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第二章 遠い街から来た少女  (4) 


      4


 新しい靴の履き心地は悪くなかった。蛍光色の赤と青は、派手そうでいてお洒落にまとまっており、思っていた以上にぴったりと足にはまる。まるで神沙紀のために誂えたかのように。一瞬、何もかもを忘れる。これを履いて街を歩くのが楽しみになってきた。

「どうやら気に入ったみたいだな」

 探偵の助手だという、トビという男が言った。


「悪くない。いや、いいセンスだ。俺も靴買うかなー。走り回ってばかりだからなーこの仕事。変に安いの買うと、すぐ駄目になっちゃうんだよな」

「そういうものなの? 探偵の仕事って」

 てっきり張り込みなんかをしているイメージだった。

「そりゃ街中駆けまわってるだけじゃないけどな。いざという時使うのはやっぱり足よ、足。元々、あんまり運動するほうじゃなかったけど、この仕事を始めてから体はずいぶん健康になっちまったな」


 なるほど。言うだけあってトビという男は、細身のわりにしっかりと筋肉がついているようだった。

「ねえ、探偵さんなら知っているかもしれないんだけど」

 おもむろに、神沙紀は言った。

 ちょっと閃いただけだ。あの蠍の探偵の助手なら、もしかしたら、と。

「お、おう? 何だ。俺はまだ見習いなんだが……」

 ちょっと驚いた顔で、トビは答える。


「……回帰症を治す薬があるって聞いたの。この街に」

 極力緊張を隠しながら、神沙紀は言った。

 ここで手がかりが得られないようなら、それどころかこの人たちが障害になるようなら、早々と離れるしかない。

「トビさん、モンストロって知ってる?」

 トビの顔が強張っていた。さっきまでの親し気な気配が消えた気がする。

「君は、どこでそれを……」

 店内のスピーカーから、『蛍の光』が流れ始める。


「どうしてモンストロの事を? 君がナユタに来た事と何か関係があるのか?」

「……わたしには、それが必要なんだよ」

「必要って。何を聞いたか知らないが、あれは魔法の薬じゃない。君が思っているようなものとは違うんだ」

 何故だか必死そうに、トビは言う。


「詳しくは言えないが、やばい代物なんだ。あんなものに関わっちゃいけない」

「いいから教えてよ。知っている事。わたしは……それがないと……」

 つんざくような悲鳴が外から聞こえたのは、その時だった。

「っ!?」

 神沙紀は思わず窓のほうに目をやった。その瞬間、子牛ほど黒い影が道路に飛び出してきた。あれは……。一瞬、目を疑った。間違いない。あれはネズミだ。それも大き過ぎるほどの。


 ネズミは尻もちをついた女性に狙いを定めていた。テレビで見る、ライオンが獲物に狙いを定めるような仕草。巨大化したネズミは目を緑色に爛々と光らせて不気味だった。それにバチバチと電気めいた緑色の光もその巨躯に纏わりついている。

「やばい!」

 トビが自動ドアに向かって走る。思わず、神沙紀もあとに続いた。


 ネズミが吼えるような鳴き声を上げる。耳の中を弄られるかのような不快な音。女性の悲鳴が往来に響く。ここから走っては間に合わない。もし、わたしがアレになれれば……

 突如として、赤い人影が物陰から飛び出した。くるりと宙で一回転し、ネズミの脳天に踵落としを決める。赤い、鎧をまとったような人影。人間とは思えない。だが、尻尾がある。見覚えのある蠍の尻尾。


