あの夏
きっと忘れない。
誰にでも鮮明に焼きつく記憶がある。高校生の達哉は十日あまりの入院生活をきっかけに、忘れられない時間を手に入れる。
病室の窓から見る木々の緑は夏特有の鮮やかな青さをほこり、生命力に溢れている。真逆の立場にいる達哉は気が滅入ってしまう。
達哉が虫垂炎で緊急入院したのは六月下旬。
期末試験の最終日で、朝から胃の不調に気づいてはいたが、慣れないテスト勉強からくるストレスと本人も信じて疑わなかった。しかし、テストが終わった直後から立ち上がれないほどの腹痛に襲われ、生まれて初めて救急車に乗ることになった。
「期末試験の後でよかったね。退院した後にテストを受けるのキツイでしょう?」
見舞いに来た日菜佳は、前向きに考えろと達哉を励ました。家が近所で母親同士の仲が良く、彼女とは赤ん坊の頃からの付き合いだ。達哉の入院を知って真っ先に駆けつけたのは日菜佳だった。
「退院はいつ?」
「わかんねぇよ。親の都合もあるから、すぐってわけにもいかねえし…」
手術後、高熱が続いたため退院が見送られたことは家族しか知らない。
「お前、明日も学校なんだからもう帰れよ。日が長くても女子高生がひとりで歩くには危ないだろ。親父さんたち心配するぞ」
「ん…わかった」
腹筋を使うたび傷が痛む。日菜佳をエレベーターまで見送ると、食堂を兼ねた談話室には幼い子供を連れた家族の団欒する姿があった。
「昨日来てたコ、彼女?」
翌日、達哉は自販機で飲み物を購入していたところに声をかけられた。四十代前半の男性で、柔和な笑みを浮かべているが顔は相当やつれている。
「俺、同室の原田。原田禎之だよ、ヨロシク」
六人用の病室の名札にそんな名前があったのを思い出す。
「N高校の制服だったよね、あのコ」
「はい…ってか、家が近所ってだけの幼馴染です」
達哉がそう答えても相手は納得していないようだ。
「もったいないなぁ…可愛いのに―」
たしかに日菜佳は可愛い部類に入る容姿だった。高校に進学してから女性らしさが増したことに達哉も気づいていた。色白で華奢な彼女を見ていると、幼い頃とはいえ彼女とよく取っ組み合いのケンカができたものだと後ろめたい気持ちにさえなった。それだけ達哉のなかで、日菜佳は異性として意識する存在になっていた。
「俺、この夏はまとまった休暇がとれたら家族みんなで旅行に行こうって言ってたんだけど、腸閉塞で入院しちゃってさ」
話を聞いて昨夜家族と面会していたのが原田だと気づいた。
「そのうちなんて先延ばしにしてると、取り返しがつかなくなるぞ、少年!」
「はぁ…」
原田は、ちょうど達哉のクラス担任と同じくらいの年だった。目上の人間によくある説教かと思ったが、彼の言葉の重みを知ったのはもう少し後のことだ。
三日後、ようやく担当医から退院の許可が下りた。喜びが顔に出ていたらしく、同室の一人である松本に祝いの言葉を言われた。松本は六十五歳で現役の大工棟梁だと自己紹介してくれた。仕事中に屋根から落ちたが、左足の骨折と打撲程度で済んだと得意げに話していた。
「兄ちゃんは若いから退院も早かったな」
「はい…あ、原田さん、は…?」
入口すぐそばの原田のベッドは空だった。
「奥さんが早く来てたから、相談室で先生からこれからの話を聞いてるんじゃないかな」
「これからって…退院の予定とか?」
達哉がそう聞くと、松本は神妙な顔になり声を落として答えた。
「あの人、腸閉塞で入院したんだけど、見舞いにきた親御さんが口滑らせたんだよ…大腸のガンなんだってさ。それが腸閉塞の原因なのかもな」
だから原田の入院は、当初の予定よりもかなり延びているという。
「可哀相じゃねえか。俺みたいな老いぼれならともかく、ちょうど働きざかりで、まだ小さな子供もいるってのに…」
談話室でのにぎやかな団欒の声が、達哉の頭のなかで反響する。小学校低学年くらいの子供の声がやけに響いてきた。
『取り返しがつかなくなるぞ』
原田に言われた言葉を思い出し、足元から何かが崩れていく気がした。
原田とまた話すことができたのは、達哉が退院して一週間後のことだ。退院後の経過を確認するため受診するように予め医師から言われていたのだ。
