分岐点の駅
いつもの帰り道。
高校での部活動が終わった時間。辺りは真紅に包まれる夏の夕暮れ。
遅まきながらひぐらしが鳴き、それ以外には時々通る車の排気音と、電車の通過する音。そして私の革靴の足音だけ。
殆ど静寂と言っていい。慣れた音は雑音には含まれないと私は思う。
駅のホームにたどり着くと、いつもの見慣れた黄色の花が咲き乱れる花畑が目に入る。
何の花かは分からないけれど、私は結構気に入っている。豪奢ではないものの、黄色の海にも見えるこの風景は落ち着く。時折吹く風も水面を揺らすかのように花を揺らし、花たちが揺れる音ですらさざ波のようにも感じる。
生まれて一度も海には行ったことはないけれど、ここにいるだけで遠くに広がるであろう海を想像できる。
黄色い花畑を眺めた後、ホームを見渡すとふと黒い影が揺れた。
夏なのに真っ黒の膝まであるコートを着た男性が佇んでいた。
ひょろりと高い背に、異様なまでに白い肌の見慣れない男性だ。
男性は一心とも言えるくらい線路をジッと見つめている。
最近、学校で不審者に注意するように言われているのもあり、少しドキリとする。
男性は何も言わずに、ただ線路を見つめている。
だけど見ているのは線路ではないとすぐにわかる。
向かいのホームに置いてある花束だ。
この駅には昔、女子高生が三人集団自殺したとも言われており、その家族が献花に来ているらしい。それをジッと見つめる男性が言いようのない恐怖を駆り立ててくる。
気付かれないように移動し、電車が来るのを待つ。
男性を意識しないように俯いたり、視線を逸らしていると、ふと足元に影が揺れた。
それが男性の影だと分かるとドキリと胸が鳴る。
「珍しいね」
声を掛けられ、おずおずと顔を上げる。
目の前にはやはりあの黒いコートを着た男性がいた。
人懐っこい笑顔をしているものの、夕日を背にしている彼の表情は何処か邪悪…いや暗く見えてしまう。
睨む…なんて出来ればいいのに、怖くて視線を逸らしてしまう。唇をキュッと噛みしめ、電車が来るのを待つしか出来なかった。
「そう怖い顔をしないで下さいよ。ただの駅員ですから」
男性の言葉が耳に届く。チラリと見てみると、男性は駅員や警察官が被るような帽子を頭に被り、さらに私を警戒させないようにか、両手を広げて見せた。
私が知る限りこの駅は無人駅のはず…
「ここは無人駅ですから。時々、利用状況とか調査しないといけないんですよ」
男性の言葉に息を呑むと同時に、少し恥ずかしくなる。
心の中を読まれた…と思ったものの、私自身が不審者を見るような目を向けていたので、当然なのかもしれない。
「何かごようですか?」
必死に声を絞り出したものの、直視するのが怖くてチラリチラリと見てしまう。
男性は小さく小気味よく笑い、「怖がりですね」と少し嬉しそうな口調になる。
「この駅なんですが、余りにも利用する人が少ないので、隣の駅と合わせて統廃合するような話が出ているんですよ」
男性はそこまで言うと少しだけ悲しそうな表情をした。
「あなたに利用者として聞きますが、困ります?」
男性の言葉や態度に訝しつつも、私にとってはいつも使っている駅なのでなくなってしまうのは困る。
「はい…」
私の答えに男性は満足そうに頷いていた。
彼にとっても、この駅が残って欲しいのだとは分かる。
「そういえば×××高校の生徒ですよね?」
男性に尋ねられ、頷く。私の制服から察してくれたのだと思う。
男性は首を傾げながら、駅から南の方向を指さし、
「皆は元国鉄の方を使っていると思うんですけど、どうしてこっちの私鉄に?」
「こっちからの方が家が近いので」
私は答えながらも一瞬目線を外してしまった。
男性は何かに感づいたように一度頷くと、
「ふむ…じゃあ、元国鉄の方でも学校には通えます?」
この言葉に答えを躊躇してしまう。それでも、何かを感づいてしまった彼に嘘は言えないと考えた結果、ゆっくりと頷いて返す。
私の答えを見ると、男性は頭を掻き、笑顔と共に分かりやすく悔しそうに口元を歪め、
「そうですか。まぁ、そうですよね。こんな私鉄では行けるところも少ないですからね。さすが天下の国鉄様です。この国のありとあらゆるところに血管のように張り巡らされ、血という人間と届けてくれる。こんな毛細血管は切れても言いとでも…いえ、その通りですね。どちらが切れても多少イタムだけですので」
