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頭の中にいる誰か

 十年という歳月を経て私はこの世界に再び現した。やはり十年も外の世界を見ることができなかっただけに今、目の前に見渡す限りが何もかも素晴らしく思えてくる。私はまたこの世界で人生をやり直す事ができるのだ。生まれ育った家に足を運ぶと廃虚になっていた。玄関を開けると懐かしい匂いが漂ってきた。家具などは十年前と同じ状態に置かれてあった。棚の上に埃まみれた写真立てが置いてあり、埃を取り払うと家族の顔が見えた。あの世界にいた時は顔も思い出せなかったのに……。台所に行くと夕飯の支度らしきものが広がっていた。二階の階段を上がるとミシミシと音をたてた。自分の部屋に入るとベッドの上に服が散乱していた。机の上には日記帳が置いてあり、日付をみると十年前で書き書けのまま終わっていた。廃虚となっているこの家には誰もいない。私一人だけがいた。耳を澄ましていても何も聞こえてこない。郵便局の人が手紙を配っていた。当然この家にはこないと思っていたが窓から覗くと家の前に止まっていた。私はすぐさま玄関を飛び出した。郵便受けを覗くと大量に郵便物が出てきた。家族宛の郵便だと思っていた。しかし、どの封筒を見ても私宛の手紙だった。いつから貯まっていたのだろう。部屋に戻り消印の日付の順番に並べてみた。三ヶ月に一度この郵便物が届けられている事に気がついた。私は一番古い封筒から中身を開けた。家族写真が何枚か入っていて手紙は一行だけ書かれてあった。

【滅びることなり】次の封筒を開けてみるとまた家族写真。そして、

【呪われることなり】手紙の文字に心当たりはない。だがこの手紙は本当の事を伝えている。三通目を開けてみると顔だけ刳り貫いてあった。

【逃げてもムダなり】四通目は落書きされている。

【近い日に会うことなり】写真はそれぞれ一枚ずつ入っていた。そこに私の家族四人が仲良く写っていた。写真は全て同じ。この家の庭で十年以上前に撮影したものだ。今日届いた封筒を開けてみると、

【殺人者なり】途端に私は泣き出した。私が悪いんじゃない。あれは事故だったんだ! そう言い聞かせた。夜になり廃虚となっている我が家の玄関を開けようとするが扉は開かない。鍵もかかっていないのになぜ? 裏のドアから出てみようと扉を開けようとするがやはり開かなかった。窓の外をみると雨が激しく降ってきた。冷蔵庫の中には何も入っていなかった。当たり前だ。電気もガスも何もかもが止められているのだから。とりあえずカバンの中から食料を取り出し食べた。久しぶりのコンビニ弁当は昔よりだいぶ味付けが濃くなった気がする。飲料水もいろんな種類が増えていた。私が刑務所の中から出てきていることをあの人は知らないだろう。十年も経てばお互い顔も変わるだろう。この我が家にたどり着くまでの距離は少なくとも知り合いには会っていないはずだ。近所の風景もだいぶ変わっていた。どうしてこの家は壊されなかったのだろうか? 両親は既にこの世にいないのに。親戚の人もあの事件が起きてから訪れた形跡は全くみられない。私は縁を切られて当たり前なのだから。

私は十年前、家族を殺した。家族崩壊が物心ついたときから続きそれが耐えられなくなって殺した。罪悪感なんてものはなかった。当時、私はまだ中学二年生だった。勉強もそれなりに出来ていたほうだ。ただ、友達が少なかった。クラスからは孤立していた。真面目でおとなしく内気な性格で気の合った人としかしゃべらなかった。でも、好きな人はいた。部活は陸上部に所属していて走ることが大好きでイヤなことが起きても全て忘れ去ることが出来た。つまりそれなりの思春期を普通の人たちと同じように暮らしていた。だが、家に帰るとその性格は豹変する。真面目でもおとなしくでもない。ちょっとしたことですぐに家族に暴力を振るわしていた。私だって両親から虐待みたいなことをされていたからお互い様なのだ。私は家族をこの世から殺したことで快感を味わっていたのだ。殺しても私はいつも通り学校へ通っていた。凶器となった包丁は毎日持ち歩いていた。わずか一週間で警察に見つかった。遺体をどこか別の場所に隠しておけば良かった。今でも罪悪感などない。殺して当たり前だと思っている。裁判で判決を下された結果、死刑にはならなかった。まだ、少年法が改正されていなかったのだから。あの事件が起きた日の夜に私は家族をめった刺しに殺した。私も血を流した。台所にあった包丁を手に持ち、まず最初に妹を殺した。妹はお風呂に入っていた。まず、妹を風呂の中で溺死させた。意識がないことを確認してから持っていた包丁で体を刺した。湯船の中はたちまちに血の海となった。妹は泣き叫ぶこともなくて簡単に殺せた。次に殺したのは母だ。母は寝室のベッドで横になって寝ていた。夕飯のときにお茶の中に睡眠薬を投入させていたので眠っていた。ロープで首を絞めた。そのときに母は目覚めた。と、同時に私の手にも力が入った。しかし大人の力には勝てなかった。母はすぐに私を蹴飛ばした。私は飛ばされて机の角で後頭部をぶった。一瞬、意識を失った。だが、母も意識朦朧としていて何が起きたのか分かっていなかった。まさか自分の娘に殺されるとは思ってもいなかったのだろう。私は起き上がり母に包丁を差し向けた。

「お母さん、今ね、私ね、杏奈を殺してきたところなの。杏奈ったらお風呂で鼻歌していて私のこと全く気がついてなかったの。だから次はお母さんが死ぬ番なのよ」

「あなたいったい、何をしているか分かっているの?」

と、母は電話の子機で警察に電話しようとしていた。

「電話なんて通じないわよ。あらかじめ電話線切っておいたから」

そういうと母は私に飛び掛ってきた。私はとっさに包丁を振りかざした。母の腕に切り刻んだ。すぐさま腕から血があふれ出した。母は叫び声をあげた。急いでハンカチで傷口を押さえるがあとからあとから血が流れてくる。私は母がそうしている間に逃げられないように部屋のドアに中から鍵をかけた。指紋は残さなかった。杏奈を殺したときも黒の皮手袋をはめていた。母が窓のほうへ逃げていくので私は後ろから包丁で刺した。何度も何度も刺し殺した。血はいっぺんに吹き出し部屋中の壁を真っ赤に染めた。母は窓の下にうつ伏せに倒れた。死んだのを確認してから私は部屋から出た。あと残るのは父だけだ。父はまだ会社から帰ってきていない。杏奈の様子を見に一階のお風呂場をのぞいてみた。杏奈は血の湯船の中に浮き上がっていた。

「杏奈、あんたも悪いのよ。死んで当然でしょ」

夜中の零時になり玄関でカタンと物音がした。父がやっと帰ってきたんだと思い、暗い廊下を歩いていると後ろから鈍器なようなもので突然殴られた。私はそのままうつ伏せに倒れた。そして今度は仰向けにされ馬乗りになって首を絞め付けられた。暗闇の中なのでいったい誰が私を殴りかかってきたのか分からなかった。私は服の中に隠し持っていた包丁で刺してみた。

「ウッ」

と低い声が響いた。この声は父だ。包丁を刺したままだったので抜こうとしたがそこに父はいなかった。父は台所へ向かったもようだった。台所の電気が明るくなり私は後頭部がとてつもなく痛かった。頭から血を流していた。多少、意識が朦朧としていたがどうにか台所へとたどり着いた。父は包丁を体からはずし私を待っていたようだった。

「絵麻、杏奈と母さんをもう殺したのか?」

「殺したわよ。次はお前の番だよ。さんざん私に虐待をし続けるから殺されるんだ。杏奈もあんたたちも最低だ」

父が私に向かって包丁を振り回し始めた。私は当たらないように逃げた。父が机の脚の角で足をぶつけたみたいで転んだ。と同時に包丁が私の目の前に落ちた。私は包丁をすぐさま拾い父の心臓めがけて刺してみた。だが、父はその前に立ち上がり心臓に包丁が刺さることはなくなった。父と激しく包丁の取り合いになった。そのときに、私の頬に少し切り傷ができた。

「絵麻、いい加減にしろ! その手を離すんだ。そして自首しろ」

「嫌よ。自首なんて絶対にしない。それにあんたを殺さなくちゃ意味がないのよ。私は警察なんかに捕まる気なんてない。犯人は外部犯として決めているから」

「俺も殺して遺体をどうする気だ?」

「遺体を捨てる場所はもう決まっているわ」

そう私が言うと台所にあったフライパンで父の頭を殴ってみせた。そしてすぐさま心臓に包丁を刺しこんだ。何度も何度も突き刺した。血が私の顔に飛び散った。すでに私の顔は母を殺したときに血まみれになっていたがそれ以上にひどかった。服にも当然のことながら血は染み付いていた。やがて父の息の根が途絶えた。

 終わった……。やっとこの闘いに勝つことができたのだ。私のこの十四年間は悲惨な生活だった。その生活にやっとピリオドを自ら打ち込むことができたのだ。嬉しい。私はもう誰からも干渉されない。

 その後、シャワーを浴びてから闇の中を自転車に乗って血の付いた服をゴミ袋に入れ遠く離れた場所の川原で燃やした。灰になり続けるまで燃やした。皮手袋ももちろん燃やした。問題は凶器となる包丁だ。これを捨てたらすぐに捕まってしまう。そんなのは嫌だった。

 帰ってきたら血の匂いで家中が充満していた。このまま見つからず腐敗すればいいのだが。凶器をどうするかということで頭がいっぱいだったため、すぐに朝日が昇った。そしてあっという間に学校に行く時間になってしまった。

 いつも通り学校までの道のりを、包丁を持ちながら歩いていた。普通ならビクビクするはずなのだがそんなのは吹っ飛んでいた。新聞紙に何度も包みカバンの中のポケットに突っ込んだ。学校で持ち物検査が一ヶ月に一回あるのだがちょうど検査終了後だったので安心して学校へ包丁を持って行けた。

 家に帰るとだいたいネットをしている。最近、会員制のコミュニティサイトに入ったのだが、好きなコミュニティに入ってからというものいい思いなどしたことない。最新情報で私なりにみんなに情報を紹介しているのにそこの管理人はグダグダとうるさい。コピーしたらダメだとか。著作権違反になるだとか。そんなことしていたらほかのコミュニティサイトはきりがないじゃん。私より年下のくせに威張りやがってウザイ。しまいにはメールで今後一切貼り付けるのは禁止と送りつけてきた。私はそれを何度もした。退会処分にすればいいのにそれもしない。ある日はあまりにも腹が立ってケンカでも売ってやろうかと思ったことがあった。あぁ、このサイトにもいつかお別れをしなければいけない。仲良くなったネット友達もいたのに。でも、証拠を残すわけにはいかない。今からすべて削除しよう。私の書き込んだいろいろなサイトにアクセスし削除した。そして最終的には日記を削除する。もし捕まったらこれが世間に騒がれる。そんなのは嫌だった。遺体と過ごす日々はなんだか面白かった。人間なんてあっという間に殺せるんだねってしみじみ思った。今まで男子中高生が殺人を犯したことはあったけれど今回ばかりは私は女だ。世間はどんな目で私を見るのだろうか? 犯人が女子中学生だと知ればみんなビックリするに違いない。

 家族を殺してから丸一日が経ったわけだけれど、普段と何も変わらなかった。家の電話線はあらかじめ私が切断したからかかってこない。誰からも電話はかかってこない。近所の人との関わりはあんまりないと思う。私は内弁慶だから一歩外に出れば誰ともしゃべらない。近所の人に会っても挨拶など全くしない。人とすれ違うときはだいたい下を向いて歩いている。視線を合わしたくない。

 明日は土曜日で学校は休みだ。一日中何をしていようか。まず、この遺体をなんとかせねばならない。切断してゴミにでも捨ててしまおうか。今なら血はもう吹き出さない。カチカチに凍ってしまっている。車の免許は持ってないからトランクに入れてどこかの山に捨ててくるのも無理だ。いっそ、この家ごと燃やしてしまおうか。

 翌日、土曜日。朝からインターホンが鳴った。一瞬、警察なのか? と思い窓からのぞいてみたが妹の友達らしき人だった。とりあえず家の外に出て、

「杏奈の友達ですか?」

「そうです。杏奈ちゃん、昨日学校を無断で休んでいたので心配しちゃって。風邪でも引いたんですか?」

「杏奈なら両親と旅行に行きましたけど」

「旅行ですか……。わかりました」

とっさに浮かんだ旅行。風邪にでもしておけばよかったのか。

 朝食を簡単に済ませ、遺体の隠し場所をどこにしようか考えた。家の下に隠してしまえば見つからない。そう思った私は和室の畳を持ち上げ板を取り外した。すると風が家の中に入り込んできた。ここだ。ここしかない。まず、私が懐中電灯を持ち中に入ってみた。外から見つかっては困るので確かめてみた。ひんやりとしている。遺体を置いておくには絶好の場所かもしれない。一番、最初に杏奈を風呂から運び出した。杏奈に服を着させて家の下に寝かせておいた。

次に、母、父を運び出し同じように横たわらせた。風呂の湯船を落とし何度も何度もたわしで磨いた。次に、寝室の壁が血まみれになっているので壁紙を変えた。あらかじめ買っておいた壁紙を自分の部屋から持ってきて綺麗に貼った。血まみれになった壁紙は、はがして夜中になってからまた川原で焼こうと思った。たったこれだけで一日がすぐに終わってしまった。そうだ、家族は旅行に行っていると言ったからしばらくは大丈夫だ。それにしても疲れた。大人を二人も運んだので体中が痛い。遺体は和室の真下ではなく少し離れた場所に置いてきた。夕飯を食べようと冷蔵庫を開けてみた。が、母は買い物に行っていなかったためかほとんど何も入っていなかった。カップラーメンを久しぶりに食べた。

その後、シャワーを浴びて自分の部屋のベッドですぐに寝てしまいそうになった。だが、川原に行かなくちゃいけないので、その準備をして自転車に乗ってまた同じ場所の川原へ行った。壁紙を燃やし続けるのにだいぶ時間がかかってしまった。ふと私は川のほうへ歩み寄った。川の水はひんやりとして冷たかった。思わず、私は川の中へ足を入れてみた。私もこのまま死んでしまおうか。そんなことが頭の中をよぎった。家族を殺し家に帰っても誰もいないところにいるのが私には耐えることができるのか? でも散々、嫌な目にあってきたのだから一人でいるのが怖くてどうするんだ。私は堂々としていれば良いんだ。何も恐れることなどない。死体なんて見つかるはずがない。そう決心した私は、また自転車をこいで家に帰った。

 家に帰宅すると、シーンとしていた。これからしばらくは遺体と過ごす日々になるのかと思うとさらに憎しみが湧き出てきた。やっぱ、放火してしまおうか? そうしたほうがスッキリするような感じがする。

 私はふと小さいころを思い出していた。


 あれはまだ私が四歳頃だったと思う。当時、父親は出張が多く家にいることが滅多になかった。母親が一人で育てたというのも無理はない。父親がたまに家にいるとちょっとしたことで両親でのケンカが絶えなかった。私が悪いことをするとすぐに父は私を怒るのではなく母に向かって、

「お前の育て方が悪いんだ!」

と口癖のように言っていた。そんな母はストレスが増して私に暴力を振るようになった。最初は私が悪いことをしたからその罰だと思っていた。熱いヤカンを頬に引っ付けてみたり、頬を手で思いっきりつねられたりしていた。ヤケドはそんなにはひどくなかったが、体中にアザはできていた。掃除機のホースで殴られたりしたこともあった。何も悪いことをしていないのに……。

 父は父で、母の悪口を何度も繰り返していた。

「離婚したらお前を殺す」

と、常日頃から大声を出しては言っていた。

 母も児童相談所や警察にも相談せずに一人でいつも悩んでいた。そしてどうにもできないときは私に暴力を振るってストレスを発散していた。そんな私は妹の杏奈にわざとおもちゃを壊したり隠したりしていた。私が物心ついたころにはどうして、両親は離婚をしないのだろう? と毎日思った。この地獄みたいな家から逃れられるのになんでお互い離れ離れにならないのだろうか? やはり私や杏奈がまだ幼いからなのだろうか? 片親にするのがかわいそうと思っているからなのだろうか? 

どっちにしろ、今現在の私にとっては両親ともにウザイと思っていたので早く離婚をしてくれと切実に願っていた。私が勝手に、離婚届に印を押してやろうかとすら思っていた。それくらい両親の仲は悪かった。外面は仮面夫婦のようになっていた。


 ああ、やっぱり物足りない。息の根を止めただけでは私の復讐は収まらない。するとマッチが目に入った。これを1本こすったら火が点く。熱くて長い時間手には持っていられなから絶対に手を離す。そしたらマッチは床に落ちる。そして燃え広がる。火は瞬く間に家を炎であらゆるものを焼き尽くすに違いない。そして自然と、床下に放置してある遺体も焼き尽くす。灰になってしまえばすごく助かる。頭の中でいろいろと考えるのはとても愉快だ。だが、放火したら私はどうすればいいのだろうか? 私もある程度のヤケドを負っていなくては間違いなく私が犯人扱いにされてしまう。そんなのはごめんだ。世の中の犯人はどういう思いで毎日を過ごしているのだろうか? 

 結局、放火することは頭の中の想像だけで終わり、自分がこれからどんな人生を歩んでいくのかが問題になった。

 私はまだ中学二年生。来年には高校受験を控えている。が、もし捕まったらどうなる? 学校にはもちろん通えなくなるし近所の目だってある。そう簡単に近所を歩き回ることができない。親戚にも迷惑がかかる。とはいっても親戚づきあいなんて浅くてどうでもいいのかもしれない。まだ中学生だよ。未成年だから刑罰は下らないかもしれない。だって過去にそんな事例、ニュースでも聴いたことがないし。最近の殺人といえば、男子高校生が他の男子高校生を刺し殺すということしか思いつかない。高校生だからやっぱり死刑にはならなくて少年院に送られて更生して出所する。が、殺人者の心理的には殺すというのが快感でもあり同じ過ちを犯す。だから痴漢犯罪者は減らない。女子中学生が家族を殺すなんて前例ないよね。ありえないよね。でも、そのありえないことをしでかしたのが私なんだよね。

 そして、殺人を犯してからの二日目の朝を迎えた。その日は朝から雨がポツポツと降っていた。相変わらず、カバンの中には包丁が厳重に入れてある。この包丁、どこかに捨ててしまいたい。どこに捨てようか? 