「アンタレス?」

 トビが小さく呟いたのを神沙紀は聞き逃さなかった。

「ギャアアアア!」

 醜い鳴き声がすぐ後ろで聞こえた。

 怖気が走るのと同時に振り返れば、荒い息を吐き出す一匹の大きなネズミの姿が、そこにはあった。


「嘘……」

 ネズミが間髪入れず飛び掛かってくる。駄目だ。早過ぎる。避けられない。

「うぉらあああッ!」

 バチバチと緑の電光を放ちながら、トビの右手がネズミの鼻先を強打する。

「神沙紀ちゃん! とりあえず、中の仁を連れて逃げろ!」

 まるでこういう事態に慣れているかのような、一切迷いのない声でトビが言った。

「速く! この場所から離れるんだ!」

 もはやそこかしこで悲鳴が上がっていた。考えている暇はない。神沙紀は店内へと踵を返す。


「馬鹿でかいネズミの相手か」

 緑電の放電を確かめながら、トビは一人ごちた。

 鼻先に思いもしなかった反撃を喰らった事で、巨大ネズミは多少怯んでいた。が、倒すまでには至っていない。緑色の光る目を見るに、モンストロで巨大化しているのだろう。野良ネズミがモンストロを食うだろうか? いや、それよりは誰かが与えたと考えるべきだ。


 思考の時間はそれ以上与えられなかった。驚異的なスピードでネズミがこちらへ突っ込んでくる。喰らったら終わりだ。直感でそれだけ判断する。地面に身を転がしてぎりぎりで回避すると、止まり切れなかったネズミは路上駐車してあった車に体当たりし、そのまま転げた。

「あっぶねえ……」

ぎりぎりだった。次に同じ事が出来るかと言われると自信がない。その間にも、ネズミは体勢を立て直していた。巨躯のわりに器用な真似をする奴だ。


「さあて……」

右手に集中する。探偵見習いになってからまだ日は浅いが、それなりに修羅場はくぐったつもりだ。ビビっているのと同時に、ちょっと高揚感さえある。自分よりでかい相手なら、すでに経験済みだ。あの時の鰐に比べたら、ネズミはまさしくネズミだった。

狙うなら顔面だ。そう直感する。緑電をぎりぎりまで手の内側に溜め込む。最大出力でお見舞いする――


 三発の銃声が轟き、ネズミの巨躯から赤い血が噴出する。

「トビ!」

 声がした。レベッカの声だ。道路の向こうから山本刑事とレベッカが駆けてくる。駆け寄りながら銃を撃ったのは、どうやら山本刑事のほうらしい。

「逃げろ!」

 山本刑事が叫びながら、再び銃撃する。だが、駄目だ。モンストロで強化されている生物相手では、銃弾は決して致命傷にはならない。傷口から緑電が迸り、ネズミの体の肉が盛り上がる。


「山本さん、こいつは……」

「何だかよくわからねえが、ネズミのバケモンだ! いいから逃げるぞ。RPGでも持って来なきゃこんな奴――」

 ネズミが飛び掛かってくる。咄嗟にトビはレベッカの襟首を掴んで跳んだ。山本刑事は素早い身のこなしでネズミの攻撃を回避しざま、さらに銃撃を加える。一瞬の判断で、三人は転がった車の影に身を隠した。地面に転がったカーブミラーに、ネズミの姿が映っている。血を流しているが、こちらの様子には気付いているようだ。トビは緑電を放とうと右手を構える。一瞬、山本刑事に自分の秘密がバレる事を懸念したが、今はそんな事を言っている場合ではない――


