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第一章 二〇二〇年 ナユタ 夏 (3)

第一章はこれにて終わり。

第二章へと続きます。

      ※


 ――道を逸れて人目がなくなると、彼女は歩調を速めていた。自分の意志というよりは体の抑えが利かなかった。

 大の男三人に囲まれた緊張、自分の事をからかった馬鹿な男どもへの怒り。それに少しばかりの怖れ。そう、怖くなかったといえば嘘になるが、でも、別に怯えていたわけじゃない。

 ハンチングを押さえ、深呼吸する。尻尾が戦慄いている。実際、危なかった。もしあの男達に手を出されていたら。容赦のない、ひどい目に遭わされていたら……。


「……ッ」

 嫌な光景が頭によぎる。もしも、あの男達の指が一本でも自分に触れていたなら。きっと、あたしは。

「……やめよ」

 深呼吸して、呟く。もしもを想像してもしょうがない。現実では、そうとはならなかった。あの二人が割って入ってくれたのは……幸運だった。男はあんまり好きにはなれないけれど、でもまあ、助かったのは確かだ。

 自分の掌を見つめる。少し白めの肌。細い指。きちんとネイルした爪。何ともない。いつも通りだ。


 でも――いつまた、ああなってしまうかはわからない。

「急がなきゃ」

 期間はあと一週間しかない。それまでに、あれを手に入れないと。

 それに、例の人も……。

 彼女は再び歩き出す。旧市街は危なさそうだ。とりあえず新市街へ行ってみよう。

 大丈夫、きっと見つかる――


      3


 旧市街で仁と別れ、次の場所へと向かう。新市街へと。

 天霧は新市街正木区九曲くまがりにモダンな外観の家を持っている。組長の屋敷のような派手さはないが、分をわきまえつつも力を見せつけるには十分なほどの大きさだ。車庫付き二階建てのその家は、一人と犬一匹が住むには少々広すぎるように思える。


 今日の今日まで、天霧がペットを飼うような人間だとは思っていなかった。二年前に調べた時には、奴の住所と、普段からあまりナユタにはいないという事くらいしかわからなかった。

 住宅街の中、密接した家々の間に、ごく自然にある天霧宅を見ながら、叉反は考える。

住宅街には広く緩やかな坂道があり、天霧宅はちょうど谷間の部分に位置する。叉反の他には誰もいない。夏の夕方。日が暮れるにはもう少しかかる。


 先に見ておいた天霧宅の裏手には、話に聞いていた庭らしいスペースがある。庭自体はそこまで広くはなさそうだが、柵で囲われていて中は見えなかった。

 仮に侵入者がこの家からレトリバーを連れ出したとして、どうやって侵入し、どうやってセキュリティに引っ掛からずに済んだのか……?

見知らぬ人物ならば、何よりもまず犬が吠えるだろう。無理に連れて行こうとすれば抵抗するのが自然だ。だが、争った形跡はないという。


 ――何となく閃くものはあったが、まだ根拠がない。

 考えを深めるためにも、しばらくこの辺りを歩いてみる事にする。

 天霧宅を離れ、中央区の方角へと進む。住宅街を抜け、スーパーマーケットや市営プールが見える十字路を直進し、買い物帰りらしい親子や、連れ立って歩く学生らとすれ違う。中央区には大学があるため、この辺りには学生向けのアパートも多い。


 歩いていくうちに思い出した。確か、この少し先に石碑があるはずだ。

 それは、かつてこの辺りで起きた出来事の証だ。まだこの国が、断続的な内戦を繰り返していた頃の。

 ほどなくして、その姿が見えた。さながら怪談話の地蔵信号のように、短い横断歩道を渡った先で、それは静かに佇んでいる。


《正木町争乱死没者慰霊碑》


 十六年前、治安維持軍を脱退した元軍人たちが自警団を組織、それが当時この辺りを縄張りにしていた組織に攻撃を仕掛けた。当時、この国には他国からの密輸ルートがいくつも確立されており、軍人崩れであれ一般人であれ、その気になれば簡単に武器を手に入れる事が出来た。

 十分な武器の供給が、この時の二大勢力の激突を大規模な争乱とさせた。あらん限りの火力を叩き付け合う戦闘は、双方の勢力を壊滅させ、百人近い一般住民を巻き込んで終息した。


