彼は気持ちの良い男だった
仕事はやりがいがあった。
車の運転も好きだ。長い距離を走るのも苦にならない。
薬屋を回る配達業をしている。
今回は、配達中に別の場所も頼まれた。
少し遠いが、かまわない。
早く届けてやれば、薬屋も、薬を必要としている人も喜んでくれるしな。
その夜、山崎翔太27歳は山奥の国道というには名ばかりの細い道を車で走っていた。
薬の配達である。とりあえずは在庫を多く持っていたおかげで、急な依頼にも対応できたのは良かった。
電車ではいけない陸の孤島だが、車の長距離の運転も苦ではない。今回は薬局が想定する郵送よりも2日は早く届けることが出来たおかげで、ずいぶん感謝され笹団子を山と持たされた。
薬屋の店主の奥さんが婦人会で皆で笹団子を作ったが、今までたくさん親戚や子供に送り続けたおかげで、最近は届けても喜ばれないのだという。
俺はヨモギも餡子も大好きだ。特に奥さんの手作りは粒あんだという。これは嬉しい。
本当は少し硬くなったから蒸して食べてね。と言われたが、車に戻ってすぐに一つ笹をむいて食べてみた。
確かにむっちりとしているが硬くはない。ヨモギもたくさん入っているのだろう。味が濃く香りも強い。
これを夜食にして夜通し走れば早朝には本社に戻れる。本社の仮眠室で寝ればいいだろう。
片側1車線の山道をCDの音楽だけを友に走り続けた。
車のナビが2時間走り続けていると教えてくれた。集中力を切らさないためにも少し休みたい。
車の停車できる場所を探す。20分くらい走らせると、山側を削り広くなった場所に出た。
街灯もない暗い道なので念のためにハザードを点けてシートを倒し少し目をつむる。
はっと起きた。
目をつむっただけのつもりだったが、少し寝てしまったらしい。何に起こされたんだろう?
なんだか重苦しい夢を見たような気がしないでもない。
と、山側の車の窓から何かが覗いていた。
間をおいて、ビクッと恐怖が襲った。
誰だ?・・・なんだ?
年寄りのようだ。髪も服もボロボロだ。近所の人か?こちらを屈みこんで覗いている。
少し迷ったが、山側の助手席側の窓を開けた。
「少し休憩をしていましたが、何かご迷惑をおかけしましたか?」
髪は長いがお爺さんのようだ。
開いた窓に驚いたようだが、
「いや。長く有ったので、何事かと見た」
少したどたどしいが、意味は分かる。
「ご心配をおかけしました。長く車を走らせていたので、少しだけ休むつもりが眠ってしまったようです」
ずっと座席に腰を据えていたから、身体の後ろ側が痛い。
「ずっと座っていたのなら、外に出て体をほぐすのが良かろう」
小汚い爺さんだけれど、優しいのかな。助言に従おう。
「そうですね。そうします」
車のドアを開けて外に出た。山の風は少し湿り気があるが気持ちが良い。
喉が渇いたな。どこかに自販機でもないだろうか。
「ずっと、その中に居たのなら喉が渇いただろう。ここから少し歩いたところに泉がある。山の湧き水は美味いぞ」
爺さんの誘いに心が揺れる。
でも、ここから見る夜の山は、ただ暗い。
「大丈夫じゃ。ワシが歩きよい道でお前さんを連れて行ってやろう」
さらに心が動く。しかし、この爺さんは山に住んでいるのかな?実は仙人だったりして。
「ワシは街が苦手でのう。山で慎ましく生きてる者じゃ。でも、たまには人と話したくてなぁ」
へーそうなんだ。ならば、笹団子でも持って行こうかな。きっと、この爺さんは喜んでくれるだろう。
「笹団子をたくさんいただいたんです。一緒に食べませんか?」
後ろの座席に置いた笹団子の袋を持ち上げてゆすって見せた。
「おお!嬉しいのう。久しぶりじゃ。さあ、ゆこう。冷たい沢の水で喉を潤し、笹団子を食い、そして少し、この爺の話し相手になってくれんかの」
本当に嬉しそうな爺さんの姿に少し笑った。変な出会いもあるもんだ。
車から出て爺さんの方に行くと、背中を向けて歩き出した。
近づいて見ても鬱蒼とした山であったが、爺さんはそこから細い道を歩いていく。少し前かがみになった老人の背を追うが、さすが山で暮らしているというだけあり健脚である。
一生懸命に付いていく。そういえば、田舎の人の「すぐそこ」は平気で数キロ単位になると聞いたことがある。俺は無事に帰って来れるのだろうか?