 雷が落ちたような轟音が耳元をつんざいた。稲妻が巨大ネズミの頭部を焼く。衝撃でネズミの体がよろめく。

レベッカの手に電撃銃《小火竜(リトルドラゴン)》が握られていた。

「それ何!?」

 山本刑事が素っ頓狂な声を上げた。そういえば、見るの初めてか。そりゃそうか。などと、トビは内心思わず頷く。


「説明はあと! 山本刑事、トビ。ここであいつをぶっ倒しましょう」

「「無理に決まってんだろ!」」

 不意打ちを喰らったネズミが、呻きながら起き上がる姿が見えた。野生動物とはいえ、トビにも相手の感情は理解できる。怒っているのだ。

「やばいかね。さすがに……」

 山本刑事が呟く。カーブミラーに映るネズミはこちらの様子を伺っている。少しでも動けば、たちまち飛び掛かってくるだろう。


「山本さん、弾は?」

「あと二、三発かね。まあ、あんまり関係ねえ。いくらでかいとはいえ頭をぶち抜くのは難しいぜ」

「つべこべ言っている暇はないんじゃない。やらなきゃやられる状況でしょ?」

 どうやらレベッカは腹を括っているようだった。

 やるしかない。


「山本さん、俺があいつを引き付けます。レベッカは小火竜で奴の足元を崩してくれ。転んだところを、接射で。どうです?」

「おいおいトビ君よ……」

 山本刑事は呆れたように言い、

「しゃあないな。頼むから死なないでくれよ」

「ネズミに食われるのは勘弁ですよ」

 レベッカを見る。彼女は無言で頷いた。間髪入れず、トビは車の物陰から飛び出す。それを見たネズミがトビの後を追撃する。


「このッ!」

 もはや山本刑事に秘密がバレる事を気にしてはいられない。トビは右手から緑電を放出する。が、同じ手はそう何度も通じなかった。ひらりと身を躱し、ネズミはこちらに迫ってくる!

「レベッカ!!」

 トビが叫び、レベッカの小火竜の雷撃が、ネズミの横腹に直撃する。


「ギィギャアアアアア!!」

 腹部を焦がしてネズミがのたうつ。瞬間、山本刑事が至近距離まで駆け寄っていた。

「悪いな」

 乾いた銃声が二回。銃弾が巨大ネズミの頭を吹き飛ばす。

 もはや再生は叶わなかった。絶命したネズミの巨躯が、どうっと車道に倒れ込む。

 肩で息をしたのも束の間、山本刑事は振り返って声を張り上げた。


「ったく。いいか、お前ら。尾賀の奴にどんな影響を受けたのか知らないが――」

『――――イクシード』

 声が聞こえた。闇の中から。

 瞬く間に金属音が耳の奥で鳴り響く。立っていられない。トビは思わず両耳を覆う。ほかの二人も同様だ。

 強烈な異音は人の意識さえ奪うのか。頭に靄がかかったかのようだ。

「……罪人とは言いませんが。ネズミ同様、貴方がたにも役立ってもらいましょう」

 人を食ったような、知らない声。

 店内に逃げ込んだ神沙紀と仁の事を案じながら、トビの意識は闇に落ちた。



 炎を纏ったアンタレスの蹴り足がネズミの頭を痛打する。アンタレスの特殊な炎がネズミの体を駆け巡り、体内のモンストロを無効化させていく。カウンターモンストロの異名を持つアンタレスの力だ。

 肥満体のようだったネズミの体が瞬く間にやせ細り、その場に力なく倒れる。さすがに完全に体のサイズが元に戻る事はないようだ。

『所詮はネズミだ』


 叉反の中にいる怪物がつまらなそうに言った。

「やかましいぞ」

 言いながら、叉反は背後に迫る気配を感じ取っている。アンタレスの振り向きざまの回し蹴りが飛び掛かってきた二匹目の巨大ネズミに叩き込まれ、炎に包まれたネズミは先ほどと同様に縮んでいく。


「三匹目は……」

『銃声がした。おそらく倒されたのだろう。お前の見習いとお仲間によってな』

「名推理だな」

 靴屋の前からずいぶん離れてしまった。急いで戻らなければ。まだ、あの男が、カブラカンがいる。

「急ぐぞ、怪物。この変身、()たせろよ」

『それはお前次第だな、探偵』


 実際、アンタレスに変身した肉体ならばたいした距離ではない。五分とかからずに叉反は靴屋の前に戻っていた。

 往来には誰もいない。さっきはまで多過ぎるくらい人がいたが、巨大ネズミ騒ぎで皆逃げたのだろう。

 靴屋の中にも人はいなさそうだ。仁は……。トビやレベッカ、山本刑事は無事だろうか。それに神沙紀。皆どこに行ったのか。

「――誰をお探しですか? アンタレス」


 腐った果実のような、汚らわしさを感じさせる嗄れ声が、道路の向こうから聞こえた。

「また人の心を読んだのか。カブラカンとやら」

 街灯に照らされた巨体がのっそりと姿を現す。毛むくじゃらの野人。三メートル近くあるだろう。顔に鈍色の仮面を装着したオラウータンのフュージョナー。その獣人態。


「俺の仲間の行方を知っているのなら、話してもらおうか」

「いえいえ。すぐにご案内して差し上げましょう。ほら、こちらですよ」

 ゆらゆらと、三人の歩いてくる人影が見える。

 トビ、レベッカ、山本刑事。三人とも、目は閉ざされているが歩いている。その様子はまるで映画のゾンビだった。ゾンビとは歩く死体のほかに、意識を支配された生者を指す事もある。