 ナユタ新市街の一部となった今の正木区に、その面影はない。石碑が、遠くはない過去の悲劇を伝えるばかりだ。

 定期的に手入れがされているのか、石碑自体は綺麗なままだ。ステンレスの花瓶らしい物が傍に置いてある。花は活けられていない。

 手を合わせ、しばし黙祷する。決して信心深い[[rb:性質 > たち]]ではない。しかし、過去にこの土地で血が流れたという事実が頭に浮かべば、死者の鎮魂や冥福のために祈るべきだと感じる。何者も、誰かに殺されるために生まれたわけではない。


 不意に叉反は、背後に人の気配を感じた。

 今の今まで接近に気付かなかった事に内心戸惑う。気配に溶け込む事、気配を感じ取る事は師の教えと実戦によってこの身に叩き込まれている。だというのに直前まで感知出来なかった。

 自然な動作で黙祷を止め、振り返る。背後の人はゆっくりと進んできて、叉反の横に並んだ。

 派手ではないが、特徴的な衣服だった。立襟の上着は足首まで届くほどに長く、色は光さえ通さないような漆黒。それから、首元に覗くローマンカラー。


 祭服カソック。神父だ。おそらく六十を過ぎているだろう。白髪で、それなりに皺の刻まれた顔はさながら彫刻のようだ。石碑を見つめる目は青く、厳しげに細められている。

「珍しいですね」

 ぽつりと神父が言った。完璧な発音の、この国の言語だった。

「え?」


「若い方がこの石碑に手を合わせているのは珍しい」

 神父はそう言って、叉反のほうへ顔を向けた。

 ――脇下に吊るした銃の辺りが、ぞわりと蠢いた気もしたがそれも一瞬だ。

「この辺りの方ですか?」

「いえ……たまたま見掛けたものですから」


「これは失礼を」

 軽く頭を下げ、神父はしゃがみ込むと、手に持ったビニール袋から花束を取り出して花瓶へと差し、次にペットボトルを出して水を注ぎこんだ。

 神父は立ち上がった。

「不思議なものです。ずっと内戦は終わらないと思っていたのに、あの頃に比べればこの辺りも随分と落ち着いた」

「以前からずっとこちらに?」


「色んな国を転々としてきました。この国は二度目ですよ。さすがにもう、別の国へ移る事はないでしょうが」

 口調こそ落ち着いていたが、神父の表情はどこか硬かった。特に目が。叉反と言葉を交わしながらも、視線は石碑へと向けられている。

「故郷で過ごしたのと同じくらいの時間を、この国で過ごしました。私の人生のいくらかはこの国で作られたと言ってもいい」


「内戦の頃から、この国におられたのですか」

「九九年の夏、第二次関東紛争が始まる三日前に、初めて赴任して来ました。それより以前でも、戦争状態の国にいなかったわけではないのですが、当時の異様な空気は今も思い出します」

 この国の内戦は一九八〇年に起こったフュージョナー差別を発端に、一九九三年の東京崩壊まで続く。その後少しの間小康状態を保つも、九九年に第二次関東紛争が勃発し、それが原因で再び対立が露わになり、二〇〇六年まで各地で断続的に争いが続く事になる。


「誰もが疑い合い、誰もが誰かの敵となり得た。得体の知れない憎しみと疑心が増幅し、際限なく広がっていく。私が見た焼け野原の光景は、ある意味当然の帰結と言えます。一度攻撃性を剥き出しにすれば、人は行きつくところまで行ってしまうしかないのかと……」

