猫と侯爵
ゴトリと目の前でゴブレットが倒れる音がした。幸い中身は空になっていたため、飲み物が零れる心配はない。
「あらら、眠ってしまったようね。このままじゃ風邪を引いてしまうわね」
目の前で酔いつぶれたウィリアムを魔法で持ち上げ、静かにベッドへと運んだ。苦しそうに首元を触っていたため、クラバットを外してシャツの首元を少し緩める。すると何を勘違いしているのか、ウィリアムは私をがっしりと抱きしめ、ぶつぶつと呟きを漏らした。
「ノーラ。私を置いていかないでくれ…」
やれやれ。誰と勘違いしているのかと思えば亡くなった奥さんか。わかっていたけど、本当に好きだったのねぇ。これまでも何度かウィリアムとは酒を酌み交わす機会があったが、そのたびに亡くなった侯爵夫人のことを聞かされている。
「大丈夫よ。あなたを一人にしたりしないから」
声を掛けて頭を撫でると、ウィリアムは安心したように寝息を立て始めた。猫の姿に戻れば簡単に抜け出せるのは分かっているが、あまりにもウィリアムが寂しそうにしている様子であるため、強引に抜け出すのが気の毒になってくる。暫くは離してくれそうにないので、私はウィリアムの腕の中で先程までの会話を思い出していた。
その夜、窓の外には銀色の月が輝いており、わずかな蝋燭だけを照明にしている部屋は仄暗かった。ウィリアムは月を見上げて眩しそうに眼を眇め、ぽつりと呟いた。
「サラの髪のような月だな」
「そうね、とっても綺麗」
「あの月のように、サラは自由だな」
「どうかしら。彼女は自由であるために、不自由さを受け入れるようなところがあるから」
「なんとも哲学的な物言いだな。妖精とはそういうものなのだろうか。だが、ノーラには自由がなかった」
「そういえば、サラも貴族令嬢には自由がないと言っていたわね」
「そうだな。貴族とはそういうものだと言えばその通りだが、彼女は本当に自由とは無縁の女性だったよ」
月光に照らされているウィリアムの顔は苦し気に歪んでいたが、私はそれを問い質そうとは思わなかった。何故それほどに苦しんでいるのかを聞いたところで、妖精である私に理解できる気がしなかったのだ。
「あの頃、グランチェスター家とエイムズベリー家は、いつでも一触即発だった。両家とも領地戦を辞さないといった感じで、父上…先代のグランチェスター侯爵は王都でエイムズベリー侯爵と乱闘騒ぎを起こす程だった」
「随分血の気の多い人たちね」
「私の祖父の世代からの因縁だったんだ。元々はエイムズベリー家が管理していた土地だったのだが、ある年にエイムズベリー領で飢饉が発生したんだ。そこでグランチェスター領が小麦を支援する代わりに、土地の譲渡を受けたんだ」
「それじゃぁグランチェスター領で良いんじゃないの?」
「ところが、譲渡書類に不備があったことが後で判明したんだ。それを理由に譲渡は無効だとエイムズベリーは主張し始めた。当然、グランチェスターとしては、困窮しているのを助けてもらっておきながら手のひらを反すなど信義に反すると争った。だがエイムズベリー側は、飢饉で苦しむ我らの足下を見て騙し取ったと主張したんだ」
「なるほど。人間というのは時々とてつもなく愚かね。山はただそこにあるだけで山であるのだし、野はそこにあるだけで野なのよ。誰のものにもならないわ」
「それは妖精の理屈だな。人には人の理屈があるのだよ。まぁ金だな」
「お金かぁ。サラが振り回すドラゴンの魔法よりも強力な武器ね。お金は使い方次第で人を助けることも、滅ぼすこともできる。だけど、お金はあくまでも手段であって、目的にしてはダメなのだそうよ」
「それは言い得て妙だな。誰の言葉だ?」
「サラよ」
「ははは。また孫娘に教えられるとはな」
ふっとウィリアムは黙り込み、顔を伏せた。
「侯爵家が争いを続けることを憂いたアヴァロン王家は、両家に和解するよう勧告し、仲裁する姿勢を見せた。が、これは事実上の命令だ。従わなければ両家を丸ごと取り潰すことも辞さないと父上ははっきり陛下に言われたそうだ」
「それはなかなか強気な王様ね」
「当時は陛下も若かったからな。即位したばかりで血気盛んだった」
「今の王様なの?」
「そうだ。陛下は概ねグランチェスターの味方だったと言っていい。だがエイムズベリーの顔を立てるため、土地をノーラ名義として一旦はエイムズベリー領として認めた。その後、ノーラは土地を持参金にして、未来のグランチェスター侯爵夫人として嫁ぐことになったわけだ」
「喧嘩を仲裁させるため、ノーラの意思とは関係なくグランチェスター家に嫁がないといけなかったってことね?」
「そうだ。そして、ノーラは兄上の婚約者になった」
「結婚する前にお兄さんが亡くなったんだっけ?」