ジョークを交えながらペラペラと話し始めたと思うと、男性はこちらの表情をうかがってくる。
そして少し残念そうに肩を落とした。
私が無表情に彼を見つめていたからだと思う。
多分、彼は悪い人ではないと思う。安心させたいとか、そういうのは口調からでも感じ取れる。
男性はふと思い出したように、
「ああ、そうだ。一大人として忠告しておきますが、こんな廃線寸前の列車は利用しない方がいいですよ。」
そんなことを口走った。
「なんでですか?」と私が聞き返すと、彼は両手を大仰に振り上げて見せ、
「そりゃあ、利用する人が少ないので、変質者とか出た時に助けを呼べないじゃないですか。この辺を管轄する駐在さんなんて、ここまで車で20分も掛かる訳ですし」
身振り手振りを合わせて、私に説明してくる。
彼が不審者ではないのは分かるものの、私は意地悪も合わせて、ジッと彼を見ていると、
「その目は…もしかして僕を見てます?」
またもや、大袈裟に反応して見せて「服は着てますよ、ほら」とコートをはだけさせた。
勿論、彼が着ている服が目に入った。
よくイメージに聞く、露出魔の動きを真似るようにした彼の動きに、思わず笑みをこぼしてしまう。
思った以上に彼はジョークが好きだったり、お茶目な人なのだろう。
彼は満足するように頷きながら、頭を掻き、
「ああ…君が男の子なら良かったんですけどね。あ、ゲイではないですよ。調査期限は今日までで、今までずっと昼頃にここにいたんですけど、誰も来てくれなかったんですよ。それだけこの列車は使われいないし、僕も使えない昼行燈な人間だから。多分、この駅とは気が合うんですよね」
男性は言い終わると同時に、踵を返し、近くにあった自動販売機に硬貨を入れ始めた。
飲み物でも買うのだろう。今日は暑い上に、彼は真夏にも関わらず黒いコートを着ているから余計に暑いと思う。
男性はスポーツドリンクを買ったと思うと、こちらに差し出してきた。
「えっと」と言いながら、反応に困ってしまう。
「奢りですよ。コメディアンのショーに行くにはお金が必要だけど、これは調査だから、協力してくれた人には報奨金を払う…うーん、これは上手くないなぁ」
差し出されたジュースを受け取り、弱ったとでも言いたげな男性に、
「ずっと滑ってましたよ」
真実を伝えると、男性は大げさに「なんてこったい」と楽し気な口調で答えてくれる。
多分、滑っていると一番に自覚しているのは彼なんだろう。
「今日は38度までは行くようだし、熱中症には気を付けて…って君は大丈夫そうだね」
男性が軽い口調でそう言いながら、コートをはためかせた。
確かに私の服装は涼し気だと思う。彼に比べては。
男性から貰ったスポーツドリンクをカバンにしまうと、彼は「ぬるくなっちゃうよ」と残念そうな表情を浮かべたものの、本来の仕事を果たすように線路の先を見つめ始めた。
私と彼だけがいるホームにひぐらしの鳴き声と、風が黄色い花畑を通り過ぎる音だけが流れる。
静かな時間に思わず心が安らぐ。彼という少々の雑音があった物の、私の日常も平穏もいつも通りにここにある。
「そうだ。君、涼んでいかないか?」
男性が唐突に言葉を発した。
思わずこれはギャグなのかな、と思ってしまう。やっぱり不審者なのかな、と冷静に考えてしまえるのは、彼から危険な感じがしないからかもしれない。
「結構です」
知らない人にはついて行かない、というのは全国津々浦々で共通事項。事実、私は彼の名前も知らない。後でクレームを付ける為に聞いてもいいのだけど。
「そう言わずに、電車が来るまで、ここで。」
彼はそこまで言うと、目を輝かせ、
「夏には怪談だよ」
彼の口上に呆れてしまう。
「肝だけを冷やすんですね」
「その言い回しは素敵だね。その通り。この駅にはエアコンがないからね。冷やすのなら地球全てのエアーをコントロールするか、自分達だけが涼しくなるしかないからね」
「核の冬でも起きれば涼めそうです」
「そこまでの肝を試す気はないね」
男性が愉快そうに笑い、
「ほら、テケテケって知ってるかい?」
彼の言葉に少しの間考え、頷く。
聞いたことがある、と思ったら昔映画で見たのだと思い出していた。「何となく」と答えてから、一応確認する為に、
「赤い、足の短い類人猿ですよね?」
私の言葉に男性は絶句していた。
