5話 夢
霧の立ち込める病室。
窓外を遠目に眺めても雨雲を塗りたくったように一面がコンクリート色だ。
いつ訪れた頃だったか、忘れてしまった。
昔のことのようだけど、最近起きた出来事のような気もする……あいまいな時の中で過ごした現実の記憶だった。
気が付けば俺は何の変哲もないイスにかけていて、病院のベッドに横たわるやせこけた男と話していた。その男は静かで穏やかなしゃべり方で、どこか会話の節々に弱弱しさを感じさせる。
なんのハナシをしていたっけか。
そんな疑問を抱いても引っ張ることはせず、すぐに切り替えて冗談をまじえ男と中身のない会話で談笑していた。
一つもおかしくもないのに、ただ互いに沈黙した時、俺にイヤな考えがよぎらないようごまかしていた。
イスが冷たい。パイプのイスでも学校の堅いイスでもないのに、一向に温もりを感じない。俺の体温がケツを通じてイスに吸い取られてしまっているようだ。
「──覚えてるかなぁ。昔、父さんがしゃっくりが止まらなかったことがあっただろ?」
心ここにあらずの俺にその人は妙なハナシを振ってきた。
しゃっくり? そんなちょっとした拍子で起こる現象に、いちいち一回一回記憶しているわけがない。
俺が反応に困っていると、その人は力なくほほ笑んでしゃべり続ける。
「ほら、百回しゃっくりしたら死んじゃうってウワサ、アレ友達から聞いたのか? 本気にして泣きじゃくってたよな……」
「そうだっけ、忘れたよ」
子供の頃のたわいないハナシだ。
ヒーローだなんだってハマってた、向こう見ずだったあの頃の。
こんな話題、俺にとっては苦しいだけだ……話している男が楽になって喜んでくれるなら、ムダな時間じゃないからいいけど。
こんな棺桶みたいで鬱屈してしまいそうな病室に、陽気な話題っていうゴキゲンな『BGM』を提供してくれるのはありがたい。
あれ、そもそもどうして苦しいんだろう。どうしてこんなに目の奥がワナワナしてるんだ。
何でもない普通の会話を何でもない人と話しているだけなのに、ひたすらにツラくていたたまれないという感情で胸がいっぱいになっている。
「何度も父さんが死んじゃうよってさ、なんだかおかしくて……ホント人の言うことを信じやすいよな。からかうと『早く大人になってダマされないようになりたい』って……」
そう男は遠くを見るような眼差しで物思いにふけっている。俺はソレに対して茶化そうともせずに乾いた笑いで応える。
「どうだったかな」
「泣いてたよ、すぐ泣くのは今も昔も変わってない……」
何を言っているんだ。俺がアンタに泣いてすがりついているとでも。
涙なんて中学生くらいから見せてない。現に今だって頬には何も伝ってこない。
「もう大人だし、悲しいけど泣きはしないって」
子供のころからどれだけ苦労したと思ってんだ。
アンタらのせいでどれだけ歪んでしまったと。
俺の内には怒りがあれど悲哀なんてこれっぽちもない。そうだこれっぽっちもないんだ。
なんなら今だって俺はアンタを──。
「……迷惑ばかりかけて、ごめんな」
その人は謝る言葉に慣れていない様子で、気まずそうに目を伏せた。
「お、れは……」
……。
遮るための言葉がでない。喉の奥でつまった。
「■■、あのな……」
やめてくれ。俺が何か別の話題を考えるから、少し待ってくれ。
こんな気が滅入るハナシにするから俺も、そこの男も現実が目につくんだ。
何でもいいからあいまいなやりとりに戻さなきゃ。もうその人にしゃべらせてはいけない。
俺に真実を打ち明けないでくれ。
俺を孤独にしないでくれ。
アンタしかいないんだよ、この世界に俺という人間を理解し愛してくれる人なんて……俺みたいな卑屈で歪んだヤツが真っすぐに信頼できる人なんて……。
男も女もなく偽りだます必要もない、本当の俺が俺でいられるゆいいつの居場所が……消え失せてしまう。
「父さん、もう長くないんだ」
男は……悟ったような口調で一言、この先に待ち受けている現実を俺に告げた。
五話【夢】
「──オジサン、オジサン!」
意識を取り戻すと、一人の若い女性が目の前で俺の肩をゆすっていた。
こんがり太陽の光で自然に焼けた顔の肌、整っている中世的な顔立ちに、わずかに女性らしさを感じさせる唇の艶の色っぽさと、さっぱりとした短髪の毛先が揺れるたびに香るシャンプーのにおい……。
俺は、この人を覚えている。
ついこの間もこうして起こしてもらったっけ。
たしか名前は──。
「まが……かけ……る」
なんの気なしに右手を彼女に向けて上げると、怯えるかと思いきや両手で力強く握り返し「そうだよ」と俺の呼びかけに応えた。
そう、真挿・玷。
俺が異世界に呼ばれた原因となる女性であり、つながりでもある。
なぜ彼女が?