「お前さん、山には慣れていないようだねぇ」
前を行く爺さんは、振り向きもせずに聞いてきた。
「はい。大学時代は運動部でしたので、体力には自信はあったのですが、山道というのは、また特別に歩きにくいものですね」
息を荒げないように話すのも大変だ。たった5分ほど歩くだけで息が上がっている。
社会人になって営業と配達だけれど、車での移動が多いからな。自分の体力の低下に少し情けなくなる。
しかし、夜の山というのは気持ちの悪いものだと思っていたが、涼しくて空気も瑞々しいというか、意外に良いものだな。まあ、山に詳しい人が同伴ってのが前提だけれど。
「山は涼しいべ」
「ええ。気持ちが良いですね。一人で夜の山に入る事なんて出来ないので、貴重な体験をさせてもらっています」
爺さんは、少し驚いた顔をして振り向いた。
そして照れたようにぷいっと前になおり
「そらー、良かった」
とだけ言った。
この人は人付き合いは苦手そうだけれど、良い人なんだろうな。だから、人間関係に疲れてしまうのかも知れない。そんなことを勝手に考えていた。
しばらくしばらく歩くと、上を覆っていた木々が抜けて夜空が見えた。水の流れる音も聞こえる。
月は真上に来ていた上弦の半月だ。奥には小さな滝と流れる小川がある。
「さあ、ここじゃ。その石に座れ。今水を汲んでやろう」
爺さんは、近くに生えていたフキの茎を折り、葉を丸めて水をすくって持ってきてくれた。
「ありがとうございます。凄く喉が渇いていました」
受け取り、葉に口をつけて水を飲む。
冷たくて、葉の爽やかな香りを伴った水がのどを潤す。
「さあ、まだ足らんじゃろ。お前さんも汲んでみろ」
「はい」
小さな滝に葉の器を添えた。みるみる透明な水で満たされる。そこに月が映った。とても縁起が良いように感じた。
そうして数回繰り返して喉の渇きを潤すと、そういえばと思い出す。
「そうだ。一緒に笹団子を食べましょう」
「おお。良いなぁ。嬉しいなぁ」
石に座り直し横に置いておいたビニール袋を広げた。笹のいい香りが広がる。
爺さんは隣に来ていた。袋の口を向けると
「では、有難くいただこうかの」
と一つを取り笹を剝きだした。それを見て俺も一つを取り笹を剥く。
夜だから色は見えないけれど、きっと日中食べたのと同じ濃い緑色をしているのだろう。
口に頬張りむっちりと噛み千切る。
良い香りだ。良い甘さだ。ヨモギの爽やかな苦みも良い。小豆の餡は塩が効いている。汗のかいた今が最高に美味い。
爺さんは、もう食べ終わっていた。
袋の口を広げて、また勧める。
爺さんも片手を振り謝意を示し、笹団子を掴む。
「美味いのう。久方ぶりだわい」
「良かったです。たくさんもらい過ぎて有難いけれど困っていたところなんです」
まあ、職場に着けば何人かで食べてなくなると思うけれど、ここまで喜んでくれる人はいないだろう。
この人にあげて正解だよな。こっちまで嬉しくなる。あーあ。爺さん口の横に餡子付けているよ。
爺さんは、こっちを見て
「ん?なんか言ったか?」
と聞いてきた。
「いえ。何も言っていませんが、口の横に餡子が付いていますよ」
「あははは。ありがとうよ。美味くてなぁ」
「もっと食べてください。作ってくださった方も喜ぶでしょう」
うんうん。話し好きのおばちゃん。作った笹団子がどんどん減っていっているぞ。美味そうに食べてくれる爺さんなんだ。
「ああ美味かった」
爺さんが満足した時には袋が空になっていた。良く食ったなぁ。
最初は一口ずつ大事に食べていたが、俺が「どんどん召し上がってください」って言ったら、両手に持って飲むように食べていた。
正月の老人に餅―――っ!と焦ったが、爺さんは健啖家であり、咀嚼をしなくても味わえる特殊な人物らしい。わんこ蕎麦のように一口で消える笹団子は見ものだった。
「はあーっ。良い気分だ。気持ちのいい空気に、良い水に美味い笹団子だ。ああ。誠に良い気分じゃ。ここまで気分が良いと、完璧を望んでしまうのう」
「完璧とは?」
「おまえさんじゃよ」
「え?俺の何です?」
「お前さんの、玉じゃの」
「俺のタマ」
タマ?タマってなんだろう。キンタマか?爺さん、ホモか?恐怖がジワリと湧いてくる。
爺さんはずっと穏やかな笑顔だ。
この小さな爺さんが、俺に何かの危害を加えようとしているのか?
