床下の記憶
第一章 復職
朝の七時半、通勤電車の中で佐藤隆之は昨日の監査資料に目を通していた。一年半の休職から復帰して初めての月曜日だった。駅のホームの監視カメラが彼を見つめているのを意識しながら、彼は電車に乗り込んだ。
「おかえりなさい、佐藤さん」
職場のセキュリティゲートを通り抜けると、同僚の田中が声をかけてきた。佐藤は軽く頭を下げて挨拶を返した。一年半前の「事件」以来、彼の周りの人々の視線は微妙に変化していた。同情なのか、それとも警戒なのか、判断がつかなかった。
午前中は新しく導入されたセキュリティ・クリアランス制度の説明会があった。政府の重要な経済情報にアクセスできる人を限定する制度で、佐藤も認定を受ける必要があった。講師は淡々と身辺調査の手順を説明したが、佐藤の心は別のことを考えていた。
昼休み、佐藤は一人で弁当を食べながら、妻の千春からのメッセージを読んだ。
『お疲れさま。今夜は祝いということで、あなたの好きなハンバーグを作るわね。帰りに買い物してくる。』
佐藤は微笑んだ。千春は常に彼を支えてくれていた。一年半前の苦しい時期も、そして今回の復職についても。
第二章 帰宅
夕方六時、佐藤は定時で退社した。復職初日は負荷を軽くしてもらえたのだ。電車の中で、彼は住宅街に設置された監視カメラの記事をスマートフォンで読んでいた。個人情報保護の観点から議論が分かれているという内容だった。
自宅は都内の閑静な住宅街にある築十五年の一戸建てだった。結婚して五年、子供はまだいなかった。千春は看護師として病院で働いており、通常なら帰宅は九時頃になる。
玄関のドアを開けると、夕食の香りが漂ってきた。千春が早く帰ってきているようだった。
「ただいま」
「お帰りなさい。お疲れさま」
千春がエプロン姿でキッチンから顔を出した。三十一歳の彼女は、結婚当初の美しさを保っていた。
「早く帰れたの?」
「ええ、今日は代わりの人に頼んだの。あなたの復職祝いだもの」
佐藤は千春の優しさに胸が温かくなった。しかし同時に、申し訳なさも感じていた。彼女は自分のために多くの犠牲を払ってくれていた。
夕食はハンバーグ、ポテトサラダ、コーンスープ。佐藤の好きなメニューが並んでいた。二人は向かい合って座り、佐藤は復職初日の様子を話した。
「新しいセキュリティ制度の認定を受けなきゃいけないんだ。身辺調査もあるって」
千春の箸が一瞬止まった。
「身辺調査?」
「国の重要情報を扱う人の素性を調べるんだって。まあ、公務員じゃないから、そんなに厳しくないと思うけど」
千春は小さくうなずいたが、その表情は少し強張っているようだった。
第三章 深夜の発見
その夜、佐藤は午前二時頃に目を覚ました。のどが渇いていた。キッチンで水を飲んでいると、床下から微かな音が聞こえてきた。
キッチンの床下には収納庫がある。梅雨時期の湿気対策で除湿剤を置いたり、非常食を保管したりしている場所だった。
音はコツコツという規則的なリズムだった。何かが下に落ちているのかもしれない。佐藤は床下収納の蓋を開けてみることにした。
蓋を外すと、暗い空間が現れた。スマートフォンのライトで照らしてみる。除湿剤のパックがいくつか置いてあり、奥に非常食の箱が見えた。しかし、それ以外は何もないように見えた。
音は止んでいた。気のせいだったのかもしれない。佐藤は蓋を戻そうとしたが、ふと奥の壁に目が留まった。
壁の一部が、他の部分と微妙に色が違っていた。近づいてよく見ると、そこは後から塗装し直されたような跡があった。そして、その部分だけ壁が少し膨らんでいるように見えた。
佐藤は考えてみた。この家を購入したのは五年前。中古物件だったが、リフォームはしていなかった。前の住人が何か修理をしたのかもしれない。
しかし、なぜこんな場所を?
