第二章 遠い街から来た少女 (1)
お待たせしました。鉄仮面党第二章、スタートです。続きは後日、こちらのページに加筆してうpする予定です。よろしくお願いします。
※6/30加筆しました。
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銃口はマスターの胸元に向けている。疲労はひどいが手ぶれはない。その気になれば、足のほうへ照準を変えて撃てる。一瞬で。マスターの手が妙な素振りを見せでもすれば、その瞬間に。
「両手を挙げてこちらを向け。テーブルから離れろ」
叉反は親指でわざとP9Rの撃鉄を起こした。ダブルアクションのP9Rには本来不要な動作だが、警告としては十分だろう。
血走った目で叉反を見返しながら、マスターはゆっくりと両手を挙げた。顔は血の気が引いて、ひどく白い。
「落ち着いてくれ。俺はただ、この子を介抱しようとしただけだ」
「悪いが、はいそうですかと頷けるような格好じゃない。手は頭の後ろに、壁を向いて跪け」
ブルータスの店主は曖昧に頷くと、何も言わずにその通りにした。植木鉢の横で壁に顔を向け、両膝を床につく。銃口は男に向けたまま、叉反は少女へと近付いた。
「おい。起きろ」
頬を軽く叩く。起きる様子はない。マスターは膝をついたままだ。叉反は再度、少女に呼びかける。
「起きろ。起きるんだ」
少しだけ強めに叩くと、少女の瞼が僅かに動いた。重そうな瞼が持ち上がり、翠玉のような瞳が叉反を見上げる。
ぼんやりとしていた目つきが、一瞬で変わった。飛び起きるのと同時に鋭い蹴りが放たれる。咄嗟に上半身を逸らして躱せば、少女は素早くテーブルの上を転がり、着地から間を置かずハイキックを繰り出す。振り切らんばかりに勢いに乗った蹴り足を、やむを得ず両腕を使いガードする。褒めたくなるほどの身軽さと反応だ。だが、まだ技が粗い。
「落ち着け、俺だ。さっき会っただろう」
諭すように少女に言い聞かせる。少女の首筋が僅かに見えた――首の裏側に、火傷らしい痕。
「……っ、あんた」
蹴り足が下がる。スムーズな動作で少女は足を戻した。
「何でここに――」
ようやく少女の瞳に落ち着きが見えた。
「こっちが聞きたい。何で君がこの店に?」
「あたしは別に……。ちょっと道に迷っただけ。そしたら、ここのおじさんが……」
叉反の問い掛けに顔をしかめた少女は、突然何かを思い出したようにはっとして壁のほうを見た。直後炸裂音とともに銃弾が叉反と少女の間を通り抜け、打ちっぱなしの壁を抉った。
ミスだった。一瞬たりとも目を離すべきではなかったし、何なら腕を縛っておくべきだった。
「動くなよ。店の中を荒らしやがって」
懐に忍ばせてあったのか、はたまた植木鉢にでも隠してあったのか。手にした拳銃を叉反のほうへと向けながら、マスターは言った。硝煙が立ち上る拳銃を構えるその姿は、護身用にとりあえず持っているような男のそれではない。撃ち慣れていて、その気になれば当てられるだろう。
「両手を挙げて、銃をこっちに寄越せ。妙な動きをすれば女を撃つ」
「……」
男の銃口は少女をしっかりと捉えていた。距離も近い。対して叉反は、拳銃は握ったままだが、両腕は下がっている。早撃ちで賭けに出るには分が悪い。
P9Rを持ったまま両手を挙げ、トリガーガードをフックにくるりと銃身を反転する。銃把を相手に向けて、ゆっくりと拳銃をテーブルの上に置き、男のほうへと滑らせる。銃口を少女へと向けたまま、マスターはテーブルに近付き、P9Rを掴むと尻側のベルトにねじ込んだ。
「たく、せっかく一度目は気絶してるうちに済ませてやろうとしたのによ。てめえが入って来たおかげで台無しだ。クソ虫野郎」