 学校の教室に入ったらみんなの視線が私のほうに向いていた。いかにも、

「なんだ。来たのかよ」

というような目つきだった。誰もおはようとは声をかけてはくれなかった。私も私で誰にも声をかけなかった。みんなが私のことを嫌っていることは私も知っている。けどこの中学校に入ってからは、本当の友達。つまり親友と呼べるような人はいない。しかもあの中学校に入ってから嫌なことばかり。もういや!あんな学校にいてもつまらん! そして、母親も、

「あんたの目はきつすぎる!」

と言われているからみんなが恐れているのかもしれない。

 放課中、本当に誰とも話さなかった。ただの友達の席に行っては、ドラマの話やマンガの話だしついてゆけない。しかも以前、近所に住む友達からこんなことを言われた。

「え~! 知らんの? 遅れている~。バ~カ。ア~ホ。まぬけ」

と言われた覚えがある。それ以来ただの友達ですらまともに話せなくなってしまった。私がいなければみんなだって嬉しいと思うの? 来年からはあまり学校には行きたくない。というか今でも行きたくない。なんで中学生までは義務教育なわけ? 

 帰りのホームルームで担任の先生から進路用紙を配られた。みんなが口々にしゃべりだす。私はどうしようかなぁ。誰にももう相談できる相手いないし。遺体に話しかけても答えてくれるはずがないし。白紙でいいかな。まだ自分の人生決まってないし。もしかしたら明日、警察に捕まるのかもしれないし。それだけは勘弁してほしいけどね。

「階堂、あとで職員室へ来い」

と担任から言われた。逃げるわけにもいかず、しぶしぶ職員室へ入ると、

「階堂、お前のお父さんの会社から電話がかかってきたんだが、家族旅行からまだ帰ってきていないのか?」

一瞬にして凍り付いてしまった。でも、気を取り直して、

「はい。まだ帰ってきていません。どうしてですか?」

「本来なら、一昨日に帰ってきているらしいのだが、会社に出社していないらしくてな。電話もつながらないみたいだが何か連絡あったのか?」

電話がつながるはずないじゃん。私が電話回線切っちゃったんだから。さあ、どうやってこの場を切り抜ける?

「家族からは何も連絡は来ていません。旅行先で車のトラブルじゃないですか?」

「階堂、ちょっとは家族の心配をしたらどうだ? お前おかしいぞ」

「心配ですか? だって私、家族からも見離されているし。今回の旅行だって私にはなにも話してくれなかったんですよ。当日になってから母親からしばらく温泉旅行に行ってくると言われて……。正直、私のほうがかわいそうじゃないですか?」

「どこの旅館に泊まっているのかも聞いていないのか?」

「はい、全く聞いていません。なので、連絡のとりようがないですね」

「事故に巻き込まれたのなら階堂の家に電話が入るしなぁ。そういう電話は入ってないのか?」

「電話は鳴っていませんよ。だから先生、心配しなくても大丈夫ですよ。何かに巻き込まれたのなら学校にも連絡来るでしょうし。今だって何も連絡が来ていないということは旅行先で楽しんでいる証拠だと思いますよ。私、早く帰って夕ご飯作らなくちゃいけないのでもういいですか?」

「そうか……。じゃあ、何かあったのなら先生に必ず言うんだぞ」

「は~い、わかりました」

そそくさと職員室から逃げ出してきた。何かあったのなら先生に必ず言う? アハハ。殺人犯しました! なんて、言えるわけがないじゃん。

 やっと学校での一日が終わった。父親の会社か……。家に連絡が取れないからといってわざわざ娘の学校に電話するか普通? あ~あ。包丁どうしようかなぁ。包丁を持ち歩いているというスリルにちょっと私はドキドキしていた。いつばれるのかどうかわからない家族の死体を私は毎晩、床を開けては確認していた。当然動くはずはない。息の根を止めてしまったのだから。私はやっとこれで自由になれる。これからどう生きようが私の勝手でしょ。学校もつまらないしどこか知らないところに行こうかな。どうせ捕まるのも時間の問題だし。今のうちに自分の荷物まとめておかなくちゃ。でもさ、私が自ら警察呼んで家族が何者かに殺されました! とでも言おうかな。

 その晩、私は荷物の整理をした。最低限のものだけをリュックに詰め込んで、気分はもう遠足。そのとき、突然インターホンが鳴り響いた。誰? こんな時間に? まさかまた杏奈の友達? それとも父親の会社の同僚?

 カーテン越しに外を覗き込んでみた。え? どうして? 私はリュックに詰め込んでいたものを慌てて元へ戻し、玄関の扉を開けた。

「中央警察のものです。階堂さんの娘さんですね?」

「そうですけど……。あの、なにか?」

「お父さんとお母さんはいるのかな?」

「旅行に行っているのでいませんけど」

「今朝、君のお父さんの会社の方から、ずっと会社を無断欠勤しているとの通報を受けてね。ちょっと家の中上がらせてもらっていいかな?」

 しばらくの間、沈黙が流れた。どうすればいい? まさか警察がこんなにも早く来るだなんて思ってもみなかった。遺体の存在など知らないから何を言われても知らないと言うしかない。

「どうぞ、お入りください」

 私は急須にお茶を注ぎながら、若干震えながらお盆に湯呑を載せ刑事の二人にさしだした。

 一口、飲みだすとドラマで見るような光景の事情聴取みたいに聞かれた。

「まずは、お父さんとお母さんはどこへ旅行に行ったのかな?」

「知りません。私には母から当日に温泉旅行に行ってくると言っていたので、私のほうがビックリしました。何か事件にでも巻き込まれたのですか?」

「行方が分からないんだ。君には妹さんがいるだろ? その妹さんも旅行に行ったのかな?」

「はい。私以外の家族で行くと言っていました。どこへ行ってどこで泊まっているのかも分かりません。電話もかかってきませんし。何かあれば電話がかかってくるはずです」

「そうか……。家族仲はどうなのかな? 行き先も告げずに旅行に行くとなるとそれは口実で実は無理心中でもして……」

「橋本さん、まだ中学生ですよ。中学生の子供を一人だけ残して無理心中だなんてありえませんよ」

と隣に座っていた刑事が慌てて言った。

「いや、すまない。もしかしたらと考えてね。事件にでも巻き込まれている可能性もあるから念のため、名刺を置いておくよ。何か変な出来事が起きたらすぐにそこに書いてある番号に電話をかけてくるんだよ」

「はい、わかりました」

「遅い時間帯に急に押しかけてしまってすいません」

刑事二人は何事もなく家を出て行った。

 私はドッと疲れが出てしまった。そういえば、荷造りの途中だった。湯呑を洗い、お風呂に湯を入れた。ここで杏奈は死んだ。一瞬、入るのをためらってしまったが疲れのほうが激しくてお風呂の中で少しウトウトと眠ってしまった。ほてった顔でお風呂から出ると、私はまた荷造りを始めた。明け方近くになり私は眠った。

 学校への道のりはそんなには遠くない。相変わらず、包丁は厳重に持ち歩いていた。途中で交通事故にでも遭ってしまったら、すぐにでもバレてしまうので歩くのも慎重だった。

 授業後の陸上部での部活で私は長距離のタイムを計っていた。今度の大会に出場するのでその体力づくりだ。そういえば最近、学校から帰ってきてからでも走っていないなと思った。体がなまっているせいかなかなかいいタイムは出なかった。顧問の先生からも、

「どうしたんだ、階堂? 全然タイムが落ちているじゃないか。基礎トレーニングは欠かさずやっているんだろうな」

「すみません。考え事をしながら走っていました」

「大会まで時間がないんだぞ。もっと自覚をもて」

そのとき、遠くのほうで、

「火事じゃないの?」

「すごい煙だね」

「近そうだから見に行こうよ」

と生徒たちが騒ぎ出した。

 パッと振り向くと確かに黒煙が空高く上がっていた。自分の家のほうだと思ったのは、生徒の一人が、

「あっちの方って、階堂の家のほうじゃないの?」

ハッとした私は、部活など忘れて慌てて自分の家のほうへ一目散に走り出した。学校から家までは走れば五分で着く。でも、自分の家のほうにはすでに何台かの消防車と救急車とパトカーが埋め尽くしていた。それに加え、近所の野次馬たちが何事かと思い道路に人だかりがどんどんと増えていく。

 ちょ、ちょっと待って。人の合間を潜り抜けてきた私は目の前の自分の家が赤い炎に包まれているのを見て何も言えなかった。

近所の人が私に向かって何か言っているのが聞こえてくる。でも、何を言っているのか全く私には理解できなかった。うそ、ウソでしょ。だ、だって家の中には。でも、どうして? どうして火事なんて? 私何も火なんて使ってないのに。どうして?

私は自然と足が動き出し、炎の中に向かおうとした。でも、消防の人に止められた。それでも私はなんとかして家の中に行こうとした。太陽が沈むころになり、ようやく火は鎮火し焦げた家の枠組みだけが残っていた。

私は、ただただ茫然とその場所に突っ立っていた。周囲がガヤガヤとうるさい。タンカーに運ばれていく三人の遺体は全身毛布をかぶっていた。当たり前だ。どこまで体は燃え尽きたのだろうか? どうせなら灰になるまで肉体が消えればいいのにと頭の中で妄想をする。誰かが、叫んでいる。

「ここの住人の関係者はいらっしゃいませんか?」

住人……。それは、私のこと? それとも私が殺したその遺体のこと?

騒ぎを聞きつけてきたのか、担任に声をかけられた。

「階堂、お前は大丈夫なのか?」

「大丈夫? なわけないでしょ! 自分の家が火事で全部燃えちゃったのよ!それに家族だって……。待って、待って、そのタンカーの中を見せてください!」

「ご家族の方ですか?」

ようやく警察が出てきた。警察手帳を見せられた。

「わたくし、中央警察署の橋本と申します。階堂さんのお嬢さんですか?」

「はい、長女の絵麻です。あのタンカーが三つもあるんですけど、どういうことですか?」

「なにしろ、全焼しちゃったものだから、身元の確認のほうを急いでいます。署までご同行願いますか? それとも、現場検証に立ち会いますか?」

どこかで見覚えがある顔だと思っていたら、父親の無断欠勤でこの間、家に来ていた刑事だ。若そうだな。

結局、私は、橋本という刑事の車で警察署に来ていた。その取調室なのかな?ここは……よくわからないけど。

「現場検証って、私、学校で部活やっていたんですけど」

「そりゃあ、君の格好を見ていれば学校にいたんだろうなという風に見えるけど。この間、家に伺ったときは、家族は旅行に行っていると言っていたはずじゃないのかな?」

「もしかして、私を疑っているんですか? 私が火を家につけたというのですか?」

「明日には身元が分かるそうだから。ご家族は、本当は旅行に、行っていなかったんじゃないのかな? 旅行当日に君に伝えた。でも、家族は君に申し訳なくていったん戻ってきたか、何か忘れ物でもしたのかな? それで、何か火元となるようなものが原因で火事になってしまった。もしくは、何者かが階堂さんに恨みをかっていて君の家を放火したとも考えられる。お父さんは、会社に行かずにずっと家にいたのかな? 普通なら家族の誰かが会社に電話をかけるだろう。だが、何日経っても君のお父さんは出社してこなかった。そして、会社から警察に届けられた。その間、君はどこで何をしていたのかな? 家にいたのなら、父親が風邪を引いているかくらいわかるだろ?」

この橋本という刑事、ウザイくらい私に質問攻めしてくる。私が放火の犯人だと思っているんだ。残念ながら私は、家族は殺したけど、放火などしていない。だって、私はそのとき学校にいたのだから。担任も見ているし、部活の顧問だって私を見ている。れっきとしたアリバイがあるじゃないか。なのに、なんで私を攻めてくるのだろう。

「ねえ、刑事さん。私、今日からどこで住めばいいんですか?」

「親戚の方、近くに住んでいないの?」

「親戚と付き合いあんまりないんで。それに服だって制服しか持ってないことになりますし。女子中学生にずっと制服でいろって、いうわけじゃないですよね? 火事で何もかも無くしてしまったんですよ。そのへん、ちょっと理解してもらえませんか? あと、女性の刑事さんとかいないんですか?」

「そうだった。君は女子中学生だったね。あとで、女性の刑事さんに頼んでおくよ。とりあえず、今日はもう遅いからこの辺にしておくよ。ちょっとここで待っていて」

そういうと、橋本刑事は部屋から出て行った。

私は納得がいかなかった。いったい、誰が何の目的で放火をしたのか。あの父親のことだから相当、会社からでも怨まれていたのだろうか? 全焼となってしまったから、遺体も丸こげなのだろうか。身元は明日分かるみたいだ。相当ひどいのだろうか? 司法解剖とかで刺された傷など分かるのだろうか? もし刺されていることが分かったら、外部犯ということになるのだろうか。犯人ともみ合いになり放火をしていった。外部の犯人となれば、私は家族を殺したことも何も疑いはなくなる。警察は、必死で目撃者を探すだろう。まさか、女子中学生が家族全員を惨殺したなど分かるはずないだろうし。世間だって外部の犯人だと決め付けるだろう。そうなれば、私は哀れな女子中学生となるはずだ。フッと私は笑みをこぼしてしまった。ドラマでよく見る、鏡の向こうに橋本刑事は私の笑みを見逃さなかった。

いきなり、部屋に女性の刑事が入ってきた。

「階堂絵麻さんね。この袋の中に一通り必要なものは入っているから。あと、泊まる場所なんだけど、しばらくはここで泊まってくれないかしら? 調べたところ、あなたの親戚の方にも連絡したんだけど、引き受けてくれなくてね。全くひどいものね。血を分けている親戚なのに冷たいわね。私の家に泊まらせるのもいいんだけど、上が許さなくてね。まずは、夕飯ね。何か食べたいものでもあるかしら?」

「う~んと、なんでもいいんですか?」

「出前でとるから大丈夫よ。その代わり、お金は支払ってね」

「女子中学生からお金を取るんですか?」

「本当なら、お代はあとからいただくんだけど、私がおごるわ」

「やった~! それじゃあ、ピザ頼んでください」

「分かったわ。それじゃあ、ここで待っていて。あ、トイレとか大丈夫かしら?」

「あの、私、部活の格好のままここへ来てしまったので、制服とか荷物どうなっていますか?」

「それなら安心して。先ほど、担任の先生が一式持ってきてくれたわよ」

と、ドサッとカバンとスポーツバッグを机の上に置いた。

 私の全財産というか、持ち物はこれだけしかない。この先どうやって生きていけばいいのだろう。帰る家もなくなってしまった。警察でしばらくお世話になるわけにはいかない。だって、私は家族を殺したのだから。でも、どういうわけか家も全焼してしまって、何が出火原因なのかも不明だし。私が、何か間違って出火原因となるものを置いてしまったのだろうか? 考えても分からない。誰かが放火していったのだろうか? それならそれで犯人を警察は血眼になって捜すだろう。しかし、私以外の家族が全員焼死ならなぜ逃げ遅れたのか、そしてなぜその時間帯に家にいたのか。死人に口なしというが、本当にそうなってしまった。私には学校にいたというれっきとしたアリバイがある。だが、警察は、私を疑っている。

「ピザ、届いたわよ」

「お腹、ペコペコだったんで嬉しいです。ありがとうございます」

「ゆっくり食べてね。飲み物ここに置いておくから」

女性の刑事はそう言うと、足早に部屋を出て行った。

「どうだ?」

「一見、普通の女子中学生にしか見えませんけど。橋本さん、何か気になることでもあるんですか?」

「どうも怪しいんだよな。家族が死んでしまったのに、なんであんなのんきにピザなんて食べていられるんだ? どう考えたっておかしいだろ。出火原因は突き止められたのか?」

「いえ、まだです。明日の朝からもっと詳しく現場検証するそうです」

「遺体には何か争った痕でも残っているのか?」

「司法解剖してみないとわかりませんね。遺体は激しく損傷しているので」

「じゃあ、司法解剖にまわさせよう。すべてはそこからだ」


 どうやら私は警察の会議室で眠ったみたいだ。カバン、そういえばカバンの中身を見られていないのだろうか。奥底に包丁が眠っている。血はふき取ったが、警察が調べれば血液反応だって簡単に調べることができるだろう。捨てるしかない。でも、どこに? 川に投げたっていずれはわかってしまう。山の中の土に埋めておく? 灯台下暗しで、このまま私自身が持ち歩けば隠しとおせるだろうか。とにかく、学校に行かなくてはいけない。この荷物一式をずっと持ち歩くのか。けっこう大変だな。

「学校へ行くのか?」

会議室を出たところで、橋本刑事に呼び止められた。

「中学生は、学校は義務教育ですから」

「家族が亡くなってしまったのにも関わらず、よく学校へ行けれるもんだな」

「だからこそですよ。何かをしていないと自分が壊れそうで」

「今日、司法解剖をする」

「え? 体にメスを入れるんですか?」

「何か、君にとってよくないことでもあるのかな?」

「いいえ、ありません。ただ、火事で体を痛めているのにさらにメスを入れるとなると、ちょっと……」

「君の気持ちは分かるがね」

 やっぱり、私を疑っている。学校が終わる前になんとか考えなくてはいけない。

 学校へ行くと、みんなが私を見ながら、ひそひそ話をしている。私には親友と、呼べるような友達もいない。いつも孤独だ。孤独には慣れている。物心ついたときにはいじめを受けていた。なんで自分がいじめられているのかすら分からなかった。家に帰っても、両親はケンカばかり。私のいる場所なんてどこにもなかった。ここにいるクラスメイトたちも憎い。殺したいくらいだ。ふと頭の中で『殺せ』というささやきが聞こえてきた。ここでみんなの目の前で殺してしまえば、一発で捕まってしまう。そんなのはイヤだ。完全犯罪なんてできるのだろうか。


「身元が分かりました。ここの住人の階堂さんご夫妻と娘さんです」

「司法解剖の結果は?」

「三人とも、背中や胸、足や腕に刺し傷があります。何か鋭利な刃物で切られたような痕跡です」

「出火原因は?」

「分かりませんとのことです。全焼なのですが、特にひどく燃え上がっている部分というのが見当たらないそうです。強盗にでも襲われたのでしょうか?」

「争った形跡でもあるのか?」

「父親のほうが、頭部に打撃を受けているもようです。また、母親の首には、何かで絞めつけられた跡があります。ただ、死体発見現場はみな一緒の場所でした。あと、妙なことに、三人とも仰向けになって並んで発見されています。何者かが、押し入り鋭利な刃物で刺し殺し燃やしていったということもありえます」

「近所での聞き込みは?」

「夫婦の間でケンカが絶えなかったというのが多々あります。なので、一家、無理心中ではないでしょうか?」

「娘、一人だけ残して三人で刺し殺したのか? おかしくないか」

「それもそうですね。だったら、誰が何の目的で刺し殺し、そして放火にまでいたったのでしょう。極めて犯人はここの家族を計画的に狙ったというほかありません。しかし、たまたま絵麻さんだけは生き残ってしまった」

「犯人は相当、階堂さん一家を恨んでいたことになるな。近所とのトラブルはなかったのか?」

「はい。ご夫婦のケンカは日常茶飯事で外まで響いていたそうですが、近所とのトラブルは、一切、なかったもようです。橋本さん?」

「怪しい。これは、家族間だけの問題となるな。そうなると、やはり生き残っている階堂絵麻しか殺せなくなる」

「まだ中学生ですよ。それに家族三人も一気に殺せると思いますか? 女の子ですよ。力もまだそんなにないと思います」

「階堂絵麻が何者かに殺させたんだとしたら違ってくるだろう? この事件は、共犯者がいるはずだ。徹底的に階堂絵麻の周辺を探れ」


 学校にいてもつまらない。みんな私を避けている。いいさ、一人には慣れているから。集団行動は嫌い。何をするのにも集団行動している、クラスメイトたち。一人行動をしているといじめの対象になってしまうからだ。かといって、このクラスでいじめは特に見当たらない。学校の先生も、私に気を遣ってか、すぐ何かと、

「もう学校へ出てきても大丈夫なのか?」

と言う。すかさず、私も、

「家がないんですよ。休みたくてもどこでどうやって休めばいいんですか?」

そう言うと、先生は何も言えなくなってしまい、すごすごとその場を立ち去っていく。誰も、○○のところに一時的に住めばいいよとまで言わない。これは単なる放火事件ではない。殺人まで犯しているのだから、安易にその言葉を言ってしまえば逆に今度は、その家族までも狙われるに違いないと各自思っているのだろう。それに、私と関わるなと親から注意されているに違いない。

 それにしても、本当にどうしよう。まさか家までなくなるなんて思いもしなかった。計画外のことが起きてしまった。犯人は誰なんだろう? 漏電? まだ、家を建ててから十年しか経っていないと聞いたことがある。犯人は私が家族を殺していることを知っている? だったらなぜわざわざ燃やしていく必要なんてあるのだろう。私がかわいそうと思って代わりに燃やしたの? そんなことしなくたっていいのに、ウザイ。私の計画に乗ってくるな!

