3話 犠牲の犠牲
ネトリの知らせによって玷の危機を察し、俺は狭間高校の正門に到着した。
山沿いを伝ってきたから当然だが、狭間高校も山に沿って階段状に建っていた。自然に囲まれた環境を大事にしているんだろう、生命を囲う緑々しい(あおあおしい)山々を背に海沿いを見渡せるっていうのも悪くない。
空から落ちる白光が底の見えない海に彩りを与え、とても優しい画に仕上がっていた。
俺が待ち望んでいたあの頃の取り戻せない夏を垣間見た気がする。
こんな事態じゃなければゆっくり観光していきたいんだよなぁ。
【ウォウニング……ウォウニング】
早口でまくしたてるようにネトリが英語であおってくる。
『ガーガー』と警告音がひどくなってるんだけど、爆発すんのかなコレ。
このスマホ本当にカンベンしてくれ。こういう警告音こそさっきみたいな骨伝導というか、脳内通信で知らせてくれよ。っても水害とかの緊急アラートみたいなもんなんだろうけど……。
これじゃあ「薄毛の男子学生が騒音出して登校してます。皆さん! 注目~」
ってノコノコ捕まりに来たようなもんじゃんか。
「ねぇあの人……」「髪やば……」
何人か朝練で登校しにきている学生が俺を横目にひそひそと話している。
そりゃそうだよ、うるせーもん。
誰か俺の頭皮に触れてる気がするが、自意識過剰だな。
くそ、とにかくスマホのせいで急き立てられる感じがして……いや急ぐんだけどさ。
彼女を探すのに集中できないんだよ、レーダーの示す方向にしか居場所のヒントがないからテンパってしまう。
方角も位置もあってるのに拡大できないから、ナビ上の学校に玷のアイコンがかぶさったままでお手上げ状態だ。
ネトリに詳しく聞きたいが──。
【玷が間男とガーガー、二人きりになりました……ウォウニング……ウォウニング】
俺を一人きりにしてくれ。
このうるさい空間から逃げ出したい。
「──キミ、スマホが鳴ってるようだけど」
「っあはは、ごめんやっぱりうるさ……い」
背後からとげとげしい口調で指摘されてしまい、俺は申し訳なさそうに振りかえった。
すると、いつの間にかスイカ模様みたいな縦線の髪と剃りこみした少年がおり、俺の持っている爆音スマホを覗き見ていた。
すげぇのに目をつけられてしまったようだ。八百屋さん志望?
険しい表情してるとこ見ると、よほど気に食わない出来事があったに違いない。
はい。
俺のせいだね。
早く黙らせろ、と言いたいんだろうけど俺にはどうしようもない。操作方法どころか、いじれないんだもの。
こうなったら仕方ない。社会人十年目を迎えた俺の十八番をくらわせてやる。
「いやー、俺のじゃなくてね……誰かの落とし物みたいなんだ。参ったよなぁ」
これがウソにウソを重ねてきた俺の奥義『ごまかし』だ。
重ねれば重ねるほど人からの信用を失うからリスクが伴うぞ。厳密にいえば俺のスマホではないからウソではないが、こうすることでヘイトをスマホだけに向けさせるのだ。
「ちょっと貸してくれないか?」
スイカヘアーの少年が手を差し出してきたので、俺は轟音を奏でるスマホを渡す。
ははぁ! これで注目されるのはこの少年になったな。
「……なるほど」
彼はスマホの画面と向き合い、何かに納得しながら真剣な眼差しでスマホをタッチしている。
ウソだろ。
音量ボタンすら機能しないスマホをいじくって何をうなずいているんだ。一体何が分かったんだい。ポンコツAI付きのジョークスマホに何を見出しているんだい。
俺だって毎日スマホいじくってるつもりだけど、十年も歳の差があるとやっぱり時代についていけてないのか、悲しい。
そういや、スマホいじってるこの子も『トリガー』を使えるようになるのだろうか。アプリさえ起動すればいいのなら、異世界から来た俺だけの専売特許ってわけじゃなさそうだけど……一見して恥の産物と冷めた評価しかもらえなさそうだ。
「うん。大丈夫だ、問題ない」
スイカヘアーの少年が横のボタンを同時に押すと、スマホが静かになり、彼に押し付けられるようにスマホを手渡される。
その手は包帯が巻かれていて、彼がケガをしていたことに俺は気が付いた。
独特なヘアースタイルの方に意識持ってかれてたけど、結構ひどいケガしてるな。どこかで手を挟んだのか……その割には流れるような手さばきだったけど。
「助かったよ。すごいね、ケガしてるのに……手慣れててさ」
俺がほめると少し気恥ずかしそうに「いや……」と彼は手を引っ込める。
「適当にいじれば、たいていどうにかなるものだよ」
えっ、適当なの。そんな雰囲気ではなかったよ? あなたはスマホの開発者さんか何かですかね。
玷のレーダー機能は損なわれていない、何よりもネトリがマナーモードみたく黙っている。どんな時でも画面の隅に白ワンピ少女のアイコンが表示されてわめいてるイメージでしたけど、こんな良いとこどりの最強スマホへ劇的にビフォーアフターしてくれて非常にありがたい。
「カケルンのこと、気にかけているみたいだ」
「かける、ん?」
は、はぁ。カケルン?