「あんた、あたしに何をしたの?」
怒りに満ちた目で、少女がマスターを睨む。
男はポケットからスタンガンを取り出して見せた。
「ちょっとビリビリするだけだ。まあ首だったからな。危なかったかもしれないが」
「とんだ介抱だ」
「うるせえぞ、虫。さてお嬢さん、君はこっちに来い。妙な事は考えるなよ」
「はあ? 何であたしがあんたの――」
「言う通りにしろ」
反撃を繰り出しそうになった少女を言葉で制す。すかさず少女が横目で叉反を睨んだ。
「……何言ってんの? あんた」
「そのほうがまだ安全だ」
人質がいれば、相手は自らの有利を確信する――それは油断に繋がる。状況を打開するなら、そこを突くべきだ。
案の定、男は我が意を得たとばかりにやりと笑った。
「そうだ。痛い思いはしたくないだろう」
「ふざけんな。あんたの言う通りにするくらいなら撃たれたほうがマシだよ」
男の銃口が火を噴いた。少女の金髪の何本かが宙を舞って床へ落ちていく。
「あんまり店を汚したくないんだよ、お嬢さん。大人しく従ってくれれば丁重に扱ってやるがね、別に足に穴が開いていてもする事は出来るんだぜ」
下卑た笑みを浮かべて、男が狙いを僅かに修正する。少女の顔が青ざめていた。
差別主義者で、サディスト。およそ最低の組み合わせだ。
「フュージョナー嫌いの評判は嘘だったようだな」
両手を挙げたまま、叉反は言った。
「それとも、女相手なら主義が引っ込むのか?」
「黙れ、クソ虫野郎。どの道お前は死ぬ。汚い毒虫の分際で、俺の店にずかずか入ってきやがって。反吐が出る」
「ならさっさと撃てばいい。何を躊躇っているんだ?」
「虫の体液で俺の店は汚せねえ。地下におあつらえ向きの場所がある。そこでお前を殺して、獣女の血を清めてやる。死体の横でなんてした事ないだろ、お嬢さんは?」
「……最っ低よ」
吐き捨てた少女の顔も、男の嗜虐心を刺激するだけだった。
「たまらないな。嬲り甲斐があるよ、君みたいなのは」
「話が長いな。やるならやるでさっさと――」
あとは続かなかった。男の拳銃から発射された銃弾が二発、胸元と腹に着弾した。たちまち血液がこみ上げてきて、思わず床に吐き出す。急所は外している。貫通もしていない。わかったのはそのくらいだ。体が割れていくような激痛が思考を鈍らせる。少女が息を呑んだ。
「あんた、何やってんだよ!?」
「落ち着いてくれよ、お嬢さん。君もそうだがフュージョナーってのは、ある程度弾撃ち込んだり切り刻んだりしても簡単には死なねえんだ。体の造りが俺ら人間とは違うからな。おい毒虫、汚してんじゃねえぞ」
〝超回復〟についても知っている。予想よりもはるかに黒い男だった。ついでに短気だ。
「簡単には死なないが、別に痛みがなくなるわけでもないんだろ? どれくらい耐えられるか、下で確かめてやるよ」
男の足が動いた。体が上げられない。自らの意志で超回復を行うには集中が必要だ。だが今は少しばかり血を流し過ぎている。奴はこれから叉反の体を運ぶためにすぐそばまで接近するだろう。その隙をついて足を取るか。問題は、マスターが娘を人質に取ろうとした場合――
黒い影が叉反の前に立ったのは、その時だった。目の前には白い足と、灰毛の獣尾。
「な――」
「何のつもりだ、お嬢さん」
マスターが訝し気に言った。少女と男は直線上に対峙していた。
「君はあとで楽しんでやるって言っただろう。何をする気か知らないが、そこを退きな」
「あんたを楽しませてやる義理はない。あんたこそ銃を下しな。そしたら、見逃してやってもいい」
一瞬呆けたような顔を見せて、マスターの口から呼気のような笑いが漏れた。それはすぐに大笑いへと変わった。
