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第二章 遠い街から来た少女  (3) 

かなり間が空いてしまいましたが、鉄仮面党の黙示録更新いたします。


 閉店まで一時間もなかったが、店はまだ開いていた。ビジネスシューズのコーナーから戻ると、来客用のスリッパを履いた少女が、長い尻尾を揺らしながら、二足のスニーカーを見比べていた。

「悩んでいるのか?」

「え? ああ、うん。似合わないの、買いたくないじゃん?」

 神沙紀は靴を見ながら答えた。


 候補は二足。シックなグレイの都会派路線か、青と赤、左右で色が違うポップ路線か。

「安いほうでいいんじゃないか。間に合わせで買う物だろう」

「そんなの絶対嫌。買うならしっかりしたのを買いたいの」

 少女は露骨に嫌そうな顔をした。

「叉反、それはさすがに答えのセンスがなさすぎるよ」


 近くにいた仁が口を挟む。

「僕なら、青赤のほうだね」

「そう?」

「うん。だってオシャレじゃん」

 にかっと、仁が笑う。オシャレだろうが何だろうが、壊れてしまえば元も子もない。そう思ったものの、叉反はそれを口には出さなかった。


「まあ、壊れっちゃったら意味ないけどねー」

 今まさに飲み込んだ言葉が、寂し気に神沙紀の口から漏れた。期せずして重なったタイミングに、胸中に何とも言えない感情がもたげる。

「ええ? 買う前から壊れた時の考えるの? 結構器用だね、お姉さん」

 神沙紀の言葉の裏を知らない仁は、呆れたようにそう言った。むっとした神沙紀を横目に、叉反は苦笑する。


「そうだな。地味な色味よりはそっちのほうが似合うだろうな」

「そう……かな?」

「そうだよ。そっちにしなって」

 思案気に、神沙紀は二足を見比べていたが、やがて青と赤の一足を手に取った。

「じゃあ、こっちにする」


「ああ」

 どうやら気に入ったようで、神沙紀はしばらく靴を眺めていたが、不意に叉反のほうを振り返った。

「あ、お金貸して。あとで返すから」

「……ああ」

 叉反は値札を見て札を数枚渡した。そこそこいい値段だった。女子高生の小遣い三か月分はするだろう。


「……返せるんだろうな」

「返すって言ってんでしょ。全くもう、何で二回聞くわけ?」

「……」

 叉反はそれ以上訊くのをやめた。

「ちょっといい? 探偵さん」


 薄くなった財布に、こぼれそうになるため息を何とか抑えていると、店の奥からレベッカがやって来た。目が何か言いたげだ。何の話かを察して、叉反は頷く。

「トビ、ちょっと出てくる。二人を頼む」

「了解」

 靴を物色していたトビが振り向いて答え、叉反は外に出た。

 店を出てすぐ、人気のない路地裏に入る。白い電灯の灯った、そこまで広くない喫煙エリアの正面に、自販機があった。硬貨を入れ、レベッカが飲み物を買う。


「それで、どうだった?」

 おもむろに、叉反は訊いた。プルトップを引き、レベッカは答える。

「彼女の体に手術痕はなかった」

 缶の中身を一口飲み、レベッカは思案気な顔で続ける。

「彼女の体にモンストロストーンはない。モンストロの原液を摂取した人間に見られる、精神変調の兆候も見当たらない」


「では」

 レベッカの顔は険しい。

「悪いけど、わたしは自分の目で見るまでは信じられない。モンストロを使用せずに形態変化出来るフュージョナーなんてね」

「しかし現実に、彼女は変身した」

 腹部を銃で撃たれた直後、彼女は、まるで、そうなる事がわかっていたかのように、獣へと姿を変えたのだ。


「彼女の意思で変身したわけではないんでしょう? 話を聞く分に、どちらかというと《回帰症》めいているわね。さらには獣化の痕跡を一切残さずに、獣人態から人態へと戻る。まるで昔話の人狼だわ」

