1話 オン・ユア・マーク
からぁん、かららぁん──。
どこからともなく聞こえてくる乾いた鐘の音によって、俺の意識は世界にかえってきた。
目を開けば薄雲ひとつない快晴の青空が広がっていて、同時に差し込んでくる強烈な直射日光が俺の目をくらませた。
「あっづ……」
たまらずギュっと俺は目を閉じる。
なんだよ、朝になってんのか。ひょっとして、もう昼すぎ? 今は何時なのか分からないが、寝過ごしてしまった時の不安な気持ちと、どうにもならない体の倦怠感がせめぎあっている。
俺はどうなった。何があったんだ。
飲み会の後、何もかもイヤになって歩道橋にいたとこまでは覚えてるけど……ぶっ倒れたままか。
熱い……全身が焼けるようだ。
目を閉じててもまぶたの上からまぶしい太陽光線が降り注いでいる。
頭痛が過去一ひどいし、目が回ってきて吐き気もしてきた。
何か思い出そうとするたびに目の奥の鈍い痛みが一定間隔で攻め立ててきて、気力が削られる。
なんにせよ、お外で一夜を過ごしてしまったみたいだな。
どうせ会社には間に合わないし、どのみち俺の体は出勤モードに変わってくれそうにない。
連絡がつながらなかったら俺ん家に安否確認しにくるんだろうか? 部屋も片付けてないし、会社が契約した部屋だからスペアキーで入られでもしたら、あられもないマイルームをのぞかれてしまうではないか。
あっ、でも今日は出勤の振替休みだっけ……いや明後日か。いやぁ、考えるのめんどくせぇし、あったまいでぇ。
じぃじぃじぃ……。
どこからともなく聞こえてくるセミの大合唱がアタマに響いて割れそうだ。
セミ? セミだって。
うそだろ、もっと山奥ならともかくこの時期に鳴いていていいもんじゃない。
それに、さっきから妙だと思ったが気のせいじゃない、ほのかに潮の香りもする。俺は山にいるのか、海にいるのか、現実にいるのか? はたまた夢でも見てるのか。
もしくは酒呑んでやられた脳みそが幻覚を……?
その答えを知るためにもさっさと目を開けて確かめればいいだけのハナシなんだけど……。
【おーい、死んどるのかー】
あどけなさが残る女の声だ。おそらく子供だろう。フリー素材のデータから引っ張ってきたようなザ・女の子みたいなキレイすぎる声だもの。
わざわざ倒れている怪しい酔っ払いに優しく声をかけてくれるなんて……まだまだこの世界は捨てたもんじゃないな。
でも、だからこそ──
「大丈夫……ほっといて、ください……」
みよ。
コレが酔いつぶれた大人の全力返事だ。さすがに子供を利用してタクシーだの救急車だの連絡させるのはいたたまれないからな。
別に子供だって確証はないけど、親御さんが近くにいようもんなら面倒に面倒を重ねる事態になるし、善意に対して申し訳ないが追っ払ったほうがココは正解だ。
【いーから起きろー!】
ウ゛ウ゛ウ゛ウ゛ウ゛んんン──
あんま器なみの強力なバイブショックが脳天を突き抜けた。
「オ゛ッ! それ吐グ゛ッ!」
悪酔いしてダウンしていたところに俺の脳は縦横無尽にゆさぶられ、うーうーとうなって警戒していた胃液逆流警報により、脳から緊急指令を出し上体を強制的に起こす。
「くっ……──」
視線を落とせども衰えない太陽光の反射に目がつぶれそうだ。
俺は腕を上げて陽をさえぎってからおそるおそる目を細めながら開いた。
ここは……
どうも古民家が建ち並ぶ道のど真ん中で寝ていたようだ。正面のはるか先は急な下り坂になっていて、透き通る海といくつも停泊している船にソレを迎え入れる港が視界に入る。
わー、こりゃ味のある街並みで……じゃない!
え? どゆこと?