恐怖はあるが現実味がない。
爺さんがぬっと寄ってきた。
うわっと思い後ずさる。
「うわっと思ったな」
そりゃー思うよ。
「そりゃー思うよと思ったな」
普通思うだろ。
「普通思うだろ思ったな」
ぎょろりとした目が俺を下から覗き込んでいる。
ああ、そうか、この爺さんは山の妖怪なのか。確か「さとり」っていたな。
人を食う妖怪だったっけ?
「そうじゃ。人の玉を喰う妖怪じゃ」
ああ。ああ。
そうなのか。俺はここで死ぬのか。もっと楽しいことがあるはずだった。辛いこともあるかもしれないけれど、結婚して子供もって、父親になりたかったなぁ。
母さん。母さん。ごめん、なぁ。
こんなんで、死んじ、まって。
に い さ ん 。
かあ さ ん を お ねが い。
おれ が 消えて い く
あ たま こと ば が 消えて い く
あたま が 黒 く 無くなって い く
おれ が なに を した! 何の つみ を おかした!
なあ、爺 さん
なんで なん だ
な ん で な ん で な ん で な ん で な ん で
な ん ・・・
「ああ。美味かったのう。ああ、良い夜だ。気持ちのいい夜だ」
山奥の泉のほとりに立つ老人が満足そうに夜空を見上げた。
森の木々が開け、星空が見える。
すぐそばには、それら全てをくれた若者がいる。
気持ちのいい男じゃった。
男の額から光る球体を取り出し、それをつるりと飲み込んだ。
ああ、美味い。あの男のように爽やかな味だ。
のど越しも良く、若さゆえの希望も青さがあり、そして絶望も大変美味じゃった。
見下ろすと、魂の抜けた男が座り込んでいた。
目が開いたまま、舌をだらりと垂らしている。
呆けた顔じゃ。
水場を汚さぬうちに人に見つけてもらえると良いのう。
この水場は気に入っている。魂を抜いたから身体が生きているのも、あと数日だろう。
腐って、この場を汚されてはかなわん。
老人は、この場所で魂を抜いたことに少し後悔をしていた。
まあ、人に見つけられなくても山というものは長い時間をかけて全てを覆い清めてくれるだろう。
老人は山奥に戻った。
ああ、うまかったなぁ。
あの若者との時間を思い出して余韻に浸っていた。
美味い笹饅頭だった。美味い男だった。
男とした会話を思い出した。ああ。楽しかった。
あの男の考えていることが、話す言葉と同じで気持ちの良い男だった。それに優しい男だった。そう。今時珍しいくらいに。
ひんやり。
腹がくちいくらいに食ったのに、なんだか腹が冷たい。
なんかのう。
老人は腹をさすった。
腹に風が通ったように冷たく感じたのだ。
変だなぁ。満足仕切りな夜だったのに、なぜ、腹に風が吹くのだろう。
老人は頭をかしげながら、腹をさすりながら誰も居ない一人だけの山の奥へ消えていった。
老人は気付かない。それが寂しさだということを。
行方不明の男は止めた車から1キロほど山に入った泉のほとりで見つかった。
車はハザードが点けっぱなしだったようで、バッテリーが上がっていた。
発見時、男は命はあるが、目が開いたままで呼びかけても応えず意識が無い。
目にはハエの卵が産みつけられていたので、幼虫の成長具合を見ると2日前から、この状態だったようだ。
男は脱水状態ではあるが、若く健康だったにも関わらず翌日意識が戻らぬまま他界した。
少し離れた場所で、昔、同じような事があった。それは妖怪の仕業だと近所の老人が言っていた。
しかし、そんな事は報告書に書けやしない。
死亡事件など扱ったことのない若い警察官がパソコンのキーボードを打つ手を止めて困っていた。