第四章 調査の始まり
翌日、佐藤は仕事中もその壁のことが気になっていた。昼休みに不動産会社に電話してみたが、前の住人の連絡先は個人情報保護のため教えられないと言われた。
夕方、千春より先に帰宅した佐藤は、再び床下収納を開けてみた。今度はより詳しく調べてみようと思った。
スマートフォンのライトでは心もとないので、懐中電灯を持ってきた。明るく照らしてみると、昨夜気づいた壁の部分がはっきりと見えた。
確かに他の部分と違う。しかも、よく見ると小さな隙間があるようだった。
佐藤は床下に潜り込んでみた。大人一人がやっと通れる高さだった。壁に近づいて指で押してみると、その部分だけ少し柔らかい感触がした。
これは板か何かで覆われているのかもしれない。
その時、千春が帰ってきた。
「ただいま。隆之?」
佐藤は慌てて床下から出た。
「おかえり。ちょっと床下収納を確認してたんだ」
「何か問題でも?」
「いや、昨夜変な音がしたから」
千春は眉をひそめた。
「変な音?」
「コツコツって。でも今は何ともないよ」
千春は安堵の表情を見せたが、佐藤には何か隠しているような印象を受けた。
第五章 千春の秘密
その後数日間、佐藤は床下の調査を控えた。仕事が忙しくなったのと、千春に心配をかけたくないと思ったからだった。
しかし、ある晩のことだった。
佐藤は仕事で遅くなり、午後十時頃に帰宅した。千春はまだ病院にいるはずだった。ところが、家の中に明かりが点いていた。
「千春?」
返事がない。リビングには誰もいなかった。キッチンに向かうと、床下収納の蓋が開いていた。
佐藤は息を呑んだ。千春が床下にいるのだろうか。しかし、なぜ?
「千春?」
小声で呼んでみたが、やはり返事がない。佐藤は恐る恐る床下を覗いてみた。
誰もいなかった。しかし、例の壁の前にスマートフォンが落ちていた。千春のものだった。
佐藤は床下に潜り込み、スマートフォンを拾い上げた。画面には懐中電灯のアプリが起動していた。千春も何かを調べていたのだ。
その時、玄関のドアが開く音がした。千春が帰ってきたのだった。
佐藤は急いで床下から出て、蓋を閉めた。千春のスマートフォンはポケットに隠した。
「お帰りなさい。遅かったのね」
千春がキッチンに入ってきた。普段と変わらない様子だったが、佐藤は気づいた。千春の服が微かに埃で汚れていた。
「病院が忙しくて。あなたこそ遅かったのね」
「うん、残業があって」
千春は夫の様子を注意深く観察しているようだった。佐藤は自然に振る舞おうとしたが、心臓が激しく鼓動していた。
その夜、二人は何事もなかったように夕食を取り、テレビを見て、就寝した。しかし、佐藤は眠れなかった。千春は何を隠しているのだろうか。
第六章 掘削
週末の土曜日、千春は友人と買い物に出かけた。佐藤にとっては絶好の機会だった。
工具箱からハンマーとのみを取り出し、床下に潜り込んだ。例の壁を詳しく調べてみると、確かにべニヤ板のようなもので覆われていることがわかった。
佐藤は意を決してのみを当て、軽くハンマーで叩いてみた。ベニヤ板は簡単に外れた。
その向こうに現れたのは、小さな空洞だった。
懐中電灯で照らしてみると、ビニール袋に包まれた何かが入っていた。佐藤は手を伸ばして取り出してみた。
ビニール袋の中には、古いノートと写真が入っていた。ノートには几帳面な字で何かが記されている。写真は古い家族写真のようだった。
佐藤は一旦床下から出て、リビングでそれらを詳しく調べてみた。
ノートの最初のページには「山田一郎の日記」と書かれていた。山田一郎。この家の前の住人の名前だった。不動産会社で聞いたことがある。
日記は十年前から始まっていた。最初の方は日常的な内容だった。仕事のこと、家族のこと。山田には妻と小学生の娘がいたようだった。
写真を見ると、確かに三人家族の幸せそうな笑顔があった。
しかし、日記の後半になると、内容が変わってきた。