何か間違えてしまったのだろうか、と思っていると、男性は困ったように眉を曲げ、
「あ…えっと、そうじゃなくて…あ~…あれもテケテケか。それなら僕はシャカシャカの方が好きかな。まぁ、あれの中ではトイレの花子さんもいいキャラしてたね」
「花子さんですか?」
「ああ。正体不明って言う感じで静かに怖がらせてくるのが、まさに肝試しって感じがしたよ。」
その感想は分かる気がする。
スプラッター映画を見て、驚かせるのではなく、静かに何もせず現実に干渉し見えなくなっていくのは印象的だったから。
男性はため息をつき、
「時代なのか分からないけど、花子さんは今や正義のヒーローになってたり、病んでたり、美少女になってたり、魔法少女見たいに変身したりしているからねぇ」
「大変そうですね」
「人気だからね。さしもの彼女は怪談界隈ではアイドルみたいなところがあるから、そのうち、歌って踊り出したり、ユニットを組むんじゃないかと冷や冷やするよ」
「肝が冷えますね」
「まさにね」
話しながら花子さんが歌って踊っている姿を思い浮かべてみたものの、ジュニアアイドルのようにしか思えない。怪談要素がない。多分、花子さんよりもそんな会場に来ている観客の方に目が行くと思う。
男性は「話しが逸れた」と自嘲気味に笑い、
「テケテケは違いましたか?」と聞き返すと、困ったような笑顔を見せた。
「う~ん。合ってはいるんだ。けど、元…なのかなぁ?あれのおかげで認知され、物語が急速に広まっていったからね。いや、そうだね。仕方ないね」
男性は何かに納得したようにしていから、
「テケテケって言うのは上半身だけの女性の幽霊か、妖怪見たいなものだよ」
幽霊と妖怪は似たものだと思うけど、明確には違うのかな、という関係ないことを思い浮かべてしまった。あと、女性だったんだと、そのことには少し驚いた。
私の知っている赤い類人猿もどきは、どうみても男の子という感じがしたから。
男性は一度咳払いをしてから、
「その女性は…列車事故にあって、下半身と上半身を電車の車輪で切り裂かれて、即死できず、必死に下半身を探していたらしい。死後も自分の下半身を探して彷徨い、赤い色を身に着けた人間を見つけたら上半身を切り取ってしまうらしいよ。さらに、下半身を奪われたら次のテケテケになるらしいしね」
男性が話した内容を想像してみたものの、どうも首を傾げたくなってしまう。
「あれ、怖くないのかい?」
男性が尋ねてきたので、ゆっくりと頷き、
「現実味がなくて。ただ、駅のホームでする話ではないと思います」
要約すると列車事故の後に幽霊になった女性の話だと思う。
下半身を探して…と言っていたけど、赤い色と何か関連するかも分からない。もし、私が同じ状況なら、引いてきた電車の関係者に復讐すると思う。
多分全部を話してくれた訳ではないと思う。私が知らない内容にその真意があるのかもしれないと考えると余計に、怖いと思うより、好奇心という興味しかわかない。
もう一つ付け加えるなら、男性がまるで天気の話でもするように、怖がらせようという意思を感じられない。ただ淡々と報告するだけ、といったように。
「そうかい?駅にはぴったりだと思うんだけどね。まぁ、襲われたら、『地獄へ帰れ』か『地獄に落ちろ』と唱えないといけないらしいよ」
「その人は罪人だったんですか?」
私が聞き返すと男性は目を丸くした。
「えっと?どういうことかな?」
「地獄って、罪人が落ちるところじゃないんですか?それとも、北海道の登別に帰れ、ということですか?」
男性は頷きながら、「ああ。うん…そうだね」と言葉に窮していた。
「何の罪もない人に『地獄に落ちろ』なんて言うのは、傲慢以上に罪深いと思います。」
「成程。何の罪もないテケテケにいきなり地獄に落ちろなんていうのは酷いよね」
男性は一度、帽子をかぶり直し、線路の先を見つめた。
その先には遮断機がある。途中、影が横切っていくのが見えた。大きさからして猫だと思う。
「…でも、地獄…登別に温泉街に帰れというなら、少しだけこの話を作った人の優しさは感じますね」
私が付け足すと、男性は驚いたような表情をしていたものの、すぐに笑みを浮かべた。
「そうだね。上半身だけで必死に自分の下半身を探している彼女に、疲れているだろう、と湯を勧めるのはいいかもしれない。たまには休んで、とね」
その言葉をふと想像する。