「ははははは、見逃してやってもいいってか! すげえなお嬢ちゃん、まるでコミックのヒーローだ。参考までに聞かせてくれよ、このまま撃ったら俺はどうなるんだ?」
「死ぬよ」
張り詰めた声で、少女は言う。
「あんたは、あたしに殺される」
音が爆ぜた。銃弾を食らった少女の体が吹っ飛び、後ろにいた叉反ごと転げる。
「馬鹿言ってんじゃねえぞ、ガキが! わかったぜ、マジで穴空いたままするのがいいってんだな!?」
マスターの怒声が店中に響き渡る。少女は叉反に寄り掛かったまま、銃弾が直撃したらしい腹部を押さえている。少女のシャツに赤い染みが広がっていく。呼吸はまだしているが、ひどく浅い。
「おい、無事か!?」
「……蠍の……人」
エメラルドグリーンの瞳が、叉反を見返した。
「なるべく……早く逃げて。でないと……」
「おらガキ!! 望み通り死ぬまで犯ってやんぞ!?」
怒りに任せて寄って来た男の左手が少女の胸倉を掴み体ごと持ち上げる。少女の口が、小さく動いた。
「でないと――あんたも殺しちゃうから」
翠の瞳に刃めいた光が宿る。骨の軋む音。骨格が変形し、筋肉が人体とは違う形で急速に発達する。
少女の手が、左腕を掴んだ。だがそれは、さっきまでの華奢な手ではない。夥しい獣毛に覆われ、凶悪な鋭さの爪が男の腕に食い込んでいる。真っ赤な血が滴り落ちた。男の表情に今までの余裕も激昂もない。あるのは驚愕と、恐怖。
「あ……あ、あがぁ……」
男の手から力が抜け、少女の体が床に着地する。変化しているのは片方の腕だけではなかった。左腕。両足。膨らんでいく体を収め切れず衣服がそこかしこから裂けていく。靴が壊れ、少女の口から獣の唸り声が漏れた。美しいプラチナブロンドは抜け落ち、可愛らしい小顔も、もはや影も形もなく、灰の獣毛に覆われた狼のような頭部へと変貌している。
小さな何かが床に落ちた。少女の体から銃弾が押し出されたのだ。
「ば、ばば化け物……!」
男が銃を構える。腕が震えて照準が定まらない。少女は答えなかった。代わり返されたのは唸りと、振り上げられた腕。
「よせ!!」
灰毛の腕が振るわれ、叫び声さえ上げずに男の体が吹き飛ぶ。壁際まで転がった男の手から拳銃が落ちた。血まみれになりながらも、男は呆然とした顔で獣と化した少女を見つめている。
「何を呆けている……」
何とか立ち上がる。想定外の事態だ。早く、早く動かなければ……!
『ほう。面白いな』
声が聞こえる。頭の中で。
『このような変形、初めて見る』
「黙ってろ」
深く息を吸い込み、叉反は床を蹴った。飛び掛かる寸前の少女だった獣人に組み付き、そのまま倒れ込む。
「ひ、ひィっ!」
「俺の銃を置いて逃げろ!」
言葉が終わる前にマスターは叉反の銃を放り出し、裏口らしいドアへ走り込んだ。獣人の力は凄まじい。さっきまで少女だったとは思えないほどの膂力が叉反の拘束を崩し、首根っこを掴まれざま部屋に隅に投げ飛ばされる。背中を激しく打ち付け、立ち上がろうとしてまた血を吐く。
『手を貸すか?』
「不要だ!」
獣人はこちらの様子を伺っている。外見はまるで狼男だ。口からは凶悪な牙を剥き出しにしている。体も少女の時より幾分か大きくなっていて、筋力は実証済みだ。あの爪と牙にかかれば、こちらの体は簡単に引き裂かれてしまうだろう。かといって、相手を倒すわけにもいかない。何とかして、無力化しなければ。
集中。相手からの攻撃を待つように構える。軽く手招きする。
「来い。さっきの蹴りだけではないところを見せてみろ」
その言葉を挑発と取ったのか――