『妻の様子がおかしい。最近、夜中に外出することが多くなった。理由を聞いても曖昧な返事しかしない。』
『娘も母親の異変に気づいているようだ。「ママはどこに行くの?」と聞いてくる。』
『尾行してみた。妻は隣町のマンションに向かった。そこで男と会っていた。』
佐藤の手が震えた。これは不倫の記録だった。
しかし、日記はさらに続いていた。
『妻に問い詰めた。最初は否定していたが、ついに白状した。一年前から続いているという。離婚話も出た。』
『娘のことを考えると、どうしていいかわからない。妻は相手の男と一緒になりたがっている。』
『弁護士に相談した。慰謝料の話が出た。しかし、証拠が必要だという。』
そして、最後のページ。
『今夜、決行する。すべての証拠を集めた。明日、妻に離婚届を突きつける。娘は私が引き取る。』
日記はそこで終わっていた。日付は十年前の三月十五日。
第七章 千春の帰宅
佐藤は混乱していた。この家の前の住人の家庭事情が隠されていたこと自体は理解できる。しかし、なぜ千春がこの隠し場所を知っていたのだろうか。
その時、玄関のドアが開く音がした。千春が帰ってきたのだった。佐藤は急いで日記と写真をビニール袋に戻し、工具箱に隠した。
「お帰りなさい」
「ただいま。何してたの?」
千春の表情は普段と変わらなかったが、佐藤には疑いの目を向けているように感じられた。
「テレビを見てただけ」
千春は夫の様子を観察していたが、やがて買い物袋をキッチンに運んでいった。
夕食の準備をしながら、千春は何気なく言った。
「そういえば、最近床下収納の蓋の調子が悪いみたい。開けにくくなってる」
佐藤はドキッとした。千春は気づいているのだろうか。
「そうなの?今度見てみるよ」
「ええ、お願いします」
千春の口調は自然だったが、佐藤には何か含みがあるように聞こえた。
その夜、佐藤は再び眠れなかった。千春の寝息を聞きながら、彼は考え続けた。千春は山田一郎の日記を読んでいたのだろうか。そして、それを隠したのだろうか。なぜ?
第八章 調査の深化
翌日の日曜日、千春は病院の研修会に出かけた。佐藤は再び床下に潜り込み、隠し場所を詳しく調べてみた。
ビニール袋の中には、日記と写真以外にも別の書類が入っていた。離婚届の下書き、探偵事務所の報告書、銀行の通帳のコピー。
探偵事務所の報告書には、詳細な不倫の証拠が記載されていた。ホテルの出入りの写真、車のナンバープレート、相手の男性の身元調査結果。
銀行の通帳を見ると、山田一郎は相当な蓄えがあったことがわかった。しかし、最後の方の記録を見ると、大きな出金があった。探偵事務所への支払いだった。
佐藤はさらに奥を調べてみた。もっと何かあるのではないだろうか。
手探りで壁を調べていると、別の場所にも隙間があることがわかった。そこにも何かが隠されているようだった。
のみで壁を剥がしてみると、今度はより大きな空洞が現れた。そこには段ボール箱が入っていた。
箱を取り出してみると、予想以上に重かった。中には何が入っているのだろうか。
佐藤は箱をリビングに運び、開けてみた。
中には大量の現金が入っていた。
一万円札が束になって詰め込まれている。ざっと数えても数百万円はありそうだった。
箱の底には手紙が入っていた。山田一郎の筆跡で書かれている。
『もし私に何かあったら、この金は娘の将来のために使ってほしい。妻には渡さないでほしい。信頼できる人にお願いする。』
佐藤は困惑した。山田一郎に何があったのだろうか。そして、なぜこの金がまだここにあるのだろうか。
第九章 山田一郎の行方
佐藤は山田一郎について調べてみることにした。インターネットで検索してみると、十年前の新聞記事が見つかった。
『会社員失踪事件の謎』
記事には、山田一郎が勤務先の会社を早退した後、行方不明になったと書かれていた。自宅には遺書も残されておらず、警察は捜査を続けているという内容だった。
