6話 願望
終わりだ──。
俺はおもむろに背をそらし、天井の虫食いの跡のような模様を無気力に見つめた。
さよなら、二十年積み上げた俺のささやかな努力。
つゆと落ち、つゆと消えにし我が毛かな。せっかく頂点に上り詰めた鋼の感情数値がみるみる内に下落していく。
「オジサン……」
玷は瞳を潤わせ悲痛さを物語った表情で、俺からそっと手鏡を取りバッグにしまう。
「半端にしてるよりは……良いと思う」
三十間近の大人が女子高生にフォローされてる。泣けるぜ。
情けなさ過ぎて冷静になれそうだ。
くつがえしたかった俺の現実に、玷は『きっかけ』をくれたんだ。
失った誇りよりも、彼女を助けたという新しい誇りを向いて生きていこう。
「も……もとより覚悟の上だ」
平静を保っていたつもりだが、そういう時に限って格好がつかないものだ。
心配かけないよう言ってみたかったセリフなのに明らかに噛んだ。彼女に動揺を悟られたくないのでそっぽを向くと、ぐずっていた玷が「ふっ」と笑いをこぼしているのが聞こえた。
「あははっ、サムライみたい! この、粋だねぃ!」
「だっ!?」
突然玷が俺の後頭部をペシンと叩く。
視界がぐらつき叩かれた部分がヒリヒリする。加減の知らない強烈な威力でおみまいされた。
えっ、なんで??
彼女は顔をぐしぐしと空色のリストバンドで拭って涙の雨で湿らせると、先ほどまでの曇っていた表情はなくなり目を丸くさせている俺の頭頂部に手を置いた。
「なんとか……しないと、ね」
天然でやっているのか、ただおちょくってるだけなのかは分からんが、今度はよしよしとアタマを撫でてくる。
おいおい。何にもしなくていいんだぞ。
何かバカな考えを巡らせてる顔だって、コミュ力足んない俺でも分かるんだけど。
「他人が他人と勝手にケンカして勝手にこうなったんだ。キミは関係……」
「あるに決まってんじゃんっ!」
「い……っ」
弁護したつもりだったが玷の一声でぴしゃり、と黙らされてしまった。
あっけに取られている俺の様子にハッとした彼女はイスに腰を下ろし感情的になったのが恥ずかしくなったのか、もじもじと落ち着きなく身体を揺らしている。
玷の言う通りだ、反論の余地もない。
どう取りつくろっても一番関係のない立場で首を突っ込んだのは俺だ。
だからって無用な責任を負わせたくもない……玷に近づいたのも、髪の毛や腕を失ったのも元々はアホみたいにお節介な目的のせいだからな。自業自得なんだ、だから……。
…………。
……。
しばし沈黙が俺たちの間を埋め合わせる。
乱暴されそうになり心に傷を負っているであろう少女に、かたやその少女を助けるために一生の傷を負った俺。
見た目だけで判断するなら俺が最も深手を負っているし、えも言われぬ罪悪感を玷に植え付けてしまったのかもしれない、それが俺自身に対しても罪の意識を強くさせた。
さらに言えば、この妙な関係性に合わせて詮索されたくない俺の態度が原因か、玷と「あの」だとか「えっと」だとかツギハギの会話というか、探り探りの嫌なこうちゃく状態が続いた。
会話のレパートリーが尽きるとアブラゼミ、ミンミンゼミ、ツクツクボウシ、いつもの混声三部の合唱と風鈴の音色を合いの手に、パーテーションの向こうから積極的に夏を伝えにきた。
だがこうしていつまでも夏の風物詩を拝聴しているわけにいかない。
俺は一秒でも時間が惜しいってのに、どうにも彼女と話していると調子が狂ってきてしまった……こういう待ち受けてる悪い出来事に対処が鈍くなるのって、心理学で用語かなんかあったな……せい、せいしょうバイパス?