姿勢低く一直線に獣人が飛び込んでくる。助走もない単なる突撃だがそのスピードは人間の比ではない。あっという間に間合いを詰められる。目視でその攻撃を認めた瞬間には、避けようのないタイミングで獣爪が叉反の体を切り裂いた。
はずだった。
「!?」
獣人の表情に戸惑いのようなものが浮かんだ。爪は何も切り裂いてはいなかった。代わりに飛んで来た頭部への一撃が、獣人の虚を粉砕する。
回り込んでからの掌打。攻撃の気配を完全に読み切ってのカウンター。一撃入ればいい。いや、現状では一撃が限界だ。獣人はテーブルの反対側へ落ち、すぐに立ち上がる。
「こっちだ!」
言いざま床に落ちていた物を拾い、天井へ向けて数発撃つ。吊るし型の照明がテーブルの上に落ちた。叉反は店の出入り口へ向かって走った。破砕音ともに獣人が後ろで咆哮する。ドアを蹴破り、外へ出ると曲がり角に向かって疾走する。背後から何かが飛来する気配。思わず横へ跳ぶ。飛来したドアの残骸がビルの壁に当たって砕け散った。
獣人の跳躍。弾丸のような速度で接近してくる。だが胴体はがら空きだ。銃を手放し、迷わずこちらも突撃し懐に入る。爪撃の間合いから外れると同時に腹部へと掌打。足を払って体を崩し、バックステップして構える。
こちらの攻撃は物の数ではない。獣人はすぐに立ち上がり飛び掛かってくる。噛み付きを躱し顎へ、振るわれる腕を払い腹部へ、掌底を叩き込む。威力が足りない。爪がシャツを裂き、叉反の腹に血の線を描く。背後はすでに壁だ。かっと開いた獣人の口がすぐそこにある。右肩が掴まれ、爪が肩口の肉に食い込む。
我知らず叫びながら叉反は相手の足を掴み、獣人の体を抱え上げる。獣人の牙が首に触れようとしている。もはや猶予はない。大声を上げながら、叉反は獣人ごと右手の路面へ向かって身を投げた。
粘着する感触。そう、先ほどの戦いでこの路面は粘糸まみれだ。暴れる獣人の背面が地面に貼りつく。咄嗟に身を離し、叉反は拾っておいたスタンガンを取り出した。
「二度もすまん」
謝罪とともに最大出力にしたスタンガンを獣人の腹部へ押し付ける。苦悶の絶叫。迸る電流が獣人の体を流れ、やがて沈黙させる。
スタンガンを離し、投げ捨てる。すぐさま彼女の首筋に手を当てる。脈はある。
獣人の体が大きく波打った。瞬く間に変貌が始まる。蒸気が体中から立ち上り、恐ろしげな爪のあった掌が元の細い指のものへと戻っていく。全身の獣毛が抜け落ち、頭部からプラチナブロンドの髪が先ほど同じくらいの長さに伸びた。一分と経たずして、少女は元の姿へと戻った。
「……まずい」
叉反は少女を抱きかかえた。粘糸は残った獣毛に貼り付いているから、引き剥がす必要はない。が、問題はそこではない。
すぐさまコートを脱ぎ、なるべく見ないようにしながら少女の全身をそれで包む。モンストロによる変身とは違う。まずい事に、体は戻っても衣服までは再生していない。少女は、言ってしまえば生まれたままの姿だった。
冗談ではない。こんなところを誰かに見られでもしたら、言い逃れは出来ない……。
――不意に、遠くから何かが聞こえた。気のせいではなかった。今日は何度か聞いた音だ。パトカーのサイレン。それも一台ではない。
「くそっ!」
咄嗟に頭の中で地図を描き、叉反は少女を抱えたまま全力で走り出した。なるべく人目につかないルートを素早く選び、コースを想定する。
途中で力尽きるわけにはいかない。無事事務所にたどり着かなければ――終わりだ。
落としたP9Rだけは回収し、さらに叉反は走る。全力で。立ち止まる暇はない。まずは身を隠さなければ。トビに連絡して、車を回してもらえば。無事そこまで済めば何とかなる。
くそ、まったく何という一日だ!