 回帰症は、フュージョナー因子の増殖により、フュージョナー自身が、発現した動物そのものへと変化していく病だ。

「人狼……狼男か。例えばなんだが、そういう伝承に残るなら、その元になった実例があるんじゃないのか。それこそ、以前には彼女みたいな人間がいたとか」


 レベッカの目に呆れにも似た感情が見て取れた。あまりにも初歩的な質問に、もどかしさを覚えたように。勘弁してほしかった。

「いい? 探偵さん。伝承に残っている狼男の正体は、大別して二種類あるわ。一つは、麦角アルカロイドによる幻覚や、精神疾患などが原因の狼疾ライカントロピー。狼化妄想症とも言って、自分が狼に変身する、または狼そのものだというふうに思い込んでしまうの」

「思い込みで獣のように振る舞ってしまうと?」


「精神医療は専門ではないから、あまり迂闊な事は言えないけど、強固な妄想とはそういうものよ。唸り、吠え、四つ足で歩き回り、家畜や他の人間に食らいつく。狼男の全盛期だった十六世紀のヨーロッパでは、そういう事例が三万件も報告されているの」

「そこまで狼男がいたとはな。それで、もう一つは?」

「言う必要ある?」


「いや、予想はついている。回帰症だな」

 レベッカはこくりと頷いた。

「狼へと回帰してしまったフュージョナーが、その本能に抗えず人を襲ってしまう。……いえ、実のところ回帰したフュージョナーの脳に、どのような変化が起こっているのかはわからないのだから、本能というのは適切ではないわね。とにかく、人類史において人狼は二種類いた。自らを狼と思い込む者と、本当に狼へと変化してしまった者。でも、一度狼へと変わった者が、何の助けもなく元の姿に戻る事はあり得ない」


 レベッカが真っ直ぐにこちらを見据える。

 そんな事はあり得ないのだと、叉反に言い聞かせるように。

「フュージョナー因子とは言ってしまえば、『ヒトの体を他の生物へ変えようとする』生体物質。何故、そう働くのかはわからないけれど、わたし達の中にあるこの分子は、ヒトである事を拒むかのように、肉体に変化を促すの。逆行を決して許さずに、ね」


 叉反の尻尾も、レベッカの花も、全てはフュージョナー因子のなせる業だ。こちらの意思などお構いなしに、肉体に新たな部位を発現させる。少しだけ、体にうすら寒いものが走る。フュージョナーは皆その内側に、得体の知れないモノを飼っている。

「決して人に懐こうとしない天馬と同じよ。道具や薬品に頼らず、因子を制御しようとすれば、必ず振り落とされて怪我をする。こちらの意思通りに操るためには、黄金の手綱が必要で、さらに跨るための鞍がいる。モンストロと、それが発した電気信号を因子に正確に伝えるためのナノマシンがね」


 叉反の体にも、手綱と鞍は備わっている。二ヶ月前、下腹部に埋め込まれた特殊なモンストロオーブ、通称アンタレスと、付随したナノマシンが百機。ナノマシンは今も叉反の体内を駆け巡り、叉反とアンタレスを連係させる役目を果たしている。

 かつて、レベッカは《結社》と呼ばれる組織で、モンストロの研究をしていた。モンストロこそが、フュージョナーを回帰症の苦痛から解放すると信じて。だが、実際には、モンストロは結社の企みの道具に過ぎなかった。そして今また、モンストロは新たな者の手に渡った。仮面を被った蜘蛛男に。


「乙女なら天馬を従えられる」

「それは一角獣でしょ。とにかく、変身過程を見ない事には何とも言えない。可能なら、わたしの目の前で変身して欲しいものだけど」

「冗談じゃない。二度も三度も暴れられてたまるか」


 煙草を銜えて、火をつける。時計を見ると、もうすぐ九時だ。今からファミレス、という感じでもない。ラーメン屋にでも連れていこうか。時計を見たせいか、どっと疲れが押し寄せて来た。食事はもちろん必要だが、それ以上に早く寝たい。丸一日動きっぱなしだ。

「まあ、いずれにせよ、彼女の事はもう少し詳しく調べる必要があるわ。何が原因で形態変化するのかはわからないけれど、体への負荷は相当なはずよ。少し眠っただけで動き回れているのが不思議なくらい」