しかし、その後の続報は見つからなかった。山田一郎がどうなったのか、結局わからないままのようだった。
佐藤は背筋が寒くなった。この家には失踪した男性の秘密が隠されていたのだ。そして、大金が。
さらに調べてみると、山田一郎の妻と娘は失踪後すぐにこの家を出て、別の場所に引っ越していたことがわかった。その後の消息は不明だった。
佐藤は理解し始めた。山田一郎は妻の不倫を知り、離婚の準備をしていた。そして、娘のために金を隠していた。しかし、何らかの理由で失踪してしまった。妻と娘はその金の存在を知らずに引っ越してしまったのだろう。
しかし、千春はなぜこの隠し場所を知っていたのだろうか。
第十章 千春の告白
その夜、佐藤は千春に直接聞いてみることにした。もう隠していても仕方がない。
「千春、君に聞きたいことがある」
夕食後、リビングで向かい合って座った。千春は緊張した表情を見せた。
「床下の隠し場所のことを知ってるだろ?」
千春の顔が青ざめた。
「何のこと?」
「山田一郎の日記と金のことだよ。君は知ってたんだろ?」
千春は長い間黙っていた。そして、ついに口を開いた。
「知ってた」
「どうして?」
千春は深くため息をついた。
「私、山田さんの娘なの」
佐藤は息を呑んだ。
「娘?」
「山田美咲。それが私の旧姓。千春は通称名。父が失踪した後、母と一緒に名前を変えたの」
佐藤は混乱した。妻が前の住人の娘だったとは。
「なぜ黙ってたんだ?」
「言えなかった。父のことを思い出すのが辛くて。それに、あなたに心配をかけたくなかった」
千春の目に涙が浮かんでいた。
「父は優しい人だった。でも、母の不倫を知ってから変わってしまった。毎日暗い顔をして、夜中に一人で何かをしていた。そして、ある日突然いなくなった」
「隠し場所のことは知ってたのか?」
「父が作ってるのを見たことがある。でも、中に何が入ってるかは知らなかった。この家を買って住むことになった時、確認してみたの」
「それで日記と金を見つけたのか」
千春はうなずいた。
「日記を読んで、父の気持ちがわかった。私のために金を残してくれていたことも。でも、どうしていいかわからなくて、そのままにしていた」
第十一章 母の真実
佐藤は千春の話を聞きながら、一つの疑問を抱いた。
「君のお母さんは今どこにいるんだ?」
千春の表情が曇った。
「亡くなったの。五年前に」
「そうだったのか。知らなかった」
「話したくなかったの。母とは、父が失踪した後、うまくいかなくて」
千春は立ち上がって、別の部屋に向かった。そして、古いアルバムを持ってきた。
「これが母」
写真には、若い頃の美しい女性が写っていた。確かに千春に似ていた。
「母は父の失踪後、男性と一緒になった。不倫相手だった人。でも、その結婚生活も長くは続かなかった。男性は母の連れ子である私を疎ましく思っていたから」
「それで君は一人になったのか」
「高校卒業と同時に家を出て、看護学校に入った。母とはそれ以来、ほとんど連絡を取っていなかった。母が亡くなった時も、葬儀にすら行かなかった」
佐藤は妻の辛い過去を初めて知った。
「なぜこの家を選んだんだ?」
「私が選んだんじゃない。あなたが見つけてきたの。偶然よ。でも、運命だと思った。父の思い出のある場所で、あなたと新しい人生を始めるのが、父への供養になると思った」
第十二章 過去の呪縛
その夜、二人は遅くまで話し続けた。千春は父への思い、母への複雑な感情、そして夫への愛について語った。
「あなたと結婚した時、過去を捨てて新しい人生を始めるつもりだった。でも、この家に住むようになって、父の記憶が蘇ってきた」
「それで隠し場所を調べるようになったのか」
「ええ。父が私に何を残してくれたのか知りたくて。でも、あんなに大きな金額があるとは思わなかった」