残暑が去っていく時期なのに、夜が明けたらサマーシーズンが再到来かよ。内陸にいるのに海が見えるってのも変だ……ここどこだよ湘南のどっか?
「つーか熱っ!」
熱せられたアスファルトに考え事をさえぎられ、反射的に手を跳ねさせる。
「あっやべ……」
さっきの脳内バイブ攻撃でスマホを地面に落としていたようだ。
はやく拾わないと高温で使えなく──。
【あーあー、どんくさいぞー。スマホがやけどしちゃうー】
だるそうにブーたれている声がまたした。
そういや、さっきから聞こえる声はなんだ。スマホから聞こえるみたいだけど……。
落としたスマホを拾いのぞきこんで見ると、画面のど真ん中にドット絵で構成された白いワンピースの娘が怒りマークをアタマに浮かべピコピコ音を立てていた。
レーダー上の背景のままそのドット娘はジト目で両腕を上げたり下げたりするえらく単調な動きで感情を表現している。
メッセンジャーアプリの機能みたいに画面下には吹き出しがあって、そこには彼女のセリフだったと思われるメッセージが発信されていた。
【助けてあげたのに失礼な『ハゲ』だなー】
『ピロン』、と電子音が鳴ると先ほどのメッセージが消えて新しいセリフが吹き出しに描かれれる。
つーか、ちょっと待て!
「まだ『予定』だから! 『まだ』髪に見捨てられてないからね!」
いちアプリでしかないとは言え子供相手に無茶な言い訳だと分かってはいるけど、無えんりょな子供にはきちんと説明しておかないと、すぐ蔑称を名前呼びにする。
【なんだって、それはほんとー? 気の毒だなー……】
まったく感情のこもってないなぐさめだ。一滴も心にしみてこないぞ。壊れたコンピュータのたわごとみたいに無意味な発言だ……。
「まぁ、別に気づかいはいいよ。第一印象は見た目だってのはしょうがないもんな」
【それは……気の毒になー……】
「くりかえすな」
文末に大きな水滴マークがおまけでスタンプされている。
土足で心を踏みにじる子供め。っていうか、こども、だよな?
この娘はなんだ、何もんなんだ。何とかチュウバーってのとはちょいとビジュアルが古すぎるし、落とした衝撃で変なゲームアプリでもインストールしちゃったのか……。
それにこれ、似てるけどよく見りゃ俺のスマホじゃないぞ……。落としたりして欠けてる部分がきれいになってる。
どういうことだ。失くしたならまだしも、別のスマホに『入れ替わってる』なんてコトあんのか? 俺のスマホが他人の手に渡ってるのは困るぞ。
キャッシュレス決済は出来ないかもしれないが、それよりもブックマーク見られたら人生終わりなんだが。
【すぐ黙る男だなー、よく聞けー……】
カオスな状況にテンパっている俺を察したのか、人間……のようにドット絵でへの字を浮かばせ笑顔を見せた。
【ワタシさまは狭間市の秩序と平和を守るナビアプリ『ネトリ』だー】
「はぁ、ね……とり?」
なんと……誤解をまねく名前だ。
【ほれー、これが狭間市のデータだぞー】
自己紹介するネトリの隣に航空画像データが表示され、自動的に画面いっぱいに拡大された。
なんだよ。山と海に挟まれてんじゃないか……。電車とかの新幹線の路線みたいなのは……なさそうだな。
山を切り崩したセンスというか扇? みたいな地形に、海岸に沿って造られた港の街か。漁業がさかんな街ってことならそれなりに場所を絞れそうだけど……。
こんな街、知らないぞ……。
もっと細かい地図を見ないとなんとも言えないけど、他県につながる道が山々に囲まれていて見当たらない。