 叉反に語るようで、半ば神父の独り言のようにも聞こえた。自身もその事に気付いたのか、取り繕うように笑って、神父は言った。


「妙な話をしてしまいましたね。たびたび失礼を」

「いえ、そんな」

「いや余計な話でした。忘れてください」

 頭を下げ、神父は踵を返した。その先の道を真っ直ぐ行くと丘があり、確かその辺りには教会があったはずだ。

「すみません」


 少し迷ったが、叉反はその背中に声をかけた。不思議そうに神父が振り返る。

「何でしょう?」

「妙な話ついでにもう一つ。この辺りで犬を見掛けませんでしたか? 飼い犬のゴールデンレトリバーなんですが」

「犬……ですか」

「ええ。実は私、調査会社の者でして。この辺りで飼われていたそのレトリバーを探しているんです」


 名刺を渡し、それからツクモの写真を取り出す。飼い主でなければ写真だけで見分けなどまずつかないだろうが、それでも一応見せておく。

 写真をじっと見つめた神父は、案の定、首を横に振った。

「申し訳ありませんが、普段は教会にいるものですから……」

「そうですか。……ありがとうございます」


 仕方あるまい。では、もう少しこの辺りを歩いて他の人間に声を掛けてみるか――……

「いなくなったのですか、その犬は?」

「ええ。詳しい事は言えないんですが」

 無表情な神父の目が何か別の感情見せたようにも思えたが、一瞬の事で断定出来ない。

「……そういえば、若い方がその犬と散歩していたのを何度か見た気がします」


 少し間を置いて、神父がぽつりと言った。

「若い方?」

「二十歳にも満たないような若者です。生憎それくらいしかわかりませんが」

「確かにこの犬ですか?」

「首輪が同じです」


 ではと言って、神父は歩き出す。礼を言おうと口を開きかけた時だ。けたたましいサイレンの音が響き渡った。パトカーのサイレン。近くはないが、そう離れてもいない。

 サイレンは鳴り止まない。パトカーが少なくとも三台。それに救急車も来ているようだ。

 焼けていく空の下で響き渡るサイレンは、どこか異様なものに思えた。空が赤い。まるで原色を塗りたくったかのような赤。サイレンが響くたび、赤が色濃くなっていくかのよう。

 神父もまた、サイレンが聞こえてきた方向を見ていた。沈痛そうな面持ちで。

「……平和は遠く、ですか」



 車に戻り、ラジオをつける。ニュース番組を探す。サイレンの原因を把握しておきたかったが、それらしい情報はない。ニュースを流しながら背もたれに体を預け、フロントガラスの向こうの夕焼けを見つめる。そうして、これまでに得た情報を頭の中で並べる。もっとも核心に近そうなのは、次の二つだ。


 一つ、ツクモは知らない者には懐かず、自宅のカメラにも不審者の姿はなかった。

一つ、ツクモは男に連れられて散歩していた。二十歳にも満たないような若者に。


 犬には世話係がいた。

 当然と言えば当然の話だ。ヤクザ稼業に忙殺され、ナユタに戻るのも月数度という天霧が、毎日ツクモの面倒を見られるはずがない。ことに、レトリバーはかなりの運動量が必要と聞く。ならば、散歩に限らず身の回りの世話を誰かに頼むはずだ。


 ヤクザの世界ならば、そんな雑事を押し付ける相手はすぐに見つかる。若衆だ。行儀見習いという名目で、事務所や邸宅の掃除、給仕、車の運転、煙草の火つけ、何でもやらされる。

 世話係の若者がツクモを連れ出したのだとすれば、ややこしい侵入方法など必要なくなる。いつも通り散歩に連れていけばいいのだ。セキュリティを破る必要などない。カメラに不審者も映らない――そもそも、天霧宅にとって不審者ではないのだから。


 だが……

「何故、攫う」

 それが疑問だ。何故若者は……いや、というよりは、そもそも何故ツクモは攫われなければならなかったのか? 

 さらに挙げるなら、仮に若者が連れ出したとすると、今度は庭にあったという首輪が妙だ。争う事なく犬を攫ったのなら、何故わざわざ首輪を庭に置いたのか? 何らかの偽装――例えば、誘拐は邸内で行われたと見せかけるため――だろうか。だが、それならばカメラに不審者が映っていないのは、むしろ不都合ではないだろうか。