玷? 友達なのかな?
そんな表情をしていたのだろう、俺がきょとん、としていると彼は察したように説明を続ける。
「ああ、真挿・玷のことだ。彼女を知ってる人はみんなそう呼んでいる。そのスマホの持ち主、カケルンのスマホにGPSアプリでも入れて居場所を常に把握しているようだ」
「そ、そっか~彼女のファンがつくったスマホ……」
適当にごまかしを重ねて上辺だけの返事を返す。
するとさ、このスマホの持ち主はかなりのストーカーってコトだよな。
あぶねー、他人のスマホだって言っといて良かった。
一体どんなヤツだよ、こんなヤベースマホ持ってた主は。
「この先のグラウンドに運動部が使っている備品倉庫がある……そこにカケルンが御目下といるだろう」
そういうとスイカヘアーの少年は校門の奥に向かって首をくいっと振った。
「はぁ」
グラウンドかぁ……もうすでに朝練で熱心な学生は集まっているはずだ。注目されればされるだけ俺の存在に違和感を覚える連中も増えるだろう。
っていうか何であんな七個ぐらいのボール探しで使うようなレーダーで場所まで分かっちゃうの? アレと比べもんならないくらいひどい性能なのに。
「『キミ』が状況を確認しに行くんだろ?」
知った風な口調で俺をジッと見定めるかのように視線をぶつけてくる。
なんか出方をうかがう上司みたいで苦手なタイプかもしれない。
「ど、どうかな俺は別に……」
「行くべきだろう。ひょっとしたらスマホの落とし主も見つかるかもしれない」
な、なんだよ、さっきから。
変につっかかる物言いだな。何もかも分かったような口ぶりだ。
もしかして、このスイカを模した髪の少年はゲームでいうお助けNPCってやつか?
何にでもゲームに当てはめるのは良くないが、ずいぶんと都合がいい登場だったし。
ってこんな時に深読みしてるヒマなんてないぞ。
彼は貴重な時間を割いてくれたんだ、感謝しないとな。
「そうしてみるかな。俺はY、キミは?」
「……御神・有、さぁ行くんだ」
十代には見えない、落ち着きがある子だな。こういうのがモテたりするんだろうな。
俺は御神にアイサツを済ませ用済みになってしまったスマホをポケットにしまい、正門を通過してグラウンドに向かう。
あっけなく学校の門をまたいで侵入してしまったな。
そりゃそうか、国会議事堂に入るわけじゃないんだ、何かとするどい先生に捕まらなければ自由に動ける。
少なくとも御目下をどうにかするまでには持つだろう。知らんけど。
そうこうして散策しているうちに、下へ降りる階段が目に入ったので近づいてみる。
すると眼下には陸上競技場さながらの広大なグラウンドがあり、四百メートルトラックから少し外れたところの、隅っこの壁際に備品倉庫があった。
当たりだ。でもこの階段……グラウンド行くのにコレしかないのか、欠陥構造だろ。よく探せば別の入り口もあるんだろうか?
