時代劇ショートショート【心中立】
「指切りげんまん拳万、嘘ついたら針千本飲ーます」
夕暮れ時の路地で、二人の子供が小指を絡ませている。何を約束したのかはわからないが、二人は笑顔だ。
子供らは約束事をするときに歌うわらべ歌としか思っていないのだろうが、意味は非常に重い。「指切り」は約束を守ることの証として小指を切断するという意味であり、「げんまん」は「拳万」と書き、約束を破った場合は拳骨で一万回殴るという意味である。「嘘ついたら針千本飲ます」はそのままの意味で、約束が嘘であったなら針を千本飲ませるということである。
元々指切りは、遊女が客に愛を誓ったときの証であった。商売を抜きにして本気で惚れた客に、切り落とした小指を贈ることで、「本当に愛しているのはあなただけ」ということを示したのである。これを「心中立」と言った。
この心中立てが世間に広まり、約束のときの風習になったのである。
魚屋の半吉は、子供達が指を絡める様子を横目で見ながら、急ぎ足で通り過ぎた。
「あんな幼え子供でも約束を守るってのによ。お軽のやつ」
半吉が向かっていたのは、両国にある回向院門前の岡場所だった。そこの女郎屋・相模屋のお軽に会うために急いでいたのである。
この日、半吉は魚を入れた桶を担いで甲州屋を訪れていた。甲州屋は浮世絵の版元で、半吉の得意先だった。
半吉が桶の蓋を閉めて帰ろうとすると、女将のお雪が呼び止めた。
「半吉さん、鯛は持って来れるかい?」
「鯛ですかい? そんな高え魚、今日はありやしませんが、鯛がご入用で?」
「今日欲しいって訳じゃないんだよ。その内にって話さ」
「何か、めでてえことがあるんですかい?」
「出入りしている浮世絵師に、眠々斎っていうのがいるんだけどさ、その眠々斎が嫁を取るっていうのさ。それでね、内の人が『鯛で祝ってやる』って言ってるんだよ」
「気っ風の良いご主人らしいや。それで、婚礼はいつなんで?」
「それがね、いつになるかわからないんだよ」
「どういう事で?」
半吉は首をひねった。
お雪は困惑した表情を浮かべながら言う。
「相手は岡場所の女郎でさあ、借金を返し終わったら一緒になるって話なんだよ。だから、いつになるかハッキリしないんだよ。まだまだ先になるんじゃないかねえ」
「わかりやした。そん時は言ってくだせい。立派な鯛を仕入れてきやす。それにしても、女郎を嫁にするなんざ乙だねえ。どこの女郎なんで?」
「相模屋のお軽っていう女郎さ」
「えっ、相模屋ってーと、両国の?」
「そうさ。知っているのかい?」
「ええ……まあ……」
半吉は固まった。お軽は、半吉が馴染みにしていた女郎であった。それだけではない。半吉はお軽と夫婦になる約束をしていたのである。
「眠々斎という人がお軽って女郎と夫婦約束をしてるってえのは、確かなんですかい?」
「確かだろうさ。女郎の書いた血判状を見せられたもの」
半吉は肩を落とした。ただの誓約書だけならまだしも、血判まで押したというのだから、半吉が落胆するのも無理のないことだった。
「半吉さん、どうかしたのかい? 顔色が悪いよ」
「何でもありやせん。次に行かねきゃならねえので、これでおいとましやす」
半吉は、背中を丸め天秤棒を担いで勝手口から出て行った。
「お軽、お客さんだよ」
相模屋の女主人が声を掛けた。
お軽は「あいよ」と返事をし、客の待つ部屋に向かった。
ふすまを開けると、半吉がいた。
「ご無沙汰だったじゃないか。寂しかったよ」
お軽はしな垂れ掛かるように半吉の横に座った。
