第二章 遠い街から来た少女 (2)
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――目覚めはいつも唐突だ。
目を開けると、白い壁と黒革の椅子が見えた。手前には背の低いテーブルがあり、彼女のハンチング帽が置かれている。ゴムが切れたらしく、自分の長い金髪が少しばかり顔に掛かっていた。視線を巡らせる。どこででも見るようなトラバーチン模様の天井。何冊ものファイルが整然と並ぶ書棚。
自分は横になっているのだと、彼女はぼんやりした頭で理解した。指で感触を確かめる。黒い革張りのソファ。体の上にはコートが掛けられている。
ここはどこだろう。記憶が混濁している。新市街の路地裏へ行った。そこまではいい。手掛かりを求めて、洒落た雰囲気の店に立ち寄った。中から男が出て来た。何か会話をして、後ろを振り向いた瞬間、意識が飛んだ。
それから、そう時間が経たないうちに目覚める。見覚えのある男。旧市街で会った蠍の尾の男。そこでようやく記憶がはっきりしてくる。マスターだといういやらしい男の顔。罵倒。銃声。探偵が撃たれた。あたしも。そう、それからまた、あいつが――
…………服。
「ああっ――!?」
極めて重要な事に気が付いた瞬間、彼女はがばっと身を起こした。慌てて全身を探り、コートを手繰り寄せる。服。服だ。記憶が確かなら、あたしは今、おそらく――
「あれ……?」
自分の手の感触に、彼女はようやく自らが衣服を身に着けている事に気が付いた。フランス土産なのか、エッフェル塔のプリントに筆記体で『Paris』と書き殴られた白いシャツ、これと言って特徴のない、尻尾のために穴の開いたフュージョナー用のジーンズ。少なくとも彼女の趣味ではない。
「――あ、起きた?」
急に聞こえた声にはっとして顔を上げると、部屋の奥のほうに、トレイを持った少年が立っていた。昆虫のものらしい、上向きに曲がった二本の触角と、片側が膝までしかないぼろぼろのオーバーオール。それに、若干緑がかった四枚の翅。
さきほど、旧市街で出会った少年だ。
「君は……」
「や、お姉さん。気分はどう? ちょうどコーヒー淹れたんだけど、飲む?」
「いや、あたしコーヒーは……」
飲まないという言葉が口の中で消える。窓のほうを見るともうとっくに夜だ。
「ねえ、ここどこ?」
「ここは探偵の事務所。お姉さんは気絶して運び込まれたんだ。探偵は……今ちょっとわけがあって席を外してるんだけど」
さらっと気絶してと言い流しながら、少年はカップが二つ載ったトレイを応接テーブルの上に置く。
「探偵?」
「そう。蠍の尻尾生やしたでっかい男だよ。探偵尾賀叉反。見たまんまでしょ」
あの人か。
「もしかしてこの服着せたのって……」
「……あー、変な心配はしなくていいよ。着替えさせたの探偵じゃないから」
「えっと、じゃあ……」
彼女はまさかという思いで少年を見た。みるみる少年の顔が赤くなる。
「僕でもないよ! 何考えてるんだ、全く……」
ふふ、と軽やかな笑い声がした。部屋の奥から、見知らぬ女性が現れた。セミショートの赤髪に、まるで髪飾りのような白い花が挿してある。いや、よく見ればわかる。あの花は咲いている。生きているのだ。
「心配しないで。あなたを着替えさせたのはわたし。急いで見繕ったんだけど、サイズが合って良かったわ」
女性はそう言って朗らかに笑う。ブルーの瞳が、さながらサファイアのようで綺麗だ。
「この人はレベッカさん。僕や探偵の知り合いなんだ。ああ、そういえば自己紹介がまだだったね。僕の名前は明槻仁。よろしくね、お姉さん」
レベッカが細い指の手を差し出す。
「レベッカ・アンダーソンよ、よろしくね。ええと、あなた――」
「あ、あたしは」
事務所の玄関が開いたのはその時だった。
「いやまだやめとけって、所長。仁から連絡があるまで入らないほうが……」
「そう言われてから二十分経った。もういい頃合い――」
――ビリビリビリッ、バーン!