仮にあったとしてもいちいち探しに行ってる時間もない。
とはいえなぁ……エスカレーターが欲しい長さだ。
ヒザを的確に破壊するための階段の角度に嫌気がさす。
肉体的なダメージの心配だけじゃない。まさに俺がこの真夏の異世界に来ることになった原因をたどれば、否が応でも階段からの転落を意識せざるをえない。
慎重に、かつ前進あるのみ、だ。
俺は注意力を尖らせ角度のキツい階段を下っていく、今度は転げ落ちないように──。
三話【犠牲の犠牲】
アリバイ作り、なんて大それたことをするわけじゃないが、学生服を着ているとはいえ見慣れないヤツが真っすぐ備品倉庫に向かうのもマズい。
そうも言ってられない事態ではあるが、何人か陸上部チックな準備運動やらジャージを着てる連中がいるし、誰かしらに一言話してからでも損はないはずだ。
「ちょっとキミ、御目下先生は……どこかなっ?!」
「えっ……御目下……?」
グラウンドで屈伸をしていた『走快』と描かれたシャツの女子に声をかける。
理由は、一番階段から降りて近くにいたから。それでも五十メートルは走ったからな。死にかけだ。
トラックで走ってる学生には話しかける勇気も体力もないし。それにさ、走快だぜ? もう字面が間違いなく陸上部関連の子だろ。気恥ずかしさだとか会話が苦手だとかで敬遠している場合じゃないよな。
肩を上下に動かしてへばって返事を待っていると、走快女子は考え込むようなしぐさをして、ぼそぼそとつぶやきだした。
「……ほうがいいよ」
「え、なに?! 備品倉庫に行った方がいい?!」
すっとぼけた顔を上げて再度走快女子にたずねる。
上っ面だけの、何の意味もない会話。
俺としては声をかけ、返事が来た。それで会話終了。
誰が何の目的なのかを教えておくだけでも相手は勝手に想像してくれる。最悪、急いでいるという意思が伝わればそれでいい。
これも俺の会話スキル『ごまかし』だ。噛み合わない会話はもちろん嫌われるぞ、女性には特に。
「一時間くらいは近寄らない方がいいよ、って言ったの。誰も『直接指導』の時には備品倉庫には近づかないから……って御目下がいるの知ってた?」
でたよ、体育教師だとか顧問特有の『指導』。リンパマッサージかな?
「ども、つまり……備品倉庫にいるんだね!」
「ふぇ?! 質問ガン無視?!」
「さよなら!」
俺の若干食い気味に返事をぶつけてから戸惑っている彼女に礼を一言告げ、九十度に方向転換しダッシュする。
ぺちゃくちゃ話してる時間が惜しいし、さっさと目的の場所へ行くべきだ。部活の見学にきたわけじゃない。
「──よし……っ、ついた……っ」
ぜぇぜぇと何度も走って、自分でいうのもなんだが俺も忙しいヤツだ。
ついに決戦の刻が来た。運動部の備品倉庫だ。
だんまりしてるネトリを起こすか、いや『トリガー』はあくまで保険だ。どんなことまでがスキルとして実現可能なのか操作がまともに出来なかったから確認できてないが、サイフが消失した現象から判断するにうかつに手を出しちゃいけないアプリだ。
それにネトリからの情報で御目下を悪漢だと断定してスキルでぶっ飛ばすってのは、ちょっと気が引ける。走快シャツの子の反応見る限り九割はパワハラ野郎かセクハラ野郎だってのは感じ取れたが、それを赤の他人である俺が判断して取り押さえるには現場を見てから動くしかない。
あくまで一般人として出来る最大限の努力をして彼女を助けるスタンスを大事にしなくては。
さぁて、刑務所にぶち込まれる覚悟の準備をしておくんだな、御目下。
って、このスマホ電話機能が使えないじゃん。警察に連絡できないぞ。
……。
なぁに、学校の電話を借りれば良いだけさ。誰かに通報してもらうだけでも。
って俺も捕まる可能性もあるんだよな……。
……。
な、なぁに、尊厳優先だ。
俺はこの世に存在しない人間、事が終わればどうなってもいい覚悟くらいある。それが漢ってもんだ。