「確かに、もう少し詳しく話を聞かなきゃならないな。動けるのをいい事に、これ以上面倒なところへ行かれるのは困る」

 紫煙を吐き出し、時計を見る。

「そろそろ戻ろう。ロッカーの中身を回収して、飯にしたい」

「それもそうね。お腹、空いたし」

 レベッカは空き缶をゴミ箱に捨て、叉反は煙草を灰皿に押し付けた。


「そういえば、犬を探してるって聞いたけど?」

 叉反が頭の片隅に追いやっていた例の依頼を、レベッカは一言で思い出させた。

「仁からか。ああ、そうだよ。ゴールデンレトリバー……こいつだ」

 言いながら、叉反は手帳に挟んだ写真を取り出した。犬の名はツクモ。因縁深きヤクザ、天霧の飼い犬。

「写真だけじゃ見分けなんてつかないだろうが、もし見覚えがあれば……」


「ないわね」

 即答だった。この街でレトリバーを飼っているのは天霧だけなのではないのかと、本気で思いたくなってくる。

「ないのか」

「レトリバーはこの街じゃ見てないわ。小型犬なら近所にもいたんだけど」

「……いた?」


「行方が知れないの。犬に限らず、近所のペットがほとんど」

「何があった」

 神妙な顔で、レベッカは言う。

「どうも、攫われたって話よ。中には、留守中、家の中に侵入されて犬を連れていかれた人もいるみたい。そうまでしてペットを攫う理由はわからないけど……」


 規模の大きいやり方から、例の――盗難を働く三人組ではない。叉反は直感した。

〝業者〟だ。余所の街からやって来たという闇ブリーダー達。

 サファイアのような青い瞳が、叉反を見た。

「ねえ、もしかして、このレトリバーも――」

 レベッカの疑問に、叉反は首を横に振る。


「まだ何もわかっていない。わかっているのはこいつも他のペットと同様、逃げ出したわけじゃないという事だけだ」

 追うべきは天霧の飼い犬だ。だが、街は不穏な要素で溢れかえっている。今日だけで何件の厄介事を知ってしまっただろう。叉反は無論、全能ではない。点在する問題を知ったからといって、その全てを解決する事は出来ない。

 ……ああ、いかん。また本気になりかかっている。

「とにかく戻ろう。食事をして、今日はもう終わりに」



 ―――――――――見られている。



「……っ!?」

 異様なまでの鬼気を感じて、叉反は思わず懐の銃把を握る。引き金に指はかけていないものの、いつでも撃てる。相手は後方。一人、だ。距離は近い。ならば振り返るのと同時に先制出来る。

「叉反……? ちょっと、どうしたの?」

 レベッカの声も今は頭に入らない。誰だ。結社の手の者か。あるいは、先ほどの蜘蛛男の仲間か……。


 気配が、一歩近付く。トリガーガードに這わせていた指を、少しずつ引き金に移動させる。靴音が聞こえる。振り返り、先制。それしかない。さあ、今だ。相手はすぐそこに――

「よう、探偵」

 しかし、聞こえてきたのは、今しがたの鬼気とは打って変わった馴染みの声だった。

「え?」


 一瞬の緊張から緩やかに解放される。引き金にかかりそうだった指を元に戻し、銃把から手を放す。

 振り返ると坊主頭の刑事の顔がそこにはあった。

「もっ――」

 途端に、坊主頭が眉根を寄せる。

「おっと、あだ名で呼ばれるのは御免だ。仕事中なんだよ」


「……山本刑事」

「それでいい」

 山本は満足げに頷いた。

 山本銕郎は、ナユタ市警に勤める捜査一課の刑事である。叉反とは高校時代の同級生だ。卒業以降はお互いに連絡を取る事もなかったが、二年前にナユタに越してきた際に、偶然再会し、以来、交友が復活した。