差し出されていたはずの白い手が目にも止まらぬ速さで動き、直後にレベッカの手から稲妻が迸っていた。
玄関に向かって。
「……わたし、入っていいなんて言ったかしら。誘拐犯さん?」
さっきまでとは打って変わった低い声音で、レベッカは言った。顔は笑顔のままだが、怖い。サファイアみたいな目が台無しだった。ドア近くの壁に焦げ跡が出来ている。彼女の手には小さな拳銃みたいな物が握られていた。
「撃ちやがった……」
ぼさぼさ頭の右手が鳥の足のようになっている男が、かなり引き気味に言った。
「前々から直情径行だとは思っていた」
蠍の尻尾を丸めながら探偵だという男がぼそりと呟いた。焦げ跡に目をやり、落ち込んだような顔になる。
「壁が……」
「いやレベッカ、説明しただろ。俺はこの所長に呼ばれただけなんだって。誘拐とは無関係だ。もう全然」
「おい……」
「誘拐尾賀叉反、ってな。くくく」
「あなたも共犯よ、トビ。手を頭の後ろに、壁を向いて跪きなさい」
「……今それやるのか?」
「黙りなさい。気絶した女の子を事務所に連れ込んだ時点でだいたいアウトよ!」
「服がないんだぞ、仕方ないだろ! ていうか俺に言うなよ、所長に言え!」
「俺の事務所が……」
蠍尾の大男が壁を見て嘆いている。さっき店で戦っていた時とは大違いだ。
「あー……お姉さん、一応紹介しておくよ。そっちの落ち込んでるおっさんが尾賀叉反、もう一方のお兄さんがトビさん。二人でここの探偵事務所をやってるんだ。犯罪者じゃないよ、一応ね」
半ば呆れたような感じでそう言うと、仁は彼女にコーヒーの入ったカップを差し出す。
「とりあえず、コーヒー飲む?」
彼女はコーヒーを受け取った。ブラックは正直なところ苦手だが、ずずっと啜った。やはり、苦い。
「何なの、この事務所……」
「いい歳した変人がなりゆきで集まっちゃったんだよ。少し前まではこんなんじゃなかったんだけど」
子供のくせに涼しい顔でブラックコーヒーを飲みながら、仁は言い合いをしている三人を眺めている。
「……それで、何か流されちゃったけど、お姉さんの名前は?」
「――ミサキ」
苦いコーヒーをちびちびと飲みながら、彼女は言った。
「国崎神沙紀」
全員が、とは言わないが、事務所を訪れる客人のほとんどが、初めにこの応接テーブルの席に着く。叉反自身がそのように促す事がほとんどだが、言われる前に自分から座る者もいる。
そして、席に着いた人間のうち、四割ほどは依頼をする事なく帰っていく。
問題解決には至らないまでも、第三者と問題について話す事で、ある程度の安堵を得るのだ。
それはそれでいい。いや、商売としては決して良くはないが、束の間だとしても平穏は保たれる。その平穏こそが守るべきものだったというのはよくある話だ。
つまり、どのような内容の依頼であれ、『探偵する』という行為は、関わった人物の生活を変化させてしまう。浮気の調査であっても、ペット探しであっても同じだ。程度の差はあれ、変化は起こり、渦中の人間はもとより、それまで無関係だった、全く思いもよらないところにまで波及する事もある。
話が逸れたが、何が言いたいのかというと、この席に座った人間が必ずしも依頼をしていくとは限らない、という事だ。
今、対面のソファには少女が座っている。顔立ちはアジア系だが、明らかに地毛の白金髪と、緑の目、そして犬のような灰毛の耳、それら三つの要素が不思議なバランスを取っている。
「どうぞ」
トビからコーヒーを受け取り、一口飲んで、叉反はソーサーの上にカップを置いた。
さて、何から話せばいいだろう。
彼女は依頼人ではない。望んでこの事務所に来たわけではないのだ。
緑の瞳がこちらを警戒するように見ている。仁はいつも使う丸椅子に腰かけた。所在なさげにしていたレベッカも、同じく丸椅子を持って来て座った。トビが事務机に座ったのを見計らって、叉反は口を開いた。
「さて、国崎さん」
「神沙紀でいい。皆そう呼ぶから」
ミルクと砂糖をたっぷり入れたコーヒーに口をつけ、包むようにカップを持ったまま少女はそう言った。どこか怒っているような顔つきなのは緊張と、警戒しているからだろう。
「では、神沙紀。すまないが、少し話をさせてくれ」