「ふーっ、ふーっ、ふー……」
呼吸も整ってきた。おそらくセクハラ中の御目下への対処も完璧だ。
後は扉の一つや二つ蹴とばしてでも乗り込んで、野郎をぶっ飛ばせば万事解決……。
よしやるぞ。いますぐやるぞ。絶対やるぞ。
……。
さっきからなんだ、俺は。
アタマの中で言葉遊びして、さっきから何を足踏みしてる。ネトリをバカにしておいて、いざとなったら俺もその場で棒立ちかよ。
くそ……俺はずっと弱腰だ。
誰かがケンカしてるのを眺めてても何でか緊張してるノミの心臓なんだ。
視線を落として俺の足を見下ろしてみれば、前へ前へと行こうとする意思を拒むようにびくんびくんと震えていた。
それでも行くしかない。
止まらない足の震えをどうにかしようと二、三回ほど殴って、意を決した俺は扉に手をかける──。
「ちょーしに乗るなっ!」
あの子だ。出会った時の玷の声とは違って、激しい怒声を誰かに浴びせている。
しまった、遅かったか。
そう後悔する間もなく「まぁまぁ」と玷をなだめている男の声までしてきた。
幾人もの女との修羅場をくぐってきたのだろうか、落ち着き払った男の声だ。
間違いない、御目下・秀一!
「──オレ様は狭間市の三代目有力者だぞ? 他の候補者を退ける権力を持ってるし、秋にはオレ様の間像が建つ。そんなオレ様の間像とペア銅像になれる女ってのは前代未聞だ。お前がオレの女になればおウチで寂しい思いをせずに幸福の『絶頂』をずっと味わえるぞ」
写真で見ていたイメージとまったく同じ声の感じ。
確かな努力で結果を残してきたんだろうが、それを傲慢なふるまいが許されるチケットかなんかだと思ってそうな……女を、弱者を、己以外すべてを見下している、そんな口調だ。会話の感じだけでもセクハラ冤罪ということはなさそうだ。
コトを致している最中ではないのも幸いか。
っまさかもう終わっちゃったなんてことは……いや、せいぜいオマケしても十五分経ったくらいだ。
本で読んだことがある……あのいかにも変態プレイが好きそうなヤツが短時間で終わらせるわけがない。さっきの子が一時間近づくなって言っていたってことは、個人差があっても八時ちょいすぎぐらいまではかかるはずだ。
「幸福? 服従させてるだけじゃない! 暴力も不幸をばらまくアンタの間像の隣にアタシの銅像?! ぜぇったいにイヤだ!」
と突っぱねる玷だが、それをさらに呑み込むような御目下の高笑いが上回って倉庫の外にまで響いてきた。
「あのなぁ、間像が不幸の象徴だってウワサがたってはいるが、本当は『対価』の象徴なんだぞ。初代の間像に触れて願えば確かに何かを失うが、必ず何かを得る……初代と二代目間男の由緒ある銅像になれるんだ。ヤキモチ妬かずに素直になれよ。お前のほどよく締まった身体にだらしないケツを撫で回してきっちり寸法を測ってやるからさ、もちろん内側の具合も、な」
下卑た笑いが倉庫内に響く。
「こんの下衆……!」
「あのなぁ、そもそも矛盾してるぞ。突然お前がオレ様の女になるって誘ってきたんじゃないか、他の女に手を出さない条件でな。今日はやけに積極的でおどろいたんだぞ? 黙々と走ってばかりの武骨なヤツだと思ってたがな。さすがエースと呼ばれるだけあって、率先してオレ様に飛び込むとは、正直狙ってたから嬉しいぞ」
「ッそれはアンタが……」
玷は押し黙ってしまう。
そういうことか。
ネトリが彼女を守ってほしいと口やかましく言っていたのは、ここまで他人の為に自分を犠牲にしてしまう子だからか。
確かにあの献身的な子だったから、そこまでしてしまうのかもしれない。こんな追い込まれた状況で、俺なんかを助けてる場合じゃなかっただろうに……。
「ちょっと……どこ触って……っ」
物音が大きくなってきた。玷が抵抗しているんだ。
やれよY……リスクを取らずにグチだけの人生で……そんな俺が嫌いだったんだろうが! やれよ! お前自身の力で彼女を救うんだ!