この変わり者の駅員さんが、上半身しかない女性に話しかけている姿を。
きっと彼はチョコンと腰を曲げて、笑顔で伝えるのだろう。よく滑るジョークを交えながら。
そんな彼の姿が容易に想像できてしまう。
「残念ながら、この電車は北海道まではいけないから、地獄に落ちろ、そして湯に浸かれと言っても、青函トンネルを使うことをお勧めしないといけないのは、ここの駅員として悲しいところだよ。」
男性が嘆くように誰に言うでもなく言うと、ふと後ろの茂みが微かに動いた気がした。
何かが走り去っていく。ペタペタという音が連続して。
余程、足の速い生き物だったのか、音はすぐに聞こえなくなってしまった。
「面白い目の付け所だね」
男性が満足そうに笑うものの、よく分からない。面白い目の付け所と言われても反応に困る。
男性はゆっくりと息を吐くと、
「なら、君にはこれも聞いて貰おうかな」
そう言いながら、話を始めた。
何処かの誰かの話を。
駅のホームで待っていると、俺の前に割り込むように若い男が入ってきた。
どこに目を付けてんだよ、と言いたくても何も言えず、俺はホームに電車が来るのをただ待つしか出来なかった。
そう思って言うる内に、けたたましい音と共に電車がホームに滑り込み、乾いた空気を圧縮するような音と共にドアが開いた。
俺はいつものように電車に乗り込み、お気に入りの席へと足早に移動する。
しがない会社員をしている俺はいつもうたた寝をしながら電車に揺られている。
プログラマーを仕事としているが、正直に言って辛すぎる。
視力はいつの間にか眼鏡を掛けなければ新聞も読めなくなり、家へ帰る頃には深夜か、朝日を拝んでいるのが日常だ。
福利厚生の健康診断でも赤い文字がいつも並んでいる。
この仕事を辞めないといつか死ぬな、なんて同僚と良く話しているが、俺も同僚も職場を離れるようなことはない。
三流大学しか卒業できず、それでも夢であるいつか自分のゲームを作りたいと思って必死にプログラム言語を履修した。
卒業後2年間就職先も見つからず、奨学金に苦しめられながらもバイトで必死に食いつなぎ、ようやく見つけたプログラマーとしての職場。
現実は甘くなく、三流のプログラマーの俺に回ってくる仕事はゲームやアプリではなく、ひたすら統計業務の集約アプリの開発だ。上司にも言われたがどうやらこっちの方が性にあっているらしい。
俺は夢を見て、夢を見せたくてゲームを作りたかったのに、職場はいつまでも現実を突き付けてくる。おまけに現実の数字を現わし続ける仕事にしか才能がないなんて悲しみを通り越して笑える。
だから家にいても、今まで大好きだったゲームに手が伸びず、次の日になるのを怯えながら布団にくるまり、眠ることも出来ぬままただ時間を浪費している。
まるで自分自身に「夢を見るな」と言っているようだ。
医者が言うには『鬱』らしい。成程、的確な答えだと拍手したくなった。
医者はその後、「休むことを推奨する」と言ってきたが、それは笑えない。仕事を休めば俺は餓死する。
仕事をして苦しみの内に死ぬか、せずに苦しんで死ぬか。
そんなものは愚か者の代名詞と蔑まれ続けた『ゆとり』と言われた俺にだって答えを出せる。
どうせ死ぬなら前を向いて足掻いてから死んでやる、と割り切っている。
そして、死ぬなら職場だ。迷惑をかけて後ろ脚で砂と泥を掛けて死んでやる。
結局俺にとっての安息の地はここ以外にない。
例えるなら職場はいつでも月曜日で、家はいつでも終わりかけの日曜日。俺にとっての土曜日はここにしかない。僅か30分程の時間だが、それでも俺はこの土曜日を愛している。
だから電車で揺られている間はうたた寝が出来る。何も考えず、何にも恐れずに。
喧噪ですら、話し声ですら俺には子守唄だ。周りを気にしない女子高生の姦しい話声や男子学生の意味のない爆笑でも、職場でのカタカタと鳴りやまないキーボードの音と、上司の小言よりは安らげる。
勿論、俺はこの平穏を愛しているし、存外『鬱』と診断された俺には大切な物を守りたいという高潔な意志まで生まれてしまっている。
見せかけの革のカバン。客が少ない時間ならマナーとしては最悪だが開いている隣の席に置き、客が増えれば胸に抱えるくらいのことはする。
他にも自分の為に、向かい合うタイプの席なら、俺は必ず通路側に座る。こうしていると隣が開いていても滅多に人が座らない。
詰めてくれる?