少女の目つきがきつくなった。手の中のカップがソーサーに置かれる。
「話って?」
「今後の事についてだ。直近の、この後すぐの話。まず確認させてほしいんだが、君はナユタの住人ではない。何か、目的を持ってこの街にやって来た。そういう事だな?」
「そうだけど。別にあたしの話をあなたにする必要はないでしょ?」
警戒心を剥き出しにして、神沙紀は言った。叉反は頷いて肯定する。
「勿論そうだ。俺も強いて君の事情を聞こうとは思わない。旧市街や裏通りをぶらつくのは、やめてもらいたいが」
「それはあんたに指図されるような事じゃない」
『あなた』が『あんた』に戻った。険のある言葉には構わず、叉反は続ける。
「この街は不安定だ。旧市街には昼間見たような連中がうろついているし、新市街は新市街で、また別の悪党どもがいる。二か月前にはテロが頻発していたし、六月にはゴミ処理場が爆発した。というか、ついさっきあんな目に遭ったのに、まだ危ないところに行こうというのか?」
「あたしの勝手でしょ。そりゃ、助けてもらった事には感謝してるけどさ、あたしにはやらなきゃいけない事があるんだよ」
少女の目は下方へと落ちていた。表情が変わっていた。警戒心とはまた別の感情、心の底を見つめるような目。
「君が重大な用件を抱えているのはわかった」
叉反は言った。
「ところで、今夜泊まる場所はあるのか?」
睨むような少女の目が、再び叉反に向けられた。
「……それ、必要な話?」
「必要な話だ。宿は取ってあるのか?」
神沙紀はしばらく黙った末、「いや、ないけど」と小さい声で言った。
「別に、カラオケかなんかに泊まればいいでしょ。どうとでもなるよ、泊まるとこなんて」
「本気で言っているなら、危機意識が足りないどころの話じゃないな」
「別にあんたに心配される事じゃないっての。お金ならあるんだから」
「……なあ、ちょっといいか」
それまで黙って話を聞いていたトビが、そっと右手を挙げた。
「さっきから気になってたんだけど、君、荷物は?」
神沙紀は怪訝そうな顔をした。
「あたしの荷物が、何?」
「ああいや、ナユタに何泊するのか知らないけど、着替えとか持って来たんだろう? 旅行鞄が見当たらないなーと思ってさ」
「いちいち重たい荷物持って歩くわけないでしょ。駅のロッカーに預けてあるの」
「なるほど。ロッカーの鍵は?」
「持ってるに決まってるじゃん。ほら――」
言いながら彼女はポケットに手を入れ、
「…………」
少しの間、その格好で固まった。
「あー……所長?」
「……残念ながら周りを確認する余裕はなかった」
彼女の〝変身〟時に、身に着けていた衣服は無残な切れ端と化している。
鍵や財布、携帯電話などは全てあの店――ブルータスの床に落ちたはずだ。携帯電話にいたっては変身の衝撃で壊れたかもしれない。
神沙紀は一瞬、頭を抱えていたが、すぐに顔を上げて言った。
「取りに行かなきゃ」
「いやもう遅い。去り際に警察が来ていたからな。持ち物は全て押収されたと見ていいだろう」
「……っ、どうするかな」
苦い顔をして、彼女は独り言のように言った。
「ねえ、叉反も神沙紀さんも、その何とかって店のマスターに襲われたんでしょ? 事件の被害者として警察に行けばいいんじゃないの?」
仁が言った。
一理あるかもしれない。抵抗して怪我させたのは確かだが、そんな事を言えばそもそも襲ってきたのはマスターだ。しかも奴は二人に発砲している。さらに言えば、逃げるだけの余力はあった。神沙紀や叉反の抵抗は正当防衛、と言えなくもない。
「悪いけど、警察に目を付けられるのは困る。余計な事に関わっている暇はないの。警察に見つかったら家に帰されるだけじゃすまない。もっと面倒な事になるかも……」
やや早口になりながら、神沙紀は言った。
「……家出か?」
「違う。さっき言ったでしょ、やらなきゃいけない事があるの。とにかく警察に見つかるのは困る」
言って、神沙紀は立ち上がった。
「色々とありがとう。とにかくあたしは駅に行く。鍵は弁償すれば何とかなるし。服は洗って返しますから」
最後の言葉はレベッカのほうを向いて言い、それから彼女はコーヒーを飲み干した。
「待て」
「止めないでよ。これ以上迷惑かける気はないから」