佐藤は考えていた。あの金をどうするべきだろうか。法的には複雑な問題になりそうだった。
「金のことは、一度弁護士に相談してみよう」
「でも、あれは父が私のために残してくれたもの」
「そうかもしれないが、正式な手続きを踏んだ方がいい。山田一郎の失踪事件はまだ未解決なんだから」
千春は不安そうな表情を見せた。
「警察に知られたら、どうなるの?」
「わからない。でも、隠しているよりはいいだろう」
第十三章 専門家への相談
翌週、佐藤は知人の弁護士に相談した。事情を説明すると、弁護士は深刻な表情を見せた。
「これは複雑な案件ですね。まず、山田一郎氏の法的地位を確認する必要があります。失踪から十年経っているので、失踪宣告の可能性もあります」
「失踪宣告?」
「法的に死亡したものとみなす制度です。一定期間失踪した場合、家庭裁判所に申し立てることができます」
「それが認められていたら?」
「相続が発生していることになります。奥様が法定相続人であれば、その金銭は合法的に相続されたものになる可能性があります」
佐藤は少し安堵した。しかし、弁護士の説明は続いた。
「ただし、隠匿していた事実は問題になるかもしれません。また、税務上の申告も必要になるでしょう」
「どうすればいいでしょうか?」
「まず、山田一郎氏の戸籍を調べて、失踪宣告がなされているかどうかを確認しましょう。その上で、適切な手続きを進めることをお勧めします」
第十四章 新たな発見
弁護士に相談している間、佐藤は床下の調査を続けていた。まだ他にも何か隠されているかもしれない。
ある日、床下のさらに奥の方で、小さな金属製の箱を発見した。鍵がかかっていたが、工具で慎重に開けてみた。
中には古いカセットテープが入っていた。
佐藤はテープをデッキで再生してみた。山田一郎の声が聞こえてきた。
『もし私に何かあったら、このテープを聞いてほしい。娘の美咲へ。』
佐藤は息を呑んだ。これは山田一郎が娘に宛てたメッセージだったのだ。
『美咲、お父さんはもう長くないかもしれない。妻の不倫相手は、実は危険な人物だということがわかった。借金まみれで、裏社会との関係もある。妻がその男に騙されていることを伝えようとしたが、聞く耳を持たない。』
テープは続いた。
『私は証拠を集めすぎたのかもしれない。その男から脅迫を受けている。家族に危害を加えると言われた。だから、美咲を守るために、私は姿を消すしかない。』
佐藤は震えた。山田一郎は家族を守るために失踪したのだ。
『美咲、お父さんは君を愛している。いつか大人になった時、この真実を知ってほしい。そして、お父さんが残した金で幸せになってほしい。』
テープはそこで終わった。
第十五章 千春への告白
佐藤は千春にテープを聞かせた。千春は涙を流しながら父の声に耳を傾けた。
「お父さんは、私たちを守るために犠牲になったのね」
「そうみたいだ。君のお母さんも、実は被害者だったのかもしれない」
千春は複雑な表情を見せた。長年抱いていた母への怒りが、少し和らいだようだった。
「でも、お父さんはどこに行ったの?今も生きているの?」
「わからない。でも、十年も経っているから」
二人は黙って座っていた。真実を知ることで、新たな疑問も生まれていた。
「私たち、どうしたらいいのかしら」
「弁護士の先生と相談して、適切な手続きを進めよう。君のお父さんの意志を尊重して」
千春はうなずいた。
「ありがとう。一人でこの秘密を抱えているのは辛かった」
佐藤は妻を抱きしめた。彼らの結婚生活に隠された過去の影が、ついに明らかになったのだった。
第十六章 真実の重み
数日後、弁護士から連絡があった。山田一郎についての調査結果が出たのだった。
「山田一郎氏についてですが、失踪から七年後に失踪宣告がなされています。法的には死亡したものとして扱われています」
「それで相続は?」
「奥様である千春さんが法定相続人です。ただし、当時は別の名前で手続きがされているようですね」