「……一人なのか?」

「見りゃわかるだろう。まあさっきまで上司と一緒だったんだが、飯食いに行っちまったからな」

 怪訝な顔をして、山本は言った。

 今の鬼気は彼から放たれたものではない。それは確かだ。

 では、一体誰が……。


「仕事中だって? この辺りで何かあったのか」

「いや、波千鳥のほうでちょっとな……。俺は別件があってこっちに来たんだが。全く、体がいくつあっても足りねえよ。っておい」

 山本の視線が叉反の後方に向けられた。

「ハイ、レベッカ。久しぶりだね」

 流暢な英語が坊主頭の警官の口から漏れた。強面からは想像し難いが、幼少期に数年、それに海外留学の経験を持つ山本は英語が堪能だ。


「ハイ、ディテクティブ」

 レベッカも自然に英語で返した。

「おい探偵。お前こそこんなところで何してるんだ。路地裏に女を連れ込むとか、センスを疑うぞ」

「別に連れ込んだわけじゃない。ちょっと話していただけさ」

「そうかよ。まあいい、最近は物騒だからな。妙な事件に巻き込まれないうちに、とっとと家に帰ってくれよ」


「子供じゃないんだ。危なそうなところには近付かない」

 それに妙な事件なら、もう何度も巻き込まれている。そう思ったものの、叉反は口には出さずにおいた。刑事の好奇心を刺激すると話が長くなる。もちろん必要と判断すれば別だが、今はまだ話すような段階ではない。

 山本は渋い顔をしながらパーラメントを銜えた。

「そうは言ってもな。今年の夏は特に妙だぜ。どいつもこいつも頭のネジが外れちまったんじゃねえかってくらいに毎日毎日お祭り騒ぎだ。ペットいじめとかな」


「ペットいじめ?」

 叉反が問うより早く、レベッカが言った。

「ああ。最近、ちょっと不良入った大学生だとか、フラフラしてる中年のおっさんだとかが、よその家に忍び込んで犬やら猫やらにいたずらするのが流行ってるんだ。妙なクスリを注射したりとか、ひどい奴は攫ったりとかな」

「叉反……」


 レベッカが叉反のほうを見る。山本もまた眉根を寄せてこちらを睨む。

「ほう。何か知ってやがるのか。まったく、怪しいネタを掴んだら連絡しろっていつも言ってるだろうが。探偵さんよ」

「確度の低い情報で、話すに話せなかったんだよ。だいたい俺も今日仕入れたばかりだ」

 案の定、山本は突っ込んで聞いてきた。職業柄染み付いた用心深さと守秘義務の意識が、口を重たくさせる。身勝手な事を言うようだが、相手から訊き出すのは良くても、訊き出されるのは嫌いだ。


「そうかそうか。あーあ、せっかくこの間も面白い話してやったのになあー。探偵さんはすぐ隠し事かー」

 少し前の仕事で、叉反は山本に情報を提供してもらった事がある。この手の借りはさっさと返さなければと思っていたのだが。

「確かな事がわかったら話すさ。――なあそれより、ここに来るまでに誰か見なかったか?」

「はあ? 誰かって、誰をだよ」


「何というか……怪しい奴をだ。たぶんまだその辺りにいると思うんだが」

「何言ってやがる。怪しいのはお前の言動だ。さっきもそんな聞いてきたな。まさかとは思うが、妙なクスリでもやってんじゃねえだろうな?」

「馬鹿言うな」

 山本はナユタに来る前の叉反がどこにいたかを知らない。クスリにはいい思い出がない。山本が誰も見ていないなら、さっきの視線は一体誰のものだ。そもそも、そいつは本当に、もうこの辺りにはいないのか。


「うわ」

 急に、山本が引きつった声を出した。

「……何だ」

「いや、あそこにいるネズミがな……」

 山本が指差した先に、一匹のネズミがいた。ただし、その大きさは普通ではない。一瞬、野良猫か何かと見間違うほどに、そのネズミは太っていた。


「いくら何でもデカすぎねえか?」

 確かに、普段街中で見かけるものと比べても、大き過ぎるサイズだ。何か、緑色のブロックのようなものを無心に齧っていて、まるで機械が食料を摂取しているような不気味さを醸し出している。

「あれはクマネズミね。都会ではよく見かける種類よ。ただ、あのサイズは……」

 レベッカが眉をひそめる。叉反もネズミから目が離せない。大きさももちろんそうだが、気になるのはその食事の内容だ。緑色のブロック。見覚えのある、鮮やかな緑。



「――――集まりなさい」

 その場にいた誰のものでもない嗄れ声が、耳に届く。

「おい、今――」

 山本がそう言いかけた瞬間、鼓膜を破るような金属音が辺り一帯に響いた。耳の中を直接抉られるような痛みに、耳を塞ぎ歯噛みして耐える。山本も同じように苦悶の表情を浮かべながら両耳を塞ぎ、レベッカはその場にうずくまっていた。