私の問い掛けにウィリアムはコクリと首肯した。
「私の上には兄が二人いたのだが、二人とも早世してしまった。その頃、私はアカデミーの騎士科に通っていた。卒業後は近衛騎士団への入団が内定していたんだが、急遽私が小侯爵となり、両家の取り決めによってノーラは私と婚姻することになった」
「政略結婚ってことね。でも、ウィルはノーラのことが好きだったんでしょ?」
「兄上の婚約者としてグランチェスター城に来たノーラを一目見て、私は恋に落ちた。相手はまだ10歳だったがね」
「ウィルはいくつだったの?」
「14歳だ」
「スコットやブレイズがサラを好きになったみたいなものね」
「そうだな。だが自分の気持ちを正直に打ち明けることもできないのはキツイぞ。なにせ兄上の婚約者なんだ」
「確かに辛そうね」
ウィリアムは昔を思い出すように、ぽつりぽつりと話を続ける。
「本当は弟が小侯爵になっても良かったんだ」
「ジェフリー卿のお父さん?」
「そうだ。騎士科に通って身体ばかり丈夫な私よりも、アカデミーで政治学を学んだ弟の方が領地を治めるべきだという声も大きかった。頭は弟の方がずっと良かったからな。私も内心ではそうすべきだと思っていたさ。だが、どうしてもノーラを諦めることができなかった。私は自分の恋心を領民よりも優先した愚かな領主なのだろう」
苦いモノを口に入れたような表情のウィリアムは、ゴブレットに手酌でワインをドボドボと注いで一気に飲み干した。乱暴に口許を手で拭ったため、シャツの袖口には赤い染みが付いている。
「私はつくづく領主に向いていない」
「よくわからないけど、ウィルはちゃんと領主やってるんじゃないの?」
「いつもジタバタと藻掻いている気がするんだ。サラが涼しい顔でグランチェスター領の危機を解決しているのを見ていると、自分がとても小さいに人間に思えてくる」
「え、アレと比べたらダメじゃない? サラはドラゴンみたいなものだし」
再びワインをゴブレットに注ぎながら、ふぅっと大きなため息をついたウィリアムは、私の方を見つめて少しだけ笑った。そして、私のゴブレットにもワインを静かに注ぎ入れる。
「ミケは少しだけノーラに似ている。容姿じゃなく、その柔らかい話し方が耳に心地良い。彼女はこんな愚かな私を夫として立ててくれた。彼女が居たから、自分の身の丈に合っていない”グランチェスター侯爵”という鎧を纏っていられたんだ。そして彼女が亡くなってからは、私たちの子供たちに引き継ぐために侯爵位に留まっているようなものだ」
「素敵な女性だったのね」
「確かに魅力的な女性ではあったが、同時に物凄く怖かったぞ」
「え、怖いの?」
「ノーラが怒ると周囲の空気が凍り付くというか重くなるんだ。父上でさえ、ノーラを怒らせないようにしてたくらいだ」
「寒くなるだけなら別に怖くないんじゃない? 別に暴れたり攻撃したりしないんでしょ?」
「しない、しないのだが…名前を丁寧に呼ばれただけでタマが縮み上がるんだ。騎士の放つ殺気に近いんだが、ジワジワと首を絞められているような、あるいは今にも自分を食い殺そうとしている獣の前に居るようなそんな恐怖を感じるんだ」
「……サラに似てない?」
「そっくりだ」
「ふふっ。じゃぁサラの性格はノーラ譲りなのね。サラは容姿だけ見ればアデリアにそっくりなんだけど、中身は全然違うのよ。アデリアも昔は自分で商売をやりたがってたはずなのに、結婚したらあっさりアーサーに任せちゃってたし」
「それは母親になったからだろう」
「ふーん。だけど、サラなら母親になっても商売をやめるとは思えないけどなぁ」
「夫次第だろうな」
「だとしたら、結婚後に商売できなくなるような相手を選んだりはしないと思うわ。それくらいなら独身を貫きそう」
「然もありなん」
ニヤニヤとした笑いを浮かべつつ、ウィリアムはテーブルの上に置かれたチーズの盛り合わせの中から、少し癖のある匂いがするものを選んでパクリと口に放り込んだ。私は強い匂いが少し苦手なので、薄くスライスしたパンの上にクリーミーでコクのあるチーズを乗せて一口齧る。
「正直言うと、お酒は人間の叡知の結晶だと思うの。”腐敗”と”発酵”を使い分けるのは人間だけよ? あ、そういう意味ではチーズやパンもそうか」
「そこに目を付けるサラはとんでもないな」
「サラの前世は酒飲みらしいから、自然な流れなんじゃないかな」
「はぁ…エドワードの息子として生まれてくれれば、間違いなく後継ぎに選んだだろうに」
「サラが望んでないことを押し付けたらダメよ。イヤがって暴れたら、残るのは焦土かもしれないわよ?」
「洒落にならんな」
「そもそも、ウィルは自分の息子に興味なさ過ぎじゃない? 孫の前に息子が後を継ぐべきでしょう?」
「本当はアーサーに期待してたんだ」