なんにせよ、ただの陸女かと思いきや、なかなかどうして武の心得がある。
俺が片手しかないってのもあるが、まず正面突破は難しい。この軟禁されてる現状から逃げるための隙やら口実をどうにかしないと……。
ぐぅ。
静寂のやぶったのは、風情もへったくれもない俺の腹の虫だった。慣れないことに脳みそを回転させていたから体力が消耗し、緊張を解けと指令が下ったのかもしれない。
「あ、いや……はは」
本能とはいえ女性の前で、みっともない。
俺は言い訳もできずに玷にヘラヘラと笑顔を見せることしか出来なかった。
社会で学んだスキルも自己利益のために突き放そうとした慇懃無礼な態度も、生物の欲求を前にすればあまりにもろくて無意味だ。
そういえば昨夜? から何にも食ってないな。異世界に来た衝撃に呑まれてたってのもあるが、空腹をどうするかなんて考えてる余裕がなかった。
金もないし、口座もおそらく異世界じゃ使えないから引き落としもできない。何よりまずサイフがないのが深刻なんだよ、これじゃ世捨て人と同じじゃないか。同じか。
とするならば、あれ?
もういいんじゃないか? 俺はお役御免だろ。
学校関係者だろうが警察だろうが、敵は排除したんだし玷の色恋沙汰にムキになってまで介入する資格も意味もない。
むしろ身柄を確保してもらわないと、マジでこの先のたれ死にするぞ。
ああ、でも犯罪者として捕まって俺の身辺調査してもらっても、クレジットカードやら現金が戻る保証もない。不法侵入に傷害容疑なら刑務所暮らしもワンチャンありか? だけど住所不定無職が出所してもハードな人生確実だぞ。よりによってここはナンチャッテ中世でも現代風魔法都市でもないみたいだし、モンスター狩って食うにもフェンリル飼って食ってく道もない。
どうする、逃げおおせてビクビク野良犬暮らしをするか、大人しくこの世界の法に身を委ねるか? どちらにせよ玷に関わるのはコレが最後になるか、だいぶ先になりそうだよな。
もっと頭よけりゃスマートな立ち回りが出来るのに、なんで異世界に来てもっと追い詰められないといけないんだよ。
ああくそ、ますます腹が減ってきた……。
理性的に展望を描こうにも、裏付けのない未来に自暴自棄になりたくても、俺の本能がメシを食えと命令してくる。
抑えが効かない食欲にたまらず腹をさすっていると、玷が「あっ」とつぶやき、またもやバッグを漁ると水筒と、水玉模様の布で包まれた『何か』を取り出してベッドの上でソレを広げた。
姿を見せたのは小さなヨットの絵文字がスタンプされている楕円形の箱だ。
「え、ソレ……」
もしかして……と俺は胸がおどる。
だって、こんなん期待してしまうだろ。お腹ぺこちゃんなんだしさ。
でもまさかそんな、『アレ』のワケがない、きっと……中には最小のボトルシップコレクションが入っていて俺にジマンしたいだけかも。
「余分に作っててさ……良かったら、食べる?」
彼女がフタを取ると、中身の正体は白飯五割、唐揚げ三個、卵焼き二個にブロッコリーとプチトマトが小ぎれいにまとまっていた。
その『箱』は期待を裏切らず、正真正銘の手作り弁当だった。素朴ながら温かみのある、幸せでお腹が満たされるの確定な王道のお弁当だ。
うわお、マジ!? やったぞ、いただきます! ありがとう!
飛び跳ねてでも喜びを表したかった、素直にはしを取って胃袋に厚意を流し込みたかった。
余分にあるってのは……と俺は際の際で察し、食欲と感情を無理やりとどめた。
「っ気持ちは嬉しいけどさ、それ幼馴染のカレに作ったんだろう? もらえないよ」
と首を振って俺は彼女の厚意をやんわりと断る。
名前は忘れたが、確かネトリが言っていた意中の相手ってのは幼馴染の子だったはず。ならこの一生けん命に手間をかけて注がれた愛を、俺がいただくわけにはいかない。
愛から望まれ生まれ出たモノは、真っ当でいて向かうべき道に降り立つのがスジなんだ。朝練前から作ったのならさらに朝早く起きて、彼の好みに寄り添って想いを伝えるために用意されたんだ、野暮なマネをするものじゃない。
「き、純は関係ないってば! もう、ぜったいミカミンに聞いたでしょ、ホントよっけーな……」
日に焼けた頬をほんのり紅潮させ、大きく見開いた目で手をぶんぶん振った後になにやらぼそぼそとミカンだかについてグチっている。
しかしこれほどまでに喜怒哀楽に真っすぐな彼女を見ていると、玷は全力で生きているんだな、とつくづく初対面での印象がさらに強固なものとなった。
生きながら心が腐り、目がにごって映る景色の色も失い、表面だけ形成された人格の冷め切った俺にとっては彼女は太陽の『光』だ。彩りを与えてくれる明かりのまぶしさもそうだが、瞳を閉じていても温かさが伝わってくる情の厚さが人を惹きつける。
きっと幼馴染も玷に釣り合う、いい子に違いない。
「俺、近くで何か買ってくから、その幼馴染と食べな……」
ぐぐぅぅ。
俺のスキル『ごまかし』に反応し、あからさまに空腹をうったえてくる音量がアップした。
欲を殺した渾身のポーカーフェイスがこれじゃ台無しだ。
くっそ。俺はクズだが、下衆じゃない。心は貧しいが、人様のメシに集ってまで生きていくつもりはないぞ。ましてや異世界でならなおさら、自分の生き方も死に方も自分で選ぶ、そう決心したんだ。
「もう、無理しなくていーよ!」
玷は呆れながらも弾みを含ませた明るい声で、アタマのてっぺんを打ち下ろすようにバチン、と叩いた。
「でっ!?」
真上からきた衝撃がそのまま九十センチ下の尻を通過する。
「あの、頭皮を叩かれると衝撃も直にきまして……」
「ん! いーから!」
玷が弁当を持つとはしで唐揚げをつかみ、俺の口元に持ってくる。
え……?