 思わず、廊下の隅に置いてあったバケツを蹴飛ばしてしまった。一瞬静まり返る。私を見て、視線を合わさないように早々とその場を去っていく。私は転がっているバケツをまた元の場所に戻した。バケツの一部が凹んでいる。凹んでいる場所を触りながら、涙がボロボロと自然と頬をぬらしていく。あれ? なんで涙なんて出るんだろう。あれだけ殺したかったんだから、いいんじゃないか。だって、私はもうあの地獄から抜け出せたんだよ。もう一人で抱え込まなくたっていいんだよ。誰にも相談できなかった家族の問題。もう生き返ることのない家族たち。この手で、この私の汚れた手で殺したんだ。一人で解決したかった。一人で終わらせたかった。それなのに、なんで? 誰が私の邪魔をするの? 許せない!

 私は、声を出しながらワァワァと泣いてしまった。あの地獄の日々に戻ったかのように泣いた。近くにいた生徒が先生を呼びにいくのが見えた。涙で景色はぼやけでいたが、担任の先生が私のところへ急いで走ってくるのが見えた。

「階堂! 大丈夫なのか! しっかりしろ!」

自然と私の周囲は生徒たちの集団が出来上がってしまっていた。それでも、私は泣き止まなかった。泣きたくなんてこれっぽっちもなかったのに、あとからあとから川のように涙が溢れ出してくる。私は泣き崩れそうになったが、先生が肩を抱いてくれた。

「わかった、わかったからもう保健室へ行こう。歩けるか?」

私は小さく頷き、先生にもたれかかりながら、保健室へと向かった。

 保健室に着くと、保健の先生はいなかった。どうやら、他の学年で体育の授業中に怪我をした子がいてその付き添いに病院へ出かけているそうだ。

「授業が終わるまで、ここで横になっているほうがいい」

私はとっさに、いけないと思いながらも先生の腕を引っ張った。

「どうした、階堂?」

「先生、たすけて」

と後ろから先生を抱きしめた。先生は私の手を振り払うことなく、いきなり私をベッドへ押し倒してきた。え? なに?

「先生、なにしているの?」

先生は、カーテンを閉め、ズボンのチャックを下ろし始めた。

私は怖くなり、ベッドから起き上がり逃げようとした。でも、先生のほうが早かった。またベッドに押し倒され、私の両腕を片手でつかみ、もう片方の手で私の胸の中に手を入れだしてきた。私は必死になってもがいた。叫ぼうとするが口にハンカチを押し込まれた。今度は、スカートの中に手を入れられた。このままでは犯されてしまう。そんなのはイヤだ。離して! 誰か、助けて!必死で叫ぼうとするが、モゴモゴとなってしまい言葉にはならない。足をばたつかせるが、力では叶わない。ここにあの包丁さえあれば……。

「お前が殺したんだろ? これくらいどうってことないよな? お互いのためだ」

そういうと、私の中に先生が入ってきた。

 どれくらい時間が過ぎたのだろう。涙と痛みが入り混じった。気づいたときには先生はその場所にはすでにいなかった。私はついに犯されてしまったのだ。私は乱れた制服をきちんと直し、保健室をあとにした。教室に戻ると、帰りのホームルームの最中だった。先生は私の顔を見るなり、ニヤッと笑った。その視線と微笑が怖くなり、急いで荷物をカバンにしまい、教室を出た。

「階堂! ホームルーム中だぞ!」

と、何事もなかったかのように振舞う先生の声だけが頭の中にこびりついた。

私は、無我夢中で走った。行き先なんてない。ただ走りたかった。いや、この場所から一刻でも離れたかった。後ろを振り向くと先生がいるのかと思うとゾッとして、ひたすら走り続けた。もう学校なんてどうでもいい。

 汗が顔からにじみ出る。走るんだ。カバンの重たさと一気に全力疾走したせいか土手で足がふらつき転んで土手下まで落ちてしまった。肩で息をするのが精一杯だった。汗はひたすら流れていく。下腹部の痛みがズキズキとうずく。夕方の太陽がまぶしい。

「アハハハハ」

突然笑い出した。笑い出しながら、涙も流れた。

 私の人生って何? 物心ついたときには、すでに両親の仲は不仲で虐待をし続けられ、どうにか父親からは性的虐待からは逃れてはいたが、まさか今日、こんな形で担任の先生にレイプされた、だなんて信じられない。あの時、私が先生を抱きしめたのはそういう意味じゃない。それなのに先生は、勘違いをして私を犯した。警察にでも言う? 警察は信じてくれるのだろうか。ましてや、私は家族殺しの犯人だと思われている。警察もなんでレイプされたのか詳しく調査するだろう。

「お互いのためだ」

先生の言葉が頭の中で響いた。

 どういうこと? お互いのためって? まさか、先生が放火した犯人なの?しかも先生は私が殺していることを知っている……。じゃあ。どうして先生は警察に言わないのだろう。そうすれば、私はスンナリと逮捕されるのに。先生は何か他にも隠し事をしているのだろうか? 今日のことといい、もし放火犯が先生ならば……危険だ! 先生は、自分の思い通りになったと思って私をまた犯しに来るに違いない。そうならないためにも、今すぐここから去ることが重要だ。でも、どうやって? 自転車もない。着替えもない。制服と部活動に使うスポーツシャツしかない。こんな目立つ格好じゃすぐに補導されてしまう。


「お願いします。どうしても貸して欲しいんです」

私は何度も頭を下げた。

「いくらここが警察だからといって、お金を貸すことなんてねえ~」

「お願いです。家も焼けてなくなり全財産失ったんです。生活していけないんです。このまま警察にお世話になるとは言いませんから。どうかお願いします」

「俺はムリだ。杉田、お前がいくらか出せ」

「橋本さん!」

この橋本刑事にいつもついているのが、杉田さんという女性刑事だった。杉田さんは、財布を出し、中身を見て、

「あら、大きいお金しかないわ」

「必ず返しますから。今はムリでも、高校生になったらバイトをして稼いで必ず杉田さんにお返しします」

「そこまで言われたならねえ」

と、しぶしぶ一万円札を一枚差し出した。

「ありがとうございます」

と深々と頭を下げ、私は警察署をあとにした。荷物は少なめで大丈夫だ。凶器となった包丁とスポーツバッグさえあれば十分だ。この一万円札でまずは、洋服を買わなくてはいけない。駅前にあるショッピングセンターに立ち寄り、適当に洋服と帽子と伊達メガネを買った。カバンは、警察署の会議室に置いてきたままだ。もう二度と警察署には戻らない。今夜中に、ここから脱出しなくてはいけない。


「おい、杉田!」

「なんですか、橋本さん、怒ったような顔で」

「階堂絵麻の荷物が会議室に置きっぱなしだぞ」

「また戻ってくるんでしょう。どうせ行くあてもない子ですよ」

「そうか、それだといいんだが……それより、階堂絵麻の周辺は分かったのか?」

「クラスでは特定の友達がいなかったようです」

「いじめか?」

「いいえ、いじめはなかったみたいです。ただ、みんな階堂さんを自然と話しかけづらいと言っていました」

「担任はどうだった?」

「いたって、普通の好青年でしたよ。ただ……」

「何か問題でもあるのか?」

「今年に入って、中学校の担任の先生を受け持っていますが、それまでは、女子高の先生だったそうです」

「女子高か……。何か問題でもあったのか?」

「当時の女子生徒と付き合っていたそうです。それが公にばれてしまい、今年に入りようやくここの中学校の担任を受け持つことになったそうです」

「ほぉ~。確かに女子受けしやすい顔立ちだったな。生徒から好きになったのか?」

「そうみたいです。高校卒業と同時に結婚する約束までしていたのですが、卒業前にその女子生徒とホテルに入っていくのを写真に撮られたそうです。女子生徒は、なんとか卒業ができたのですが、その代わり先生が飛ばされたそうです」

「おかしくないか? 普通なら停学か退学だろう」

「その女子生徒の親御さんが大会社のご令嬢だったらしく、親御さんにも交際のことは秘密にしていたそうです。親御さんは、一人娘を大事にしておりそんなことが公になっては困るといったそうで、お金で解決したそうです。その代わり担任であった森田先生が辞めることになったそうです」

「問題の先生か……他にも何か問題を起こしていることは?」

「今のところありません。さすがに女子高で問題を起こしているので、今度はしないでしょう」

「分からんぞ。その女子生徒は、その後どうなったんだ? 親に反対されてあっけなく別れたのか?」

「きっぱりと別れたみたいです。その女子生徒の周囲の話によると、森田先生に脅されていたようです」

「なに? 脅されていただと? 女子生徒から好きになってどうして脅されるんだ?」

「どうやら、万引きみたいですね。万引きを森田先生にばれてしまい、その代わり付き合うこととなったみたいですね。半ば強引だったそうです」

「万引きのことはご両親は知っていたのか?」

「知らなかったみたいです。口封じのために付き合い、結婚も本当はしたくなかったそうです」

「それじゃあ、森田先生も結婚する気はなかったということか?」

「結婚する気はなかったみたいですね」

「単なる口封じのために、生徒にそんなことさせるとは最近の先生はどうもおかしいな」


 私は、深夜バスの切符を購入した。行き先は、東京だ。明日の朝一に、東京には着ける。何度も腕時計を確認しては、早くバスが来ないのかとウロウロとしていた。東京に行っても、特に行くあてなどない。ただここから離れたかった。生まれ育ったこの場所から遠くに行きたい。誰も知らないところで、見知らぬ土地ですべてやり直したい。ただそれだけ。視力はわりといいほうなので、この伊達メガネの違和感があった。鏡で見たときは、別人になっていた。でも、メガネと帽子がなければすぐに私だとばれてしまう。残りのお金を確かめた。七千円しか残っていない。東京に着いたらこの髪の毛を普通のハサミで切ってしまおう。別人に生まれ変わるしかない。身分証明は、学生手帳しかないが、それも警察署の会議室に置いてきた。

 ようやく、夜の十一時だ。深夜バスが駅に到着した。何事もなかったかのように切符を手渡す。半券を渡された。よかった。

 バスは無事に目的地に向かって出発した。一時間近くは、どうしても不安で落ち着きがなくソワソワとしていたが、段々とバスの乗り心地にも慣れ始め消灯とともに眠りに陥った。


「遅いですね。もう深夜回りますよ」

「確かに遅いな」

濃いコーヒーを飲みながら、橋本刑事と杉田刑事は壁に掛かっている時計を見上げた。

「誰かの家に泊まっているとか?」

「それなら、ここに荷物を置いていくか?」

 二人して、おかしい! と思ったときは会議室を飛び出していった。


 くそっ! どこへ逃げたんだ。やっぱり俺の勘が当たったじゃないか。犯人はやっぱり階堂絵麻だ。しかし、どうやって……。共犯者か。共犯者となると怪しいのは、森田先生だ!

 森田の住んでいる、アパートへ来てみたが、何度チャイムを鳴らしても出てこない。室内の明かりは消えていない。居留守を使っているのか!

「おい、森田! 森田! 開けろ!」

ドンドンとアパートのドアを叩きつける。しばらくしてから、

「なんですか~?」

とドアがゆっくりと開く。

「お前が放火したのか!」

胸座をつかみながら橋本刑事は、森田のアパートの中に入っていった。

「藪から棒に何を言っているんですか、刑事さん? しかも、真夜中ですよ。静かにしてください」

「詳しいことは署のほうで聴くから同行してもらえるな?」

「ど、同行って……俺は何もしていないですよ」

「ならば、階堂絵麻はどこにいる?」

「そんなのは、俺が知るはずもないじゃないですか! いい加減にしてもらえませんか!」

「そうやって、二人して口裏を合わせているんだな?」

 二人がもみ合っている最中に、杉田刑事がアパートの階段を勢いよく上がってくる。

「橋本さん! 階堂絵麻の行方が分かりました」

「なんだとぉ~? いったい、どこへ逃げたんだ?」

胸座をつかんでいた手を急に離すと、森田はその場で倒れた。

「深夜バスのチケットを買うのを、女子中学生らしき姿を見た方がいるそうです」

「深夜バスか……どの方面へ向かったのか分かるのか?」

「東京方面だそうです。ですが、一人でバスには乗ったそうです」

「至急、検問をかけろ! 森田、お前には重要参考人として署に来てもらうからな」


 バスの揺れが急に止まった。高速道路のパーキングエリアにトイレ休憩で止まったらしい。

 深夜バスって安いだけあって座席と座席の間が狭苦しい。ウ~ンと背伸びをすると、トラックの運転手さんらしき人たちが、口々に、

「この先で検問らしいですよ」

「え~、この荷物早く届かないと間に合わないのに全く人騒がせだぜ」

「指名手配犯でも見つかったのか?」

「たぶんそうじゃないんっすかねえ」

 え? 検問がすでにひかれているの? ヤバイ。このままバスに乗り続けていたら必ず捕まる。その前に逃げないと。でも、どうしよう。ここから一般道へ出る路を探さなくては。こんな真夜中。暗闇で何も見えない。トラックの荷台に隠れる? いいや、警察は荷台も調べるだろう。大きい荷物の中になら隠れることができるのかもしれない。箱の中身まで警察は調べないだろう。まして、トラックの運転手たちは、真夜中に荷物を運び朝一に届けるという過酷な労働だ。一刻も早くそういうことは終わらせたいだろう。それしかない!

「あの~、すみません! お願いがあります!」

大きな声で私は四十代くらいの一人のトラック運転手を呼び止めた。

 運転手は、私の顔を見ながら、

「お譲ちゃん。こんな時間に何しているんだい?」

「一生のお願いです。トラックに乗せていただけませんか? ムリなことは分かっています。でも、助けてください。お願いします」

 運転手は、いったい何事かと思い多少困惑したような顔だった。

「どこまで行くんだい?」

「東京までです。でも、その手前でもかまいません。事情は聞かないでください。でも、見つかったら困るんです」

「誰かに追われているのかい?」

「はい、そうです」

 やや小声で言ってみた。

「仕方ねえなぁ、まあ俺も東京の築地まで荷物を運ばないといけないからな。一人で運転していると眠気に襲われてしまうし、お嬢ちゃんがいるなら話し相手にもなるな」

「あ、ありがとうございます! でも、乗せていただくのは荷台でかまいません」

「そんなことはできねえよ。この先なにやら物騒な事件が起きたみたいで荷台も調べるだろうし、そんなところにお譲ちゃんがいたら警察が不審に思うだろう?」

「助手席だと困るんです。追われているんです。警察にも見つからない場所ってありますか?」

「分かったよ、特別だからな。その前にその格好をなんとかしないとな」

「この格好じゃダメですか?」

「全然ダメだね。まあ、いいさ。とっとと、乗りな」

「ありがとうございます! 助かります!」

 私は涙をこらえながらも深々とお辞儀をした。

 こうして私とトラックは、パーキングエリアを無事に出発した。

「何歳なんだい? みたところ、うちの娘と変わりがしなさそうだが、中学生かい?」

「はい、中学生です。おじさんの娘さんは?」

「来年、高校生だよ。今は受験勉強で忙しいだろうな。普段はなかなか家に帰れないから娘とはほとんど口を利いてないよ。お譲ちゃんはお父さんとよく話すのかい?」

「多少なら話しますけど、最近はあんまりですね」

「反抗期ってやつか? まあ、どこの家庭でも反抗期はあるからなあ。ところで家出? と聞きたいところだが、何か複雑な事情がありそうだし……」

「ご迷惑かけてすみません」

「ちょっと、ごめんよ。無線するから。こちら○○」

無線機から声が響いてきた。

「検問終わったんだが、なにやら女子中学生を探しているみたいだ」

 おじさんは、ふと私の顔を見てすぐに前に顔を戻した。

「了解」

 おじさんは、運転席の後ろに小さいが寝る場所があるからそこに隠れてなさいと言った。こんなところにそんな場所があるとは知らなかった。

「汚いけど我慢しな。あと少しで検問場所だ。検問が終わってもすぐにこっちへ出てくるんじゃないぞ。俺が合図するまでそこで隠れていなさい」

 私は、シートベルトを外し、その小さな小部屋に身を隠した。小部屋は薄暗かったが、おじさんの家族写真や着替えなどが散乱していた。私は帽子の中に髪の毛を束ねて深くかぶった。どうか見つかりませんように! そう祈るだけしかなかった。

 やがて、トラックは止まった。遠くのほうから笛を吹く音が聞こえてきた。いよいよ検問場所へ来てしまったのだ。トラックは、少しずつ進み、止まりの繰り返しだった。笛の音が段々と近づいてくる。心臓のドキドキが止まらなくなり手に冷や汗をかくようにもなった。大丈夫、と自分の心に何度も唱える。ここで捕まってしまったら、私の今までの人生が惨めだ。何のために、何度も頭を悩ませながら考え抜いた結果なんだから。

「すいません、免許証の提示お願いします。それと荷台を見せてもらってもいいですか? ご協力お願いします」

 ついに、運命の時間がきた。

「この女子中学生の顔に見覚えありますか?」

「いいや、初めて見たよ」

「そうですか……ご協力ありがとうございました」

 トラックがエンジン音を鳴らしながら動き出し始めた。

 ヤッタ! 検問を無事に通過した。ホッとしてしまった私は、その狭い小部屋で眠ってしまったようだ。夢の中での私は、誰かから逃げ回って走っている。苦しい。つらい。息ができない。あと少しで、私は自由になれる。小さい光が見えてきた。あそこまで行けば私は自由になれる。あと少し、頑張ればいい。光の差す場所へいけたと同時に、下腹部の痛みが激しくなった。なんで、こんなときに限ってお腹など痛くなるのだろう。助けて。