そう言われれば小心者の俺はすぐに詰めるのだが、隣に関取でも座らない限り圧迫されることもない。つまりは平穏だ。
今日はいつものように空いている向かい合うタイプの席に腰を下ろし、通路側に腰を下ろす。
俺がうたた寝をしていると不意に隣に誰かが隣に座った。
チラリと見てみるとそれが小さな女の子だと分かる。
一人か?そう思いながら腕時計を確認すると時刻は昼の2時を指示していた。
昨日は帰りそびれたから今日は早めの退社だったと思い出した。
その前と前も帰りそびれていたから、3日ぶりの土曜日となる。そう考えると俺は恵まれているのだろう。なんていったって普通の人は7日に1回しか土曜日がこないのに、俺には最低でも3日に一回30分だけの土曜日が来ているのだから。
周りを見てみるが親はいなさそうだ。
まぁ、この子が騒いだりしないのが救いだ。きちんと姿勢を正して座っている姿は何処か聡明さも感じる。
そう思っていると、電車が止まると同時にやかましい音楽を垂れ流しながら、下手な歌を口ずさむ若者が乗ってきた。
煩いヤツだ、と顔をしかめたくなる。
周りを見てみるが空いている席はない。大人しく入り口付近にいるかと思ったものの、煩い男は自然とこちらの席の方へ近づいてくる。
それと同時に女の子が席を立ったかと思うと、何も言わずに席から離れていく。
余程うるさかったのだろうか、女の子が席を立ち離れていくと、煩い男が相変わらず歌ったまま奥の席に座る。
耳障りだと思いながらも俺は目を閉じ、煩い下手な歌から逃げるようにお気に入りの音楽を頭の中で反芻することにした。
グッドタイムと繰り返す歌詞を思い出しながら、早くこのバッドタイムから逃げ出したい気持ちを何度も思い浮かべる。歌詞のように凄まじく気持ちがいい、ということはないが。
これが俺とあの子の初めての出会いだった。
それから数日が経った。
時刻は昼の2時頃だ。統計のアプリに問題があり、呼び出しを受け昨日も徹夜だったが、この程度で終わって本当にホッとしている。
俺がいつものように30分だけの土曜日を満喫していると、あの女の子がまた隣に座ってきた。
「ヘイ!またかよ!」なんて言わない。俺はテレビのコメンテーターでもないからだ。
いや、コメンテーターでもそんなことは言わないだろう。最近テレビを見ていないので知らないが。
視線を送ったのは一瞬だけ。
女の子をずっと見ていて通報なんてされると神聖な俺の土曜日を奪われる。
そんなことは許容できない。
職場と留置所ならきっと留置所の方が安息の地なのだろうが、それでもこの土曜日が奪われるのは我慢ならない。
電車が駅のホームに滑り込むと、数人が電車の中に入ってきた。
席は埋まっていき、最後に送れるように多くの荷物を持った老婆が乗り込んできた。
老婆はヨロヨロとした足取りで俺の席の近くに寄ってくると、じっと席を見つめた。
見て分からないのだろうか。どちらも座っているのが。
ここは優先座席ではない大人しく他を当たってくれ、と心の中で思ってしまう。
ふと、隣に目をやると、女の子は老婆をジッと見つめる、また何も言わずに席を立ちあがった。
君がどくことはないだろうにと呆れそうになる。
女の子は一度だけ俺の方に視線を送ってきた。その表情は怒っているでも、憐れんでいるでもなくただ、こちらを見つめてきた。
俺が移動するべきだったか、とそう思いながら俺は席を詰める。
老婆は席に腰を下ろしたものの、感謝の言葉もなく疲れた表情をし、おまけに俺の座っている付近まで持っていた物を置き出した。
狭い…と文句を言いたくなるのをぐっと堪え、ひんやりとしたシートに体を預け、もう一度眠りへと落ちることにした。
女の子が何故席を譲ったのか分からない。
俺には到底理解できないね、と呆れを通りこしてため息が出た。下より理解する気がない自分に対してもだが。
また数日が経ったある日のことだ。
ホームは混んでいた。