「え、まさかアーサーを小侯爵にしたかったの?」
「いや、エドワードが次のグランチェスター侯爵になるのは良いと思っていたし、今でもその考えは変わらない。王都で王族や貴族に顔が広いエドワードなら、今後も上手くやるだろう。だから領地の方をアーサーに任せて、エドワードを支えてほしかった。分家してグランチェスター家が保有する子爵位を継がせ、代官職に任命しようかと考えていたんだ」
「え、じゃぁロバートは?」
ウィリアムは「ククク…」と肩を震わせて笑い出した。
「ロバートはレベッカしか見てなかったからな。いずれロバートを焚きつけ、レベッカを口説かせる気だったさ。こちらが想定してたよりも時間がかかったがな」
「そこは同じグランチェスター男子として理解できるところじゃないの?」
「…否定はできんが、ロバートは本当に酷かった。エドワードの方はノーラの方が痺れを切らして結婚させたが、あっちも相当なヘタレだったぞ」
確かにロバートのヘタレ具合は、私たち妖精ですら呆れるくらいであった。サラが強引に背中を押していなければ、今でもモダモダしていたに違いない。
「だとしたら、アーサーだけ例外ってことね。もしノーラが生きてたら、アーサーとアデリアのことはどう思ったかなぁ」
「どうだろうな。たらればに意味はないが、なんとなくアーサーとアデリアが駆け落ちすることは無かったように思う。きっと生まれたばかりのサラも可愛かったのだろうな」
「天使みたいだったわよ。しかも、妖精の目から見ると、彼女が持つ魔力はキラキラと輝いていたわ。サラが笑うたびに妖精たちも一緒に喜んだし、彼女が泣いてたら妖精たちが心配してオロオロしてたものよ」
ふとウィリアムは遠い目をした。
「ノーラが最初にエドワードを生んだ時は、私もノーラもそんな風に見守っていたよ。いや違うな。ロバートもアーサーも子供の頃は可愛かったんだ。まぁノーラは女の子を欲しがっていたから、アーサーに小さなモノが付いているのを見たときはガッカリしてたな。産着も女の子向けを沢山用意していたんだ。産婆がノーラに向かって、顔つきが優しいから女の子に違いないと言って期待させていたからな」
「あらら」
「アーサーはとても難産だったんだ。一時はノーラの命もかなり危なかったから、子供よりノーラの命を優先して欲しいと薬師に頼んだことを覚えているよ。思えば酷い父親だな」
「それは仕方がないわよ」
「まぁなんとか無事に生まれはしたが、ノーラはもう子供が望めない身体になってしまった。それに、少しばかり早く出てきてしまったのでアーサーはとても小さかったんだ。なかなか産声を上げてくれないものだから、産婆が逆さにして尻をひっぱたいたそうだよ」
「ふふっ。アーサーはそんな頃から女性にお尻を叩かれていたのね。アデリアも良く麺棒でアーサーのお尻を叩いていたわよ」
「あいつは何をしたんだ」
「お店に来る女性客にヘラヘラするたび、アデリアがカンカンになって怒ってたわ」
「……想像に難くないな」
突然ウィリアムはボロボロと涙を流し、大声で泣き始めた。
「どうして私は間に合わなかったんだろう。アーサーが生きている間に迎えに行けば、今でも二人は笑っていただろうに。くだらない貴族のプライドが邪魔をして、息子を永遠に失ってしまった。二人はただ愛し合っていただけなのに…。あんなに苦しんでアーサーを生んでくれたノーラにも顔向けできない」
「ウィル…」
「許すつもりだったんだ。戻ってきてくれたら、グランチェスター領の代官にしたかった。サラにもあのように荒んだ目をさせたくはなかった。美しかったアデリアは、痩せ衰えて骨と皮ばかりの骸になって横たわっていた。すべて私が悪い」
「それは違うわ。悪いのはアーサーを殺した輩だし、自分の矜持のために誰にも助けを求めなかったアデリアよ」
「すまない…私が悪かった。本当にすまない…」
酷く酔っているせいか、ウィリアムは何度も同じことを繰り返して泣き続け、やがてそのまま倒れ込むように寝落ちた。私はベッドの中でウィリアムの頭を撫でながら呟いた。
「随分と思い詰めているのね。可哀そうに。きっとノーラは怒ってないわ。アーサーやアデリアもね。サラを幸せにしてあげて。それだけで十分よ」
耳元で規則正しい寝息が聞こえてきたことを確認し、私は猫の姿に戻ってウィリアムの腕の中からするりと抜け出した。
「まぁ良い飲み友達だし、時々ならこんな風に心の内をさらけ出す相手になってあげる。毎回だと面倒だけど、あなたならそんなことはないでしょう? 次も美味しいお酒とおつまみをよろしくね」
すやすやと眠っているウィリアムの鼻に自分の鼻をちょんっと付け、私は静かに妖精の道を開いてウィリアムの寝室を後にした。




