忘却の底に
世界は悪魔に憑りつかれているかのように、凶悪な事件は、次々と静寂を切り裂いていった。どんなに深い悲しみを共有しようとも、事件は上塗りされて、記憶の過去は滲んでいく。当事者たち以外は。
祈流は中学生になっていた。いまだに母親の誓は、息子の呼び名を間違えた。祈流は、もう指摘するのも面倒で、そのまま黙ってやり過ごす。
「ごめんなさいね、祈流」
誓は、玄関先で革靴に足を通している息子の背に謝る。どくろ模様の黒いTシャツ、赤チェックのパンツ。腕にはブレスレットがいくつも巻きつけてあり、動かすたびに金属音を重奏した。髪の色がまだ黒であることに、誓はわずかばかりの安心を見出す。
高校には行かず、音楽の道に進みたいという祈流の思いを堰き止めるわけにはいかなかった。バンドをしているときの祈流は、楽しそうで、笑顔すら浮かべるからだ。
「今日も遅いの?」
「れんしゅ」
そっけないが、この子は片言が標準語だと、誓は思うようにしている。
「そう。いってらっしゃい」
祈流は、「はい」とも「うん」とも解釈できない言葉を独奏して、玄関のドアを押す。
友達に誘われてバンドを始めた。誓には兄と弟がいて、どちらも音楽に精通していた。祈流には慣れ親しんだ環境だったともいえる。
幼い頃、初めて「がいこくじん」に出会った。不思議な目の色は「ラムネの玉みたい」だったし、細い髪は太陽の光を通してみると、「キラキラで、子犬のよう」だった。その少年はレイと呼ばれていた。レイは、よく鼻歌を歌っていた。それがとても心地よかったのを祈流はよく覚えている。レイはまだ日本語がうまく話せなかったが、一度耳にすれば、完璧な日本語で歌いこなした。誓の兄は、面白がって様々な音楽を聴かせた。祈流も一緒になって歌った。レイと歌うのはとても楽しかった。
中学校の文化祭で、歌がうまかったのと、女にモテるという理由で、ボーカルに選ばれた。そのままバンドは継続された。言い寄ってくる女の子には、興味がわかなかった。真里亜がいればそれでよかった。
子供っぽくて謎めいていて、それでいて女の子を相手にしないボーカリストは、話題になった。独自のメイクやファッションでライブをこなし、バンドは立ちどころに有名になっていった。
祈流の言動や行動は、少し変わっていた。鏡やガラスがあると、特にそれは顕著にみられた。ひとりでなにかに向かって話したり、奇妙な行動をする。それは、幼児連続殺人事件が解決したと同時に、祈流の中に生じたものであった。事件の唯一の生き残りとなった祈流は、救出されたあと、しばらくのあいだ口を聞くことができず、学校にも通えない状態が続いた。今も、病院に通い、治療を続けている。
周囲に甘やかされて育ったせいもあるが、祈流の性格には幼さが残った。だが、ライブ時の祈流は、普段の祈流とは違っていた。それは祈流自身、感じていた。歌っているときだけが、本当の自分でいられる。祈流の歌声は澄み、その存在は煌めいていた。