どうやら本当の土曜日らしい。皆、どこかに出かける為に旅行の支度をし、家族連れだ。笑顔を見せ、何処に行くかを口々に話し合っている。
どうやら世界は残酷らしい。世間にとっての土曜日は俺の土曜日を奪ってくるようだ。
電車に乗り込んでから、座れる席を必死に探すと席が一つだけ空いているのが見えた。通路側ではない。窓際だが、それでも悪くない。
座ろうと近づくと、あの女の子がいた。
女の子の背が低くて、見えていなかった。気まずい。
女の子は俺を見上げ、不思議そうな表情をしていたが、口元を一度だけ結び、何も言わずに席を立った。
声を掛けようかと思ったものの、人込みをかき分けるようにすぐに見えなくなってしまう。
それと同時に電車が駅に到着した。どうやら大型の駅についたらしい。続々と家族連れ達が降りていき席は疎らに空くようになった。
俺はあの女の子が空けてくれた席に腰を下ろそうとし、少しだけ腹立たしさを覚えていた。
俺が空けさせたみたいじゃないか、と思いながらその通りだったので、どこにもその感情をぶつけられなかった。
ふと、高齢の男性が席が空いていることに気付いたようで、席に近づいて行く。
「どうぞ」とだけ言い残し俺は臍を噛む。
恩着せがましい。糞くらえだ。偽善者だ。善人ぶるな。
いつも席を空けているのはあの子だろうに。
そう言い聞かせながら俺は入り口の近くへと移動し、微睡めない今の状況に苛立たしさを覚える。
またある日、俺が電車に乗り込むと、空いている席が窓際にしかなかった。
こっちの席は余り好きじゃないが、仕方なく座っていると、ふとあの女の子が乗り込んできたのが見えた。
女の子は席を探している様子で、キョロキョロと辺りを見回していた。いつも席を空けてあげているのだから、もういっそ探さなくていいのでは、と思いながらも、女の子と目が合ってしまった。
前の借りもある、とそう思いながら席を立ち、
「どうぞ」と俺が促すものの、女の子は慌てた様子を見せ、走り出してしまった。
周りはそれを気に留めることもなく、近くにいた老婆が「優しいねぇ」と俺の開けた席に座った。
あんたにじゃないんだが、と言いたくなるが小心者の俺には何も言えなかった。
そして、それが分かったある日。俺が電車に乗り込んだのは夜だった。
今日は仕事が早く終わり、朝日を見ぬまま仕事が終わった。
夜に乗るのは久しぶりだな、と一息つき、席を探していると、通路側の席が空いているのが見えた。座ろうと移動すると、窓際にあの女の子が座っていた。
女の子は俺を見上げると、目線が合い、少しだけ驚いたような表情をしている。
こんな夜中に何してるんだよ。
「あー…」と間抜けな声が出てしまうものの、話すこともない。
この子の親がどうとか俺には心底どうでもいい。例えどこぞでくたばっていようが、俺に与える影響は一つもない。
いつものように座ると、女の子もいつも通り窓の外を眺めていた。
何度か乗り合わせた結果か、警戒されていない様子だ。
俺としても物静かなこの子は嫌いじゃない。
謙虚で静寂。隣に人がいても鬱陶しく思うタイプだからだ。
好意を持っているかというとそうではなく、彼女の行動には嫌悪感に近い。
きっと温かい家庭で育ったのだろう。まだ小さい自分への特権意識などなく、自分よりも他人を優先する優しい子だ。
結果的に俺としては隣に煩い若者や、感謝の言葉を知らない老婆などが乗り合わせてくるので、不快感を伴っている。
この子の所為ではないとは分かっているが、『もう少し自分を大切にしろ』と言いたくなってしまう。
電車がいくつかの駅を過ぎても相変わらず女の子は俺の隣から動こうとしない。
怖くて動けないのか、と思っていたものの、女の子は熱心に真っ暗な外をジッと見つめている。
電車が黄色い花畑の見えるとあるホームで止まると、姦しい女子高生くらいの三人のグループが乗ってきた。