「迷惑だとは思わん。だが、スリッパじゃ出かけられないだろう?」
言われて、彼女は自分の足元に目をやった。一つ問題が起きると、それ以外は頭から締め出されてしまうらしい。神沙紀は眉根を寄せた。
「駅まで一緒に行って、ひとまず荷物は俺が取ってこよう。それから、靴や必要な物を買って、今日はうちに泊まれ。カラオケよりは休める」
「そんな事言ったって……」
「そうしなよ、神沙紀さん。僕も今日泊まるし」
しれっと、仁が言う。
「……そうなのか?」
「あ、そうか、まだ言ってなかった。お父さん達、仕事で帰れないんだって。だから、今日は泊まるね」
「なら、わたしも泊まろうかしら。さすがに女の子一人置いて帰るわけにもいかないし」
レベッカがじと、とした目でこっちを見る。誤解は解けているだろう、と叉反は内心呟く。
「……所長、さすがにこの流れで俺に帰れとは言わないよな?」
「別に帰ってもいいんだぞ。寝床は限られている」
「こんな中途半端なところで帰れるか。ていうか残業手当くれ」
――やれやれ、仕方ない。
「とりあえず、駅まで行こう。それから夕食だ」
「やったー。叉反の奢りー!」
「あ、それ、本当?」
「いやあ助かるよ、所長。最近俺弁当ばっかりでさ」
「まあ、今日は全員に助けられたしな。その代わり、ファミレスだぞ」
「ねえ、あの、ちょっと待って!」
神沙紀が、ひと際大きい声を出した。
「……本当にいいの?」
「遠慮するな。どのみち、宿も靴もない女の子を放り出すわけにはいかない」
神沙紀は困ったように口をもごもごと動かし、それから言った。
「ありがとう。……よろしくお願いします」
「ああ。まあ、今日のところは気にせずやってくれ。まずは靴だな、それから駅へ行こう」
そう言って、叉反はコート掛けからコートを取り、言い忘れていた事を思い出して神沙紀に振り返る。
「何はともあれ。ようこそナユタへ、お嬢さん」
※
つい数分前まで、ブルータスのマスターだった男は、今、新市街の薄暗がりの中でじっと息を潜めていた。
腕の傷は闇医者に処置してもらったものの、本来ならばまだ安静にしていなければならない。だが、怪我などはどうでもよかった。そんな事よりも、脳の中で渦巻く怒りのせいで、男は狂いそうだった。
「くそっ、くそっ、くそっ……!」
あのクソガキめ。あの蠍のクソフュージョナーめ。
店が荒らされたのは、まだいい。が、警察が来るほどの騒ぎになってしまったのはまずかった。すでに店の中は調べられているだろう。裏稼業に関わるものは全て持ち出したが、一度ケチがついた以上、あの店はもう『表の顔』としては使えない。男自身の足取りも追われているはずだ。これまでに付き合いがあったナユタ裏社会の連中は、二度と男を相手にしないだろう。
男のような小物にとって、それは当然の結果だ。この街で、もう商売は出来ない。
ナユタを出るしかなかった。二度と戻って来られないかもしれない。旧市街のヤクザどもにへつらい、うまく立ち回っていたというのに、これだ。あの二人には、この落とし前をつけさせてやる。
すでに手下連中に連絡して、大男と小娘の行方を探させている。
見つけたら、ただ殺すだけでは済まない。娘はその体を何度も何度もいたぶり、絶望で心が壊れるまで嬲ってやる。大男にはその様子を最後の瞬間まで見せつけて、心底自分の無力を味わわせてから、殺してやる。
その様子を想像するだけで、興奮が抑えられなくなる。男は店から持ち出した鞄の中を探り、ラベルのついていない薬瓶を取り出す。
その中身は、刺激を求める店の常連の中でも、限られた人間だけに振る舞っていた、ブルータスの裏メニューにして極めつけの品だ。ある特別な伝手から仕入れた品だったが、男はこれを、いたぶるための適当な獲物がいない時に、満たされない思いを鎮めるために使っていた。
瓶の中には、深緑色をした百五十錠の錠剤が入っている。大きさは市販薬と変わりないが、成分はそこらに出回っている違法薬物が裸足で逃げ出すほど異様なものだ。それでいて、仕入れ値は存外に安く済んだ。その代わりに条件が一つだけついていたが、それは、あってないようなものだった。
奴らが男に提示した条件はたった一つ、『このクスリをばら撒け』