「少年!」
診察を終えて会計をしているときに、相手のほうから声をかけてきた。
「原田さん…?」
一瞬、誰かわからなかった。やつれた顔がマスクで半分隠れていたせいもある。パジャマ姿の佇まいが前回会ったときよりも、ひどく疲れて見えた。
「元気そうだね」
「はい。原田さんは、今日は…」
入院患者の病室は三階より上の階で、用事がなければ外来患者が多い一階に降りてくることはない。
「検査してきたついでに、気分転換にぶらつこうと思ってね」
言葉とは裏腹に、原田は外来待合用のイスに座って大きな溜息をついた。やけに長く、重い溜息だった。
「大丈夫ですか?」
「気持ちはね、大丈夫のつもりだよ」
少年も座れよ、と促されて達哉も隣のイスに腰かけた。
「早く退院したいんだけど、焦れば焦るほど悪い方向に転んじゃうんだな、これが…」
イスの背もたれに体重を預けて原田は自嘲した。原田の言う焦りは、自分なんかでは想像がつかないものだと達哉は思った。想像どころかそれについて言及していいのかもわからない。
「俺ね、人生の残り時間…思っていたより少ないかもしれないんだ」
「…治療は?」
咄嗟に尋ねると、原田は困ったように首を横に振る。
「どうかな…間に合うのかな。検査の結果次第ってところだね」
達哉はどう言葉をかけていいのか迷った。十代の高校生に気の利いた、大人を励ます言葉など思いつくはずもない。
「毎朝起きて、家族の顔を見られることが当たり前だと思ってた…今もSkypeとかで会話はできるけど、直に会うってのとは全然ちがうよ」
ふと日菜佳のことを思い出した。家が近所だし、何かあれば足を運ぶくらいわけないと彼女の電話番号やメルアドすら知らない。入院したときだって、日菜佳が見舞いにこなければ会うこともなかっただろう。
「家族と一緒にいられる期限を知ってたなら、もっと時間を大事にできたよなぁ…」
原田が売店から出てきた女性に気づいて軽く手を振った。見舞いに来ていた夫人だ。
「少年は大丈夫なの?」
問いただされて達哉は返事に困った。
「あのコ、絶対少年のこと好きだと思うよ。でなきゃ、あの年頃の女のコがひとりで見舞いになんかこないよ」
達哉も内心それを期待していた。しかし、自分に都合のいいように解釈してるだけだったとしたら、自惚れもいいところだ。
「何もしないってことは、罪にも近いことなんだぞ、少年」
ポンと頭に手を置かれた。叩かれているという気はしない。
「人生一度きりだ…同じチャンスが巡ってくるとは限らないんだぞ。頑張れよ」
原田は立ち上がると手を振り返した女性のもとへ歩いていった。その背中を見送る達哉は何も言葉を返すことができなかった。
夕方、玄関のインターフォンのボタンを押す。達哉が名乗ればすぐにドアから日菜佳が出てきた。
「達哉、どうしたの?」
「医者から太鼓判もらったから明日から学校なんだ。これ、見舞いのお返しってお袋に持たされた」
達哉が差し出したのは、本当に母から託された大玉スイカだった。慌てて日菜佳が受け取る。
「まだ本調子じゃないんだから、こんな重いもの持っちゃダメだって!」
「痛くもなんともないから心配すんな。リハビリと思えば何でもない」
スイカを抱えたまま呆れている日菜佳を前に、多少躊躇した。
―同じチャンスが巡ってくるとは限らないんだぞ
原田の言葉を通して感じたこと。どれだけ後悔したって、時間を巻き戻すことはできないということだ。
だから彼の言葉に、背中を押された。
「来週の日曜日空いてるか?」
「日曜日?」
唐突な質問に日菜佳は目を丸くする。
「町内会の夏祭りがあるだろ。見舞いの礼に何か食いモン買ってやるよ」
「…でも、町内会って…地元だし、知ってる顔も多いから、ふたりで歩いてるの見られたら変に誤解されるかもしれないよ?」
明らかに戸惑っている日菜佳の態度に、達哉は彼女の真意を測りかねた。
「嫌ってことか?」
「嫌とか、そういうことじゃなくて…」
それでも日菜佳が迷っているようなので、達哉は彼女の顔を見据えて率直に言った。