港から江の島とか初島とかが遠くに見えたりすれば、あるいは家に戻れるかもしれないけどそもそも関東圏ではないようだし。間違いなく一夜でたどり着ける距離なんかじゃない。ましてやスーツに革靴じゃあ物理的に不可能だ。
「……ネトリちゃん? でいいのかな。具体的にさ、日本のどの辺りなのか教えてくれない? 俺、スマホ失くしちゃってさ」
あのフリー音源から引っ張ってきた安っぽいポップなBGMを流れると、ネトリは淡々と足踏みする。
【それにねー、AIとうさいのちょーぜつハイテクさまで、マップ探索にオジャマ虫アラーム、ケンカど素人でも使えるバトルサポート機能とカレンダーに対応した記憶連結システムなどなどを引き出せるアプリ『トリガー』と連動してる有能司令官さまなんだぞー】
「……」
なんだ、このクソアプリ。話が通じないぞ。
ウダウダとジマンしてるがうさん臭い名前のもんばっかじゃないか。学生とかは面白がるかもしれないけど、これじゃ、広告タップしてダウンロードしたクソゲーアプリ並みだな。少しワクワクしてたのに、あほくさ。
なんだか分からんが、やっぱり落とした拍子に変なアプリでも入れてしまったのだろう。流行りのウイルスアプリなんだろうか。どうやら範囲外の質問は受け付けないらしい。このスマホ自体も使い物になりそうにないな。
俺はそっとズボンの後ろポケットに手を入れる。サイフの確かな手ごたえがそこにはあり、とりあえずはホッと安堵する。
いよいよ土地勘がない、とか言ってる場合じゃない。この歳で迷子の上に遅刻なんて最悪だ。今どきの学生でもしないってのに。公衆電話を探して会社に連絡しておかないとマズい。幸い六時ちょっと過ぎだ。まだあわてるような時間じゃない。
ムダかもしれないが、念のためこのスマホ自体の電話機能も試してみるか。
「……くそ」
スマホを見た感じ……航空画像やネトリとかいう女の子をタップしてみても何も起きない。中途半端な音声認識で操作するぐらいしかできないのか?
どうやってもホーム画面に戻れない。拡大縮小もできない。コイツさっきマップ探索に長けてるみたいなこと言ってなかったか。使い勝手悪すぎんだろ。
【チッチッチ。『必要』な時に『必要』なモノを提供するだけ。それがワタシさまのスキルなのだよー】
んあ~不必要なアプリを消すモノが欲しいなァ~ッ
だんだんこのゆる~い感じの受け答え、無性に腹が立ってきた。こちとら無断欠勤になるかもしれない瀬戸際だってのに、他人に俺の性癖をのぞかれてしまうかもしれないのに! ことの重大さをAIは理解できないようだな!
「ウイルスソフトのクセして調子に乗ってんじゃない! 普通のスマホアプリの方が有能だっての」
【はぁー、ウイルスじゃないってばー『ネ・ト・リ』。何一つ試してさえもないのに、すぐキレるんだからハゲはー】
「まだハゲじゃねぇ! つーかYって名前あるんだよ! ちゅーか! 何一つまともに機能しないんだよ! このヘルプ以下が! 緊急電話ぐらい使えるようにしとけ!」
俺はビッと指を画面に指すとネトリは線状の目になって、その目じりからは一ドット分の雫をぽろぽろこぼし始めた。
【ひどいー、『ワニ』は女の子にざんこくなこと言うなー。モテないぞー】
「ワニじゃねぇYだ。二文字なのに間違える手間をとるな」
【やる気なくしちゃったからだぞー。ワタシさまの機能はすべてモチベーションに直結しているー。クエストに適した人材だと思って転送してやったのにー……】
「機械がメンタルヘルスか。ジョウダンも休み休み言え」
気づけばアプリごときに怒りの矛先を向けてため込んでいたものをぶちまけていた。