なぜ俺がベッドで横たわっているんだ。倒れていたのは……。
「あっ、動かないでっ!」
玷がベッドに身を乗り出そうとするが、構わず俺は寝ぼけたまま無意識に起き上がる動作をする……はずだったのだが、バランスが取れずひねるように左にステン、と寝転がってしまう。
手を握って支えてくれたので派手に顔面を強打、なんてことにはならなかったが、そのアンバランスな身体によって生まれた違和感が俺に求められた『対価』の内容を思い出させた。
あ……。
俺の、左う……で。
左腕が完全に消失していたのが目に入ってしまった。
肩を残して切断面が肉で溶接をしたような肌色の絶壁になっている。能力の代償とはいえ、あまりにあっけない俺の腕の最期。
本当に消えてしまった。
『対価』として、俺の肉体から永遠に離されてしまったんだ。
肉体は強化されたままなのだろうか……いや、それなら俺をここまで担ぎ込めるわけがない。筋肉バカの御目下ですら退ける究極の肉体だ、玷どころか救急隊員だってどうしようもないはずだ。
何より『感覚』がある。
元の、自分だけの世界で自分に吐き気をもよおし、悲しみに浸って自分を諦めているだけの……無能に戻ったのだと。
使い切りの最強チートと引き換えに取返しがつかないリスクを背負った現実に、おかげでボケたアタマが稼働し始めた。
そうか、さっきまで俺は夢を見てたんだ。
不条理が襲いかかってくるイビツな世界、脳が見せた苦しみに満ちた『まやかし』の世界を。
まぁ、でも悪い夢でも夢は夢、いずれ覚めるものだ。
この現実へと覚めてしまえば不思議と悪い気分じゃなくなってきた。悪をこらしめてやったという確かな経験は、俺に勇気と自信をくれる。
左腕が無くなっちまったというのは正直かなりの痛手だけど、完全回復というスキルの余韻によるものなのか、早朝でいの一番にケヤキ風呂に入ってからコテージでくつろいでいるような、穏やかであり何一つ心にシミのない爽快な風が俺の肉体と精神に幸せが満ちてきている。
こんなにも晴れやかで充実した気持ちを得たのはいつ以来だったか。
とにかく気分が良くなってきたからには次は行動だ。
行動行動、これからの俺は行いで自分を創り出してやる。いままでのささいな悩みなんてものはもう捨ててしまうんだ。
「──ここは……病院か?」
四方を仕切るカーテンがさっきから視界に映っている。
病室ならもっと騒がしいとまでは言わなくとも同室の患者さんとか看護師さんの声がしなさすぎる。
「ううん、保健室。救急車は友達が呼んでるから、安心して……」
俺を心配してくれているのか、どこか彼女の顔には不安の影が差している。
「……そうか、ありがと」
まだ病院じゃないのは助かった。親切してくれたのに申し訳ないが、サイフのない『異国人』としては少しでも負債を抱えたくないからな。
警察も来るのだろうか。御目下はコネがあるから来ないような言い回しだったが……ヤツが『遠く』に行ってしまった以上、街のパワーバランスも崩れただろうし相手が一般人なら事情聴取もするだろう。
せいぜい『不法侵入』ってな感じで済めばいいが……とある学生の制服が消えて、身寄りのない人間が制服を着ているという事実がマズい。盗みの方が罪が重そうだし。
もっとも、制服の件に関しては大半が『トリガー』とネトリというポンコツAIのせいだけどな! ろくな操作もできないスマホいじってただけの俺が犯罪者にされてしまうとは、コレが新たなサイバー犯罪の形か。
とはいえ、法律には逆らえない。下手すれば俺が盗みの指令を出しただのなんだので教唆犯にされちゃうかも。
法にのっとって俺を裁くとすれば窃盗罪に暴行……いや傷害になるのか? 不法侵入、身分証もないし下手すりゃ不法入国って線もあるよな。
疑いようもないスーパーギルティ。背筋が凍り付いてきた。
『トリガー』という異能が異世界に浸透していない今の内に学校から離れないと。
玷の想いを叶えようぜ~、とかいう昔の携帯小説みたいな甘々ミッションは俺がキチンと安全を確保してから、のんびり幼馴染の身元を調べて玷と引き合わせまくってやればいい。