 音が止んだ。時間にして一分も経っていない。叉反は耳から手を放した。レベッカが立ち上がり、辺りの様子を伺う。

 いや、実のところ、伺うまでもなかった。

 例のクマネズミが、三人を見つめていた。口にしていた緑のブロックはとっくに胃に収まったらしく、今はまるで獲物を見定めた猫のように、じっと身構えている。

 問題は、こちらに狙いを定めているのが一匹だけではない、という事だった。


 周囲はすでに『彼ら』によって囲まれていた。自販機の影、ビルとビルの間、植木の裏側。多くの小さな目が、こちらを見ている。近辺のネズミが集まってきたのか、百匹近い数だった。靴屋へと戻る道も、さらに裏へ行く道も、全てクマネズミたちによって塞がれている。異様なのは数や大きさだけではない。一匹残らずその両目が緑に輝いていた。

「……モンストロか」

 山本が呟いた。思わず振り返ってしまう。こんな時でも、山本は目聡くこちらの表情を読み取った。


「お前、やっぱり何か知ってやがるな」

「……」

 答えを返す余裕はない。モンストロを食ったネズミ百匹に包囲されている。この状況を脱するには、手は一つしかないだろう。

「……あとで説明する。今はレベッカを連れて逃げてくれ。きっかけは作ってやる」


「お前はどうするんだ」

「ここでこいつらを食い止める」

「何言ってやがる。お前一人でどうやって」

 叉反は懐からP9Rを抜いた。

「予備弾倉は二つある。半分も倒せば逃げられるさ」


「……」

「さあ行け。そこの靴屋に仲間がいる。俺もすぐに追いつく」

 山本は動かない。厳しい目つきで叉反を睨んだままだったが、やがて自らも腰の拳銃を抜いて言った。

「すぐ戻る。骨になるなよ、探偵」

「ネズミに食われて死ぬのは御免だ。レベッカを頼む、もっちー」

「あだ名で呼ぶな」


 余裕があったのはそこまでだった。

「かかりなさい」

 返事の代わりに、叉反はP9Rの引き金を引いた。銃声が路地裏に響き、ネズミたちが悲鳴を上げる。塞がれていた大通りへの道が僅かに空いた。

「走れ!」


 動き出したネズミたちを素早く仕留めつつ、叉反は叫ぶ。山本がレベッカを連れて猛然と駆け出した。そのあとを、黒い影が群がる。銃では仕留めきれない。咄嗟に拳銃を捨て、左手に意識を集中する。燃え盛る、赤い炎。発生した火球をネズミの群れに投げつければ、さながら油に燃え移ったかのように、炎が小さな獣を焼き尽くす。

 次の瞬間、叉反の体は地面へと引っ張られた。黒い波のように、無数のネズミたちが体中に纏わりついている。コートを食らい、シャツを食らい、腿や肩や首にネズミの歯が突き立てられる。


「超越!」

 脳裏で赤い星が燃え上がると同時に、叉反の体は変貌する。急速に発達した筋肉と発せられた熱が体中のネズミを吹き飛ばす。大いなる熱の中で変身は完了していた。生物的でありながら鎧のような体。超人態、《アンタレス》。

『ネズミを焼くために変身したのではないだろうな』

 頭の中で怪物がぼやく。先ほどの放熱で大半のネズミたちが沈黙していた。


 叉反の体に埋め込まれた《アンタレス・オーブ》から発せられるエネルギーは、モンストロの効果を打ち消す性質を持つ。炎に晒されたネズミたちは、その実、体内からモンストロが除去され、今は気を失っているだけだ。

「そこにいるんだろう。出て来い」

 物陰で、何かが軋んだ音を立てた。


 まるで闇から分離したかのように、二人分の人影が現れた。一人は車椅子に乗った人物で、両腕は長く、茶色の毛で覆われている。その顔には昼間の蜘蛛男と同じく、鈍色の仮面を被っていた。もう一人は車椅子を押していて、格好だけ見ればどこにでもいそうな男性だ。だが、その顔は口元を除いて全て包帯で覆われている。残った口はだらしなく半開きで、端からは涎が垂れていた。