いつもなら、「会いたかったぜ」と言いながら抱き付いてくるのに、今日の半吉は不機嫌な顔をして黙っている。
「どうしたのさ。いつもの半吉さんらしくないじゃないか」
お軽は媚びを売るように手を半吉の太腿にのせた。
「お前、ゆくゆくは俺と夫婦になるって約束したよな」
「したよ」
「なら、何で眠々斎の嫁になるって話になってるんでえ!」
お軽はぎくっとしたが、おくびにも出さずに言う。
「何のことだい?」
「とぼけるねえ。こちとら、血判状を渡したってことも知ってるんでえ」
「私が血判状を書いたっていうのかい?」
「違うなんて言わせねえぞ。『眠々斎が血判状を見せて、お前と夫婦になるって言ってた』と、得意先の甲州屋の女将から聞いているんでい」
(商い先から聞いたんだ。これは認めるしかないか……)
そう考えたお軽は、半吉の正面に座り直して目を見つめる。
「ああ、そうそう、思い出したよ。確かに血判状を眠々斎さんに渡したさ。でもね、仕方がなかったんだよ。店の女主人から『このまま売り上げが少ないままだと、いつまで経っても借金を返しやしないよ。嘘でもいいから夫婦約束をして金を使わせな』と言われたんだ。だから、嫌々渡したんだよ」
女主人はそんなことを言っていない。お軽が客を逃さないために独断でやったことだった。
お軽の説明を聞いても、半吉は納得していない様子だ。
「でもよ……」
「私の立場も考えてよ。店からそう言われたら断れる訳ないじゃないか。それに、借金が早く返せれば、それだけ早く半吉さんと一緒に暮らせるんだよ。私が愛しているのは半吉さんだけ。信じて」
「わかったよ。でも……」
お軽は「まだ何かあるのかい! 言いたいことがあるなら、ハッキリ言いやがれ。それでも江戸っ子かい」と言いそうになったが、グッと抑え、笑みを浮かべて「でも、何だい?」と訊いた。
「俺との約束は口約束じゃねえか。証が欲しい」
半吉はお軽の小指を握った。
「小指を切り落として心中立をしろっていうのかい?」
半吉は黙ってうなずいた。
(冗談じゃないよ。こんな男と夫婦になるつもりなんかないんだ。指なんかやるもんか)
憤慨したお軽だったが、表には出さない。
「それで半吉さんが信じてくれるなら、この小指をあげるよ。でもね、一緒になった後のことを考えたことがあるのかい? 一緒になったら、私は半吉さんに尽くしたいんだよ。例えば、半吉さんの着物を洗ったり、半吉さんのために料理を作ったりしたいんだよ。でも指が無いと、何かと不便だろう。よくよく考えておくれよ」
半吉は、お軽が井戸端で洗濯したり、米を研いだりしている姿を思い浮かべたようだ。ニヤけている
「お軽の言う通りだ。確かに、指が無いと不便だ」
「そうだろう。わかってくれたかい」
お軽は安堵した表情になった。
「小指はいらねえ。その代わり、その肌に俺の名前を彫ってくれ」
(困った男だね。入れ墨を入れるなんて、やりたかないよ。どうあしらったらいいのかね……)
お軽が考え込んでいると、半吉がお軽の肩をつかんで揺すった。
「まさか、嫌って言うんじゃないだろうな。仕方がなかったとはいえ、眠々斎には血判状を渡したんだ。それ以上のことをして貰わなきゃ証にならないぜ」
半吉はお軽に迫る。
「嫌じゃないよ。でも、入れ墨を彫るなら、道具が要るじゃないか。道具が無いんじゃできやしないよ」
「わかった。入れ墨を彫る道具があればいいんだな。今度来るときに持ってくらあ!」
半吉は勢いよく立ち上がった。
「ちょ、ちょっとお待ちよ」
お軽は半吉の袖をつかんだが、半吉は振り払って部屋から飛び出して行った。