「お譲ちゃん。お譲ちゃん……」

 声が近い。無意識に、

「た……す……け……て……」

「お譲ちゃん! 大丈夫か?」

 頬を少し叩かれて、ようやく私は夢の中から現実の世界へと目覚めた。

 私は汗びっしょりで肩で息をしていた。

「おじさん、私、なんでここに?」

「覚えてないのかい? もう、東京に着いたんだよ。疲れて眠っていたみたいだけど、さっきまでうなされていたけど、大丈夫なのかい?」

「え? もう東京に着いたの?」

 どうやら私が夢の中で眠っている間に、おじさんは明け方に無事に荷物をすでに運んだらしい。今は、その休憩をしようというところで、何度起こしても私が起きないからこうして起こしてくれたみたいだ。

「ご迷惑をおかけしまして本当にすみませんでした。このご恩は忘れません」

「いや、迷惑だなんて思ってないよ。むしろ娘と話しているみたいですごく楽しかったよ。東京に知り合いでもいるのかい?」

「いえ、特にはいませんが……」

「それじゃあ、少ないがこれを受け取ってくれ」

 おじさんは、私の右手の手のひらに紙らしきものを握らせた。

「おじさん、そんな。こんな見ず知らずの私にお金をいただくわけにはいけません。お返しします」

「いいんだ。本当に感謝しているんだよ。お譲ちゃんが何をしたのか分からないが、ここで暮らすにはお金が必要なんだよ」

「だからといって、一万円札を三枚だなんて……娘さんのためにどうか大切に使ってください。私は大丈夫です」

 私は急いでトラックから降りた。おじさんも私を追いかけてきた。

 今度は、無言でおじさんは、私の手のひらに納めた。

 私は見知らぬこの東京という町でもう一度人生をやり直すことができるんだと心に深く刻むと大きな一歩を踏み出した。

 とりあえず、ネットカフェでいろいろと検索してみた。すでにネットでは、女子中学生謎の逃亡! と大きな見出しがアップされていた。ネットの世界はなんといっても早い。どこからこのような事件が洩れたのかよくわからないが、とにかく見つかるのも時間の問題だと認識した私は、足早にネットカフェを出た。特に行くあてなどないが、生きていくためには、何か仕事をしていかなくてはいけない。でも、中学生に働かせてくれるところなどないだろう。危うい仕事しかないと思う。一週間ほど、ネットカフェで寝泊りをしていた。

 繁華街を歩いているといろいろな人が歩いている。疲れ切ったサラリーマン、OL、主婦、子育て中の母親。学生などさまざまだ。信号で止まっていると突然、後ろから肩を叩かれたのでビックリとした。

「ねえ、お嬢ちゃん。こんな時間帯に何しているのかな?」

 振り向くと、スーツを着ている、わりと若い男の人だった。とっさに逃げようとしたけど、すでに腕に絡んできた。まさか、警察? もう見つかっちゃったとか?

「そんな目で見ないでくれよ。別に怪しいものじゃないし。どこかお茶できる場所に行こうか」

と、私の返事を待たないうちにグイグイと私を引っ張っていく。

 連れられてきた場所は、いろんなお店が入っているビルの一室だった。

「あれ? また、所長出かけたのかな。適当に座ってよ。今、お茶入れるからさ」

 お茶できる場所って、カフェとかファミレスとかじゃないの? なにこのいかにも怪しそうな人は……。部屋の一室をきょろきょろと見回しているうちに、テーブルにお茶が運ばれてきた。

「あの、私やっぱり……」

「行くところあるの? 家出か何かだろ? 理由は聞かないけど、とりあえずここに居れば安心だよ。お茶冷めちゃうから早く飲みな」

 この人は一体、何者なんだろう。見ず知らずの私にこんなお茶まで出してくれて、それにここに居れば安心だなんて……。もしかして私が逃げ回っている犯人だということを知っているのだろうか。

 まだ温かいお茶を飲みながら私はホッとした。体がポカポカと温まっていく。

「あの、本当にここにいてもいいんですか? 寝泊りとかしても大丈夫ですか?」

「アハハ。急に何を言い出すかと思ったら、そんなことか。アハハ」

 大声を出しながらその人は笑い転げていた。

「奥の部屋に仮眠室もあるし、シャワーもあるし気が向くまでここにいるといいよ。その代わり条件があるけど」

「条件ですか?」

「仕事してもらうよ」

「仕事って、まさか体を売る仕事ですか?」

「ここに入ってくるとき、看板見なかったの? 君のその体じゃ、売ることもできないな」

「失礼なことを言うんですね」

「この人を探してほしい」

 胸ポケットから一枚の写真を私の目の前に差し出した。

「誰ですか、この人」

「う~ん、難しい質問だな。とりあえず、この男の人を探し出してくれればいいだけ。報酬は弾むから」

「警察に届け……」

「警察なんてあてにしてない。事件がなきゃ、あいつらは動かない」

 警察を嫌っているのか。それなら大丈夫だ。この世界で生きていくためには、まずはお金が必要だ。

「私、この男の人を探し出してみせます!」

「誰を探すの?」

 突然、女の人の声が背後から聞こえてきた。

「所長、どこに行っていたんですか?」

「本郷君、また勝手に女の子連れ込んでどういうつもり? って、あなた、まだ中学生くらいじゃないの? ちょっと、本郷君、ついに女子中学生にまで手を出したわけなの? 困ったわね」

「大丈夫です、私。確かに声を突然かけられてここに連れてこられましたけど、この人は何もしていないです」

「そうですよ、所長。俺は女子中学生に興味なんてないですよ。ただ、ここに住み込みで働くことになりますけど、別にいいですよね? 所長も上の階に住んでいるわけですし」

「あらまぁ~、ずいぶんと話の早いことね。それじゃあ、今日からよろしく。え~っと、名前は? 私は、紅幸子よ。で、あなたを連れてきたこの人は、本郷朝陽よ」

「私の名前は、杏奈です」

「杏奈ちゃんね。かわいらしい名前ね」

 私はとっさに自分の名前を名乗らず、妹の杏奈の名前を名乗ってしまった。紅幸子さんは、サバサバとしたいかにも仕事できます! という雰囲気を漂わせるイメージだった。

 今日から、いつまでになるかわからないけど、この二人と一緒に仕事をすることになり住む家にも困らないで嬉しくなった。

「杏奈ちゃん、化粧したことある?」

「いえ、ありません。やっぱり中学生だとバレますか?」

「まぁ。そうねえ。私がしてあげるから、これからは化粧して人探しに専念して頂戴ね。で、誰かに年齢を聞かれたら高校生だと言って頂戴。夜遅くまで仕事をさせるつもりもないし、夕方までにはこの事務所に帰ってきて頂戴」

「はい、いろいろとご親切にありがとうございます。精いっぱい働きます」

威勢よく返事をした。

 明日からいよいよ稼ぐことができるのだ。よかった。

「本郷君、今朝の新聞持ってきてくれるかしら? 何やら物騒な事件が起きたみたいね」

「そうみたいですね。犯人はいまだ逃走中だとか」

 私は硬直状態になってしまった。新聞に掲載されているのか。もしや、私の顔写真でも載っていたらおしまいだ。下を向いて、目をつぶりながら、大丈夫、大丈夫と自分に言い聞かせた。

「あら、犯人は学校の先生みたいね。事情聴取を受けている最中にトイレに行きたくなり、そのまま見張りを振り切って逃亡ですって。いったい、どこへ逃亡しているのかしら」

 え? 先生が犯人として警察に捕まったの? やっぱ、あの放火は、先生がしたということ? でも、逃亡しているって……。先生は私が家族を殺したことをなぜ知っているのだろうか。まさか、夜中に川辺に行ったことを見られていた? あのときは必死だったから、そんな周囲のことなんて気にしていなかった。ただ、家を出るときは、慎重にしていただけだったけど。

「杏奈ちゃん? 杏奈ちゃん、大丈夫?」

「え? あ、はい」

 と、とてもか細い声しか出なかった。と、同時に手足の震えが激しくなった。なんで今頃になってこんなに動揺しているの? ここで捕まったら私の計画は水の泡になるだけなのよ。

「あの、私、ちょっと疲れたので横になりたいです」

「ちょっと、大丈夫? 杏奈ちゃん?」

 どうやら、私はその場で倒れたみたいだった。

 暗闇をさまよっている私がいた。違う、出口はそっちじゃない。向こうへ向かうのよ! 何しているの? 思うように足が動かずうまく走れない。私、陸上部なのにこんなんじゃ大会にも出られないじゃないの。もっと、もっと走って!

「お姉ちゃんと一緒にご飯なんて食べたくない」

「そんなこと言わないの。絵麻、早く降りてらっしゃい」

 杏奈と、お母さんの声だ。

「ちっ、来たのかよ。ご飯がまずくなるだけ。あ、ごめんお姉ちゃん、お茶、

こぼしちゃった」

「あっつぃ!」

「もう、何しているのよ、絵麻! 何をもたもたとしているの。さっさと、テ

ーブルを拭きなさい」

 ふきんが、私の顔にぶつかってきた。私の足は、熱いお茶で真っ赤になって

いた。

 この内容、知っている。夢? いいや、こんなリアルな夢の内容見たことが

ない。

「……じゃない! 私がやったんじゃない!」

 ガバっと声に出しながら起きだした。

「大丈夫、杏奈ちゃん? ずいぶんとうなされていたみたいだけど」

 周りを見渡すと、見慣れない景色。ここはどこなのだろう?

「あ、ここは私の家よ。急に倒れちゃうからこっちのほうがビックリしちゃ

ったわよ。あわてて、本郷君が、ここまで担いできてもらったんだけど」

「すみません、迷惑をかけてしまって……」

「まぁ、いいわ。明日からよろしくね。今日は、もうこのまま休んでもらって

も大丈夫だから。私の部屋は、向かいだから何かあったら言って頂戴。それじ

ゃあ、おやすみ」

 どうやら、夢の内容だったらしい。でも、あの会話は以前にも交わした覚え

がある。あの二人には、散々な思いをしてきた。それでも家族なのか! と思

うことがたびたびあった。私一人だけ、家族の誰とも似つかなかった。物心つ

いたときには、私は捨て子だったんだと思っていた。捨て子じゃなく、あの母

親の本当の娘だと知った時悲しくなった。どうしてあんな人が母親なんだろ

う? 小学校高学年の頃だったと思う。たまたま、引き出しを開けたら母子手

帳が二冊あって、生まれた日や、体重、身長、その後の定期検診など、私が風

邪をひいてなかなか熱が下がらなかったことまで、とにかく事細かく書かれて

いた。反対に、杏奈の母子手帳を見たら、最初のページの方だけ書いてあって、

その後のページは空白だらけだったのを覚えている。

 母親いわく、初めての出産だったから誰にも相談できる相手なんていなかっ

たから怖かったらしい。杏奈が生まれたときは、怖いものなんて吹っ飛んで、

どうでもよくなったらしい。

 ベッドから起き上がった私は、枕元にある机の上に夕ご飯が置いてあるのを

知った。そういえば、逃げてきて東京に着いてからほとんど食べていなかった。

味噌汁に、白いご飯、ひじきの煮物に、焼きサバだった。こんなにおいしい食

事はいつぶりだろう? 母親はいつからか、朝ご飯を作らなくなり、とうとう

父親とのケンカが激しくなるにつれ、父親とは一緒に食事をとることもなくな

り夕飯は、コンビニのお弁当とかになった。朝食はもちろん母親が起きてくる

こともない。唯一、お昼だけはガッツリと食べることができた。給食だったか

ら、天国とまでは言えないけれど、スポーツをやっている私にとってはそれで

十分だった。私自らは、台所に立つことはほとんどなく、やはり物心ついた時

から台所を手伝わないなんて、将来結婚した時、苦労するのは自分自身だよ。

と、よく言われ続けてきていた。それでも、私は頑なに拒んでいた。私は結婚

したいという願望がなく、親戚からもずっと働き続けるの? と言われたこと

があった。本心としては、結婚はしたい。でも、あの不仲な両親を長年見て育

ってきている私である。とてもじゃないけれど、結婚に憧れるということは年々

薄くなってきていた。むしろ、あんなDVするような両親を見損なっていた。

それでも世間体は気にしている両親である。仮面夫婦である。外面だけは、家

族を大切にしています! というような感じだった。

 幸子さんが作ったと思われるこの夕飯で、私は少し希望が見えてきた。ここでずっと働いていれば捕まることもなく罪を償うこともなく一生を過ごせるんじゃないかと……。たとえ、警察の手に捕まったにしろ私は別に悪いことをしたわけでもない。あんな連中は死んで当たり前でしょ。そういえば、凶器の包丁は大丈夫かな。ずっとカバンの奥底に眠っているはず。

 ベッドから起き上がった私は、カバンの中身をチェックした。誰かに荒らされたこともなく、私が上京してきたままであった。カバンの奥底には、何重にも新聞紙に包まれていた包丁が出てきた。もちろん、血痕はふき取ってある。でも、警察のことだ。ルミノール反応が出るに違いない。殺したときは、無我夢中だったからあまり記憶がない。

 突然ドアのノック音が聞こえた。ヤバい。この包丁を見られたら。

「ちょっと、待ってください」

と、ドアの向こうへ言うなり急いでまた元の場所へ包丁を戻した。

「夕飯ありがとうございました。とてもおいしかったです」

と、お盆を幸子さんへさしだした。

「安心したわ。もう仕事できるかしら?」

「え? 明日からじゃないんですか?」

「あなた二日間寝たままだったのよ。よっぽど疲れていたのね」

「二日間も私眠っていたんですか!」

 ビックリした。逃亡生活もけっこう疲れるのね。というか、あの家族を殺してから思うように眠れなかったしなぁ。

「大丈夫です。今から支度しますね」

「中央駅で今、本郷君がお昼を食べている最中だからそこで合流してくれるかしら。駅の場所わかるかしら?」

「はい。それでは、行ってきます」

「気を付けてね」

 久しぶりの太陽のまぶしさが目に染みた。こんなにも太陽がいとおしいだなんて思いもしなかった。

 それにしても、人探しか……。私もある意味、指名手配でもされているのかな? ネットでしか事件のことは知らないけど。警察がどこまで世間に発表しているのだろうか。先生が犯人で私と同様逃げ回っていることは確かだ。

「杏奈ちゃん。待っていたよ。もう体大丈夫なの?」

「あ、はい。すみません」

「さっき、見かけたんだよな」

「え? 誰をですか?」

「誰って、こいつだよ」

 私の顔の目の前に、一枚の写真を見せた。

「あ、幸子さんから写真をもらってきていたんだった。もしかして私を待っていて捕まえることができなかったんですか?」

「いいや。俺がレジでお金支払っているときにスゥ~と歩いていたんだよ。慌てて外に出てみたけど、もう見失っていた。それにしても、やけに警察が多いな。新聞に載っていた犯人がこっちにでも逃亡でもしているんかな」

 確かに周囲を見渡すと、制服を着た警察官たちがウロウロとしていた。ふと、駅前にある噴水が湧き上がっている場所へ目をやると、見覚えのある顔が私の方を見ていた。私が何気なく目をそらしてみると、相手は少しずつ私の方へ向かってきているようだった。このままだと捕まってしまう。自然と私も、後ずさりしているようだった。

「杏奈ちゃん、どうしたの?」

「ごめんなさい!」

 私は、その場所から駅の階段を上りはじめた。後ろから本郷さんが私を追いかけてくる。何か話しかけてきているが、私の耳には届かなかった。と、同時に一斉に警察官たちが私の方へ向かってきた。普段から走るのが好きだった私は、逃げ切るのがとても楽しく感じられた。こういうときに、陸上部で良かったなと思う。

 大都会である東京にはいっぱいの路線がある。どこのホームに行くべきか。ちょうど発車ベルが鳴りやみそうな電車に飛び乗ってみた。同時に扉も閉まり私を追いかけてきている本郷さんや警察官たちは、悔しそうな顔が見えた。この電車が一体どこへ向かうのか私にはわからない。当然、次の駅で警察官が待ち構えていることは私でもわかる。


「いったい、女子中学生一人だけを捕まえるだけなのに、どうしてこんなにも役に立たない奴ばかりなんだ!」

「意外と逃げ足が速くて……」

「次の駅で絶対に捕まえてやるからな!」


 私は、非常ドアの扉を開けることにした。電車に乗っている人たちが、不思議そうな顔で私を見つめてくる。あともう少しで、ドアが開きそうだ。電車が減速し始めた。客の一人が私に飛び掛かってきた。はずみで私はドアの反対へ転がった。立ち上がろうとすると、

「逃げるな。一歩でも動くと撃つぞ」

 目の前に、私服警官であろう人が私に拳銃を向けていた。ほかの乗客が騒ぎだし、拳銃を見て慌ててほかの車両へ逃げ出す人たち。

「間もなく駅に着く。おまえはそれまでだ」

「私じゃない! 私は何もしていない!」

「だったらどうして逃げているんだ。逃げているから明らかにおまえが犯人だという証拠だ」

 私は何も応えずに、非常ドアの扉を一か八かで思いっきり電車から飛び降りた。弾みで私服警官までもが私と同じく転がり落ちた。

 全身が痛い。電車から飛び降りたせいだろう。頬に生暖かい何かが伝った。手で頬を触ると、ヌルっとした感触があった。血だ。でも、私ではないことは分かった。起き上がろうとすると、ドサッと私服警官の体が横たわった。頭から流血しているのが分かった。早くこの場から逃げなくちゃと思っているが、体が言うことを聞いてくれない。立ち上がろうとすると、まだかすかに息があるのか、私服警官の手が私の腕をつかんで離そうとしない。


「あそこにいるぞ!」

 警察官たちが追いついたみたいで、私と私服警官を見つけた。

 と、同時に一斉に警察官たちが私に向かって走ってきた。

 私は逃げることすらできず、そのまま警察官に捕らえられた。

「階堂絵麻、殺人事件容疑で逮捕する」

 私は何も考えることができなくて、そのままガチャっと手錠をかけられた。

「誰か早く救急車を呼べ! おい、大丈夫か!」

 私の隣にいた私服警官に対して必死な声で呼びかけている。しかし、周囲は警察関係者やマスコミでたちまちふさがれた。

 私は、頭からジャンパーを被せられた。テレビに顔を映さないためだろう。警察官が両脇で私が逃げないようにつかんでいる。マスコミが必死で私を追いかけてくる。

 駅近くに停まっていたパトカーに乗せられた。だが、マスコミや野次馬たちが多すぎてなかなかパトカーは発進できなかった。警察官たちがなんとか道を開けてくれるよう拡声器で呼びかけていた。カメラの光がまぶしくてとてもじゃないけれど、目を開けていることはつらかった。目をつぶったまま、ただひたすら私は何もかも終わってしまったことに実感がなかった。これは、現実ではない! 単なる夢なんだと、夢なら早く目覚めてくれないかと願った。気づいた時には、いつの間にやら警察署へ入っていくところだった。そこでも、マスコミ関係者たちが大勢いて中に入るのがやっとだった。