三人は何やら楽しそうに大声ではしゃぎ、お互いに手を叩き合っている。
煩いのがまた来た、と俺はため息が出る。
ふと、三人の内の一人が、カバンをかかげたと思うと、両足で踏み切ってカバンを放り投げた。
カバンはものの見事に俺の席の隣に飛んでくる。
「いえーい!スリーポイント!」等と言い、テンションが高い。
思わず睨んでしまう。
何がスリーポイントだ、と。俺は3ポンドの大砲でもぶちかましてやりたい気分だ。
そこに座ってるだろうが、と思わず言いたくなってしまうが、やはり何も言えない。
そして、三人組が席に近づいてくると、そのうちの一人が気が付いたのか「ごめんなさい」と謝ってきた。
俺はイライラとしながらも、無視し、振り返る。
女の子は既に席を立ち、驚いた顔をしていた。
そりゃあ驚くだろうな、いきなりカバンが飛んできたのだから。
謝ってきた女子高生が慌ててカバンに手を伸ばす。
そして、見てしまった。
女の子の体を通り過ぎていく手を…。
女の子は胸を両手で押さえたと思うと、首を何度も横に振り女子高生を通過するように走り去っていった。
俺は何も言えず、ただ茫然と女の子の背中を見ていた。
俯きながら走っていく女の子を目で追っていたが、すぐに三人グループが逃げ出すように走り出したので、その女の子は背中で見えなくなった。
その真実にたどり着いてしまい、思わず俺は俯く。
「誰にも見えていなかったのか…」
俺はそう溢しながら、さっきの喧噪を気にも留めず、女の子が座っていた席に腰を下ろした酔っぱらいを黙って見ていることしか出来なかった。
あれから俺は窓際に座るようにしている。
時々、隣や周りに誰もいなければ、
「空いてるよ」
そう言ってから俺は通路側の席へと移動するようにしている。
その時は決まって俺は寝たふりをして、窓側を見ないようにしている。
俺の想像通りの存在がいても反応に困るからだ。
見えていない者はいないのと同じで、俺のような人間も変わりがいくらでもいるからいなくてもいい存在だ。つまり俺のあの子も同じようなものなのだろう。
この世になんの功績も残せず、ただ消えるだけの存在がする傷の舐め合いのようなおままごとも悪くはない。
こんな小さく、誰にも理解されないことが俺の生きがいだ。
誰にも理解されなくていい。どうせ俺の人生は残り少ない。
なら残りは趣味で生きてやる。生きるのを趣味にしてやる。
それすら出来ない存在だっているのだから。
「人間は偉大だろ?」
そして傲慢だろ、と自慢げに嘲笑を交えるように言ってみせると、誰かが呆れいてるような気がした。
ゆっくりといつもより穏やかな微睡が降りてくる。
「次はきさらぎ…きさらぎ駅です」
そんなアナウンスだけが俺の耳に響いてきた。
「どうかな?」
と話し終えた男性が笑顔を見せ感想を求めてくる。
その言葉に、「えっと…」と言葉が詰まる。
男性は小さく笑いながら、
「そうだね。分からないよね。怪談っていうのはそういうものもある。一度だけじゃ分からなくても、視点を変えてみればゾッとする、というのもね」
言われた言葉から、さっきの話を思い返してみたものの、余り怖いという感じはしない。
「ごめんなさい。やっぱり怪談としては」とそこまで言いながら言葉に詰まる。
恐る恐る男性に視線を送ると、彼も気にしていないといった雰囲気で笑顔を浮かべていた。
それにしても、テケテケといい、さっきの話といい、どちらも駅や列車にまつわるものだ。この駅の信用を堕としかねないかもしれない内容を話す理由が分からない。
「どういう意図があるんですか?」
私の質問に男性はあっけからんとした表情をし、
「折角…というか、人が滅多に来ないからね。怪談話でもあれば人が来るかな、と思ってね」
男性は付け足すように、「古いしちょっと不気味だからシチュエーションもばっちりだ」と。
それは笑えない冗談だと思う。