足の震えが、止まった。
「今更カマトトぶるんじゃない。オレ様の『女』になるってのはそういう行為もするってことだ。なに、あのスケコマシの幼馴染のことなんか考えられないくらいメチャクチャになろうぜ」
「やめ……っ」
「──開けろッ! 狭間市警だッ!」
うんと声を低くして凄みながら倉庫の扉をガンガンと叩く。
邪魔が入れば御目下を萎えさせることは出来るだろう。
「通報があったぞ、さっさと開けろ!」
さらに大げさに声を張り上げると倉庫内がしんと静まり返る。
ざまあみろ、御目下め。権力さえあれば通報されるとは思いもしなかったんだろう。報復を恐れるココの生徒や先生たちには難しいかもしれないが、俺ならやれる。
なぜなら、異世界人だからさ!
「くそ、新米警官か……ちょっと待っててください! 何かの間違い……」
御目下が明らかな苛立ちと焦りを含んだ声で扉に近づき、開錠している物音がしてきた。
切羽詰まっていると見たぜ。覗き窓は無いんだ、せいぜい冷や汗流して慌てるがいい。
二十年もの間、テロ対策妄想をしてきた俺の『奥義』を喰らわせてやる。
ガラッ、と扉が開いた。
「──いやウチの部員がケガしちゃい……なんだこのハゲ?!」
むわっと熱気をまとった御目下の目の前に、学生服を着た『薄毛』の俺がいるわけだ。
さすがの有力者といえどもまったく脈絡のない人間がいるってのには完全に意表を突かれたのか、目をギョッとさせている。
倉庫奥のマットで横たわっていた玷はオレンジのランニングシャツを脱がされそうになっていたようで、少し衣服がズレて腰回りが露出していた。l
また、蒸し風呂に近い空間で暴れていたせいか、短く整っていた髪も乱れのぼせたような表情でうつむいていた。
ごめん、遅くなって……。
その分、ヤツに報いを受けさせるからな。
乱暴されるまで秒読み、といった彼女の姿を目の当たりにし、俺は人生の中で経験したことのない強烈な怒りと彼女が無事だった安堵感に包まれ、血管ピクピクの歪んだ笑みに変貌する。
「……えっ、オジサン? オジサンなんでっ!?」
玷が俺の存在に気づき、顔を上げた。
意外な来客におどろきを隠せなかったようで御目下の背後からキツネにつままれた顔でのぞいていた。
「『叔父』……っ、このコスプレ野郎、オレ様のジャマをするとは分かってんだろうなぁ!?」
もちろん、分かっている。
ココで這いつくばるのはお前だってことがな。
御目下と俺との間にある、ほんの数十センチの空間が『ぐにゃあ』と歪んだ気がした。
「いやね先生、急ぎの用事で──」
そう会話を切り出してから俺は「ふん゛ん゛ん゛ん゛」とうなり、ありったけの力で御目下の股間目掛けて右足を振り上げる。
ぐしゃり、と完膚なきまでに破壊する音と感触がした。
そして足の甲からはじけ飛びそうな苦痛もおそってきた。
これはヤツにダメージを与えた手ごたえではない、すべてのダメージが俺に返ってきている。
「~~~~~~~~ッッッ」
硬ぇし痛ぇ……素足で岩を蹴とばしたみたいだ……っ!
声すら出ない痛みにたまらず俺は右足を抱えしゃがみこんだ。
その際、ヤツが股間の前に構え持っていた砲丸がちらりと視界の端に入り、激痛の理由に合点がいった。
野郎……っ、ターミネーター並みの鋼鉄のタマを持ってるのかと思いきや、こんな防ぎ方で俺の足を……ぐっ。
ダメだ、先手を打ち損じた。完全に読み敗けたっ!