――自分が何故、怪物として生まれたのか、彼は知らない。
一番古い記憶を掘り起こすと、荒れ果てたアパートの一室で両親が怒鳴り合っている光景を思い出す。もう何日も家で酒ばかり飲み続けている父親、仕事に出かけてから夜遅くまで帰ってこない母親。母は父が仕事をしない事を責め、父は苛立って怒鳴り返し、暴れ出す。口論はいつも長く続き、内容は二転三転する。
そして、決まっていつも子供である彼の事が話題になった。
『俺は化け物を育てるために働いていたわけじゃない』
それが父親の常套句だった。何故父親が働かなくなったのかは知らないが、仕事を辞めた原因の一つは自分が生まれたせいなのだと、幼くも彼はそう理解した。
父親は彼に何もしなかった。目が合えば睨み付けられ、悪い時は殴られる。
母は少なくとも食事と衣服と寝床を用意してくれた。彼が怯えながら二人の口論を見ていると、それに気付いた母がその日の食事を放って寄越し、部屋に戻るよう怒鳴るのだった。彼は二人の声が少しでも聞こえないように部屋の隅に座り、与えられた食事を食べ、震えながら眠った。背中から生えた蜘蛛の脚のせいで、うつ伏せで寝るのが常だった。
ある晩、ついに母は家に帰ってこなくなり、家には彼と父の二人だけになった。父は相変わらず彼の面倒を見る気はなく、彼は父が買ってきた酒のつまみを盗んで食べた。つまみが無くなった事に気付くと、父は決まって彼を殴り、しばらくすると酒を飲んで眠った。
そんな生活が二か月ばかり続き、ある日父は血を吐いて倒れた。もう起き上がって酒を飲む事はなかった。
子供の彼はその後、いくつかの施設を転々とした。施設では自分と似たような境遇の子供たちがいて、その中にはフュージョナーの子供も大勢いた。だが、結局彼はその中でも孤立してしまった。背中の蜘蛛脚と臆病な性格のせいで彼と友達になろうという子は現れず、彼は〝怪物〟として周囲から標的にされたのだった。
夜はいつもうつ伏せで眠る。枕に顔を押し付けて。このまま呼吸が止まってしまえば、どんなに楽だろう。
神は何故自分を怪物として生んだのか?
彼は出来るなら、神自身にその問い掛けに答えて欲しかった。答えた瞬間に相手の喉元を抉ってやるつもりだった。
十数年後、神の使いを名乗る男がその疑問に答えた。その時彼は冤罪によって投獄される寸前であり、相手の喉元を抉る余裕はなかった。
助けられた彼は神の使いのあとに続いた。自分の刃を誰に向けるべきか、答えは明確に示されていた。
「――使徒シェロブ」
自分の名を呼ぶ声に、はっと我に返る。
薄暗がりの向こうから車輪の音が近付いてきた。自動走行する車椅子だ。乗っているのは両腕が常人よりも長く、どちらの腕も茶色い毛で覆われた老人。ここは彼が所有する物件の一つだ。改装中のビルの一室。今はこうして彼らの会合に使われている。
老人のあとに続いてローブ姿の人影が現れた。フードを目深に被り、焦げ付いたような黒毛の尻尾が僅かに見える。三人とも洗礼を受けた正式な鉄仮面党の使徒。罪人の証たる鉄仮面を被り、己の罪を清めるためにその手を汚す。それこそが教義。
「導師カブラカン」
シェロブは跪いて車椅子の老人に頭を垂れた。
「その呼び方は止しなさい。私はもうあなたの導師ではない。今晩には司教様がお着きになる。司教様こそ我らを真の救済へと導かれる御方。今日より私もまた一人の使徒として、己が罪の浄化に邁進する。我々は同じです。志を同じくする鉄仮面の使徒なのです」
「は……」
仮面は教義を執行する時に被るのが習わしだ。シェロブは手に持った仮面の凹みを、無意識になぞっていた。つい先ほど、執行は未遂に終わったばかりである。戦いの場から離れたあと、彼はすぐさま蠍の男について簡単な報告を上げていた。
「それで、あなたの執行を邪魔したというその男ですが……」
カブラカンがおもむろに話を切り出す。
「はい。どうも我らと同じくモンストロを施されているようなのですが、あやつめが使うのは緑電ではなく炎。それも、触れればモンストロの効力を打ち消します」
実に奇怪な炎だった。モンストロによって強化されたはずの粘糸を簡単に焼き切り、しかもその炎は男自身を燃やさない。服も掌も、男には火傷一つ付けずにこちらにのみ影響を与える。