にしてもこいつ、クエストだのバトルだのゲームのチュートリアルみたいな機能説明だな。現実で使えそうにないワードばっかなのに。
この何もかもつじつまが合わない状況に合わせて、まったく見覚えのない場所。んでポンコツAIファミコン娘が俺を選んで『転送』させたってまるで……。
まさか。転……。
そんな、まさか。
ま……さか……。ありえない。
ラノベだとかアニメも見たりはするけど『アレ』はフィクションで……そんな。
【まー、ずっと混乱されても困るし『必要』みたいだから答えてやるかー】
──ドクン。
期待していたわけでもないが、心臓の鼓動が高鳴った気がした。
俺がちょうど『ある』答えにたどり着いたとき、ネトリのだらしない口調が少し真面目寄りになって緊張感が漂いだす。
「な、何をだよ」
答えは知っているのに、俺はしらじらしくもネトリに問いただす。
【Yー、悪いけど元の世界に帰すわけにいかないんだー。ワタシさまが『重大な目的』の為にこの世界に転送させたからなー】
やっぱり……そう……か。『転送』か。聞き間違いじゃない。
これが……異世界転移なのか。
他人が別世界に行くだけなら他人事だし、眺めるなりプレイするなりエンタメ感覚で満たされてたものだけど、俺自身がこうなると……どう感情表現していいのか。何の覚悟もなかった。もう、帰れないのか……。
いや、これでいい。心残りなんて、何もないだろ。
新しい場所に、新しい出会い。『きっかけ』ってのはこう唐突にくるもんなんだ。肝心なのはこれをチャンスとして行動できるかだ。
このネトリってアプリが何なのか、それは大した問題じゃない。
大事なのはどんな時もテンパらず、冷静に事を運ぶ。そうすりゃ第二の人生をやり直せるんだ。これはきっと神様の気まぐれが生み出したスキマに違いない。
幸せになれる権利を、俺は今つかみかけている。
「何を……すればいい」
もっとも、バトルだ探索だ言ってたくらいだ。魔王だの神だのと戦うことになるんだろう。いいさ、なんだってやってやる。
『俺自身』の力だけで敵をやっつけて、証明してやるんだ。この『世界』ではすでに俺という存在がいるだけでも特別。あの現実よりも努力が確実に報われる、もっと甲斐のある『何か』が手に入るはずだ。
『幸せ』に──。
【あれー、ずいぶん素直になったなー。ハナシが早くなるからありがたいけど】
「……だから何をやってほしいんだ」
【うむ、潜入任務で超超高難易度のS級クエスト……】
ああ、だからなんだってんだよ。じれったい!
前置きをタラタラされんのは昔からイヤなんだよ、せっかちでさ。
【そーれーはーなー……】
まさか生唾を呑むなんてほど、相手からの返事をいまかいまかと待ったことなんてない。
【──ある女子学生の想いを成就させてほしいんだ】
………………。
…………。
……。
「……ぉぁ?」
ふぬけた声だ。
声にもならないくらい小さな一言。
言葉ですらない、何かの拍子でちょっと声帯が震えたぐらいのただの人体が起こした誤作動の音。
【いやなー。真挿・玷っていう十七歳になったコなんだけどさー。アイツが気になってるヤツがモテモテ過ぎて近寄れないみたいなんだよねー。恋愛相談をしてやってキューピットになってやることが大事だと思うんだー。ちなみに相手ってのは幼馴染の……】
なにか、ネトリが何かごちゃごちゃ言ってる。うるせぇ、知るか。
脳内の処理がやっと追いついてきたのに、また引き離されたぞ。
そうだん? なにそれ。
婚活コンサルタントになれって……そゆこと?