「彼らに何をした」

「何、ちょっとした催眠ですよ」

(私のテレパスを使えば容易い事です)

 カブラカンの言葉が直接脳に響く。ネズミを操ったのと同じく、人間まで操る事が出来るのか。しかも、三人も。

「ええ。こんな事も出来ますよ」


 カブラカンが、まるで操り人形を操るかの如く、毛むくじゃらの指を揺らめかせる。催眠下にある山本の手が動いた。拳銃が握られている。銃口がこちらに向けられ、引き金が引かれる。

 ダーン! 銃弾はアンタレスの体を掠めもせず、あらぬ方向に飛んでいく。

 山本の腕が動く。その銃口がレベッカに向けられる。

「貴様!」

「もうおわかりでしょう? 歯向かえば、まず初めにこのかわいいお嬢さんの顔が吹き飛びますよ。ま、最終的には三人とも死んでいただくんですがね」

「やめろ! 罪人以外は手を出さないのがルールなんだろう! 鉄仮面党の」

「悪を処すためにはいささか強引な手段も仕方ありません。それに、貴方が私の言う通りにするのなら、彼らは助けてあげますよ」


「その保証がどこにある?」

「そんなもの、信じていただくほかありませんな」

 叉反は押し黙る。怪物は何も言わない。心を読まれる事を知って手の内を隠している。

「条件は何だ?」

「私と一緒に来ていただきたい。私は興味があるのですよ、貴方のそのアンタレスオーブにね。体は良い『苗床』になりそうですし」


「苗床……?」

「いやいや。こちらの話ですよ。さあ、どうします? 答えは明白だと思いますが」

「……いいだろう。その代わり彼らの安全を保証するのが先だ」

「というと?」

「銃を地面に置かせろ。落とすなよ」

 カブラカンが仮面の奥で嗤っている。山本刑事の体が、ゆっくりとした動作で拳銃を地面に置いた。


「これで、よろしいですか?」

「三人を安全なところまで下がらせて、座らせろ。それから催眠を解け。それが済んだら、変身を解除してお前の言う通りにしよう」

「ふふん」

 三人の体がのろのろと動き始める。歩道に入り、建物の影でゆっくりと座り込む。

 パチン! とカブラカンの大きな指が鳴った。

「これでじきに目覚めるでしょう。さあ、今度は貴方が約束を果たす番ですよ」


 叉反は黙って変身を解除した。炎が身を包み、変身前の、ネズミたちの攻撃でボロボロになったコート姿に戻る。

 車のエンジンが唸る音がした。黒塗りのバンが接近してきて、中から数人の仮面を着けた者どもが降りてくる。


「では、参りましょうか。その体、じっくり調べさせてもらいましょう」

 両手を後ろ手に組まされ、叉反はバンの中に引き摺り込まれる。手には結束バンド、それから目隠しをされ、視界を完全に塞がれると、もう動きようがない。

 車が動き始めた。叉反は黙って、耳を澄ませる。



 探偵が押し込まれたバンが走り去る。それを見ていた巨大な野人が、やがてビルの壁を軽々と昇り、往来から完全に姿を消すと、風の音さえ聞こえない無音の世界が戻ってきた。

「……もう大丈夫」

 物陰で息を潜めていた神沙紀と仁は、同時にふっと息を吐いた。


「後を追わなきゃ。車のナンバー、覚えた?」

「何とかね。お姉さん、どうする気?」

「作戦なんてないよ」

 言いながら、神沙紀は先ほど物陰で拾った物を見つめる。

 大きなグリップ。ざらざらと冷たい硬質な手触り。黒く鈍く光る銃身。

 蠍の探偵の拳銃、P9R。

「でも、何とかしなきゃ」


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