「つまり、あの金は合法的に千春のものになるということですか?」
「はい。ただし、税務申告は必要です。相続税が発生する可能性があります」
佐藤は千春にそのことを伝えた。千春は複雑な表情を見せた。
「お金のことより、お父さんの真実がわかったことが嬉しい」
「これからどうしよう?」
「適切な手続きを取りましょう。そして、お父さんが望んだように、そのお金を有効に使いたい」
二人は話し合って、相続の手続きを進めることにした。また、一部の金額は山田一郎の供養と、同じような境遇の家族を支援する団体への寄付にあてることにした。
第十七章 新しい始まり
すべての手続きが完了するまでに数ヶ月かかった。その間、佐藤と千春の関係はより深いものになっていた。秘密がなくなったことで、お互いをより信頼できるようになったのだ。
千春は父への複雑な感情を整理することができた。母への怒りも、理解へと変わっていった。
「お母さんも、お父さんと同じように、騙されていたのね」
「きっとそうだ。お母さんも被害者だったんだよ」
佐藤は妻の成長を感じていた。過去の呪縛から解放された千春は、より明るく、より積極的になっていた。
一方、佐藤自身も変化していた。一年半前の休職の原因となった心の問題も、妻の秘密を知り、それを一緒に解決していく過程で、自然と癒されていた。
第十八章 新たな発見
ある秋の日、佐藤は床下収納を完全に整理していた。もう隠し場所はないだろうと思っていたが、最後にもう一度確認してみることにした。
壁の奥の方、これまで手の届かなかった場所に、小さな封筒が挟まっていた。
封筒には「美咲へ 最後の手紙」と書かれていた。
佐藤は封筒を千春に渡した。千春は震える手で封を切った。
中には短い手紙が入っていた。
『美咲へ
お父さんは遠くに行かなければならなくなりました。でも、君を愛していることは変わりません。
君が大人になって、もしこの手紙を読むことがあったら、お父さんのことを少しでも理解してください。
お父さんは逃げたのではありません。君とお母さんを守るために、別の道を選んだのです。
いつか、もう一度会える日が来ることを信じています。
愛を込めて
お父さんより』
千春は声を上げて泣いた。佐藤は妻を抱きしめ、一緒に涙を流した。
第十九章 決意
手紙を読んだ後、千春はある決意を固めた。
「お父さんを探したい」
「えっ?」
「もしかしたら、まだ生きているかもしれない。会って、お礼を言いたい」
佐藤は驚いた。山田一郎は法的には死亡したものとして扱われているが、実際には生きている可能性もある。
「でも、どうやって?」
「探偵事務所に頼むとか」
「危険かもしれないよ。お父さんが姿を隠している理由があるんだから」
千春は考え込んだ。しかし、その決意は固いようだった。
「それでも、試してみたい。お父さんに会って、私が幸せになったことを伝えたい」
佐藤は妻の気持ちを理解した。そして、自分もその探索に協力することにした。
第二十章 探索の開始
佐藤と千春は、信頼できる探偵事務所を探すことから始めた。友人の紹介で、経験豊富な探偵に依頼することにした。
探偵は山田一郎の失踪事件について詳しく調べてくれた。警察の記録、当時の新聞記事、関係者への聞き込み。
数週間後、探偵から連絡があった。
「興味深い情報が得られました。山田一郎氏と思われる人物の目撃情報があります」
「どこで?」
「北海道の小さな町です。偽名を使って暮らしているようですが、年齢や外見が一致しています」
千春は興奮した。
「本当にお父さんかしら?」
「確証はありませんが、可能性は高いと思います。ただし、接触する際は慎重に行う必要があります」
探偵は続けた。
「山田氏が身を隠している理由が解決されていない限り、急にアプローチするのは危険かもしれません」
第二十一章 準備