「行っちまったよ。困ったことになったねえ」
数日後、相模屋の女主人が客待ちをしているお軽を呼びに来た。
「お軽、半吉が来たよ。部屋に通したから行っとくれ。そうそう、いつもと様子が違うようだけど、何かあったのかい?」
「実は、肌に名前を彫って心中立をしろと迫られているんですよ」
「めんどくさい男だねえ。まさか、入れ墨を入れるんじゃないだろうね」
「入れ墨を彫るなんて真っ平御免ですよ」
「わかってるとは思うけど、あんな男でも金蔓なんだから、うまくあしらうんだよ」
「わかってますよ」と言って、お軽は重い足取りで部屋に向かった。
「半吉さん、いらっしゃい」
「針と藍染の染料を持って来たぜ。どこに彫る? 腕か、太腿か?」
既に、針と染料の入った瓶が広げた風呂敷の上に並べられていた。
お軽は仕方がなくその横に座る。
「急ぐことないじゃないか。まずは飲みましょう」
「酔っぱらって寝ちまったら、なにもならねえ。まずは彫ってからだ」
半吉は何が何でも彫るつもりのようだ。
「彫るって言うけど、何て彫るんだい?」
「そうだな、『本命は半吉』とでも彫るか」
「半吉さん、例えばお前さんがどこかで女郎を買ったとするだろう。その女郎に他の男の名前が彫られていたらどう思う。興ざめして、その女郎を避けるようになるだろう」
「決まった男がいるとなりゃ、その女郎の元には通わねえな」
「そうだろう、皆そうさ。男の名前なんか彫ったら、客が寄り付かなくなっちまうのさ。そうなると、売り上げが無くなっちまう。私がそうなったら、借金が返せなくなるんだよ。借金が返せなきゃ、半吉さんと一緒に暮らすこともできないんだよ。それでいいのかい!」
お軽の気迫に、半吉は押されて弱々しい声で答える。
「そりゃ困る」
「だったら、入れ墨を彫るなんて言わないでおくれよ」
「……入れ墨は諦めらあ。でもよ……俺は、お軽が眠々斎っていう野郎と夫婦になるんじゃないかと心配なんでえ。だから、『お軽が夫婦約束をしたのは本心からじゃねえ。お軽の本心は俺と夫婦になることだ』と眠々斎にわからせてやりてえのよ」
最後の方は涙声になっていた。
「泣かなくてもいいじゃないか。半吉さんにも血判状を書くよ。それでいいだろう」
「それじゃ、眠々斎の野郎と同じゃねえか。眠々斎が納得するようなものじゃねえとならねえ」
「どうすりゃいいんだい? 半吉さんの背中にでも書くかい?」
お軽はそう言うと、手を打った。
「そうだ、そうしよう。半吉さんの背中に『相模屋のお軽は、ねずみ長屋の半吉さんと夫婦になることを約束します』と彫れば、誰もが納得するだろうし、半吉さんの覚悟を示すこともできるじゃないか。それがいい」
「俺の背中に彫るのか!」
思わぬ方向に話が転がり、半吉は驚きながら首を振った。
「私の肌に入れ墨を彫ろうとしていたのに、自分にお鉢が回ると断るのかい? それでも江戸っ子か!」
一喝され、半吉はたじろぎ、消え入りそうな声で言い訳をする。
「そうじゃねえ。そんな長え文句を彫るとなったら大変だと思ってよう」
「じゃ、何て彫る?」
最早、入れ墨を彫らない訳にはいかなくなった。半吉は覚悟を決めたようだ。
「『本命は半吉』でお願いします」
そう言った半吉の姿は、罠に嵌って逃げることを諦めた動物のようだった。
半吉は上半身裸になってうつ伏せに横たわり、お軽が腰の上に跨った。
「『ほんめいははんきち』でいいんだね。平仮名でいいかい?」
「そりゃないぜ。漢字にしてくれ」
「私は平仮名しか書けないんだよ。漢字にするなら手本を書いておくれ」
