プロローグ 臨死“経験”
世界には法則がある。
生命は生まれ堕ちた瞬間から死の淵へと向かっていく。スタートからゴールまで、の法則だ。
それが一直線であろうが曲線を描こうが点と点は絶対に結びつく。
仮にスタート地点で盛大にズッコケてしまっても、始まれば『結果』にたどり着くようになっているんだ。
そしてもう一つの法則。
走り出してしまったのなら、スタートラインへ『かえる』ことはできない。例え他人より幸せになれない『結果』だと分かったとしても、レーンは一直線だ。
撃ち込んだ銃弾が戻れないように。抜け落ちていく髪の毛が頭皮に戻らないように。
もしも法則を歪め未来の『結果』を変えたいのだとしたなら。
もしも法則を歪め過去へ『かえる』のだとしたなら……。
『──Yさんって、初めて話しましたけどケッコー“軽い”ですよね』
ご機嫌に酔っぱらいながら発した女の言葉がアタマの中で響きわたっている。
会社での飲み会に誘われた夜、俺は二次会から逃げるように店を去り駅前の喧噪から離れた歩道橋の上で手すりに寄りかかって夜景を眺めていた。
「くっそぉお゛……」
口を閉じたままうめくように声を上げ、突如として沸き立つやるせない気持ちを腹から吐きだす。
“軽い”ですよね?
“かるい”……ですよね?
カルイ……デスヨネ……。
ときたま聞こえるハイブリット車独特の乾いた人工音、かすかに聞こえる踏切音が一定のリズムを刻み、そして消える。
この静けさだ。この静けさがいけない。繰り返しやってくるこの穏やかな静けさが。
俺はその静けさのせいで胸の奥に刺さった言葉が残ったままだ。
「悪いのかよ……」
軽い。
もちろん体重的な意味じゃない。立ち寄って、歩いてきた『道筋』が軽いんだ。あっちへこっちへ浮ついて、人としての『厚み』という足跡がなければ、絶対にゆずれないという『芯』もない。男としての魅力ゼロ♡。ザコザコ社会人♡
何度も言われてきたことだ。
つまりこの世界でいう適切な言葉としては、ヒトという種のなかでももっとも価値のない『弱者男性』にあてはまる。生まれの環境などで絶望的なまでに他人より走るのが遅いヒト。
ひねくれてるわけじゃない。実際に同い年くらいの……三十近くになる人で結婚してたり恋人がいる人間ってのは明らかに活気というか……生きるエネルギー量が違うんだ。ただまっすぐどしん、と進んでいく意志を感じる。
ふところの中にたくさん守るモノがあって、そのために生きている全うな強者。生まれながらにして、俺とは違ってどう生きていけばいいのか理解している。
小学生のときから何故か他人の気持ちに触れるのが怖くてツラくて、でも友達という関係を保っていたいから俺という人間性に歯向かいながらがむしゃらに駆けまわって人と接して生きてきた。
けど、やりたくないことを一生けん命にやったとこで良いことは何もなかった。誰にでも良い顔をしている俺を気に食わないと他人に拒絶され、自身も心と体のバランスを崩してしまい髪の毛が薄くなってしまった。
複雑な異性関係なんてのも今更ムリゲー、そもそも恋愛対象に含まれないベリーハード……前向きな言葉とおどけた態度で接して薄暗い性格を隠していても女性は見抜いてくる。
ただ死ぬためだけに生きている俺を。他人に合わせて生きているだけの俺の本性を。さっきの飲み会でもキツいのに、俺が言い訳探しのとんだ甘ちゃんだってのが知られてしまったのなら、どれだけの精神力を消耗するのか……逃げてしまえば楽だ。
そう、本当は分かってた。
俺は人生を生きてきたんじゃない。逃げてきたんだ。大事なモノから目をそらして。
だからと言って、俺も毎度毎度こんな後ろ向きなわけじゃない。もう三十近いんだし、隣のレーンで走っていくヒトを冷静に見つめて応援するくらいの気持ちはある。
いい加減な言葉が飛び交う飲みの会で他人の発言をいちいち真に受けてる俺がおかしいんだ。独身でいると周りに対してカビンになってくるのかもな。なに、ちょっとすれば情緒も安定してくるハズさ。
他人というのは見てないようで意外に見てるが、見てるからと言って興味があるわけじゃない。俺に対してはそうさ。
深く気にしてても仕方ない。気にしてたらこの年齢まで生きてないし、これからだって生きていられない。
ただ生きてくのに理由なんて要らないのだから──。
『ヒーローになるんだぞ、Y』
このままマイナス思考のドツボにハマりそうな時、ふと父さんの声がよぎった。
小さい頃、遊びにいったどこかの浜辺で先行く母さんを見届けながら、逆光で表情の隠れた父さんは俺のアタマを撫でた。
何のハナシで俺にヒーローになれっていったのかは忘れたけど、あの頃はどんな景色よりも輝いていた気がする。
ヒーロー。ヒーローって……。
俺のヒーローは人生のヒロインとあっさり別れて、俺をサラって俺を知らない土地の学校に転校させた。ずっと思い入れのあった秘密基地という名の家からは引っ越して団地住まい。やってることは悪党もいいとこだ、と子供ながらにあの人がイヤになった。
今思えばイロイロ大人の都合ってのがあったのにノリが悪かったと反省してる。新しい場所での新しい出会いを『きっかけ』と思えていたのなら、人生が変わっていたのかもしれない。
もう、過去を責めても前に進めないんだ。
俺みたいなヤツは深く考えないでテキトーに生きてりゃいい、フツーを目指してな。生きるための信念だとかヒーローの条件なんて難しいハナシは、マンガやゲームの主人公が代わりに見つけてくれる。可愛いヒロインが寄り添ってな。
俺は平和歩いていたい。誰も傷つけたくないし、傷つきたくない。こうやって歩道橋から見下ろして、どこかへ向かう走者を眺めてるのが俺の人生──。
ぅゥウウウウン……
ぅゥウウウウンン──……
ポケットから振動が伝わってくる。くそ、先輩か。
あぁ面倒くさいな、二次会に誘うときはホンっとしつこい。ムシだムシ! もう今夜は帰って寝るぞ。イヤな気分を忘れたいんだ。
俺は深くため息をついて、ふらつく足取りで歩道橋をわたり階段に足をかける。
ぅゥウウウウン……
ぅゥウウウウン……
まだ鳴ってるよ。
ま、スマホのマナーモードなんて気づかないことも多い。最悪「寝てました、すんません!」で通せる。言い訳なんてどうとでもなる。ウソにウソを重ねるのだけは得意なんだ。
ぅゥウウウウンンン゛──……!!
ぅうンウンウ゛ウ゛ン゛ン゛……!!
おかしい。どんどん強くなってる。
生き物みたいな独特のリズムだ。バイクふかしてんじゃねぇのかってレベルだぞコレ!?
「なんだよ、クソ!」
羽織っていたコートに手を突っ込みスマホを取り出す。
「……え?」
名前の表示が文字化けしてて読めない。非通知とかならまだしも、なんだこれ。
米印やら得体のしれない造形文字ばっかじゃ──。
「あ゛……っ」
一瞬だった。
よそ見スマホをしていたら、踏み下ろす距離間違えた。
しかも、これ……ヤバ。
前に倒れ……!
「あ……ぁ!」
助け──。
せめてもの抵抗で俺はとっさに眼を閉じると、倒れる前の顔面にあたる風圧を感じつつ頭部への衝撃を『きっかけ』に世界から意識を絶った。