第十話 帰還
これが本当の最終話になります。
後少しお付き合いください。
朝日が昇り、辺り一面がはっきりと分る頃、義郎は目を覚ました。辺りを見渡すと起きている者も居れば、まだ寝ている者も居る。
義郎は他の兵隊が追いかけてきていると想定し、少しでも遠くに逃げようと思った。義郎は隣の女にみなを起こすように伝えた。
「みんな、川を下る。さすがにここから川を下って逃げるとは思わないから、辛いが水の中に入るぞ」義郎は振り向いて言った。
その時だった。崖の上からこぶし程の石が降って来た。
義郎は慌てて屈んだ、「皆、しゃがんで川の中に入れ!」と言った。
崖の上を見ると、草の分け目から、軍服を着たものが居るのが見えた。
(まずい! あいつらだ!!)
義郎は川下の方へ向き、出来るだけ姿勢を低くして歩き出した。滝の音がうるさい為、音で気づかれる事はない。義郎は「しゃがみながら、急いで歩け!」と言いながら、一番先頭に行き、足早に進んだ。
再び川に流され滝から離れて行くと、徐々に滝の上の方がはっきりと見えてきた。同時にそれは向こうからも義郎たちが見える時だった。崖の上に居る兵隊が義郎たちに気づき声を発していた。
義郎たちは川の流れに身を任せたが、浅瀬に入り川底に体が擦り始めた。
「皆、先へ進むぞ!」と義郎は言った。
水の抵抗を受けながら、必死で歩き始めた時、前方の方にアメリカ軍の兵士が三名居るのが見えた。しかし義郎は迷わずアメリカ兵の居る所に向かおうとしていた。後ろに着いて行く女たちは足を止めた。
「止まるな! 前へ進め!」と、義郎は女たちの方を振り向いて怒鳴った。
(敵に捕まった方が、助かる可能性がある。恐らくガキまで殺しはしないはずだ!)
義郎の作戦はアメリカ軍に降伏すれば、村人は助けて貰えると思っていた。
アメリカ兵は自分たちの方に向かってくる日本人を見て、怪訝な表情をした。
「おい、日本人がこっちに向かってくるぞ」と真ん中のアメリカ兵が両隣の兵士に言った。
「なんか様子がおかしくないか?」と、左手に居るアメリカ兵が言った。
「前の日本兵は殺さないと、こっちがやられるぞ」と、右手の兵は眉はひそめながら、少し嬉しそうに銃を構えた。
義郎は自分に銃を構えられているのに気づき、手を上げながら「おーい! 降参だ! 降参するから撃たないでくれー!」と、大声でアメリカ兵に向かって言った。
アメリカ兵には、川の音で義郎の声は届かない。届いたとしても日本語が分からない。アメリカ兵は三人共銃を義郎に向けて構えた。
「止まれ! 止まらないと撃つぞ!」と、右手のアメリカ兵が義郎に大きな声で言った。しかし、その声も川の音で義郎には届かない。
川の中を急いで歩き、足で水を蹴る音だけが鳴り、どんどん義郎とアメリカ兵の距離が縮む。アメリカ兵はトリガーに指を置いた。
「パーン!」
甲高い音がこだまし、義郎の近くの水辺が大きく跳ねた。その音が日本兵の銃の音だと義郎にも分かった。
(滝の上から俺が狙われている……)
義郎の足が止まり、ゆっくり両手を上げた。「アメリカ軍の兵士の方に向かって、みな走れー!」と叫んだ。
再び銃声がこだました時、義郎の横を次々と村人が通り過ぎて行った。
義郎のひざが折れ、慌てて足を踏ん張ろうとするが、左肩に大きな火傷を負ったような熱さと激痛が走り、動くことがままならなかった。
(待ってくれ! 俺は、まだ死ねんのや! 登美枝が待ってるんや!)義郎は焦った。
前方から銃声が鳴り、辺りに村人の悲鳴が聞こえだした。
(どうなってるんや……。)
義郎の体も膝が折れて下半身が水に浸かり、上半身が折れるように前に倒れようとしている。必死に顔を上げるが、腰から下は動くこともできなかった。必死で上半身を起こし、立ち上がろうと右足を動かそうともがく。
義郎の前で騒ぐ村人の様子が義郎には目で見えても意識に入って来ず、ちらちらと細かい粒子のような光るものが見えてくると、義郎の体は左にゆっくりと傾きだした。
義郎の脳裏には登美枝の姿が映り、「うち、待ってるよ」と寂し気な表情をしながら言っている。
(待ってくれ、俺は、まだ死ねんのや。たのむから登美枝に会わせてくれ……。)
何度も銃声が響く中、義郎の体が横向きに水の中に沈む。