錠剤の形をしたエメラルド。安価に広がるどぎつい薬物。怪物の素――モンストロ。
ポケットの中の物が振動している。瓶を鞄に入れ、男は携帯電話を取り出す。
さっきまで脳内を占めていた興奮が、苦いものに変わる。
画面に相手の名前はない。番号だけだ。だが、それが誰からの電話かはわかっている。取引相手だ。それもかなり重要な。
「……どうも、旦那」
慎重に、男は言った。
「頼まれた荷は手配しましたよ。今夜零時ぴったりに港に着きます。連絡が遅れたのは悪かったですがね、こっちも少し厄介事があったもので」
厄介事、という言葉に、相手は即座に反応した。慌てて、男はフォローを入れる。
「いやいや、旦那方には何の関わりもない話ですよ。荷は間違いなく届きます。金はたんまり貰ってるんだ。いい加減な仕事はしませんよ」
まだ不審そうな気配があったが、取引相手は了解の意を示すと、電話を切った。
ため息が出る。成り行き上、ナユタ最後の仕事になってしまったというのに、何てザマだ。それもこれもあのフュージョナーどものせいだ。腐った気分を変えるために、クスリの入った瓶からピルを二錠取り出して口の中に放り込む。携帯電話を操作し、履歴から、別の相手に電話をかけた。
「――俺だ。あの蠍の男の正体はわかったか?」
電話先の手下が答える。面白い答えが返って来た。
「ほう。なるほどな」男は満足して言った。
「よし、お前らは先に行け。奴の事務所で落ち合おう」
電話を切った。
「今行くぜ、探偵さんよ」
期待に、口元が歪む。摂取したピルは体内で溶けて、男の頭に、稲妻のように激しくも甘い痺れをもたらす。ナユタを出るための、最後の仕上げだ。
薄汚い路地裏から、新市街に出る。きらびやかな光の街へ。新市街は良かった。ここでは金さえあれば何でも手に入る。踏みにじるためだけの生贄でさえ。楽しみだ。早く、あのクソガキと探偵を跪かせてやりたい……!
「――ユウタ、ねえ、ちょっと待って。危ないってば」
女の声がしたと思ったら、どん、と足に何かがぶつかってきた。
「あ、あ……」
ぶつかってきたのは、子供だった。男の膝より少し上くらいの身長しかないガキだ。こっちの顔を見上げて、みるみる顔を青ざめさせていく。
「ごめんなさい! 大丈夫ですか。ユウタ、駄目じゃない! 急に走っちゃ」
声を上げたのは、どうやらこの子供の母親らしい。親子共々、新市街にはふさわしくない、みすぼらしい格好をしている。おまけに、子供には鼠の尻尾が生えていた。
静かに、怒りが爆発した。
「どこ見て歩いてんだ、ガキ」
苛立ち紛れに、男は子供を蹴り飛ばした。小さな体が、まるでサッカーボールのように路面を転がる。
「ユウタ!?」
悲鳴を上げて近付いてきた女の腹を蹴り、子供を掴み上げる。路面で擦り切った顔からは血が流れだし、さらに涙でくしゃくしゃになっている。
「ママぁ、ママぁッ!」
「放して! 放してください!」
掴みかかって来た女を振り払い、さらに腹を蹴る。何て無力な存在だ。探偵の事がなければ、もっとじっくりいたぶってやるのに。
「たすけ……助けてください! 誰か、誰か助けて……」
女の懇願に応える者はいない。往来の人々は遠巻きにこちらを見ているか、あるいは見ない振りをして通り過ぎるかだ。子供の喉に手を掛ける。醜く、気味の悪い生き物。殺意だけが胸の裡で渦巻いていく。
「馬鹿か、お前。ドブネズミが助けを求めたからって、人間様が助けてくれるわけねえだろうが。そこで大人しくガキが死ぬのを見ておけよ」
子供の細い首に、指が食い込む。自然と加減がわかる。もう少し、もう少し力を込めれば、このガキは……
「やめたまえ」
鐘の音のように重たく響くその声が、興奮した思考に水を差す。
一瞬の空白の中、子供を掴む男の手首を、何者かが抑えていた。
「な――」
何だ、てめえは。そう言おうとした男の口から漏れたのは、しかし、苦痛に歪んだ声だった。
「っ、ぐあッああ!?」
手が、焼ける。掴まれている手首が、まるで高熱で溶かされていくかのようだ。いや、事実溶けている。男の腕と繋がっていた手首は、瞬く間に骨まで断ち切られ、ぼとりと路面に落ちた。
「ひ、ひ、ひィイイああああ!?」
自分の物とは思えないような悲鳴が、たまらず口から飛び出ていく。幻ではない。男の右手は、断面がどろどろに溶けて、地面に転がっている。