俺だって婚活したいのに。異世界にまできてさ。
「やだよ」
感情や理屈でハナシを呑み込む前に、俺の口から返事が先走っていた。
【なにィィイイイ!!】
いままで平面だったネトリの表情が立体の濃ゆい迫真顔になってスマホの画面に顔を押し付けている。
「よそ様の恋愛事情に首突っ込むもんじゃないだろフツー」
しかも学生だろ、十歳下ぐらいの離れた。
俺が相談にのるって、パパ活か。近寄るだけでも金のやりとり疑われるわ。
もっと、世界を救うほどの大きな使命を期待してたのに……。
【フツーじゃない事態になってきたからYを呼んだんだぞー! 護衛任務って言い換えても過言じゃないんだー】
モノは言いようってヤツだな。でも──。
「『この状況』以上にフツーじゃないことあんのかよ。ならわざわざ俺じゃなくても警察に通報なりしとけば解決できるだろ」
うぅっ、とんだ肩透かしだ。
寄りによって異性の恋バナに付き合うとは。上辺でしか話してないヘタレ経験しかないのに。一番関わりたくない案件じゃないか。
せっかく体調が落ち着いてきたのに、異世界に召喚された理由を聞いたら頭痛がぶり返してきたぞ。
【玷を狙ってる学校の体育教師、狭間市の栄誉市民になるスゴいヤツなんだー……力も、権力の方もある有力者なんだぞー、事実だってもみ消される……他の世界の……『法則の外』にいるヤツじゃないと太刀打ちできないんだー】
「あぁ?」
法則の外? 現実から来た俺のことか。
ネトリは画面から顔を引っぺがし再び味のあるドット絵に戻ると、隅に残っていた狭間市の航空画像から、身長二メートルはあるニコやか筋肉隆々マッチョマンのヘンタイ画像に差し換わり自動拡大される。
「なんだよ……」
俺はスマホの画像に注目する。
自信に満ちてる表情とポージングをした男だ。そう評価せざるを得ないシンプルな写真。
『努力は裏切らない』ってのを体現したような自然な筋肉の仕上がりで、もともと優れた遺伝子をもっていて、それをどう活かせばいいのか子供の頃から分かっていたんだろう。ザ・ヒーローって肩書が似合いそうだし、精悍な顔つきでモテそうだな。
しかし今のハナシを聞いた後に見ると、服装がタンクトップに赤ジャージのパンツって見慣れてるけど……いかにもやらかしそうな教師のイメージがあるなぁ、俺の偏見だけど。
【コイツが最近、玷のいる陸上部の顧問になってなー、玷にセクハラしてるんだ……いたいけな彼女の心と体を守ってほしいー。玷が学生らしく『誠実』な恋愛活動にいそしめるように……それが狭間市の平和と秩序にもつながるんだぞー】
まぁ、魔人でもなんでもない性犯罪者が相手だけど彼女を守るって響きは悪くない。
でも、それにしたってなぁ。
「あのな、こちとら三十路近くのいたいけな半オッサンだぞ。何ができるってんだ」
【だから最強アプリ『トリガー』を使って無双して、彼女を幸せにするんだぞー】
「だから! そうするにしても俺には彼女との接点が…ぐっ」
なんだ、急に視界がぼやけだした。
興奮気味に応答してたら何かがはじけたように気分が悪くなってきた……少し横になろう。ほんの数十分のやり取りで本格的に参ってきてるぞ。どっと疲れてきた。
【おーい、どうしたー『トリガー』のスキル使ってみるかー?】
トリガー?