「見せていただきましたよ。蠍の方」


 仮面の内側から嗄れ声がした。ネズミどもが襲い掛かって来た時と同じ声だ。

「噂には聞いておりました。我らのモンストロとは異なるユニットの存在を。蠍の心臓の名を冠するカウンターモンストロの宝珠アンタレス……でしたか。なるほど、シェロブでは歯が立ちますまい」

「あの蜘蛛男と知り合いのようだな」

「鉄仮面党の使徒が一人、鳴動山魔めいどうさんまのカブラカンでございます。以後、お見知りおきを」


「鉄仮面党?」

「……ああ、何と嘆かわしい。シェロブめは名乗りさえ満足に出来なかったと見える」

 カブラカンは頭に手を当てると、大仰にため息をついた。

「我らは贖罪の信徒なのです。罪の証たる鉄仮面を被り、司教様の教えに従い、己が生の全てを以て贖罪の道を進む。赦し乞い続ける罪人なのです」


「その割にはずいぶん暴力的だな。そちらのシェロブとやらはチンピラを殺そうとしていたぞ。罪を重ねているんじゃないか」

「残念ながら我らの罪は、生半可な善行では贖えぬ。より多くの悪の芽を摘む事でしか、我らの罪は赦されないのです」

「……己が悪と断じた人間ならば、殺しても構わないと?」

 仮面を被っているものの、カブラカンはその内側で笑みを浮かべている気がした。


「腕の良い庭師はどの芽が花を咲かせ、どの芽が雑草に育つかを知っているものでしょう? 悪は見ればわかる。何故ならそれらは悪であるがゆえに」

「勝手な事を」

 どうやら話は通じそうにない。

『さっきの奴とはえらい違いだな』


 怪物が嘲りを浮かべる。

『仰々しい二つ名なんぞ名乗りおって。それに見合うだけの物を持っているのだろうな?』

「もちろんですよ。司教様に認められなければ、我らは二つ名を名乗れぬがゆえに」

 一瞬の沈黙。叉反はすぐに口を利けなかった。

「……お前、何故」


 カブラカンはくぐもった笑いで答える。

「何故あなたの頭の中の声がわかったか、ですか? 私は使徒としてもう四十年も修行しております。神秘の声を聞くがために多くの血を流しました。ゆえに、感じるのですよ。血の味を知る者の存在がね。いやいや、実に奇妙な姿をしておられるな。あなたの中の怪物は。ミスターアンタレス、あなたは実に興味深い」

 心の底まで覗き込もうとするような、カブラカンの下衆な視線。嫌悪感が腹の底を引っ掻いている。


「あなたの中の宝珠を取り出して見てみたいものです。さぞ美しい赤色でしょうな」

「そんなに見たいなら、勿体ぶらずにかかってきたらどうだ?」

 言いながら、叉反は相手との距離を測る。たとえ車椅子に座っている人間であろうと、相手はあの蜘蛛男と同じく鉄仮面党の使徒だ。

「御免被りますよ。見ての通りでね、何をするにも他人の手を借りないといけない。たとえそれがネズミだとしても、ね」


 がさりと物音がする。野良猫ほどのネズミが三匹、気を失った仲間のネズミに食らいついていた。汚らしい血をまき散らしながら、ネズミたちはあっという間に同胞を平らげる。まるでピラニアの群れの中に落ちた肉片を見るかのようだった。ネズミは次々と横たわる仲間を食らい、その体は異様なスピードで膨れ上がっていく。爛々と緑に輝く両目。野良猫ほどだった三匹の小さな獣は、今や仔牛ほどの大きさになっていた。

「実に薄汚い生き物ですが、彼らは罪を犯しません」


 カブラカンが言った。火球ならば即座に放てる距離だ。だが、三匹の獣の視線は、すでに叉反に移っている。

「獣はただ生きるのみ。しかし、今回は贖罪を手伝ってもらうとしましょう。腹も減っているでしょうしね」

「解せんな。俺が何かしたか」

 掌中で小さな種火が渦巻く。火は次第に大きく、激しく回転していく。

「言ったでしょう。『悪は見ればわかる』。あなたの体にも見えますよ。べったりとこびりついた返り血がね」

 耳をつんざく金属音。ネズミたちの目が一斉に妖しく光る――

「やれ!」

 邪教の信徒の叫びとともに、三匹の獣が躍りかかって来た。

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