 取調室には、橋本刑事がいた。

「ようやくだな。階堂絵麻、殺人および放火の罪で逮捕する」

「私じゃない!」

「お前が犯人じゃなかったら、なぜ東京まで逃げてきているんだ? 逃げているということは何か過ちを犯したんじゃないのか?」

「知らない、私じゃない!」

 私はとっさに、立ち上がり机を叩いて猛攻撃した。

 と、同時にその場で私は気を失ったらしい。

「おい、さっさと起き上がれ」

 橋本刑事は、私の腕を引っ張り上げるが、それでも起きないためそのまま救急搬送されることになった。


「はぁ? どういうことなんだ?」

 病院の中で大きな声を張り上げる橋本刑事。

「ですから、妊娠しています。なので、ストレスのかかるような質問は控えてください。まだ初期ですから」

 医者は淡々と答えて、その場を去った。

「いったい、誰の子供を妊娠しているというんだ? まだ、中学生だぞ! 犯罪まで犯しておきながら妊娠だと! 今どきの中学生はいったいどういう教育を受けているんだ!」

「橋本さん、ここは病院ですからもう少し声のトーンを落としてください」

 橋本刑事の相棒の女性刑事が周囲を見渡しながらなだめる。

「橋本さん、もしかすると階堂絵麻は、本当に犯人じゃないのかもしれませんよ。犯人ともみ合ったか何かで、レイプされた可能性が高いかもしれません」

「あの火事の時、階堂絵麻は学校で部活をしていたというアリバイがあるぞ」

「ですから、火事が発生する前ですよ。学校もしくは自宅かもしれません。中学生の女の子は思春期ですので、私がそれとなく聞き出します。橋本さんは、しばらくおとなしくしていてください」

「学校か……まさか?」

「その、まさかかもしれませんよ」


 カーテンの開く音がして、私はようやく目が覚めた。

 白い天井をゆっくりと眺めながら、どうして私はベッドで横になっているのだろうかと考えた。

「あら、目が覚めたのね。気分はどうかしら?」

 看護師さんが私の顔を覗き込む。

「熱もなさそうね。顔色もだいぶ良くなったし、よかったわ。あぁ、それと大事なこと忘れていたわ。妊娠しているんだからあんまり無理してはダメよ」

「え? 誰が妊娠しているんですか?」

「知らないままだったの? あなた妊娠しているわよ。まだ一ヶ月になる前だけど」

「イヤ! 堕ろしてください。お願いします!」

「先生には伝えておくわ。それじゃあ、ゆっくりと休んでねと言いたいところだけど、待合室で女性の刑事さんが待っているわ。大丈夫?」

「話します。だから早く中絶してください!」

「わかったから、落ち着いて。体に良くないわ」

 看護師が病室を出行く代わりに、橋本刑事の相棒の女性刑事が入ってきた。

「外まで聞こえたけど、誰の子供なの?」

「森田先生です。だから私が放火したんじゃないんです。お願いです。私は家族を殺しただけです。それだけです。それ以外のことは一切していません」

「家族を殺したと言っているけど、どうして殺したの?」

「どうしても何も、あの人たちは、私が邪魔だったんです。いいえ、違います。気が付いた時にはもう家族でもなんでもない仮面家族でした。父は母に暴力を振り、母は母で私を……妹もそうです。妹は私を一度も姉だとは思っていませんでした。あの火事さえなければ私は永遠の幸せを手に入れるところだったんです。それなのに、先生が……」

「森田先生とは付き合っている仲だったの?」

「森田先生の評判はすごくよかったけれど、私にとっては嫌いなタイプでした。ほかの女子生徒と付き合っているという噂は常にありました。担任になったときは、とても嫌で仕方がなくて……。それなのに、先生は、何かと私に宿題などの課題をまとめて職員室へ持って行かされることが多くて」

「じゃあ、そのときも無理矢理だったの?」

「はじめのうちは、体を触ってくる程度でした。そのうち、ほかの先生が見えないところでスカートの中に手を入れてきたり胸を触られたり。でも、ほかの生徒にもそういうことはしているみたいでした。なぜだか知りませんが、ほかの女子生徒からは人気があったので、先生と二人きりになれる女子生徒たちは、キャアキャア騒いでいました」

「セクハラされていることについては、誰も文句はなかったの? あなたも含めてだけど」

「言えるわけがありません。家に帰れば、両親は常にケンカしているし、学校に行けば先生からされるがままだったので……」

「あなた以外にも妊娠したという生徒はいたのかしら?」

「たぶん、いたと思います。そういう生徒は大体、気づいたら転校していたので」

「そういうことが分かっておきながら、学校自体は何もしてくれなかったというわけよね。ひどい学校だわね」

「あの日、あの日を境に先生は私にしつこく迫ってきていました。ほかの女子生徒たちにはしつこく迫っているのは聞いたことがなかったので、何かおかしいなと思っていたんです。でも、相談できる相手もいなかったので」

「あの日? あの日って何?」

「新学期を一ヶ月過ぎたころだったと思います。日直だったので、最後まで教室に残っていました。すると、先生がいきなり私に顔を近づけてきて……。


「おまえ、臭うな。まだ中学生なのに吸っているのか?」

「え? 私タバコなんて吸っていません! 下の階が三年生なので、さっきまでタバコの臭いはありましたけど。窓をすぐに閉められなかったので」

「本当にそうか? お前の口から臭うんだけど、ま、いっか。確かめてやるよ」


「そう言うと先生はいきなり唇にキスをしてきました。私は、まだ初めてだったので何が起きているのかさっぱりわからなくて頭の中が白くなって。とりあえず、先生から離れました。教室のカギを閉めるのも日直の仕事なんですが、そういうのはもう頭から吹っ飛んでいました。逃げなくちゃと思って、急いで家に帰りました。翌日から先生は、私に対して馴れ馴れしくなりました」

「先生と肉体関係を持ったのは、今回が初めてなの?」

「そうです。火事になっていることが信じられなくて、それまでは計画通りだったんです。私は火事さえなければこうやって警察の手に捕まることはありえないと思っているんです。今でもそれは思っています。なんで私が捕まらなくてはいけないのか。私は確かに家族を殺した。でも、それは悪いことじゃない。あの地獄の毎日から逃れたかった。ただそれだけ。なのに、どうして私を捕まえたりするの? 警察はいつもそう。事件があってからしか動いてくれない」

「その前に、あなたは警察に相談したりしていたの?」

「警察に相談なんてするわけないじゃない。まともに取り合ってくれない。今の世の中を見ればそうでしょ? ストーカーされている人が前もって警察に相談しに行っていても結局はストーカーから殺されているじゃないの」

「……」

「ほらね、警察は何か言われるとすぐに逃げる」

「あなたもストーカーの犯人と同じことをしたということわからないの? 人の命をなんだと思っているの?」

「別に何とも思わない。私は早くこの世から消えたいし」

「それなら一人で自殺していればいいことでしょ! 三人も殺しておいてよくも早く死にたいだなんて言えるわね。罪を償いなさい!」

「だったら死刑にしてよ。それなら満足するから」

「少年法を知っているの? あなたはまだ、未成年なのよ。それにまだ中学二年生。今までの犯罪で中学生が捕まるのは、万引きかタバコ、飲酒事件くらいよ。殺人だなんて前代未聞よ! いいこと! 明日からあなたは、世間からバッシングを受けるのよ。あなたの親戚にも被害が及ぶのよ。そのことも覚悟しておきなさい!」

「別にバッシングを受けても私にはなんともないでしょ。だって、警察の中にいるんだから。私が何も言わなくても、警察が守ってくれるでしょ!」

「あなたとはもう話にはならないわね」

 怒鳴り声を散らして、病室から去っていく姿を見た私は、笑顔が戻った。あんな女性刑事と話していたせいで、外の騒ぎに気が付かなかった。

 カーテンから外をのぞくと、テレビやマスコミなどが病院の玄関にあふれかえっていた。カメラマンたちが、私がいるであろう病室の方へカメラを向けているのが分かる。そこへ、看護師が病室に入ってきた。

「安静にしていないとダメでしょ。明日、手術することになったから、同意書を書いてね」

「明日か……今日は無理なの?」

「こっちも大変なの。マスコミなどが押し寄せてきているから。それ書いたら、もう寝なさい」

 私は、適当な字で名前と住所を書いてからベッドに横になり目をつぶった。いつごろまで眠れなかったのだろう。ずっと考え事をしていた。なぜ、先生は私の家を放火したのか……。殺していたことも知っていた。見られていた? いつもと同じ日常を過ごしていただけなのに。殺害後の私の行動を逐一見張っていたのだろうか。頭の中に疑問がグルグルとまわる。

 深夜なのにもかかわらず、外は相変わらずリポーターなどが次々と報道を伝えている声が響いてくる。私はどうやって報道されているのだろうか。テレビがあったけども、見てはいなかった。

「お互いのためだ」

 ハッとして気が付いた。外は、すでに明るかった。今の声は、夢の中? こんなところに先生が来るはずがない。だって、先生も取り調べ中に逃げ出したけど、逮捕されているんでしょ。トイレへと向かう途中で、

「こんな朝早くにお目覚めか」

 橋本刑事だった。目の下のクマが余計に目立っていた。私は何も言わず、通り過ぎた。

「森田も自供したよ。ただ、森田がお前の家族を殺したと言っている」

「私が殺したんです。先生は、放火しただけでしょ。なんで放火したのかわからないけど」

「森田は、相当な女好きらしいな。お前の母親ともできていた」

「うそでしょ……」

「ま、あいつの女癖が悪いことは十分わかった。過去にも何度かトラブルを起こしている。放火したことは、別れ話でもつれたらしい。その後、連絡が取れなくなり慌てた森田はつい魔がさして火を放ったと言った。火事の起きた日にお前の家へ向かったそうだ。誰もいなくて余計に腹が立ったそうだ。そのあとで、お前の家族の遺体が見つかり、自分が殺したと言っている。だが、検死結果でわかることは、どの遺体にも複数の刺し傷があったことだ。森田にそのことを伝えると、火をつけたことは確かだが、そのあとのことについては、よく覚えていないそうだ」

「そうですか……母と関係があったことは知りませんでした。先生は、何年で出てこれるんですか?」

「まぁ、放火ほど重いからな。お前も相当な覚悟をしておくんだな。ただし、お前は法律に守られているからこっちとしても困るんだがな」

 そこへ、看護師がやってきた。

「階堂さん、今日は手術なんだから安静にしてないとダメでしょ。刑事さんも頼みますよ」

 私は、看護師に手をひかれながら、病室へと戻された。

 お昼頃、中絶手術が行われた。麻酔が効いているからか、初めての手術は無事に終わった。

 一週間ほどで退院して、私は車に乗せられた。護送されている中でも、マスコミがしつこくカメラのフラッシュと尾行が続いた。

 弁護士とも話をしていたが、警察に話したことを繰り返すだけ。いったい、いつまで事件の話をしなくちゃいけないわけ? イライラしている私は、

「早く死刑にしてください。別に好きで弁護しているんじゃないでしょ」

 弁護士も警察同様、私みたいな中学生相手に苦戦していた。とにかく、裁判では、余計なことは話さないでくれと弁護士にくどいほど言われ、私は仕方なく言うことにした。そのせいなのか、法律に守られているせいなのかわからないが、十年を刑務所の中で過ごすことになった。

 刑務所の中でも、私は色眼鏡で見られていた。特に親しくなる相手もおらず、ただひたすら毎日が過ぎ去るのを待っていた。面会に来る人も、橋本刑事くらいしかいなかった。


十年後


 私は、二十四歳になった。仮出所も終わり、今日から新しい生活が始まる。久しぶりの世の中は、目まぐるしく変わっていた。携帯電話という小さな手の平サイズらしきものをみな持っていた。もちろん私にはない。帰る場所なんてないけれども、とりあえず、自分の住んでいた家に行ってみた。全焼しているから建物なんて残っているはずはない。でも、なんとなく足が勝手に動いていて身に覚えのあるお店などを見て歩き、家の前に着いた。

 え? どうして? 家がないはずの場所に、家が建っていた。表札を見るが、表札に名前は出ていなかった。そういえば、ここまでくる道のりの中で気づいたことは、新築らしき建物には、どこにも表札が出ていなかったことだ。十年も経つとこんなにも変わるのだろうか。

 誰か別の人が住んでいるのだろうか。おそるおそる、インターホンを押すが、誰も応答はしなかった。門を開け、郵便受けを除くと、手紙がたくさん出てきた。さらに、私は玄関にカギがかかっていないことに気が付き、不法侵入だと知りながらも、家の中に入ってみた。

 あの日と、何も変わっていない。壁紙は、私が張り替えたものだったし、台所もそのままだった。家の中の配置も当時のままだった。念のため、和室の畳を上げて遺体を確認してみたが、なかった。当たり前だ。じゃあ、どうして?怖くなった私は、玄関を飛び出そうとした。しかし、カギもかけていないのに、ドアは開かなかった。ガチャガチャとドアノブを触り続けていたら、突然後ろから背中を押された気がした。ガチャンと扉が閉まるのを聞くと同時に私は道路に転がった。

「危ないだろう!」

自転車に乗っているサラリーマンが私をひきそうになったらしく、自転車を立て直してからまた言い放った。

「そんな空き地からなんで転がってくるんだよ!」

そのあともブツブツとつぶやきながら自転車に乗って去っていった。

 空き地? だって、家があるじゃないの! と振り返ってみると、そこには家はなく草があちこちと伸びきっていた。どういうこと? これもまた夢の続きなのだろうと思い、ほっぺたをつねってみるが痛かった。さっきまで家の中にいたのに。じゃあ、最初から家はなかったことになる。私はやっぱり幻想を見ていたのだろう。十年も過ぎているから、今の世の中についていけない私が悪いんだろうと思い直し、今日から住むことになっているアパートへ急いだ。本当なら、東京で暮らしたかったが、また地元に戻ってきた。自分が住んでいた場所からはちょっと離れているが特に気にはしなかった。

 住む場所に困ることはなかったが、明日からの生活をどうするかだ。今までは、刑務所の中で三食きちんと食べてきて生活をしていたわけだし。コンビニまで履歴書を買いに行こうとするが、ここで買うより、百均で買った方がいいと勧められ、人生初の百均に行ってみたらすごいのなんの。生活の品から食料まで何もかもが揃えられること。目移りしてしまい、いろんなものをカゴの中に入れてしまい、レジで合計を言われた時はビックリした。

 店の外に設置しているラックには、車、求人、資格などあらゆるものがフリーペーパーという名のタダで持ち帰ることができるらしい。ひとまず、求人誌だけを持って帰ってみた。手っ取り早く稼ぐことができるのは、う~ん、なんだろう? 前科ありなわけだし、普通の会社に勤めることはできないとも言われていた。そういえば、駅前でポケットティッシュをもらっていたんだった。裏側を見ると、夜の仕事らしきものが入っていた。これしかないな。電話、電話とアパートの階段を下りていくと公衆電話がない。そういえば、歩いていてもどこにも公衆電話らしきものを見ていない。みなが持っている携帯電話が必需品だということに夜の仕事のする場所で初めて知った。相手も、今どき携帯電話を持っていないなんてありえない! と驚いていた。キャバクラでとりあえず、働くことができ、日給でもらえることになった。前科については、殺人じゃなく万引きで補導された程度だと面接で答えた。

 お店の名前は、アールという人気のお店らしい。その姉妹店に、キャバ嬢が憧れるエースというお店があるらしい。私は見おう見まねで、慣れるまでが少し時間がかかってしまった。

 一週間ほどで、携帯電話を買える金額に達して携帯電話ショップへ初めて足を運んだ。使い方も丁寧に教えてもらい、アパートへ帰った。電話帳には、まだ店の連絡先しか入っていない。まだ、お客様と親しくないので、名刺などももらっていない。お店での名前は、また妹の名前を使った。

「杏奈でぇ~す。よろしくお願いします」

「新入りの子? なんか若いけど、お酒飲めるの?」

「あら、○○さん、この子、杏奈ちゃんって言う名前なの。最近入ったばかりで何かとご迷惑をかけるかもしれないけど、どうぞごひいきに。さぁさぁ、杏奈ちゃんお客様にお酒をつくってさしあげて」

 アールでのママには、面接のときから何かと教わってきた。

 帰り際、ママに呼び止められて、

「そうそう、来週からエースの方から二人こっちのお店にヘルプしに来るからね。杏奈ちゃんのこと話してあるから。確か一人は杏奈ちゃんより一つ年下だから仲良くなれるわよ」

 私にはまだ親しい友達がいなかった。このお店に来た当初も、初めてのことばかりで戸惑っていたし、なにしろ携帯電話すら持っていないことにみんながまたしても白い目線で見られていることに気が付いていた。私は、お酒はなんとなく飲めるようになってきたけど、タバコだけはどうしても無理だった。周囲は当たり前のように吸っている。もちろん、お店の中は禁煙じゃないし、お客様もいい気分で吸っている。タバコの臭いがどうしても好きになれないけど、生活していくためには、この仕事が一番稼ぐことができる。ナンバーワンになりたいとは思わないけど、とにかくこの十年を取り戻すために、ママに色々と教えてもらっている。

 新しい週になってから、エースの方から二人がやってきた。

「絹江さんにユキちゃん、お久しぶりね。しばらくの間、アールのお店のこと頼むわね。この子は、最近入りたての杏奈ちゃん。二人とも仲良くしてあげてね」

 のちに、この二人のパワーに私は押し潰れそうになった。どこからそんなパワーがあるのだろうかというくらいギャアギャアとうるさい。この二人とも私は仲良くすることができない。でも、この二人は、私のことに興味を持ってか、しつこく私のプライベートを聞いてくる。

「なんでも聞いてきてね。私はこの業界長く勤めているから、なんでも知っているわよ。そういえば、ここのお店のことはどこで知ったの? ママに聞いたけど、二十四歳なんだってね。ユキちゃんよりも一つ年下だと聞いたけど本当なの?」

「あ~、きぬちゃん! 今日は、アッキーが来るんだった! 忘れていたよ。化粧直し早くしなくちゃ~」

「ユキちゃん、ユキちゃんはそのままが一番かわいいよ。そうだ、杏奈ちゃんだっけ? ごめんね~、わたしたちうるさくて」

「杏奈ちゃん、アッキーがどういう人なのか紹介するね。アッキーはずっとアールのお店の常連客なの。私たち二人とも、前はアールで働いていたんだけど、ママのおかげでエースにも時々、顔を出しているの。アッキーとはもう会った?」