「軽い頭痛だったからもう平気だよ、何度も悪かったね」
俺は精一杯の爽やかフェイスで「さよなら!」と告げ手首のスナップを利かせて彼女の手を優しく退けようとする。
だがその素振りを見せた途端、ひたむきな陸上女子から目の色が変わって目にも止まらない速さで俺の手首をひねり、もう片方の手で俺の胸を突き押した。
「おっぐ?!」
ガシャン、と激しくベッドのスプリングに跳ね上がりながら俺は強制的にベッドに寝かしつけられる。
「ダメだよ! 安静にしなくちゃ!」
玷は俺が動かぬよう右肩を押さえつけ、しかりつけてきた。
「確かにめまいはしてきたし腰も痛い……でもホントに問題ないから」
いつまでも学校にいるわけにはいかないんだ。
保健室の先生に顔を見られているだろうし、この騒動で何人が俺の存在を知ったんだろうか。美少女に看護してもらったのはラッキーだが、急いで立ち去らないと厄介なことになる。
「ぜぇったいダメ!」
うおぉ、手首をさらにひねってきた。
片手の人間に容赦なくないですか。これほどの体術があるなら一人で戦えたろうに……。
「ちょ……あ゛っ! 今が一番痛い!」
わりとホンキで手を放すように訴えるが、彼女は哀れみを含んだ眼差しで俺をにらみつける。
「どうして無茶なマネをしたの……」
「お゛っ! ホンとにナ゛」
なんで急に無茶苦茶してくんだよっ!
ぜっんぜん力弱めないんだけど、この子!
俺が何度か奇声をのような「降参!」という叫びで、ようやく玷は俺を放してくれた。
「大丈夫なわけないじゃん……『転校初日』なのにアタシのせいで巻き込んじゃって……」
彼女は声が震えだし、すっと顔をうつむかせてしまった。
「う……そうだな……手が折れるかと思った」
転校? 何を言ってるんだか分からんが手首が死ぬ。
俺がぜぇぜぇと息を切らしていると、玷もそれに合わせて声を殺しながら肩を上下に動かし泣き始めてしまった。
「いや、冗談だってゴメン……ホントに何でもないんだ」
「そんなワケないじゃん!」
「……」
なんか、イヤだな。この『暗い』雰囲気は。
余計な考えまで浮かんでくるし、物事だってろくな方向にいきやしない。
悲しくさせてる原因の俺がいけないんだけど……この子が泣いているのを見て、『参った』という感情が前に出てくるのは、情が薄くなってきてるのかな。
「──だって……!! オジサン……腕が!!」
彼女はガマンできずにベッドのシーツにしがみついて、ワンワンとしゃくり上げている。
そりゃそうか、そうだよな。普段の学生生活で腕がぶっとんでるヤツを見たことなんてないだろうし……彼女も彼女自身のせいで俺が左腕を失くしたんだと勘違いしてしまっている。
流れ的には玷を助けたことによって名誉の戦傷を負ったっていうのは正しいんだろうが、能力の代償ってことで別に左腕に関しては痛みなんてないし、それ以上に守りたいものがあったからこれくらい耐えられる。
「安いもんだ、腕の一本くらい……」
泣いている彼女のアタマに手を当ててなぐさめようとすると、俺の言葉に反応してか玷は涙に濡れた顔を上げて、足元に置いてあったバッグを開けて漁りだし小さな丸い手鏡を手に取った
「髪だって!!!」
そう彼女は俺に真実の鏡を向かい合わせた。
「え?」
保健室の照明が俺の頭皮で反射している。非常にまぶしい。
これは、どう、どういうことだ。何者なんだ、このハゲは。
つるつるてんになった俺が、俺を見ている……俺か?
俺はさっと抵抗のないスキンヘッドのアタマを一撫でした後、恐れから確信に変わり小刻みに震わせた右手で彼女から手鏡を借りる。
「なんじゃあこりゃあ!?」
うそだろ。
大切なもの……完全回復の『対価』は、薄髪(誇り)だった!
何もかも失わないよう小学生の頃からドライヤーでセットし、毎日クシを使って頭皮マッサージして念押しに銀座のヘッドスパに八千円払ったりして抵抗したのに。
き、えた。毛根から毛先まで、なけなしの俺が──。
一本どこじゃない、全抜けしてんじゃねぇか!