アメリカ兵の一人が義郎の傍に寄り、義郎の体を水の外へ引き出そうと、義郎の腕を引っ張った。義郎の体が水の上に出てくると、頭がうなだれている。
アメリカ兵は、水中に沈む方の脇に腕を通して抱えるように川から引き上げるが、義郎の目は瞳孔を開こうとしていた。
「義郎、こんな所で寝てたらアカンでー。はよ~、起きて帰ってこんと、俺が登美枝を貰うぞ」と宗一郎の姿が浮かび言って来た。
「宗一郎、何か眠いわ……。ここで眠ってしまったらアカンが、今は無理や、後で起こしてくれんか?」と義郎のかすかな声が漏れた。
「何、言っとるんや。お前が帰ってこれんと、登美枝が悲しむわ! 甘えてんと、はよー、起きろ!」と宗一郎は呆れた顔をしながら言う。
「アカン……、むりや……。少し寝るわ……。起きたら……登美枝に会いに……行くから……、そのあ……いだ……、たのむ……わ……、ホンマ……頼むわ……」
少しずつ宗一郎の姿が消えて行き、再び登美枝の泣いている顔が義郎の頭に広がった後、一瞬で暗闇に変わった後、義郎の意識はなくなった。
雄人は膝を床に着き、登美枝の手の上に自分の手を重ねるように置いた。
「登美枝、帰って来たぞ。長い間、待たせて本当に悪かった……。」雄人の目に涙が溜まり、それを見た登美枝が微笑みながら「よしろうさん?」と言った。
「やっと帰れたんや。お前に会いたくて帰ってきたんや! 登美枝、お前に話したいことが山ほどあるんや。俺の話、きいてくれるか?」雄人は嬉しそうに言った。登美枝は目をうるませ頷いた。
雄人は立ち上がり、車椅子を長椅子の向かい合わせにすると、そのまま長椅子に座った。それから二人は一時間話した。
登美枝は笑みを浮かべたり、すすり泣きしていたが、雄人は常に誇らしげに話していた。誰の目から見ても恋人の様子に見える。その場に居る悠奈も介護ヘルパーも現実とは思えない光景に、夢でも見ている感覚に陥っていた。
二人の会話が終わる時、雄人が「またお前に会いにくるからな」と言った。雄人は自分の顔を登美枝の顔の傍に近づけて唇を軽く重ねた。登美枝は驚く事もなく、ただ目を閉じて雄人が納得行くのを待った。やがて雄人はゆっくりと唇を離すと、すっと立ち上がった。そして介護ヘルパーの方を向いた。
「ありがとうございました。これからも登美枝さんの事をよろしくお願いします」と言い、介護ヘルパーに深々と頭を下げた。
介護ヘルパーは返す言葉もなく、ただ軽く頭を下げて、登美枝の車椅子を押して雄人と悠奈の前から去って行った。
「そろそろ帰ろうか」雄人は悠奈の方に向いて言った。
「私には今の出来事は、全て理解不可能だ」悠奈は雄人を睨みながら言った。「今の人は雄人にとって、どんな関係になる?」と質問した。
「悠奈は非現実な事は信用しないよね? 今、僕の言えることは、あの人は僕の魂の繋がりの佐竹(義郎)さんが愛した女性だ。」と雄人は答えた。
そこから程なく二人は介護施設の外に出た。
外に黒の高級車が停まっていて、その中から宗一郎が姿を現した。
「義郎、神戸駅まで送るぞ」と宗一郎は言った。
雄人の顔つきが変わった。「悪いな、俺もお前に頼みたい事があるんや。」と義郎の口調に切り替わった。
運転手が車のドアを開けて、三人が車に乗り込むと「神戸駅まで行ってくれ」と宗一郎は運転手に告げた。
「それでワシに話しておきたい事は何だ?」
前の席に座る宗一郎をミラー越しに見た雄人は、「俺が戦死した理由、お前は聞いてるか?」と言った。
「お前はアメリカ兵の居る所に突撃して、アメリカ兵に撃たれて亡くなったと聞いてる。」宗一郎は眉をひそめながら言った。
「その時、村の人たちも一緒に居たと聞いてなかったか?」
「そんな話は聞いていない」宗一郎は、はっきりと答えた。
「その時、生き残った日本兵は居なかったか?」雄人は目を瞑り、義郎の亡くなる瞬間を思い出していた。
「ああ、一緒に戦った日本兵が一人、生き残ったとは聞いたと思うんだが……。」
「そうか……。じゃあ、そいつだ。」雄人は眉間に皺を寄せながら言った。宗一郎は訝しげな表情をした。
「そんな昔のこと、どうやって探すんだ?」
「だから、お前の力を借りたいんだよ。」
そう言った後、雄人は力強く目を見開いた。
ここまで読んで頂いた方、本当にありがとうございました。