「私まだ、お客様の顔と名前が一致しなくて……」

「あ~、最初はそうだよ。でも、そのうち覚えていくようになるから大丈夫だよ。杏奈ちゃんは、結婚しているの?」

「いいえ、まだです。ユキさんは?」

「ユキさんだなんて、そんな堅苦しいのは、やめてよぉ~。私は、結婚しているよ。二十歳の時に結婚したよ。どういうタイプの男の人が好きなの?」

「結婚早いですね」

「ちょっと~! 敬語はやめてよ! タメみたいな感じで大丈夫だからさ。ねえ、きぬちゃん」

「そうそう、私はちょっと歳いっているけど、敬語なんて堅苦しいから友達感覚でしゃべってね」

「三人とも、もう開店時間だからお願いね」

 ママが大きな声でロッカールームにやってきた。

「それと二人とも、もう少し声のトーン落としてね。お店の方まで丸聞こえだから気を付けてね」

 ママが言うのも納得できる。確かにこの二人の声の大きさにもビックリした。会話が成り立っていないようでほとんど成り立っていることがすごい。

 ロッカールームからお店へ出ていくと、絹江さんがさっそく見つけたらしく、

「ユキちゃん、アッキーいるよ。早くいかないとほかの人にとられちゃうよ」

「きぬちゃん、恥ずかしいよぉ。私は遠くから眺めているだけでも大丈夫だから。アッキーに呼ばれたら行くよ。ほら、杏奈ちゃん。あそこの隅の方にいる人がアッキーだよ。確かIT企業の次期社長さんだったかな」

 ユキさんから言われた通り隅の方で、お酒を飲んでいる姿が見えるけど、そんなにハッキリと顔は見ることはできなかった。なぜだか知らないけど、この二人と共に行動をすることになってしまった。指名が来たら動くことになっているけど、一人だけで動くわけでもなく、私がまだ一人前になっていないせいもあるけど、ママいわく私自身を育てるというのが二人の使命になったらしい。私にとっては、ありがた迷惑な話だ。別に一人でも今までだってなんだかんだで、やってこられたのに。ママも私の面倒を見るのが嫌になってきたのかな。十年という空白はさすがに長いか。中学すら卒業もできていないわけだし。無駄に年齢だけ重ねて何も知識がない。そこへ、私の名前が呼ばれた。

「杏奈ちゃん、ご指名よ。初めてのお客様みたいだからご親切にね。二人とも杏奈ちゃんのヘルプお願いね」

 私への指名? 誰だろう? 呼ばれたテーブル席へ向かうと、

「はじめまして~。絹江です」

「はじめましてぇ。ユキです」

「こういう席は初めてで、久しぶりだな、杏奈という名前か」

「え~、杏奈ちゃんの知り合いですかぁ? 杏奈ちゃん誰なの?」

 私は突然の知り合いの顔にただ驚いていた。気を取り直して、

「お久しぶりです。橋本さん、お元気でしたか?」

「まぁ、ぼちぼちだな。最近は昔みたいに動き回っているわけでもないしな」

「橋本さんっていう名前なんですか? 名刺もらえますか?」

 すかさず、絹江さんが刑事から名刺をもらおうとしている。だけど、

「すまん。今日は持ち歩いていなくてな。すまないが、杏奈と二人きりにさせてもらえないか?」

「杏奈ちゃん、まだ入りたてなので私たちがお酒つくりますよぉ」

「それならお酒だけつくって早く二人きりにさせてくれ」

 二人は、目配せしながらダメだと頭を横に振り、お酒だけ簡単につくりさっさとテーブルを離れた。

「どうしてここがわかったんですか?」

「たまたまお前を見たんだよ。まさかキャバ嬢をやっているとはな。新入りってことは、最近出たのか?」

「二週間くらい前です」

「あれから十年か……妹の名前そんなにも気に入っているのか? 逃げていた時も、妹の名前を使っていたよな。それにこっちに戻ってくるとは思いもしなかったよ」

「絵麻っていう名前あんまり聞かないじゃないですか。私も最初は戻ってくるつもりはなかったんです。でも、なんとなく……」

「お前に重要な話がある。森田が一ヶ月後出所することになった」

「私と変わらないじゃないですか!」

「お前は未成年で法律に守られていたのは知っているよな。森田も、十分な証拠が見つからなかったんだよ。森田は、お前が出所していることは知らない。でも、気をつけろ。森田もおそらくこっちへ戻ってくるだろう」

「あ!」

「どうした?」

「いえ、なんでもないです。そうだ、私の家って壊されたんですよね?」

「ま、全焼したわけだし親戚が確か壊したような。それがどうかしたのか?」

「今は空き地になっているんですよね?」

「ああ、空き地になっている。誰もあの場所には近寄らないな。たまにあの近辺に家を建てた人が事件の場所とも知らずに子供たちが遊んでいるのを見かけるが。もう十年だ。世間も忘れているだろう。ここのママにはなんと言ってあるんだ?」

「万引きで補導されたくらいしか言っていません」

「それならいいが。携帯は持っているのか? 名刺だけ渡しておく。何かあったら連絡してくれ」

 橋本刑事は、グラスに入っている残りのお酒を一気に飲み干すと、お店を出て行った。私は最後までお見送りをしたかったが、あの二人につかまり質問攻めにあっていた。

「杏奈ちゃん、どういう知り合いなの? 最後には名刺までもらっていたでしょ! あの人、名刺は持ち歩いてないとか嘘ついたのね。いいから、名刺を見せてよ」

「昔の知り合いです。名刺はもらっていません」

「ふ~ん。ま、いっか。ユキちゃん、今日はアッキー帰るみたいだね」

「え~! もう帰るの? いつもより早くない?」

「そうだね、早いね。何か明日、重要な会議でもあるんじゃない? まぁ、また明日来るかもしれないし、ユキちゃん元気出して」

「きぬちゃん、ありがとぉ! 今日は、久々にアッキーを見ることができて本当嬉しい。明日からも、バリバリと働くぞぉ~!」

 二人は、息の合った同士、テンション上げ上げで次のテーブル席に向かった。私はちょっとの間、ロッカールームに戻り、橋本刑事からもらった名刺を大事にカバンの中に入れた。

あの先生がもう出所する。同じ十年だなんて……。あの手紙、やっぱり先生が書いたの? でも、私の家は空き地になっていると橋本刑事も言っている。じゃあ、あのとき郵便受けに入っていた手紙はどういうこと? 手紙は、アパートにおいてある。刑務所からずっと送り続けていたのだろうか。橋本刑事が私を見つけたのもたまたまだとは言っているが、出所する日付くらい、事前に知っていたのだろう。私をおおかた、尾行していたのだろう。なにしろ、私は三人もの家族を殺しているのだから。再犯率が多いということで私をひそかに監視しているのだろうか。

「杏奈ちゃん、ここでなにしているの?」

「ユキさん、顔が赤いですけど大丈夫ですか?」

「あ~、ちょっと飲みすぎたかも。杏奈ちゃん、アッキーのこと取らないでね」

「アッキーっていう人がまだどういう人なのかわからないので……」

「杏奈ちゃんなら大丈夫かなぁ」

「ちょっと! ユキちゃん、大丈夫?」

「きぬちゃぁん。杏奈ちゃんが、アッキーを狙っているよ~」

「もしかして、私たちがこっちに来る前からアッキーと知り合いなんじゃないの?」

 この二人、意味わからん。そもそもそのアッキーという人知らないし。きちんとした名前も知らないのに、どうして私が知り合いだと言い張るのだろう。というより、ユキさんは結婚しているのに、なんでその人を取らないでと言うのだろう。確かにお客様に気に入られるように私たちは努力をしなくてはいけないことは知っている。とにかくこの二人とはあんまり深くかかわらない方が身のためだ。

 お店が閉店時刻を回り、私は一足先にお店を出た。ポツポツと雨が降り始めていた。今日の天気予報は雨だったのだろうか。まだ、テレビも買っていない。私はイマイチ世間の情報にまだついていけていない。携帯電話も使いこなせていないし。小雨の中、急ぎ足でアパートへ戻る途中で男の人であろう声にかけられた。聞き覚えのない声だった。

「家まで送っていこうか?」

 単なるナンパだと思い無視をしてさらに急ぎ足で駆けぬこうとした。

「待って!」

 どうやら追いかけてはこなかったみたいだった。アパートに入る前に、キョロキョロと周辺を見渡してみたが、怪しげな男の人の姿は見えなかった。

 熱いシャワーを浴びながら、先生が一ヶ月後に出所するということを思い出した。あれから十年も過ぎているのだから、簡単に私を見つけることなんてできるのだろうか。橋本刑事にすでに見つけられているからどうすることもできないのだろうか。何かあれば橋本刑事に連絡することになっているが。

 カバンの中から、橋本刑事の名刺を取り出し、携帯電話に登録をしてみた。もしものために、名刺は机の引き出しの中に入れておいた。手紙も入れてあったのでまた中身を開けてみた。やはりこの手紙は刑務所から送っていたものだった。母と関係があったから写真も盗み出していたのだろうか。十年前のことがすごく最近の出来事のように思える。でも、もうあの家族はいない。私はこれから自由に生きてもいいのだ。階堂絵麻として、第二の人生を送ればいいのだ。

 翌朝といっても、昼夜逆転の生活をしている私にとっては、すでにお昼を過ぎている時間に起きる。今日も外は、いい天気だ。散歩がてらに十年もいなかった私の地元を歩き回ってみた。なくなっている店や、新たに建てられた店や家などたくさんあった。世間はこんなにも変わっていたのか。

 夕方遅くに、店へ出勤する。店の前で男の人がキョロキョロと誰かを探しているようだ。まさか、もう先生がここに現れたのだろうか。ちょっとうつむき加減で店の中に入ろうとすると、

「こんばんは。いつもこの時間帯に来るの?」

振り返ると、昨日店を出るときに私に声をかけてきた男だった。名刺入れから名刺を取り出し私に挨拶をしてくる。

「○○会社の徳田彰夫です。最近入ってきた子だよね?」

「はい。あの、ここで話されても困るのでどうぞお店の方へ……」

「これから大事な商談があるんだ。本当は、昨日の夜に君ともう少し話したかったけど。名刺に携帯番号書いてあるから困ったことがあるなら電話してきて。それと、君の名刺もらえる?」

慌てて私はカバンから名刺を取り出した。

「杏奈ちゃんか。あれ? ほかの子は、携帯電話書いてあるけど、杏奈ちゃんは?」

「すみません。最近携帯を買ったばかりなので……」

「そっか。それじゃあ、今度来る前までに携帯に電話してきてよ」

「え? あの……」

 私が言い終わらないうちに、徳田彰夫は大通りの方へ歩いて行った。

「あれ? 杏奈ちゃん? 店の前でなに突っ立てるの?」

 年増の方の絹江がド派手な格好で出勤してきた。

「誰かに名刺をもらったの? だれだれ?」

「徳田彰夫っていう人です」

「えぇ? ちょっと杏奈ちゃん、もうアッキーと名刺交換しちゃっているの?」

「名刺交換しちゃダメなんですか?」

「いや、交換は当たり前なんだけど、相手がね……ユキちゃんが悲しむわね。アッキーは大手IT企業の次期社長候補なんだよね。アッキーは名刺を渡さないっていうことで有名なの。それなのに、杏奈ちゃんがなんで?」

「私もわかりません。どういうことなんですか?」

「こっちが聞きたいわよ。アッキーと実は知り合いなんじゃないの?」

「なになに? アッキーがどうかしたの?」

「ユキちゃん! 杏奈ちゃんがね、名刺をもらったのよ」

「はぁ? なにそれ? 私たちですらもらったことがないのに、なんで新入りの杏奈ちゃんがもらえるわけ?」

 ロッカールームでこの二人の声が響き渡った。当然のことながら、店の方からママがやってきて、

「いくらお客様が見えない場所だとしても声のトーンは下げなさい。杏奈ちゃん、ご指名よ」

「すぐ行きます」

 指名された席へ向かうと、橋本刑事だった。何か進展があったのだろうか。

「いらっしゃいませ。おしぼりどうぞ」

「すまんな。お前に聞きたいことがあって来た」

「なんですか?」

「前に来たとき、ここのママには万引きで補導されたことを言ったな。ほかの同僚たちからは何か聞かれてないか?」

「特には……まだ新入りなので。私の過去でも知っている人がいるんですか?」

「妹の名前を使っているよな。もっとほかの名前は思い当たらなかったのか?確か逃亡していた時も妹の名前を使っていたよな。そんなにも妹の名前が羨ましたかったのか?」

「それこの間も言いませんでしたっけ? 母親が何をするにも杏奈を可愛がっていたんです。私に対しては、敵対心しか見せませんでしたよ。絵麻という名前は気に入らないんです。聞きたいことって、それだけですか?」

「お前は、十年できちんと更生できたのか?」

「さあ? できたから出所して今ここにいるんじゃないんですか?」

「今でも家族のこと恨んでいるのか?」

「死人に口なしですよ。私はこれからの人生、幸せに生きたいんです。あんな地獄のような毎日なんてもう送りたくないし、ここで十分に稼いだら転職します。といっても、何にも取り得ないんですけどね。だから刑事さんは、私のこと心配しないでください」

 ボーイに耳打ちをされて、次のお客様の席へ動いた。

「イヤだわぁ~先生」

 席に着く前から、あの二人の声が聞こえてきた。同じ席か。仕方ないなあ。

「こんばんは、杏奈です」

「杏奈ちゃん、こちら弁護士の先生。何か困ったことがあったら先生に相談するといいわよ。そうそう、先生はどこの大学出身でしたっけ?」

名桜(めいおう)大学だよ」

「すごいわぁ~名桜だなんて。やっぱり弁護士ともなると有名な大学を卒業するんですねえ。杏奈ちゃんは?」

 突然、話を振られてビックリしてしまった私は、氷の入ったガラスを床に落としてしまった。

「すみません、失礼いたしました」

「もう、杏奈ちゃん、しっかりしてよ。先生、お洋服濡れませんでしたか?」

「大丈夫だよ。そろそろ帰るよ。明日も朝一にクライアントの方へ向かわなくてはいけなくてね。あんまり君たちと話すことができないんだよ」

「残念ですわ、先生。またいらしてくださいね」

 弁護士の方が帰ると同時に、絹江さんとユキさんが目を合わせて私の方を向いてじろっと睨まれた。

「杏奈ちゃんのせいで先生、怒って帰ったじゃない」

「そうよ。どうしてくれるわけ?」

「いや、でも朝一にクライアントの方と会うんですよね?」

「そんなのウソに決まっているでしょ。だいたいさぁ~もう一ヶ月近くここで働いているのなら客の好みとか頭の中に叩き込んでくれないと困るんだよね」

「それで、杏奈ちゃんは、どこの大学出ているの?」

「いえ、私は大学に進学していないので……」

「このご時世に大学にも出ていないの? 私たちですら最低限の大学出ているわよ」

「きぬちゃん、所詮、キャバだから学歴とか関係なくない?」

「そりゃ、そうだけどさ。だって、大学出てないのなら、今まで何の仕事をしてきたわけなの? キャバの仕事は初めてみたいだし」

「もしかして?」

「仕事しましょう。またママに注意されたら……」

 二人は遠くの方からママがこっちを見ていることに気が付いたらしく、そそくさとほかのテーブル席に向かった。

 私はまたロッカールームに引っ込んだ。あの二人、いったいなんなの? 自分たちのことは一切話さなくて何もかも私にしつこく聞いてくる。この仕事が初めてだけど、だったら先輩として教えてくれてもいいじゃないか。姉妹店のエースからこっちのアールに仮にも手伝いに来ているわけでしょ? ほかの同僚たちはあの二人を避けている感じだし。ママに相談したくても、ママは最近忙しそうだし。昔から私は、友達作りが苦手だったな。刑務所の中でも孤立していたし。あのときは、周囲が私に近づいてくることすらなかった。中学二年生で、家族を惨殺していれば、誰でも恐ろしく感じるか。


 ある日のこと、絹江さんが体調を崩して休むことになった。ユキさんと私とでテーブル席にお客様と話していても何か違和感があった。その違和感は、二組目のお客様のテーブルに着いた時に気が付いた。弾丸トークではないということに。一人だと物静かになるのか。これは、チャンスだと思った私は、

「ユキさん、ユキさんは結婚しているんですよね?」

「そうだよ。杏奈ちゃんも結婚したくなった?」

「そりゃあ、幸せになりたいですよ。旦那さんとはどこで知り合ったんですか?」

「大学の同期だよ。あ~、同い年と結婚しない方がいいよ」

「結婚の決め手はなんだったんですか?」

「私はまだ結婚したくなかったんだけど、相手がしつこく言ってきたから、それに釣られてやっただけ。別に好きでもなかったし。最近じゃ、相手の母親からまだ子供はできないのかってしつこくて。家にずっといたら体調崩しちゃってね。旦那に相談したら別に仕事してもいいって言われたから。ま、夜の仕事していることは内緒なんだけどね」

「徳田さんのことは?」

「アッキーは別だよ。アッキーのことは好きで好きでしょうがないんだよね。旦那と結婚していなければアッキーと結婚したかったのになぁ。アッキーと結婚しようかなあ。なに? 杏奈ちゃんもアッキーのこと気になってきたの?」

「絹江さんとユキさんがいつも徳田さんのこと話しているから」

「でも、ダメだよ。アッキーは私のものだから。いくら杏奈ちゃんがアッキーのことを好きでも私は許さないからね。あ、でもアッキーのことが本気に好きならば譲ってあげてもいいかな」

「そこまで好きならば旦那さんとは離婚しようとは思わないんですか?」

「離婚する気なんてあるわけないじゃん」

 やっぱり、ユキさんの考えた方についてゆけない。結婚しているのに、ほかの男が好きだなんてよく人に堂々と宣言できるよなあ。不倫じゃないの? しかもほかの男と結婚したいという割には、旦那さんと離婚する気はないらしい。完全なる浮気でしょ。しかも、私が好きなら譲ってあげるって。譲も何もユキさんが徳田さんと付き合っている気配はないし。

 そういえば、ここのところ徳田さんがお店に顔を出すことがなくなってきている。名刺を渡されても、私は携帯に登録しただけで、まだ徳田さんには連絡はしていない。私から連絡が来ないから怒っているのだろうか。いつも家に帰っては、電話をしようか迷っている。私なんかが連絡してもいいものかどうかが分からなかった。あのうるさい二人ですら名刺をもらったことがないというのになぜ私に名刺を渡してきたのかもわからない。今日は、家に帰ってから電話でもしてみようかと考えている。

 お店を出てから、コンビニで夜食をいつも買う。家で自炊することはほとんどない。コンビニを出ようとしたら徳田さんと会った。

「こんばんは。最近お店来ないですね」

「君からの連絡をずっと待っているんだけどな」

「やっぱり怒っているんですか?」

「全然。もうじき社長に就任することになったからその仕事に追われているとでもいうのかな。お店にはいつも行きたいなとは思っているんだけどね。でも、君からの連絡は一向にないし嫌われているのかなと」