その右手も、何者かによって踏み潰された。まるで泥でも踏んだかのように、ぐちゃりと音を立てて、男の右手はその形を失う。
「な、な、何だ、何だお前は……。何しやがった!?」
恐怖に頭を支配されそうになりながらも、男は相手を見上げた。右手を踏みしだいたその者は、果たして、男か女か判別がつかなかった。ぬっとした長身に、全身を覆い隠すような濃紺のローブ。何より異様なのは、フードの下に被った仮面だ。トライバルにも似た奇怪な紋様が刻印された、鈍色の仮面。
「どうという事はない。罪なき子の命を奪う手など世には不要だ。だから、処分したまで」
その罪なき子供は、今や別の存在に怯えていた。男に暴力を振るわれた時よりももっとひどく、腰が抜けたまま立てないようだ。悪臭が男の鼻をつく。子供の足の間が濡れて、漏れた液体が路面に流れていく。だが、もうそんな事はどうでもいい。膝から下に力が入らないまま、男は這うようにして逃げた。逃げようとした。その足が掴まれて自分の体が持ち上げられてもなお、男は逃げようともがいた。
「あ……ああっ!! 放せ、くそ、放しやがれ!!」
「何を怯えているのだね」
仮面から発せられる声音には抑揚がなかった。ホルスターから拳銃が抜け落ち、汚れた路面の上で跳ねた。足首が激しく熱せられる。骨が溶けるという感覚を再び味わい、たまらず男は絶叫した。
一分も経たぬうちに掴まれていた部分が消失し、男の体は少年が漏らした小便の上に落ちた。
「己の犯した罪が恐ろしくなったのか。今さら、罪を悔いているのか」
仮面の下から問いかけが聞こえる。だが男に、もはや答えを返すだけの余裕は残されていない。恐ろしい光景が展開される中、母親が子供の体を持ち上げるや、一目散に駆け出していく。しかし、そんな様子には一瞥もくれず、仮面の奥の両目は、感情もなく男を見つめていた。
「はあっ、はあっ、はあっ、はあっ……」
息を切らした犬のように、酸素を求めて口が喘ぐ。心臓の鼓動がひどく大きい。あまりに大きすぎて、そのまま止まってしまうかのようだ。怪我をした左腕を何とか動かし、汚水に濡れた拳銃を掴み取る。
「そ、そそ、それ以上俺に近付くんじゃねえ」
どもった口振りと同じように、仮面の人物に向けた銃口が小刻みに震える。自分の意志ではどうしようもなく、ただ相手に銃を向けるという、抵抗の意を示す行為でさえ、気力を振り絞らなければならない。
「ぶっ殺してやる。どんな手を使ったか知らねえが、ぶっ殺してやるからな」
怒りが、最後の動力源となって男を奮い立たせる。怪我をしていようが引き金は引ける。クスリをキメておいたのも幸いした。現実がどれほどあり得ないものだったとしても、それをぎりぎり直視しないで済んでいる。そうだ、こんな事はあってならない。俺は踏みにじる側の人間だ。汚れた地べたを這いつくばるのは、俺の役目ではない。
そうとも。それは、例えば目の前にいるこいつの役目だ――
「――愚かな」
仮面の人物が不意に呟いた。同時に、男は目にした。濃紺のローブが一瞬にして異様に膨れ、その下で、まるで何匹もの大蛇のように、不気味に何かが蠢いているのを。瞬きする間もないまま、ローブの下から伸びたそれらが、銃を持つ男の手に巻き付く。左手だけではない。胴にも、手のない右腕にも。両足にも、首の周りにも、さながら大蛇が獲物を絞め殺す時のように、男の四肢は拘束されていた。
ローブの下から伸びた、怪物めいたどす黒い色の触腕によって。
「君は、抱きしめられた事があるか?」
答える時間はない。瞬く間に全身の骨という骨がとてつもない圧力で締め上げられ、男は気味の悪い破砕音の始まりを聞いた。断末魔の悲鳴を上げる暇もなく、ブルータスのマスターは絶命した。
そこかしこで悲鳴が上がった。
新市街の路面に、破裂した水風船のように血がぶちまけられたのだ。一瞬にして混乱に陥った往来は、逃げようとする人々の波でごった返し、阿鼻叫喚の騒ぎとなった。
そんな中で、仮面を被った人物の姿はいつの間にか消えていた。その後を追う者は誰一人としていなかった。そしてまた、ブルータスのマスターの鞄から、小さな瓶が消えている事に気付いた者も、またいなかった。