ああ、ネトリがさっきいってたアプリか。
「バトル……にしか使え……っ」
言葉が出なくなってきた。圧倒的水分不足。
やばいな、コレかなり悪化してきたかも。
【まかせろー、日常に使える回復スキルも『トリガー』に保存されてるはずだー。はやく使用許可だせー、もしくは持ってるスマホの先を自分に向けるんだー】
声も手も出せないんだっての。
「っ……あ……」
ダメだ。吐き気が止まんねぇし、いまネトリのグダグダなしゃべりに付き合ってられるほど余裕ない。マズい、何か非常に『マズい』ことになってないか。チュートリアルなんか受けてる場合じゃなかったんじゃ……。
横になって目を閉じても血の気が引いてくのがわかるし、呼吸も荒くなってる……二日酔いじゃなかった……これは、いわゆる『熱中症』の症状だ。年間五百人は確実にあの世へ送ってる真夏に潜む悪魔だ。
意識がとおのく……うそだろ。近づいてきたばっかなのにもう遠くにいっちゃうのか……異世界と現実を電車感覚で往復しすぎだろ俺。
「──オジサンだいじょぶ!?」
女性の声が、した。
今度は電子的な……造り物じゃない。元気がよくて、活きている女性の声。
ネトリがボイスチェンジャーでも使ったのかと思ったけど、駆け寄ってくる足音と安否を気遣う掛け声が『現実』の人間だと証明している。
「熱中症……だよね?! ちょ、ちょっと待ってて……」
すると声の主がどさっ、と荷物か何かを地面に置いてからファスナーを開けて漁っている物音がした。
救急車を呼んでくれるのかな。ありがとうございます。
振り出しに戻ってしまったわけか。最初からネトリなんかと会話してないでどこかで飲み物でも買っとけば良かった……。
お手を煩わせて申し訳ないけど、ここは彼女に任せて救急車にきてもらおう。異世界で税金は納めてないが、これから頑張りますから……。
「すみ、ませ……たすかりま……──」
ぐらぐらする意識の中で、うわごとのように俺は感謝の言葉を口にする。
「気にしないで、アタシもう一本持ってるから!」
「……」
えっ、なにが?
そんな俺の疑問をよそに、声の主が明るく言い放つと俺のアタマをつかんで口に何かを無理やり突っ込んだ。
「どがぼっオ゛ッ!!??」
なんだこれ! 何か飲まされてる!!
激流の勢いでさらさらしたのどごし、さわやかな口当たりが襲ってくる。
これは、あの有名な清涼飲料水の味がする某有名メーカーの『アレ』だ。
『アレ』を喉に流し込んでいるのか!?
く、くるし……。呼吸するたびにエネルギーが喉の奥に入ってくる。
「一リットルくらいスポドリ呑めば治るよね!」
いや治らんでしょ。
もう無理、死んじゃうっ!
ネトリは何やってんだ……ナビアプリのクセしてしゃべれない俺の代わりに話してくれないのかよォ!!
看病するような穏やかな口調で古式な拷問をかます声の主に、優しさを感じる前に恐怖を覚える。
「いグッ! オッブ! オォオっ!!」
汚い雄たけびがスポドリとともに吐き出る。
キンキンに冷えてやがる飲み物が俺の口からはみ出しても容赦なく顔にぶちまけられている。必死に水分補給してくれてるんだろうけども! もういいよ、おぼれてるよ俺は!
どうなってんだこの異世界……善意と殺意が同時並行しているのか。
「オッごッ!!!!」
俺は押し込まれたスポドリのせいでむせかえったと同時に、噴水のように吐き出してから飛び上がると、せき込みつつ拷問官との距離をおく。
「おっふぉえ! おごっ けほっ」
殺されるかと思った。
一体どんなヤ……。
「たはー……ちょっとやりすぎたかな」
その眼で捉えたのは、バツが悪そうにアタマをかいているショートボブの女の子だった。
首元のチェック柄のリボン、ほんのり小麦色に日焼けした肌を際立たせる白いシャツ。手首に巻かれた空色のリストバンド。『DASH』とつづられた大きな筒状のスポーツバッグ。
学生で、部活をしている子だということが容易に想像できた。
この子。この子は……。
ネトリが言っていたことなんて8割も聞き流していて、どんな容姿なのかもしらないのにハズなのに、俺は何をいったい気色悪いストーカーみたいな思考から確信を得たんだ。
でも、俺の心にうったえかけてきている。
まがさし、かける。
腐敗した人生を送るだけの俺に課せられた『使命』そのもの。
そう察するに十分の可愛さと生きるエネルギーが満ちた『まぶしさ』が、彼女にあった。
「結果オーライだったね、オジサン!」
そういって彼女は立ち上がり、「にししっ」と太陽のように無邪気な笑顔を俺に見せた──。
一話【オン・ユア・マーク】