「嫌うだなんてそんなことありません。今日、家に帰ってから連絡しようと思っていたところです」

「本当?」

「あ、じゃあ今電話しますね」

「ようやく君の携帯番号を知ることができてよかったよ。一人暮らし?」

「はい。徳田さんは? 社長さんともなると豪華な暮らしですか?」

「まだ実家暮らしなんだけどね。代々といっても、祖父が築きあげてきた会社だからね」

「それじゃあ、彼女もいらっしゃるんですよね?」

「いないよ。ただお見合い話はずっと続いているけどね」

「君こそ……というか、杏奈ちゃんっていうのは、お店だけでの名前でしょ?本当の名前は?」

「杏奈で大丈夫です。それでは、また」

 私は、本当の名前を言えなかった。絵麻だと言えば過去が分かるのかもしれない。たかが十年。されど十年。世間では、あの事件はどう見ていたのだろうか。未成年者犯罪。当時の私は、冷め切っていて特に世間にどう思われようが関係なかった。世間のことを考えていたら、私は未だにあの家族と地獄のような日々を送っているのだろう。誰にも言えなく、助けての一言も話さなかった。今の私は、十年前と変わったのだろうか? 橋本刑事の言うように、私は更生できたの? 確かに外部との接触もないまま十年を過ごし、義務教育ですら卒業できなかった私は、刑務所の中で中学の卒業式を迎えた。高校認定も受けず、そのまま塀の中で暮らしてきた。早く出たいとも思わなかった。とにかく人と関わるのが嫌だった。今でも多少、人と関わるのが怖い。でも、この世の中で生きていくためには、稼がないとダメだ。私を養ってくれる人はいない。誰かと結婚すれば幸せになれるのだろうか。徳田彰夫は、どういうつもりで私に声をかけてきたのだろうか。


 月日が流れ、先生が出所するであろう日に、私は仕事を休んだ。一日をアパートの部屋で過ごし、外に一歩も出歩かなかった。携帯電話の電源もオフにしておいた。

 翌日、こわごわ出社すると、

「杏奈ちゃん、突然休むから心配したんだよ」

「そうそう、いきなりだからもう今日は来ないかと思った。辞めたのかと思った」

 たった一日を休んだだけで、こんなにも扱いが酷くなるのか。この二人のタッグは相変わらずすさまじい勢いだ。ママにも怒られても、特に悪気はないらしくいつでもヘラヘラ笑っている。

 テーブル席に着くと、

「私たちも早くエースに戻りたいんですよぉ~。先生もここよりエースの方が、気が楽ですよね?」

「まぁ、そうだなあ。でも、二ヶ月前、エースの方では何人かが辞めたらしいな。なんでも客の取り合いでいじめが勃発しているんだとか。確か自殺に追い込まれた子がいたな」

「いじめだなんて、許せないですよねえ。いじめをする人が悪いんですよ。ここでもお客様の取り合いは多少ありますけど、自殺にまで追い込ませるなんてたちの悪い人たちですね」

 たちの悪い人たちは、お前ら二人だよ! と言いたかったけど、愛想笑いを含ませながら私は席を立った。

 カウンター席で、ボーイと少し話をしていたのが原因なのかわからないが、突然、腕をつかまれた。

「杏奈ちゃん、接客しないならロッカールームにいてくれない? ここは、お客様たちが楽しむ場所なのよ。目障りでしょうがないのよ」

 ユキさんから冷たい言葉を受け取った私。私も何となく、気分を害しロッカールームへと引き下がった。早く勤務時間が終わらないのかなあと壁時計とにらめっこをしながらこの職場から去りたいと思った。

「ユキちゃん、どうしたの?」

 二人がロッカールームに戻ってきた。

「なんか、昨日からずっとお店の付近に変な男の人がいるよね。気味が悪くて……」

「大丈夫だよ。ユキちゃん。もし何かあったならば、エースのお客様たちに助けてもらえればいいのよ。だって、政治家や芸能人、弁護士に医者とも知り合いなのよ。何も怖がることなんてないのよ」

「それも、そっか。さすが、きぬちゃん! 早くエースに戻りたいよね」

 二人は、さらに意気投合をし、不審人物を忘れてウキウキ気分で帰って行った。私は、その不審人物が気になっていた。外に出てみると、それらしき人物は見当たらなかった。私の気にしすぎのせいか、ホッとして、アパートへ帰った。

 コンコンというドアをノックする音で目が覚めた私は、寝坊をしたのかと思い慌てて時計を見てみるが、まだ朝の七時だった。こんな朝早くから誰が訪ねてきているのだろう。

「どなたですか?」

と、ドアの向こう側に言ってみるが、返事はない。

 おそるおそる、ドアを開けてみるが、それらしき人はいなかった。私の思いすごしだろうとドアを閉め、カギも閉めまた眠りの世界へとスヤスヤ眠った。


 お店へ出勤すると、ママからすぐにテーブル席へと案内された。

 徳田彰夫とあの二人が楽しそうに座っていた。

「杏奈ちゃん、アッキーが杏奈ちゃんに伝えたいことがあるって」

「なんですか?」

「ここでは言えないよ」

「言えないことってなんなの? あ! もしかして二人とも付き合っているの?」

「違います!」

「へぇ~。そうなんだぁ」

「それじゃあ、杏奈ちゃんまたね。二人ともありがとう」

「え~。もう帰っちゃうの?」

「見送りはいいから。また来るから」

 徳田彰夫は、二人が引き止めるのを無視してお店を出て行った。

「杏奈ちゃん、アッキーとは本当は知り合いなんじゃないの?」

「そういえば、杏奈ちゃんのドレス最近気合が入っているよね。誰か狙っているんでしょ? まさか、アッキーとの玉の輿を狙っているとか?」

「杏奈ちゃんのドレスって、毎回ロングだよね。若いんだから脚を見せなくちゃお客様だって喜ばないでしょ。さ、早く脱いで」

「ロッカーで着替えてきます」

「きぬちゃん、私が持ってくるからそこで杏奈ちゃんを捕まえといてね」

「ユキちゃん、早く頼んだわよ」

 絹江さんが、突然、後ろのファスナーを開けだした。

「ちょっと! 何するんですか?」

「いいじゃないの。別に私たちはこういう仕事なんだから」

私がとっさに、逃げようとすると、

「いい加減にしてくれよ!」

 一瞬にして店の中が静まり返った。ママが何事かと私たちの方へ、向かって来た。

「また、あなたたちなの? 絹江さん、ここはほかのお店とは違います」

 ママは、大きな声で、

「楽しいところを不愉快にさせてしまい申し訳ありませんでした」

と深くお辞儀をした。

怒りだした一人のお客が、ママに向かって札束を机の上に置いた。

「この子をこれから貸してもらうよ」

 私の手を取り、ママの返事を聞かないうちに私はお店の外へと連れ出された。

「助けてくださりありがとうございます」

「いいや。お礼はキッチリしてもらうからな」

 その声に私はビックリした。

「いや~、こんなにも早く社会復帰できているとは思わなかったよ」

「せ、先生……。どうしてここが?」

「お前が悪いんだろ。なんだって、ここへ戻ってきているんだよ。しかも、キャバクラで働くとはな。ま、お互いヤバいことを犯してるんだからまともな職に就けないことはわかっているんだけどな。名前も妹の杏奈か」

「帰ります」

「大声で、お前の名前と人殺しのこと話すぞ」

「それじゃあ、私も先生のこと話しますよ」

「少しは大人になったんだな。まぁ、いい。お前には悪いと思っていた。それだけを言いたかった。俺はこれから地元へ帰る。お前よりまだマシだからな」

「先生、どうして私が殺したこと知っていたんですか?」

「お前の母親から家庭事情は聞いていた。娘から殺されるって毎日ぼやいていた。お前が殺した日に、お前の母親と会う約束をしていた。約束の時間になっても来ないからおかしいと思っていた。電話をしてもつながらない。もしかしてと思い急いでお前の家をのぞいていたら偶然にも父親が殺されるのを目にした。それで確信した。家族全員を殺したのだと。平気な顔をして毎日、学校へ登校しているお前の心理が知りたかった」

「だからといって、家を燃やす必要はないでしょ」

「お前は、完全犯罪をしようとしていた。それが許せなかった。遺体さえ発見されればと思って放火した。そうしたらお前の罪が世間に公表されることになる。だけど、未成年者は法に守られている。実名も顔写真も非公開だ」

「先生だって、いろんな女子生徒と関係を持っていたでしょ。それと同じじゃないの」

「人を殺すのとは違う。今は、お前が俺を殺しに来るんじゃないかとずっと思っていたよ」

「先生を殺したいほど憎んでいたわ。でも、いいの。私は、大嫌いなあの家族を殺したことでスッキリしたから」

「罪悪感は?」

「ない」

「罪悪感のないやつが、よく刑務所から出てきたんだな」

「先生に言われたくない」

「お前はこの先、長い人生が待っている。いつかお前の過去を知りたがる連中がいると思う。そのときに、十分苦しみを味わえ」

「十年前に十分苦しんだから、それ以上の苦しみがあるの?」

「人間は苦しみともがきながら生きていくものだ。結局、お前は何一つ更生されていないということだ」

「先生は、なぜ私に会いに来たの?」

「そういえば、あの時、妊娠していたんだな。子供は?」

「中絶したに決まっているでしょ! まさか、また?」

「お店の連中に過去のことを知られたくなければ、俺と寝ろ。あの時は、中学生だったからな。大人になったお前の体が知りたい」

「みんなに言いふらせば? 誰も信じないわよ。それに、もう十年も前のことよ。覚えているわけがないでしょ」

「さあ? それはどうかな?」

 ここは、ホテルの一室。付いてきた私も悪いが、お店の前で話すわけにもいかない。逃げようとしたが、無理矢理ベッドに押し倒された。

「お前のために大金を出したんだ。キャバ嬢ならそれらしいことしてもらわないとな」

「いい加減にしてよ!」

 手探りで固いものを手に取り、先生の頭をめがけて思いっきり振り下ろした。先生は、「ウッ!」と低い声を漏らし、頭を抱えながらベッドの下でもがいていた。あの一撃で簡単に死ぬということはないとは思うけど、急いで部屋から出ようとしたが、足首を急につかまれてその場で倒れた。

「やっぱり、俺を殺そうとしていたんだな。安心しろ。殴ったりはしない」


 気が付いた時は、朝方の五時だった。横をみると、先生がスヤスヤと眠っている。結局、先生に二度も犯されたのだった。少し熱いシャワーを浴びながら、私は涙を流した。十年前と何も変わっていない。私は自分の無力さに落胆していた。

 着替えて、荷物をまとめていても、先生は起きる気配すらなかった。いっそこのまま殺してしまえばいいのかと頭の中をよぎった。頭を横に振り、ホテルを出た。

 太陽が昇り始めている。朝焼けを見たのは、何年振りだろう。

 その後、先生が店に現れることはなくなった。安心もしているが、油断はできない。どうやら妊娠も免れたようだった。好きでもない男との子供は欲しくない。

 店では、相変わらずあの二人組が牛耳っているような感じだった。ママも何度か叱ったりはするが、あの二人にはどうやら効き目がないようだ。

 私は、徳田彰夫と一週間に一回、ホテルのレストランで食事をすることが多くなった。徳田彰夫は、特に何も私の過去について深くは聞いてこない。名前も杏奈のままで過ごしていた。私自身、男の人とは先生以外関わることがなかったので、よくわからないまま徳田彰夫との食事を楽しみにしていた。私たちは、普通の恋人同士の関係になった。もちろん、あの二人組には付き合っていることすら内緒にしている。もちろんママにも。

 いつものレストランで待ち合わせをし、食事をしていると、突然プロポーズされた。

「杏奈ちゃんともこうして仲良くなれたし、今後、僕の隣で一緒に過ごしてほしい。結婚してください」

 テーブルの上に、箱に入っている婚約指輪を差し出された。

「私でいいんですか?」

「実は、母にお見合い話を何度か持ちかけられているんだ。もちろん、断っているよ。今度、家族にも正式に杏奈ちゃんのことを紹介したい」

「こんな私じゃ、反対されるのでは?」

「反対されてでも、杏奈ちゃんとは結婚するよ。そうだ、杏奈ちゃんの苗字は?」

「二階堂。二階堂杏奈です」

「へぇ~。二階堂っていう苗字なんだね。結婚する前に知れてよかったよ」

 私は、またしても嘘の苗字をついた。ようやく本気で好きになれた人なのに、いつまで私は平気で嘘を塗り重ねていくのだろう。私は、階堂絵麻です。そう叫びたかった。別にいいじゃないか、本名をバラしたっても。誰も十年前の事件のことなんて覚えてはいない。ましてや、未成年者だったのだから、名前も報道されていない。だが、先生が放火したことにより、遺体が見つかり、家族三人の名前が新聞やテレビで報道されていることは私も耳にしている。浮かない気持ちのまま、徳田彰夫の家族と初対面することになった。

「はじめまして。二階堂杏奈です。これ、つまらないものですが……」

「はじめまして。徳田彰夫の母です。息子とはどこで知り合ったのですか?」

「母さん!」

「だって、大事なことでしょ。ご両親は何のお仕事をされているのかしら?」

「両親は、もう死んでいます」

「あら。そうなの。じゃあ、ご兄弟とかは?」

「いません」

「母さん、いい加減にしてくれよ。杏奈ちゃんが困っているじゃないか」

「結婚するからには、何もかも知る権利があるでしょ。それともなに? 何かやましいことでもあるの?」

「そんなことあるわけないじゃないか! ごめんね、杏奈ちゃん」

「彰夫のことだから心配なのよ。それじゃあ、お父さんにも話しておくわね」

「え? 今日、家にいないの?」

「言わなかった? 今朝から出張よ。そういうことなので、二階堂さんもうお帰りになっても大丈夫よ」

 徳田彰夫の母親は、そう言うとさっさとリビングの部屋から出て行った。

「私、嫌われているみたいですね」

「母はいつもあんな感じだよ。一緒に住むことはないし、大丈夫だよ。家まで送っていくよ」

「いえ、一人で帰れますから」

 こうして、私は一人でアパートへ帰って行った。その姿を、徳田彰夫の母親が二階の窓越しで見つめていた。

「もしもし、調べてほしいことがあるの。彰夫と付き合っている、二階堂杏奈という女性よ」

 私は、徳田彰夫の母親が身辺調査の依頼をお願いしていたことにまだ気が付いていなかった。


「ねえ、アッキー。結婚するって本当なの?」

「どこからその話が洩れているの?」

「だって、今日のニュースで話題になっているよ。お相手は、○○銀行のお嬢様なんだってね。すごいなぁ~。そう思うよね、きぬちゃん?」

「さすがIT企業の社長ともなると、お嫁さん候補は令嬢になるわよね。私たちとは雲泥の差だわね」

 徳田彰夫は、グラスに入ったお酒を一気に飲み干した。母親が仕向けたに違いないと確信していた。

「そういえば、今日、杏奈ちゃん休みなの?」

「ああ、出勤するなりお客様と外出したみたいだけど。確か前にも連れ出されていたような気がするけど。なんで?」

「杏奈ちゃんって、付き合っている人でもいるの?」

「さあ? なんか謎に包まれたままなんだよね。ママに聞いても、詳しくは教えてくれないし。それよりも、アッキー。結婚してもここに来てくれるよね?」

「う~ん、どうだろうな」


 その頃、私はというと、橋本刑事とバーで飲んでいた。

「結婚するのか?」

「あんなに話題になっているのに、無理ですよ。でも、どうして?」

「お前のことをずっと監視していた。もちろん、森田とホテルに一緒にいたことも知っている。森田に脅されたんだろ?」

「確かに過去のことをバラしてもいいのかと脅してきました」

「どうして早く連絡してこなかったんだ」

「私のこと監視していたんですよね? だったら、そのときに助けてくれればよかったのに。私、危うく先生を殺すところでした」

「森田は別件で逮捕されている。たぶん、無期懲役だろうな」

「そうですか。これで先生と会うこともなくなるんですね」

「お前には幸せになってほしいと願っているそうだ」

「幸せも何も、先生のせいでどれだけ私が苦しめられたのか……」

「たとえ、森田が悪くても、お前が家族を殺したことには変わりはない。過去はもう戻らない。徳田彰夫は、お前のことをどれくらい知っているんだ?」

「何にも知らないと思います。私は、偽名を名乗っているし。お店でも特に、事件のことは誰も言わないので。十年も経てばみな忘れますよ」

「そうだといいんだがな……」

 バーからアパートへ戻る際に、徳田彰夫から電話がかかってきた。

「杏奈ちゃん、俺は杏奈ちゃんと結婚するから」

「○○銀行のお嬢様はどうするんですか?」

「どうだっていいよ。結婚式を早めたいんだ。もちろん、家族には内緒で行うつもりだから心配しないで」

「いつごろになりますか?」

「そうだなぁ~。一週間後はどう?」

「なんか焦っていますね」

「早い方が、母が諦めてくれると思うから。簡単な式だけになるけど、誰か呼びたい人とかいる?」

「私は、二人きりの挙式もいいと思いますよ」

「わかった。そのように手配しておくよ」

 私は、多少不安を抱えながらも、一週間後にはようやく幸せになれるのだと思い直した。

 その後の一週間は、私は晴れやかに仕事を淡々とこなしてきた。あの二人組は、近頃私を避けるようになってきたので私としても肩の荷が下りたような感じだった。

 式の前日、橋本刑事がお店にやってきた。

「こんばんは、橋本さん。いいんですか? 月に何度かお店に来ていますよね」

「ま、刑事だからなんとでもなるさ」

「私、結婚することになったんです。しかも、明日、挙式です」

「ほぉ~。相手は?」

「ここのお店の常連さんです」

「こういうお店に通っているのがなんか怪しげだな。お前の過去のことは?」

「いいえ、話していません。でも、式を挙げてから話すつもりです」

「相当な覚悟が必要だな。相手方の家族にも話す予定なんだよな?」

「向こうの家族に会ったんですけど、反対されました。だから、あの事件のことを知ったら心臓発作でも起きるんじゃないかと内心ヒヤヒヤしています」

「まあ、それもそうだな。とにかくおめでとう!」

「ありがとうございます」


 翌日、徳田彰夫から指定された結婚式会場へと向かった。なにやら、カメラマンが多い。有名人でも結婚式を挙げているのかなと思いながら、中に入っていくと、徳田彰夫の母親がいた。挨拶をしようとしたら、

「今日は楽しみだわね」

と、私の耳元でささやいた。

 私は、ウエディングドレスに着替えて、どうして徳田彰夫の母親がこの会場にいるのかが謎だった。二人きりの挙式じゃなかったの? あの母親のことだから、断りきれなかったのだと思い直し、係の人から時間だと呼び出され、扉の前に立った。係の人が扉を開け、私が一歩進もうとすると、激しいカメラのフラッシュがあちこちからたかれて、目を開けることがなかなかできなかった。そして、プロジェクターに画面が流れた。