妄想のテロ対策じゃカンペキな不意打ちだったのに。
「御目下のレッスンだ、『有力者にひれ伏せ』」
「な……にっ」
「不審なヤツは始末しないとなァ……」
御目下は十六ポンドはある堅固な球体をポンポン手の上で軽々投げた後、ピッチャーのごとく大きく振りかぶった。
マジかよ、野球ボールじゃねーんだぞ……?!」
「ゴアァアア──」
龍の咆哮とでもいうような、階段上の校舎全体にまで響きそうな御目下の叫び声がビリっと耳を突き抜ける。
そして次のまばたきをする瞬間には俺の左肩からゴシャ、という骨の砕ける音が突き刺さる痛みとともにやってきて、そのまま大きな衝撃に流されるように体を左回転させグラウンドに吹っ飛ばされた。
「ん~四十メートルは堅いな」
ヤツが得意げにつぶやきながら肩を回し、俺に向かっておもむろに近づいてくる。
四十?! ウソだろ……三十メートルもムリなもんを飛ばすんじゃねぇよ!
コイツ、明らかに人類を超えてる……。世界陸上総なめしちゃうパワーを俺にぶつけちゃうっ!?
御目下の凶悪な暴力性と強烈な痛みに俺の全身の毛穴からは汗がふきだして止まらない。
遠くで玷が「オジサン!」と呼びかけてきているのがわかる。
こんな時までオジサン呼びキツい、心まで折れそうだ……。
「ね……どり……」
右肩を下にグラウンドの土に額をこすりつけ、うわごとのようにネトリに呼びかける。
【……】
左の肩には触れて押さえることすらできない鈍い痛みが残され、呼吸がどんどん浅く、短くなっていく。声の振動でさえ痛みがやってくる。
この感じは骨折どころか粉砕されてしまったんじゃなかろうか。
あなどっていた。異世界にくればどうにかなるさ、と。
『コイツ』、人を殺めるのに何の抵抗がない。こいつぁ俺自身の力で解決だとか出来るレベルの問題じゃないぞ。
『有力者』ってそういうことなのか?! バケモン並みのスペックを持ってる人間って意味なのかよ!
『対価』を恐れている状況じゃない。甘々だった。
『トリガー』で対抗しなければ、俺一人の力じゃ到底守りきれない……!
「ねど……り……っ」
意識を手放してしまいそうな中で、ネトリを表示させるためもう一度声をひねりだす。
たのむよ……こんな時まで悪ふざけすんのはよしてくれ……遊んでる余裕ないんだ。
【……なんだー、もう話して……おまっ、大丈夫かー?】
『ピロン』と電子音がすると、脳内にネトリのだるそうな声が聞こえてくる。こういう時は音声認識で助かるな。
「と……りがーを……『トリガー』……を!」
長話しているほど意識ははっきりしていない。
【なるほど御目下と対峙したんだなー……だから、言っただろー、ヤツはとんでもない『有力者』なんだぞー】
「せっきょうは……いい……はや……はやく!」
【ああ、分かったぞー。なんとか右手でワタシさまを取り出してすんだー】
なんで今んなことを……。
そうか、着替えみたいに『対象』を選ぶ必要があるからか……っ
俺は歯を食いしばり、額を地面に押し当ててケツを上げどうにか右手でスマホを取り出すことに成功する。
【トリガー解除だ! メニューからヒールと肉体強化を選べ!】
ネトリがハート型アプリ『トリガー』にしがみついて、俺にタップをせがむ。
AIに人間の痛みなんて学習できないんだろうが、左腕まとめてイカレてるかもしれないのにスマホいじくらせるなんて何という鬼畜の所業。
でもやらなきゃやられるぞ……ああくそ。
ぼやける視界でスマホ画面を見ながら、『トリガー』をタップする──。
【よしー、もうちょっとだー、『対価』は後払いだから恐れずにチート無双してくれよなー】
心無い言葉で……イライラさせんじゃねぇ……ネトリさんよォ~……俺は今死にかけてんだろうがよォ!
「ぐ……ぐぅ……っ」
アプリが起動するとネトリが右上の隅に追いやられ、ピンク色の背景に安っぽいグレーのボタンが浮かび上がる。
一覧には肉体強化、ロード、時間加速、対象減速、時間回帰、ファストトラベル、などなどだ。スクロールして全部みている余裕もない。
一つ一つのボタンにはあらゆる能力の詳細が書いてあり、あわせて該当の能力の下部に赤文字で必要な『対価』が記されていた。
『肉体強化:左腕、ヒール:大切なもの』