佐藤と千春は、北海道に行く準備を始めた。しかし、その前にやるべきことがあった。
山田一郎が恐れていた男性について調べることだった。千春の母と交際していた男性は今どうしているのだろうか。
探偵に依頼して調べてもらったところ、その男性は五年前に事故で亡くなっていることがわかった。
「それなら、お父さんはもう隠れている必要がないってことよね?」
「そうかもしれない。でも、お父さんがそのことを知っているかどうかはわからない」
二人は北海道行きを決めた。もし本当に山田一郎であれば、真実を伝えて、家族のもとに帰ってきてもらいたいと思った。
第二十二章 再会
北海道の小さな町は、美しい自然に囲まれていた。探偵が調べた住所を訪ねてみると、質素な一軒家があった。
佐藤と千春は緊張しながらドアベルを押した。
中から出てきたのは、髪の白くなった男性だった。顔は写真で見た山田一郎によく似ていた。しかし、十年の歳月は確実にその人を変えていた。
「どちら様でしょうか?」
男性は警戒した様子で尋ねた。
千春は震え声で答えた。
「あの、山田一郎さんでしょうか?私、美咲です」
男性の顔が驚愕に変わった。
「美咲?まさか」
「お父さん」
千春は涙を流しながら前に出た。
山田一郎は娘を見つめ、そして静かに涙を流した。
「美咲、大きくなって。美しくなって」
父と娘は十年ぶりに抱き合った。
第二十三章 説明
家の中で、三人は十年間の空白を埋めるように話し続けた。
山田一郎は、なぜ失踪したのか、そしてこの十年間をどう過ごしてきたのかを語った。
「あの男からの脅迫は深刻だった。家族に危害を加えると言われて、私は家を出ることしかできなかった」
「でも、お父さん、その人はもう亡くなっているの」
千春が事情を説明すると、山田一郎は驚いた。
「そうだったのか。私は知らなかった」
「だから、もう隠れている必要はないのよ」
山田一郎は複雑な表情を見せた。
「でも、私はもう死んだことになっているんだろう?法的に復活することなんてできるのだろうか?」
佐藤が答えた。
「可能です。失踪宣告の取り消しという手続きがあります。複雑ですが、不可能ではありません」
第二十四章 帰還の決意
山田一郎は長い間考えていた。十年間、偽名で静かに暮らしてきた生活を捨てて、元の世界に戻ることへの不安があった。
「美咲、お前は幸せになったのか?」
「はい。隆之さんと結婚して、とても幸せです」
千春は夫を紹介した。佐藤は山田一郎に深々と頭を下げた。
「娘さんをお預かりしています。大切にします」
山田一郎は佐藤をじっと見つめた。
「君は良い人のようだ。美咲を幸せにしてくれて、ありがとう」
三人は夜遅くまで話し続けた。山田一郎は、娘が立派に成長し、良い夫に恵まれたことを知って、深い安堵を感じていた。
「私は、もう一度人生をやり直してみたい。残された時間を、家族と一緒に過ごしたい」
山田一郎は帰還を決意した。
第二十五章 復活への道
東京に戻った後、佐藤、千春、山田一郎の三人は弁護士と相談し、失踪宣告取り消しの手続きを開始した。
複雑な法的手続きだったが、山田一郎が生きていることの証明、失踪理由の正当性の立証など、必要な書類を揃えていった。
探偵事務所には、当時の脅迫の証拠を集めてもらった。警察も協力的で、十年前の事件の再調査も行われた。
手続きには数ヶ月かかったが、ついに山田一郎の失踪宣告が取り消された。法的に「復活」したのだった。
第二十六章 新しい家族
山田一郎は佐藤と千春の家の近くに小さなアパートを借りた。十年間の空白を埋めるように、毎日のように娘の家を訪れた。
佐藤は最初は戸惑っていたが、山田一郎の人柄を知るにつれて、尊敬の念を抱くようになった。
「お義父さんは立派な方ですね」
「ありがとう。君も良い息子だ」
山田一郎は佐藤を本当の息子のように可愛がった。
