嘘をつけない町の殺人
深山に抱かれた谷間——正直村は、霧の奥にひっそりと息を潜めていた。朝もやに包まれた石垣は緑苔に濡れ、茅葺屋根の稜線が、静謐な空に溶け込んでいく。チャイムもない木造の校舎。そこでは言葉数少なくとも、誠実が日常に染みついていた。
この村には、ただひとつの掟がある。「嘘をつかぬこと」。それは法律ではない。だが、乳飲み子が言葉を覚えるより早く、母親はこの戒めを諭す。嘘をついた者は御神木の前に三日三晩の正座。だがその罰すら、記録上必要とされたことはない。誰もが口を揃える——「一度も、嘘などなかった」と。
殺人が起こるまでは。
犠牲者は山中宗一郎。この村では珍しい移住者で、もと寿司職人。竹を割ったような気性と包丁の腕で、村人たちをたちまち魅了した。祭りがあれば彼の山菜天ぷらが並び、その味と人柄は、誰の心にも染み込んでいた。
遺体は自宅の台所で発見された。胸に包丁が一本、心臓を貫き、即死。だがその死に様はあまりに穏やかで、まるで昼寝をする老人のよう。額には白晒で折られた花飾り。血の飛び散りさえ抑えられていた。
刑事・矢野の足元が、僅かに揺らいだ。
「誰か、この家に出入りした人物は?」
村人たちは首を横に振る。同時に、同じ角度で。同じ間をもって。
「山中さんを殺す理由に、心当たりのある者は?」
また、答えは「いません」。整いすぎた沈黙。だが彼らの目に、偽りの色はなく——矢野の直感はそれを「真実」と受け取ってしまいそうになる。
この村の掟はいわば迷信の類、と思っていた。けれど、誰も嘘をついていないとすれば、この沈黙は何を語っているのか。
奇妙なのは、死の様式だった。あまりに整然とした現場。額の晒の装飾。
「これは、どういう意味がある?」
「山中さんの奉納用です」
と、見守っていた老女が答えた。
「奉納……彼は、村の神事に関わっていた?」
老女はゆっくりと頷いた。
「“偽り祓い”——この村では年に一度、正直の象徴を祀る儀式を行います。今年、その大役が山中さんに決まっていたのです」
死亡推定時刻は午後七時。神事の終了とほぼ重なる。儀式を終えたあと、自宅に戻った直後ということになる。それ以降、数名のアリバイが不確かになっていた。
その中で浮かび上がったのが、一人の青年——健太。小柄で無口、強く発音することが難しく、いつも母が代弁していた。
「もしかしたら、彼だけが……“嘘をつける”?」
矢野の思考に一瞬よぎった言葉だったが、すぐさまそれを否定する資料が目に入った。健太の部屋に積まれていたノート。幼い文字で綴られた毎日の記録は、不器用ながら真っ直ぐだった。誰にも読まれないことを前提としたその言葉の数々は、この村で最も“正直”だった。
それならばこの村のどこに、殺意が潜んでいたというのか。
矢野は思考を追った。——いや、彼らはこう言ったのだ。「やっていない」と。しかし、それは「やった」とは誰も言っていない、というだけの話だ。
「嘘をつかずに、黙っていることはできるんですね」
その言葉が口をついて出た瞬間、一人の村人が、かすかに視線を落とすのを矢野は捉えた。誰も嘘はついていない。ただ、真実を語っていない——「沈黙」という形で。
そして、決定的な証拠が出てくる。台所の床下、古びた木蓋の奥に隠された日記。
それは山中宗一郎の手によるものだった。そこには自らが御神木への供物となることを決めた理由、健太との密やかな心交、その重荷、そして最期の目的が記されていた。
刃の角度、傷口の深さ——すべて「他殺」と見せかけるために仕組まれていた。彼は自らの死を「事件」に仕立て上げたのだ。
——沈黙もまた、偽りであるなら。
《この村に、もう嘘は必要ない。沈黙もまた、ひとつの偽り。僕の死がそれを曝くなら、それもいい》
彼の最期の言葉が、それを証明している。健太との記録。もし村人たちがそれを公にすれば、村の掟に触れ、彼自身が追放されかねなかった。だからこそ皆、語らなかった。「嘘をつかずに、壊れたくなかった」のだ。
村は誰も嘘をついていない。だが、それは“真実を語った”というわけではない。
矢野は山道を下る途中、土に混じる春の匂いに気づいた。嘘のなかった村。その正しさの裏に潜む静かな欺瞞。誰が次に、それを暴けるだろう。
一人だけ、村を去った者がいる。健太だった。
出発の朝、彼は矢野にだけ手話で言葉を贈った。
「宗一郎さんは、ずっと、やさしかった」
その指が、ごくかすかに震えていたことを、矢野は生涯忘れない。
嘘はひとつも存在しなかった。
ただ、この村全体が——言わなかっただけだった。