寝転がった半吉はお軽から筆と紙を受け取ったが、なかなか書き始めない。寺子屋にろくすっぽ通っておらず、漢字が苦手だったのである。
「えーと、『ほんめい』って確かこんな字だったな」と、半吉はつぶやくと下手な字で書き殴った。
文字が書かれた紙を受け取ったお軽は、それを見ながら半吉の背中にグサリと針を刺した。
「ギャー。何しやがる痛ーよ。深く刺すんじゃねえ」
お軽は「仕方がないじゃないか。入れ墨なんて彫ったことがないんだから」と言いながら針を抜き、もう一度刺す。
「ウギャー。もう止めてくれ。これ以上やられたら死んじまう」
「わかったよ、止めるよ。でも、どうする? 心中立は止めるかい?」
「針の代わりに筆で書いてくれ。藍染の染料だから洗っても落ちねえからよ」
「情けないねえ」
お軽は呆れながら筆に染料を含ませ、紙に書かれた文字を手本にして書く。背中に大きく書かれた五文字はなかなか達筆だった。
半吉は、うつ伏せで染料が乾くのを待っていたが、いつの間にか寝入ってしまった。
翌日、半吉は甲州屋を訪ねた。
「おや、半吉さん。今日は商いじゃないようだけど、どうしたんだい?」
出て来た女将のお雪が不思議そうに訊いた。
「浮世絵師の眠々斎さんの家を教えて欲しいんで」
「眠々斎に用があるのかい?」
「ええ」
「眠々斎なら仕事場にいるよ。案内するから上がんなさいよ」
女将は背中を向けて歩き出した。半吉は慌てて後に付いて行く。
仕事場に着くと、女将は「眠々斎、お客さんだよ」と職人達に向かって声を掛けた。
一人の男が立ち上がり、半吉の方に向かって歩いて来る。
「わてが眠々斎やけど、どなたでっか?」
(こいつが眠々斎か。上方もんの野暮天じゃねえか)
半吉は眠々斎に話掛ける。
「アッシは魚屋の半吉と申しやす。相模屋のお軽と夫婦になると耳にしたんですが、本当でやすか?」
「本当やで」
「実は……、アッシはお軽と夫婦約束をしてるんで。お軽のことは諦めてもらいてえ」
「何言うとんねん。わてはお軽から血判状を貰っとるんや」
「その血判状は、相模屋の女主人が無理強いしてお軽に書かせたもんなんでさ。お軽の本命はアッシなんで」
「本命やて! 証拠はあるんか?」
「諦めの悪い野郎だな」
半吉は眠々斎に背を向けてあぐらをかくと、「お軽が書いたこれを見やがれ!」と啖呵を切って諸肌を脱いだ。仕事場が静まり返える。
眠々斎は背中を見てキョトンとした。何で本命の証になるのかわからないようであったが、事情が呑み込めたようで、次第に表情を崩した。
「ぷっ、わっははは。あんさんの名前はそう書くんでっか?」
眠々斎が馬鹿にするように大笑いすると、作業場にいた職人達もドッと笑った。
半吉の背中には、「本名は半吉」と大きく書いてあった。
<終わり>
心中立とは「心の中を見せ、証を立てる」という意味である。
初期の頃の心中立は、血判書や切り取った髪を贈ることだった。しかし、血判書や髪は容易に渡すことができる。中には、客の気を引くためにそういうことをする遊女もいた。そのため、心の内を証明するにはエスカレートせざる得なかった。生爪を剥いで渡すようになり、次いで小指を切って贈るようになったのである。実際には、自分の指を切り落とすことは少なかったらしい。死体から指を切り落として渡したり、作り物の指を贈ったりしたとのことだ。
心中立は更にエスカレートし、男女が一緒に死ぬ、つまり「心中」になるのである。
岡場所は幕府非公認の遊郭のことである。幕府が公認した遊郭は吉原だけであったが、江戸の街にはあちこちに非公認の遊郭があった。