「お前と行きたいと思ったから誘ってんだよ。行くか?」
「…行く」
一瞬の間の後、惚けたような表情で日菜佳が頷いた。
祭り前日までに連絡をとりたいからと携帯の電話番号とメルアドも交換して帰路についた。緊張から解放されて見上げた空は、夕焼けから闇へと切り替わるグラデーションに染まっている。こんなに空が綺麗だと思えたのは初めてだった。
その後、達哉が原田に連絡をとりたいと思わなかったと言えば嘘になる。彼の助言どおり日菜佳に対して行動を起こしたことも話したかった。一緒に夏祭りに行って花火を見たこと、それから彼女とつき合うことになったので、日菜佳の父親の前では肩身の狭い思いをしていることなど、いくらでも話題はあった。けれど、実際に連絡をとることはなかった。達哉が日菜佳と一緒にいる時間を大切にしているのと同じように、原田もまた彼の家族との時間を大事にしているはずだ。彼にとって何にも代えがたい時間なのだから、邪魔はしたくなかった。達哉はただ、原田と彼の家族の幸せな時間が少しでも長くつづくように願うばかりだった。
五月―強い日差しに冬物の制服は暑すぎて、自宅まで我慢できず達哉はブレザーを脱いでしまった。
「お前、いい加減泣き止めよ。俺がまわりに誤解されるだろ」
「そんなこと言ったって…涙が止まらないんだもん」
駅のホームで電車を待っている間、達哉は泣きつづける日菜佳に声をかけた。
翌年の衣替えを待たずに原田は旅立った。告別式は見送るのにもふさわしい晴天。
教えてくれたのは新聞の訃報欄だ。同姓同名かつ年齢も大体一致していたので迷わず告別式に行くことにした。その日、偶々日菜佳とのデートの予定を入れていたので、理由を説明してキャンセルしようとしたのだが、日菜佳が自分も一緒に行くと言い出した。
『その人の影響で、達哉が私とつき合うことにしたって言うなら、私とも無関係とは言えないでしょう?』
そう言われるとついてくるなとは言えなかった。
達哉が泣いちゃったら、私がその場を取り繕ってあげるから―そう言っていたのに、葬儀場で故人の妻や小さな子供の姿を見て泣きだしたのは日菜佳のほうだった。感受性が強いとは知っていたが、これほどとは思っていなかった。おかげで達哉は感傷的にならずにすんだが、告別式が終わった後まで泣いている日菜佳につき合う羽目になった。
「なんであの人、俺に色々声かけてくれたんだろう?」
「…覚えていてほしかったんじゃない?」
ハンカチでしきりに涙を拭う日菜佳が間髪入れずに答えた。
「自分の病気のこと知って、後に残せるものが欲しかったとか…自分がたしかにそこにいたってことを、誰かに覚えていてほしかったのかも」
自分が生きていたという証拠。原田禎之という人間と言葉を交わしたことは、達哉のなかでは消し去りようのない事実だ。今となっては原田本人に確かめる術はない。
「それなら、要望に応えられるな」
ひと月もすれば、あの夏からちょうど一年になる。あの時間がなかったら、日菜佳とこうしてふたりでいることもなかっただろう。
あの夏。
彼と出会っていなければ、今の自分はまたちがう生活を送っていたにちがいない。見た目は同じでも、心のなかは…
「忘れない」
遺影の原田は、達哉が知っている彼よりも頬がふっくらしていた。入院するよりもずっと前に撮った写真だろう。焼香に参列した際に、手を合わせながら達哉は心のなかで原田へ礼を言った。
―ありがとうございます
この先夏がくるたび、日菜佳とこうして歩くたび、彼に背中を押してもらったことを思い出す。今が、未来につづく大切な時間であることを思い出す。
達哉は日菜佳の手を引いて、ホームに入ってきた電車に乗り込んだ。
終
最後までご覧いただきありがとうございました。
私も虫垂炎で入院したことがあります。実際は各自のベッドを取り囲むようにカーテンを閉めきったままという光景が珍しくないのですが、個室とちがい6~8床のベッドがある病室には色々な病気を抱える患者さんが一緒になるので、そういった交流を持つ可能性もあるかも―という発想で書きはじめました。