「私は今、事件現場に近い場所にいます。警察官と消防の関係者が、幾度となくあわただしく動いています。たった今、情報が入りました。どうやら一家心中ではなく殺人事件として捜査が動き始めました。え~、この一家の家族構成ですが、夫婦とその子供二人がいるもようです。しかし、遺体は三体しかなく、司法解剖をしたところ夫婦と子供一人の遺体と判明され、遺体の損傷も激しく単なる放火ではないとのことです。また、警察関係者によると、一人の子供がなんらかの事件に巻き込まれているのではないかと任意の事情聴取をおこなっているもようです。以上、現場からの中継でした」

 そして、スタジオが映し出された。

「犯人は、外部犯ということなのでしょうかねえ」

「そうですねえ。でも、残されたお子さんが無傷だということは、いったい家族がどこに行ったのか気にならなかったのでしょうか。一刻も早い犯人逮捕へとしてほしいですね」

 今度は、別の映像が流れた。

「先日の一家殺害事件に進展がありました。残された少女が通っている学校では、臨時の保護者会が開かれました。その残された少女の発言によると、家族は、少女を残したまま家族旅行へ行く計画だったもようです。特に誰かに恨まれることもなかったが、学校の担任が事件とかかわりがあるとのことです。現在、少女の担任に任意で事情聴取が行われていますが、この担任には過去にも、勤めてきた学校で女子生徒とトラブルが絶えなかったもようです。中には、女子生徒を妊娠させたこともあり学校を退職していたこともあるそうです。担任を知る生徒たちからは、誰にでも優しく相談も乗ってくれて、慕われていたもようです。学校の先生ランキングでも毎年、一位を取っており生徒からも、ほかの先生たちからも絶大な信頼を受けていたようです。

え~今、情報が入りました。この担任が放火をしたという自供を始めました。が、しかし、自分が放火した時には家族の姿は見えなかったということです。放火する前に何者かが忍び込み、家族を殺した可能性も出てきました。以上、現場からの中継でした」

「少女の担任でもある森田容疑者を逮捕したとの情報です。森田容疑者は、少女の母親とも関係があり、少女から詳しい事情を聴きだしているそうです。え~、たった今ですが、少女が警察署から姿を消したそうです。繰り返します、任意で事情聴取を行っていた少女が、途中で警察署から逃げたもようです。警察は、少女が家族を殺したのではないかと、何度か問いただしたもようですが、少女は知らないとの一点張りでした。そして、遺体は、なんとも家が全焼でみつかりましたが、警察の発表によりますと、死後一週間は過ぎていたとのことです。ここにきて、少女が警察署から逃走を図ったということで家族の殺人事件にかかわっているとみられ、警察関係者が少女の行方を追っています」

「大変ショッキングな事件ですよね。少女が家族を殺しているのではないかと。このまま少女が保護された場合、どうなるんでしょうね。まだ、未成年でしょう。少女一人が殺したとは思えませんね。放火をした森田容疑者が手伝ったこともありえますよね」

「う~ん、なんとも言えないですよね。自分の母親が担任とかかわりを持っていたことに対して、嫉妬でもあったのでしょうか」

「それでは、次のニュースです」

「こんにちは。今日のニュースも昨日に引き続き、依然逃亡している少女の足取りについて追いかけたいと思います。警察によりますと、少女を見かけたとの情報が何件か入ってきているそうで、少女は東京方面へ逃げてきているとのことです」

「突然ですが、ニュースをお伝えします。家族三人を殺した少女ですが、さきほど警察官によって逮捕されたもようです。え~、今まで少女の年齢など一切、非公開されていましたが、十四歳の中学二年生の女子中学生だそうです。少女の通っていた中学校では、なぜこのような事件を未然に防ぐことができなかったのか、教育委員会でも問題視されているようです。少女の同級生たちの話によると、いたって普通の子だそうで、特に学校で問題を起こす子ではないと、逆に少女は、いつも一人で行動をしていたから近寄りがたい存在だったとの証言も取れています」

「まだ、十四歳の女子中学生ですよね。今までの未成年者事件でも、ここまで年齢の低い子が家族を殺したこととなると、今後この少女の処罰はどうなるんでしょうねえ」

「え~、また凶器となった包丁は、殺害後も毎日学校のカバンの中に持ち歩いていたそうで、捕まった時も肌身離さず持ち歩いていたそうです。そして、なぜ家族を殺さなくてはいけなかったのか、少女は両親から日常的な虐待があったと証言しています。また、両親は不仲で毎日のようにケンカが絶えなかった。妹については、いつも妹の方からわざとケンカを売ってきたとも言われています。衝動的な殺意だったのか、それとも計画的な殺人計画だったのかと警察官に問われると、計画的だったと証言しています。遺体は、見つからないように床下に隠したと言っています」

「本日も、少女についてお送りします。事情聴取中に逃げたことについては、自分としては悪いことは一切していないと、反省の色が見られません。そして、先ほど入った情報ですが、少女は妊娠しておりどうやら担任だった森田容疑者ではないのかとのことです」

「今後、少女がどうなるかのことですが、警察関係者も悩んでおり、おそらく少年院に入るのではないかと言われております」

 ここで、映像はようやく止まった。連日のようににぎわせていたワイドショーの私の部分だけをうまく編集したみたいだった。

「二階堂杏奈さん。いえ、階堂絵麻さん。あなたは私の息子を殺人者と結婚させるわけにはいきません。息子に近づき、計画的に財産を奪い取ろうとしたのではありませんか? そして、私たち家族も殺す予定なのでしょ?」

「いいえ違います! 私は、息子さんに計画的に近づいたのではありませんし、徳田さん一家を殺すつもりは一切ありません! 確かに私は、十年前に自分の家族を殺しました。それは認めています。今ここで流れていた通りです。でも、私は幸せになりたいんです。幸せな家族を持ちたいのです。それがいけないことなのですか? 徳田さん、徳田さんには挙式の後に全部お話しするつもりでした」

 徳田彰夫は、この映像を目の当たりにして近くにある椅子に倒れかけた。私が駆け寄る前に、徳田彰夫の母親のほうが早かった。

「汚らわしい! 家族を殺すなんて人としてどうかしているわ! いいですか、マスコミの皆さん、この女は人殺しですよ。そして、当時未成年だったということで刑務所にたった十年いただけですよ。そんなのありえないじゃないですか! 死刑に値します!」

 報道陣たちが、私にマイクを向ける。

「何か言いたいことはありませんか?」

「もう更生しているのですか?」

「家族を殺して、罪悪感はないのですか?」

 一斉に質問が突き刺さる。だが、私は、

「あなたたちに私の苦しみの何が分かるんですか? あの人たちは、殺されて当然のことを私にしてきたのですよ。罪悪感? そんなものはありません」

 涙ながらにカメラに向かって発言した。

「私は幸せになりたいんです。ただそれだけです」

 どこからか、橋本刑事の声がしてきた。

「警察だ。無断で撮影するな!」

 私の姿を見つけるなり、その場から私を連れ去ってくれた。橋本刑事の車の中で、

「何やら昨日から胸の奥の方がうずうずとしていてな。もしかしてと思って、ここへ来てみたんだが、遅かったな。お前は、今でも家族を殺したことに後悔はしていないんだな。そのことが十分にわかったよ。明日からまた、お前はワイドショーの餌食になる。本名もわかってしまった。当分、家には帰れないだろう。お店の方にもたぶん今頃は、カメラマンだらけだ。それでも、お前は生きて罪を償え。殺人をした犯人は、大半は刑務所の中で償う。あの母親の言うとおり、お前が今の年齢だったら即、死刑だろう。未成年だということに、あの当時はもめていた。今の日本の世の中でも、未成年者は法律という名の法で守られている。大人だって、簡単に死刑にはならない。日本の法律は、海外と比べて甘すぎる。この先、お前の過去はなくならない」

 私は何も答えられなかった。徳田彰夫の母親や橋本刑事の言うとおりだ。人を殺してしまった過去は何をしても消え去ることができないということに。十年前の私には、事の重大さがわかっていなかった。だから、罪悪感なんて言うものはなかったし、とにかくあの地獄の毎日から抜け出したかった。相談できる相手すらいなかった。私の苦しみは誰にもわからない。

 橋本刑事から、しばらくはホテルで住むようにと手配をしてくれた。

 翌朝、テレビをおそるおそるつけてみるが、どこのニュースにも昨日の出来事は映し出されていなかった。どういうことなのだろう。昨日、あれだけの報道陣がいながら何もメディアに露出されていないとは……。

 コンコンとドアをノックする音が聞こえた。橋本刑事だろうか。開けてみると、徳田彰夫の母親だった。驚きで思わず扉を閉めようとした。

「待ちなさい! あら、テレビを見ていたのね。自分の過去が世間に知られるはずだったのにね。彰夫からあなたのことを頼まれたの。どうしても、映像は流さないでくれとね。それと引き替えに彰夫は、私が決めた相手と結婚することに納得してくれたわ。あなたに手切れ金を渡したいところだけど、各メディアにあなたのことを流さないでほしいとお願いしたものだから、それで十分でしょう。二度と彰夫に近づかないことね」

 徳田彰夫が母親に説得させるとは思いもしなかった。その代わりに、親が決めた相手と結婚するなんて。向こうから近づいてきたくせに、アッサリ私のことを捨てるんだ。カバンの中から携帯を取り出し、徳田彰夫に電話をするが、留守電になってしまう。ありがとうと伝言を残してみたが、その後、向こうからの連絡はかかってこなかった。

 ホテルを出て、自分のアパートへ帰ったのは三日後だった。徳田彰夫の母親が口止めしたものの、もしかして報道陣がいるのではないかと不安でなかなか帰る気でいられなかった。一週間ほど、お店を休んでしまったので、またあの二人に嫌味を言われるのを覚悟したが、どうやらヘルプ期間は終了し、元のエースの店へ戻ったらしい。と、同時に徳田彰夫もアールからエースの店へ変更したとの噂が広がった。二人がいなくなったアールでは、ここぞとばかりにみんなが悪口の言い合いだった。どうやら被害者は私だけではなかったらしい。そして、エースの店でたびたび自殺者が出ていたのもあの二人組による陰湿ないじめのせいだった。再びあの二人は、古巣へ戻ったがママいわく相変わらずらしい。仕事にも慣れてきたころ、体調が思わしくなかった。なんか、フラフラするし、お酒を少しだけ飲むと気持ち悪くなる。トイレに駆け込むことが多くなり、ママから、

「杏奈ちゃん、もしかして妊娠しているんじゃないの?」

「え? そんな妊娠だなんて……」

「徳田さんとお付き合いしているんでしょう?」

「別れました。徳田さんは、親が決めた相手と結婚するみたいです」

「徳田さん、いい方なのに杏奈ちゃんと別れるなんてひどいわね。だから、こっちの店にも顔を出さないのね」

 まさかまた先生との赤ちゃんができたのではないかと一瞬よぎったが、あのときは、きちんと避妊をしていた。だとすると、残るはやはり、徳田彰夫との赤ちゃんとなる。どうしよう。妊娠していることが、徳田彰夫の母親に知られたら大変だ。また、中絶するしかないのか。でも、好きな人との赤ちゃんなのだから産みたい。二度も中絶して、将来結婚した時に子供が産めなくなるのは嫌だった。産婦人科に行き、

「おめでとうございます。妊娠八週目ですよ」

と、にこやかに言われて、私は涙を流した。

「望まない妊娠ではないわよね?」

「はい。でも、一人で産んで育てます」

「最近の人は、シングルマザーが多いから階堂さんも覚悟してくださいね」


 ママに妊娠していることを話し、お酒を飲まないように注意された。仕事は、おなかが目立つ頃に辞めることをあらかじめ話した。

 安定期に入ったころに、新聞で徳田彰夫が令嬢と結婚したことを知った。橋本刑事にも妊娠していることを話した。橋本刑事も、相手が先生だと勘違いしたらしい。だが、徳田彰夫が結婚してしまった今、どうすることもできない私を支えてくれた。

 出産を控えるころ、たびたび私はまだ見ぬ赤ちゃんを殺そうとしている夢を何度か見た。この子は、殺人者の子供になる。いつか私の過去も知ることになるだろう。世間に批判されることもあるだろう。でも、私は自分を生んでくれた母親のようにはなりたくない! と心の中で何度も誓った。

 出産は、さらなる地獄だった。とてつもない陣痛と闘い死ぬのではないかと思った。赤ちゃんの泣き声と共に、

「元気な男の子ですよ」

と言われ私は意識が遠のきそうだった。生まれたての赤ちゃんの顔をようやく見ることができた私は、感動のあまり泣いてしまった。

 赤ちゃんの名前は、『直樹』と名付けた。病院に入院している間は、ママや橋本刑事も来てくれた。

 直樹は、順調に育ち、毎日の夜泣きに起こされては、寝ての繰り返しで、睡眠不足になっていた。お店で働いていたお金で何とか生活をやりくりしている。だが、貯金が減る一方でこのままでは、全財産をなくしてしまうのは嫌だった。直樹が、三歳になるころ、ママに相談して、なんとかお店に戻れないかとお願いしてみたら託児所に預けるのなら働いてもよいと言われた。

 復帰の初日、エレベーターに偶然乗り合わせた客から、

「コイツ、人を殺したらしいぞ」

「マジで?」

「だって、エースのお店では有名らしいぞ」

「よくもまあ、堂々と生きているな」

「しょせん、キャバ嬢だぜ」

 私の耳に聞こえるかのように話している上に、ワハハと笑い声まで。キャバクラで遊んでいるお前らも悪いでしょ! と思った。しかし、エースのお店で私の過去が知られているということは、徳田彰夫に違いない。怒りもこみ上げたが、人を殺したことは確かなのだから言い返すこともできなかった。

 仕事に慣れるまで、また一苦労した。人員は変わり、衣装も以前は、レンタルできたが今じゃ自腹購入らしい。直樹のためにも、このままキャバ嬢として生きていくのもツラかった。小さな会社にも面接を受けてみるが、シングルマザーではちょっと……と断られることもあり、話が順調よく進んでいた割には、結果が遅かったりして断られることもあった。前科がある私が、普通の一般企業で働くことはできないのだろうか。高校すら進学もしていない私。世の中は、当たり前のように大学まで出ている。私があのとき、家族を殺さなかったら今頃、どんな人生を送っているのだろう。普通に仕事をしているのだろうか。

 天気がいい日に、直樹と公園に一緒に遊んでいたら、

「階堂さん、階堂絵麻さん」

と聞き覚えのある声に振り向きビックリした。

「徳田さん……」

「あれ? 結婚したんだね」

「ママ~」

と直樹が滑り台の方からこっちへ向かってきた。

「ママ、だ~れ、この人?」

「ちょっとお話があるから、砂場で遊んでいてね」

 直樹は小さい体で砂場へと遊びに出かけた。私と徳田彰夫は、近くにあったベンチに座った。

「いつのまに子供産んでいたの? 何歳?」

「三歳よ。私のことエースのお店で話したの?」

「三歳か~。今が一番かわいい時だね。旦那さん何している人?」

「私の質問に答えて。私の過去のこと話したの?」

「話してない。そんなことするわけないじゃないか。俺は、あの日のことは母のいたずらだと最初は思っていた。でも、母はあの映像を世間に流すと聞かなかった。だから本当のことなんだろうと自分に言い聞かせた。でも、好きな人がメディアに露出するのはどうしても許せなかった。だから俺は、母の言うとおり好きでもない女と結婚した。もちろん、あれ以来アールにもエースのお店にも顔を出していない。君からの留守電は何度も聞いた。でも、君に連絡する勇気が出なかった。本当に申し訳ない」

「私の過去の事件を知って、正直どう思ったの?」

「怖いと思った。まさか中学生の時に殺していたなんて……」

「普通の人ならそう思うんだろうね。でも、私はどうやら普通の人と違う感覚みたい」

「今でも誰かを殺したいと思っているの?」

「ううん。今は、あの子がいるから」

 私たちは、それから会話が続かなかった。直樹は、本当はあなたの子供なんですと言えなかった。

「それじゃあ、帰るよ」

「お元気で」

 私が、直樹のところに行くと、

「また会えない?」

「どうして私と会いたいの?」

「なんで……だろう? 自分でもわからない。ただ、階堂さんと初めて会ったときに、どうしても守らなくちゃと思った」

「ママ~帰ろうよ~」

 直樹が私の服を引っ張る。

「ごめんなさい」

と、一言だけ話して私は直樹と一緒に家へと歩いて帰った。ここをもう去らなくてはいけないと思った。生まれ育った地元に帰ってくるのは間違いだったのだ。直樹を寝かしつけた後に、大きいボストンバックを取り出して、必要最低限の物を入れた。

 翌朝、ママに、就職先が見つかったから仕事を辞めることを言った。

 駅に向かう途中、直樹が何度か「どこへ行くの?」と聞いてきたが、私は聞こえないふりをしていた。

「あ! 昨日、ママと話していた人だ」

と、直樹は歩くのをやめた。向こうも私たちに気が付いたらしい。

 私は早くこの場所から逃げたかったのに、体が思うように動かなかった。

 徳田彰夫は、私を抱きしめて、

「結婚しよう、今度こそ」

 何を言っているのかさっぱりわからなかった。私は、すぐに離れて、

「何を言っているの? 奥さんは?」

「結婚式は挙げたけど、互いに親が決めた政略結婚だったから、入籍はしていないんだよ。もちろん、両家は入籍していると思っている。向こうも向こうで、好きな相手がもともといたらしく、完全なる仮面だったよ」

「私のこと怖いでしょ? もしかしたら、また……」

「絵麻の苦しみを全部、これからは俺が受け止める。もちろん、絵麻が過去に犯したことも全部受け止める。誰が何と言おうと、俺は絵麻が好きだ」

「本当に本当?」

「ああ、本当だとも。その証拠が、この子だろ? 俺のことが嫌いだったのなら、産まなかったはずだろ?」

「どうしてわかるの?」

「アールのママから連絡が来たんだよ。俺の子供を妊娠しているって。一人で産んで育てているということも聞いている。もちろん、名前も直樹だってことも知っている」

「ママ、この人だれ?」

「直樹、今まで隠していてごめんね。直樹のパパだよ」

 私は涙を抑えきれなかった。こんな犯罪者な私でも、受け入れてくれる人がいることに嬉しかった。そのとき、初めて私は、

「ごめんなさい、お父さん、お母さん、杏奈……私を許して……」

と、ようやく言葉に出せた。殺した時も、逃げている時も、捕まった時でも、私は一切、謝罪の言葉というものを断ち切っていた。今になってから、罪悪感というものを知った。もちろん、刑務所の中で過ごしていた十年も何一つ私の心は氷のように冷たかった。そして、今ようやく心の氷の塊が一気に溶け出してきた。全部溶けるには、まだまだ時間がかかるけれど、私の犯した罪をこれからでも償っていく。まだ、人生はいくらでもやり直せる。

 私は、人として許されないことをしてしまった。こんな私は、本来、永遠に刑務所の中で過ごすだろうと思っていた。これは、神様が与えてくれたチャンスだと思い、今後の人生、二度と踏み外さないように――――。


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