普段から利用している私としてはここがなくなると困る。もう少し真っ当な方法で利用者を増やしてい欲しいとも思ってしまう。
「怖がって人が来なくなると思うんですけど?」
「必要なのは話題性だよ。人間は危ないと分かっていても嵐の様子を見たくなるものだからね。好奇心で乗ってもらうのさ」
悪戯っぽく笑う男性。呆れそうになる。
「例えば、テケテケのことを僕は『たすけて』から来ていると思っている。”たす”と”けて”で別れた言葉。本来歩くはずの下半身ではなく、上半身だけが動いているからあべこべで、”テケ”とね。上半身が探している下半身というのが彼女の名前になったと言うなら、これ以上の皮肉もないかもしれないけどね」
その言葉には同意しかねる。横暴過ぎる理論だと思うから。
ただ、救いを求めているというのなら、悪くないかもしれない。
「粗雑で粗末な物語でも、興味が沸き探求し想像すると違うものが見えてくる。そうは思わないかい?」
彼の言葉にふと考えがよぎってしまう。
さっきのテケテケの話がここに繋がったんだと。
話が曖昧で真実が分からなかった私は、確かに他の事を知りたいと好奇心が芽生えた。
どういう話なのか、どういう意味があるのか、と。
テケテケの話をあえて淡泊にしたのは、正体不明な物の真実を考える楽しみを教える為だったのかもしれない。
そう思うと彼は驚かせたり、ジョークを言うのはイマイチだけど、語り手としては優秀なのかもしれない。
「テケテケは良く出来ていると思っているけどね」
彼がそう言い、こちらに視線を送ってくる。
こちらの反応を見ているのは間違いない。
これで私が、淡泊にしか話されていないものの、良くできていると評判のテケテケを調べ恐怖でおののくか、それともさっきの電車の中での幽霊の話を考え恐怖するか…
きっと彼はどちらでもいいのだろう。
勝手に私が肝を冷やし、夏のこの暑さの中、涼しさを感じるのなら。
彼の意図が分かり、「意地悪ですね」と答えると、彼は大仰に笑って見せ、
「バレちゃったかな?」
彼の言葉と共に、高い音がホームに鳴り響く。その音に気付き顔を向けると、電車のライトがゆっくりと近づいてきていることがわかった。
風を切る音をそこそこに、古びた電車がホームに滑り込んでくる。
空気を圧縮するような音と共に扉が開き、私を迎えてくれる。
こう思うのは傲慢かもしれないけれど、ホームにはいつも通り私かいないから、この電車は私専用の特等車だから。
「迷わずに帰るんだよ」
彼の言葉に「ありがとうございます」と答え、電車の中へと歩を進める。
私の言葉を聞いた彼は満足そうに、
「良き旅を。君にハバナグッタイ」
多分はあの有名なロックバンドの歌詞を踏襲したのだと思うけど、クスリと笑ってしまった。
電車の中に入り、振り返ると彼はゆっくりと、
「降りる駅は分かっているね?」
そんなことを訪ねてきた。
勿論、覚えている。この黄色花園の駅の次の駅は…
「ええ、次のきさらぎ駅です」
彼は私の言葉に満足そうに頷き、
「そうか。じゃあ、いってらっしゃい。行き過ぎて黄泉平坂まで行っちゃダメだよ。寝過ごしても起こしてくれる人はいないからね」
彼の言う通り、電車の中には私以外の乗客がいない。本当に廃線間近なんだ、と少し寂しく思ってしまう。
彼の冗談を聞き終わると同時に、ドアが閉まり、電車が走り出した。
遠くなっていく、黄色い花畑の駅を後に、私は開いている席に座り、ゆっくりと目を閉じる。
いつも以上に、家までの道のりをゆっくりと眠れる気がする。
一人、駅のホームに残った駅員の男は軽く息を吐く。
「彼女は気付いているのかな?」
そう言った彼の後ろ。無人の駅の改札をくぐり一人の女の子が彼に駆け寄ってきた。
「駅はbifurcation(分岐点)だ。色々な景色を結んでくれて、その中で色々な人とも会えるものだ」
彼は一度だけ、女の子に視線を向けた後、
「さて、答えは出るかな?」
そう言い残し、無人の改札へと歩いて行く。