「んー!」
こ、これはまさか……!
これは『マズい』ぞ……! ぜったいに『マズい』……シチュエーションはおいしいが!
なんだよ、まさか見ず知らずの隻腕ハゲに伝説の技をかけるってのか。さすがに距離つめすぎだろ真挿・玷、節操ないのか真挿・玷、それでいいのか真挿・玷ゥゥゥ!
「いや、ホントに俺は……」
「とうっ!」
拒んだ俺の口が開く一瞬のスキに乗じて唐揚げをぶち込んできた。
空きっ腹にたっぷり肉汁のボリューム感あるザ・鶏肉は身に染みる。
んほ〜たまんねえ。
噛めば噛むほど次に進みたくなる、白飯の期待を裏切らない圧倒的な強者の味。
俺の胃袋が『先』を求めてしまっている。そりゃもう喉から手が出るほどに。
「さあダンナ、ご飯も、どぞ」
おいおい、一口目は事故で済むが、二口目に移行するのなら明確な裏切り行為だぞ。おかずどころか白飯にさえ行くんだもんな。王様だけじゃなく息子にまで手を掛ける非道な行為だ。
しかし――。
「んぐ」
ためらいなく、肯定。
俺はちぎれてしまいそうな背徳感を胸に幼馴染の愛情弁当を食い散らかしている。その幼馴染とは面識すらないのに、本能のままむさぼり、口を開け二口目を切に望んだ。
一度欲求を受け入れた俺の心は底の底まで堕ちてしまった。もはや抵抗する気もなく彼女の言葉を聞き入れ次から次へとはしで運ばれたモノをせっせと口にする。
途中水分を補給しながらも徹底的に、米粒残さずにものの数分で食を終えた。
「ど、どうっスか?」
俺が「ごちそうさま」と一気にベッドに背を預けてから脱力していると、玷が目を輝かせ味の感想を求めいまかいまかと待ち侘びている。
どうかって? どうもこうもあるか、最高だよ。
胃袋よりも満たされる多幸感でお腹はふくれ、何一つ悔いはない。
現代の行き遅れた弱者が資本主義国のクズみたいなサービスでしか受けられない純然たる癒しの時間を、取り戻したくてやまない青春の時間を! 俺は享受したのだ。
また翌日に作ってあげれば幼馴染のハートも胃袋もすぐに掴みとれるだろう。
「ありがとう……」
それしか言う言葉がみつからない……一生の思い出だ。
足りなかった人生のピースがそろった、そんな清々しい気分だよ。とは言えないので。
「めちゃくちゃ美味かったぁ」
どこか寂しい眼差しで俺を見ていたが、心からの笑顔でお礼を伝えると彼女は吹っ切れたように弁当箱と水筒をしまっている。
「たはー、大げさ……あー、でも朝っぱらから倒れてたくらいだもんね。作った甲斐があったね」
「幼馴染の……」
「いいの! いつでも作れるし、きっと今日はオジサンに食べてもらう運命だったんだね。初日なんだし!」
くどかったようだな。
一言だけでも謝っておきたかったけど釘を刺されてしまった。
つーか初日ってなんだ。異世界に移送されて一日目ってことか? まさかな。
「それに、オジサンも聞いたでしょ。どのみち純には、渡せないよ……アタシには遠すぎる人だし」
「んなことないさ……」
彼女の瞳が切なげに揺れていた気がした。
表面では笑っているようだが、どこか乾いている。純とかいう幼馴染に毎日弁当を用意しては他の子にジャマでもされているのだろうか。
結局はどの世界でも競争率激しいモテ男が存在し、苦悩する娘たちもいるわけだな、
うらやましい限りだ。
ん?
