれど、それだけで十分だった。
窓の外には、穏やかな景色が広がっている。
それを眺めながら、私は紅茶を口にした。
少しだけ、味が良くなった気がした。