千春は父との時間を大切にした。十年間の空白はあったが、血のつながりはそれを超えていた。
「お父さん、お母さんのお墓参りに行きませんか?」
山田一郎は複雑な表情を見せたが、うなずいた。
「そうだな。彼女も被害者だったのだから」
第二十七章 母への供養
山田一郎と千春は、母のお墓を訪れた。山田一郎にとっては、元妻との十年ぶりの「再会」だった。
墓前で、山田一郎は静かに語りかけた。
「すまなかった。君を守ってやれなくて。美咲を一人にしてしまって」
千春も涙を流しながら母に話しかけた。
「お母さん、お父さんが帰ってきたよ。もう一度、家族になれるのよ」
二人は墓前で過去を振り返り、そして未来への希望を語り合った。
第二十八章 孫への期待
ある日、千春は父に大きなニュースを伝えた。
「お父さん、私、妊娠したの」
山田一郎の顔がぱっと明るくなった。
「本当か?おじいちゃんになるのか、私が」
「はい。隆之さんと相談して、もし男の子だったら、お父さんの名前の一文字をもらおうと思っているの」
山田一郎は感激して涙を流した。
「ありがとう、美咲。こんな幸せな日が来るとは思わなかった」
佐藤も嬉しそうだった。
「お義父さん、孫の面倒をよろしくお願いします」
「もちろんだ。この子には、不幸な思いをさせない」
第二十九章 床下の封印
山田一郎は、床下の隠し場所を見に来た。十年前に自分が作った秘密の空間だった。
「もうこの隠し場所は必要ないな」
三人は話し合って、隠し場所を完全に封印することにした。過去の秘密はもう必要ない。これからは明るい未来だけを見つめて生きていくのだ。
佐藤は慎重に壁を修復し、床下収納を元の状態に戻した。
「これで本当に終わりですね」
「ええ。新しい始まりよ」
千春は満足そうに言った。
第三十章 完全なる家族
それから一年後、千春は元気な男の子を出産した。名前は「一樹」。山田一郎の「一」の字をもらった。
山田一郎は孫の誕生を心から喜んだ。毎日のように孫の顔を見に来て、あやしたり、散歩に連れて行ったりした。
「おじいちゃんになって、本当に幸せだ」
佐藤も父親としての責任を感じていた。自分の子供には、隠し事のない、明るい家庭を作ってやりたいと思った。
「一樹には、秘密のない家族の中で育ってもらいたいですね」
「そうだな。この子は幸せになる権利がある」
山田一郎は孫を抱きながら言った。
エピローグ
五年後の春。
佐藤家は四人家族になっていた。一樹に加えて、妹の花音も生まれていた。
山田一郎は七十歳になっていたが、まだまだ元気だった。毎日孫たちと遊び、彼らの成長を見守っていた。
「おじいちゃん、昔のお話をして」
一樹がせがむと、山田一郎は昔の冒険譚を語って聞かせた。もちろん、子供向けにアレンジしたものだったが。
千春は看護師の仕事を続けながら、充実した家庭生活を送っていた。母としても、娘としても、妻としても。
佐藤は会社で順調に昇進していた。セキュリティ・クリアランスも取得し、重要な仕事を任されるようになっていた。一年半前の休職は、今となっては良い経験だったと思えるようになっていた。
そして、あの床下の隠し場所のことを知っているのは、三人だけの秘密だった。しかし、それはもう暗い秘密ではなく、家族の絆を深めた大切な思い出になっていた。
夕食の時間、四人と一人が食卓を囲んでいる。
「いただきます」
五つの声が響いた。
この家には、もう隠し事はない。あるのは、愛と信頼と希望だけだった。
山田一郎は孫たちの顔を見ながら思った。自分が守ろうとした家族は、形を変えながらも、確実に未来へとつながっている。
佐藤隆之は妻と子供たちを見ながら思った。どんな困難があっても、家族で力を合わせれば乗り越えられる。
千春は父と夫と子供たちを見ながら思った。過去の痛みは、今の幸せをより深く感じさせてくれる。
床下に埋められていた過去の秘密は、ついに光の中に出て、新しい物語の始まりとなったのだった。