おかしかぁないか。
彼女の言葉の節から俺がクラスの事情をさも知っているかのような口ぶりだ。
そもそも玷の認識からじゃ俺はスーツを着たサラリーマンだ。御目下も指摘してたことだが、そんなヤツがコスプレまでして学校に来たストーカーだぞ。
仮に助けてくれたからって、ここまで学生服着たオッサンに警戒心を抱かないなんてことあんのか?
フツー、御目下以上の有力者がそばにいたら気味が悪くて距離置くだろ……どうも受け入れられすぎてやいないか。
まるでクラスメイトにでも向けたような友好的な接し方だ。なのに一貫して『オジサン』呼びだし……わけわからん。
それともこれが十代における『フツー』なんだろうか。俺のコミュ力が壊滅的なまでに低すぎて一般的な高校生との距離感に戸惑っているだけ……いや絶対おかしいって!
「あっ! 渡すと言えば、忘れてた!」
俺がふつふつと疑念を浮かばせていると、彼女は思い出したようにポケットから俺のひざ元にスマホをぽんっと投げ入れた。
「その、スマホからキミのコト調べたの、勝手にいじってゴメンね」
「や、ぜんぜん。っていうか……」
えっ、こ、これ、は……忘れていた。玷が持ってたのか……。
自覚のない邪悪、俺の力の根源でもありリスクでもある破滅を呼ぶ『2D娘』。
【おー元気そうだなYー、イメチェンかー?】
ぱっとスマホの画面が明るくなると、あおり腐った無気力声がして画面全体にチャイナドレスのドットが打ち込まれた団子アタマの娘が姿を現した。
そう、電脳悪魔ネトリだ。
「てめぇ!」
俺はさっとスマホを手に取り眼前に持ってくる。
白ワンピの純朴気取った恰好から、ずいぶんとご立派な服装になってやがる。
【ワタシさまもイメチェンだー、いい具合にエネルギーも充填されたからアップデートだぞー】
「知るかよ! 俺をダマしやがったな!」
【ダマすー? ウソは言ってないぞー。願いが叶っただろー、お前の『対価』でさー】
このクソアプリが。屁理屈ばかり抜かしやがる。
人に対価を支払うように強要しておいて、肝心なパワーアップの条件だのなんだの細かい説明は全部後回しだ。
「お、オジサン……?」
たかがスマホに目を血走らせている俺に玷が目が点になっている。
マズい、どっから説明すればいい。下手すりゃマジで危ない人だ。
俺の『スキル』を使うか。社会人スキル『ごまかし』をな。
「あ~……とまぁ新作のスマホには複雑な会話にも順応するAIが搭載されてまして……」
【心配するなよYー、玷にはお前が寝てる間『すでに』話してあるんだぞー。十年落第していたお前は親に見捨てられ、最後のチャンスで狭間市の高校に転校してきたんだってなー】
ネトリが扇子を両手に持ち出しピコピコ音を立てて腕を上下させ、紙吹雪を舞散らす。
「なん……っ」
十年!?
それはもはや高卒ではなく大卒を目指す年齢じゃないのか。
ただでさえ身分証もないのに、アポ無し受験無しで大の大人一名様を迎え入れる高校があるものかよ!
タコが、いくら学校に潜入するからってふざけたキャラ設定にしやがって。
どうりで玷から哀れみを感じたわけだ……つーか信じるなよ!
じゃあ、やけに呑み込みがいいのも、俺に対して気味悪がることもなくイヤに距離が近いのも全部ネトリの筋書か……コイツ、『何を』『どこまで』玷に吹き込みやがった。
「聞いてくれ、かけ……真挿さん。コレは俺のスマホじゃなくて、ジョークスマホっていう……」
「大丈夫だよ、オジサン。ネトリちゃんのデータからキミのこと『全部』知ってるから。恥ずかしいことじゃないよ、半年ちょっとだけどお互い勉強がんばろー!」
終わりだ──。
何も知らずに玷が「おー!」と掛け声を上げるのでノリを合わせると、感慨深く目を閉じているように見せかけ再び押しよせる絶望に心を曇らせていった。