 天霧が世話係の存在を伏せていたのも気に入らない。まるでツクモが独りでに消えてしまったかのような話し振りだった。若者の存在を、何故隠す必要があったのか……。

『……下らん話だ』

 頭の中に声が響いた。久しく聞いていなかった、あの声が。

『よりにもよってヤクザ者が犬探しとはな。退屈極まる。お前の体に入ってからひと月余り、来る日も来る日もこの調子だ。この世で退屈ほど死に迫るものはない』


「……もう二度と喋らないのかと思っていたよ、俺は」

『馬鹿を言うな。お前も退屈していたはずだ、俺と同じように』

 声の主は面白くもなさそうに言った。叉反は目を閉じる。

 この、頭の中に声を響かせる奇妙な同居人と話す時は、視界を閉じていたほうがやりやすい。

 意識の深層へと落ちていく。どこまで広がっているかもわからない、黒い空間。白い靄が足元に漂うその空間の奥には、一匹の巨大な影が寝そべっている。


 そいつは獅子のような赤銅色の胴体を持ち、その体には巨大な蝙蝠の翼が生え、尾は蠍のそれだった。頭部に黒いたてがみがあるが、顔はまるで人間のようだった。

 《怪物》。ひと月前のとある事件で叉反の身体と心に住み着いた、意識下に潜む化け物。

『せっかく手に入れた力を振るう機会に恵まれない。不快だろう? 体が鈍っていく感覚に恐れを覚えないか?』

「俺は仕事で忙しい。無駄な体力を使うつもりはない」


 怪物の口の端が吊り上がる。気味の悪い笑み。この怪物がもっとも見せる表情。

『虚勢を張っても俺にはわかる。お前が闘争を求めている事が。銃を分解掃除している時の苛立ちを、俺が察知していないとでも?』

「苛ついてやったんじゃ手元が狂う。いいからもう黙れ。車を出す」

『あの神父を覚えておけ、探偵』

 ひと際大きな声で、怪物が言う。


「さっきの神父を?」

『お前も薄々感じただろう。あの男から漂う隠し切れないほどの暗い冷気。それに、こびりついた血の匂い……』

 あいつは……。

 次の瞬間、叉反は目を覚ましていた。深層から引き戻されると必ず眠りから醒めたような感じになる。それもあまり良くない眠り方をした時のような。


 顔を拭い、息を吸って頭の中をはっきりさせる。やるべき事を思い出す。

 ――ひとまずは世話係だ。その人物を追おう。

「……妙な事を吹き込むな、怪物」

 吐き捨ててアクセルを踏む。車が動き出す。気分が悪い。ひどく気分が。


 ――怪物の言葉が、べったりと頭の中にこびりついている。神父が叉反の銃に気付いていた事はわかっている。だがしかし、それだけだ。何の根拠にもならない。だが、あの目は。叉反に気配を悟らせずに近付いたあの手腕は。

 怪物が深層でにたにたと笑っている。久方ぶりに血の匂いを嗅ぎつけて。

『あいつは――人殺しだ』




 存在するはずの世話係を探して、いくつか思い当たる場所を巡ってみたが、成果はなかった。

 崔樹組だけではない。ヤクザらしい人間を一人も見かけなかったのだ。普段ならちょっと街に出ればそれらしい連中がうろついているというのに、今日に限っては違った。

 街の空気に何か異質なものを感じる。はっきりとした事はわからないが、何か普段とは違う。

 中央区の駐車場に車を停め、交差点を抜け、人の流れに逆らって真っ直ぐ進む。時間はまだ早いかもしれないが、仕方ない。例の業者の話を聞きに行こう。


《ブルータス》は周りに店などない、ビジネス街の裏通りでひっそりと営業している。

 店主から話を聞く手立てを講じなければならないが……少々荒っぽい事になるかもしれない。あのフュージョナー嫌いは筋金入りだ。こちらの尻尾を見た途端、不快そうな態度で応じてくるだろう。

 入店するには――金か。暴力沙汰は御免だが、相手の機嫌によってはそうなる事も念頭に入れておかねばならない。

 歩きながらそんな事を考えていると、軽く肩に何かがぶつかった。と、同時にいきり立った声が叉反を罵った。


「おいおっさん、どこ見て歩いてんだよてめえは……」

 一瞬怪訝な顔をした若者は、次の瞬間叉反の胸倉を掴み上げた。見覚えのある相手だ。ついさっき、工業区で少女に絡んでいた三人組の一人。腕を捩じり上げてやった若者だ。

 同じ日に同じ連中に二度も出くわすとは……。

「何で街中歩いてんだよ、てめえ」


「仕事だ。お前らこそ何をやっている」

「何質問してやがんだ、てめえは。ああ?」

 サルと罵られた男が凄んだ。同時に、後ろからもう一人が進み出た。

「さっきは好き放題やってくれたじゃねえか。汚え毒虫の癖によ」

「てめえみたいなのがいると俺ら普通の人間が迷惑すんだよ。なあ?」


 二人が口にする罵りに、叉反は呆れるのを通り越して笑みさえ浮かびかけた。あまりにお決まりの文句。どこででも聞くような。

 例の盗人達は三人組だというが、まずこいつらではあるまい。手口と性格が一致しない。

「退いてくれ」

 頼むような口調になったのは、それが地の口調だからに過ぎない。やり過ごすのが無難だ。余計な事に体力を使いたくはない。


「はあ? 人間様にぶつかっといて何抜かしてんだよ」

 男は引かなかった。他の二人も同様で、舌打ちを含ませながら、今にも襲い掛かって来そうな気配を醸し出している。

 無論、怪我をさせずに無力化するのは容易だが、騒ぎは御免だ。

「痛い目見ないとわかんねえんじゃねえの? 実際さあ」

「来いよ、ほら。来てみろって、クソ虫野郎!」


 ――何が、彼らをここまで駆り立てているのだろう。

 場違いな事をふと思う。三人とも体格はいいが、叉反に比べれば細身だ。気分次第で他人に食ってかかる彼らでも、馬鹿ではあるまい。見比べれば自分達と叉反と、どちらに軍配が上がるかくらいはわかるはずだ。