「我々の知らない研究品があるのかもしれませんね。モンストロから発展させた何かが……」
洗礼を受けた時、シェロブはカブラカンを通じてモンストロストーンを体に移植した。
モンストロ――この不可思議な物について、シェロブは詳しい事を何も聞かされていない。尋ねる事も禁じられていた。シェロブに伝えられたのは、その使用法と訓練法だけだ。長く、苦しい期間を経て、シェロブは己が身に緑電を発生させ、肉体を変化させる超越の技術を体得した。おかげで、凡百のフュージョナーとは一線を画したはずだった。
「いかがしますか。放っておけばあの男、我らの計画の邪魔になるやもしれません。いいえ、必ずそうなるでしょう。あの男は自らを傷つけたはずの罪人を庇い、私の前に立ちはだかりました。おそらくはそうせずにはいられない性分の男。我らの教義とは到底相容れそうもありません。ならば、先手を打ってこちらからあの男を――」
「シェロブ」
静かだか有無を言わせない声が、フロアに響いた。
「教義を忘れてはいけません。我らがこの手にかけて良いのは罪が明らかな者だけです。罪を犯した者を手ずから葬ってこそ、我らの罪が浄められる。罪人である我らは、これ以上悪が世に蔓延らぬよう、その芽を刈り取る事で善を成すのです。善なき暴力に浄罪はない。我らは鬼畜ではないのです」
「しかし!」
「使徒シェロブ、あなたは今、非常に逸っている。戦いを終えたばかりですから無理もない。しかし、そんな時こそ心を鎮めなさい。怒りや憎しみに囚われていては教義を成す事など出来ない。厳かに、ひたすら厳粛に、ただ罪を浄める一心で打ち込んで初めて、あなたは救われるのです」
諭すようなカブラカンの言葉の一つ一つは、さながら野に吹く風だった。ちょうど今の季節に、ふと吹いた涼風のような。穏やかで、適度に冷え、身に、心に染み渡っていく。
「……は。心得ました、使徒カブラカン」
全身を駆け巡っていた血気が、ひとまず落ち着いていくのがわかる。さながら懺悔のような気持ちでシェロブは言った。
「執行を邪魔されたあまり、怒りで教えを見失っていたようです。未熟な私めを、どうぞお許しください」
「いいでしょう。司教様を出迎えるまで一人修行なさい。短い時間ですが、それで教義に背きかけたあなたの罪は許されるでしょう」
「はっ」
シェロブは潔く答えた。鉄仮面党の〝修行〟は常に痛みを伴うものだが、それで罪が滅せられるというのであれば怖くはない。むしろ、喜ばしくさえある。
「代わりと言っては何ですが、その蠍の男、この私が会って来ましょう。幸い、これから任務で街に出なければなりませんからね。どうしても騒がしくなりますから、かの男も現れるやもしれません」
カブラカンはそう言って、大きな両手の指を組んだ。
「おひとりでよろしいのですか、カブラカン?」
「構いません。あなたは修行のあと、司教様をお出迎えする準備を進めておいてください」
カブラカンの声音が、些か低くなった。
「本当の任務は今夜からですよ」
身震いする。ぞくりとしたものが背筋を走る。そうだ、今は小さな怒りに囚われている場合ではない。ついに、時が来たのだ。司教の元で、偉大な計画に参加するその時が。
「何かあれば使徒モーザに指示を仰ぎなさい。モーザ、あなたはまず彼の修行を見てやってください」
フードの中で、使徒モーザは肯定も否定もしなかった。それなりに長い付き合いになるが、この者の考えている事はいまいちわからない。不気味とは思わないまでも、シェロブは少しばかりモーザの事が苦手だった。
モーザが監督役ならば、修行の難度は通常のそれより数段跳ね上がる。だが、シェロブに迷いはない。修行を経たこの身は、必ずや司教や導師の役に立つ事だろう。
車いすの手すりから、カブラカンは自らの仮面を取り出すとそれを膝の上に置き、聖書に手を置くように右手を置いた。
「さあ祈りましょう。我らが浄罪の行く末を。この道が完全に成されん事を」
シェロブは胸に自らの仮面を抱えた。モーザもまた同様だった。
カブラカンが祈りを唱え始める。シェロブもモーザもそれに続く。粛々と祈祷を唱和し、シェロブは計画の成功を祈った。
神の喉元を抉る必要はない。教義が無事果たされる事で、この身は神の腕に抱かれるのだ。永遠に。