 黙って叉反は相手を見据えた。男は一瞬怯んだ様子を見せたが、すぐにまた闘志を取り戻し、睨み返してくる。

 ――嫌悪。侮蔑。憎悪。


 自分達とは異なる身体を持つ者への、止まらぬ負の感情。大多数に属しているという事実から得られる、少数派への優越感――

 彼らの根底にあるのは、それだ。『〝普通〟という位階に選ばれた』という認識。その認識が、こんな下らない行為を生み出している。

「何とか言えよ! おい! 死にてえのかよ、てめえはよ!」


 襟を掴んだ手で叉反の体を揺さぶりながら若者が怒鳴る。互いの距離は、五センチと離れていない。

 ――ここからなら容易い。肘、腹、首、背。どこでも一瞬で――

「や、やめなさい!」

 裏通りに響いた震える声に、叉反ははっとなった。

 いつから見ていたのか、曲がり角のほうから一人の男がこちらを見ていた。


 フュージョナーだ。

 長く使っているのか、くたびれた鞄を手に持ち、くしゃくしゃになった黒髪にレンズの大きな眼鏡をしている。少し老けているが、二十代だろう。服の背を破って突き出している細い蜘蛛の足が小刻みに震えている。

 気になったのは、その服装だった。くすんだ灰色のローブ。

 まるで、僧侶のような――


「んだよ、またおっさんかよ」

「黙りなさい! 何ですか、三人がかりで寄ってたかって。軽くぶつかっただけでしょう。そんな事で弱い人に言いがかりをつけて、恥ずかしく――」

「うるせえ」

 若者の手が腰の後ろに伸びていた。それに気付いた叉反が動こうとした瞬間、首筋で火花が弾けた。


「させねえよ」

 背後から声がした。電流――スタンガン。回り込まれていた。気が遠くなり、膝から力が抜けそうになる。同時にガス音がして、目の前の若者が手にした武器からワイヤーが発射されていた。素早く伸びたワイヤーが蜘蛛脚の男性の胸元に突き刺さり稲妻が走った。

「あああがあッ!!」


 絶叫を上げた男性が崩れ落ち、若者が引きつるように笑っていた。二人からは少し離れていた最後の一人が苦い顔で言った。

「馬鹿、さっそく使ってんじゃねえよ。肝心な時に役に立たなかったらどうすんだ」

「だってよ。急に蜘蛛男が話しかけて来るからさあ」

「不審者マジやべえって。俺らで始末しとかねえ?」


 スタンガンを手にした若者が下卑た笑みを見せた瞬間、叉反は裏拳をその顔に叩き込んだ。

 首筋に与えられた電撃のせいで足元がふらつく。呆気に取られている隣の若者の胸倉を掴みざま頭突きを見舞い、その体を放り捨てようとした刹那、背の肉が切り裂かれ蹴り飛ばされる。

 テイザーガンを捨てた若者が凄まじい形相で叉反を見下ろしていた。大振りのナイフの刃には血がべったりと付いている。


「調子に乗るんじゃねえ、この虫がよ」

 ナイフの切っ先が向けられる。抉られてはいるが、背中の傷はそのうち治癒する。問題は足だ。立ち上がれるか――

「逃がさねえぞ。俺らをコケにしやがって。ズタズタにして転がしてやるからな」

 構えたナイフが振り上がったその時。

「あああああ――――――ッ!!」


 絶叫とともに僧服の男が立ち上がった。

「……ゆ、ゆ、ゆゆ許さない許さない」

 震えた声で、男が呟いていた。目つきが怯えていたさっきまでのそれとは違っている。

 小さく何かが割れた。震える足で、男は自分がつけていた眼鏡を踏みにじっていた。

 若者の顔がわずかに強張った。


「っ、何だ、おっさん。てめえから先に死にてえのか」

 鬼気迫る男の目が、若者へと向けられた。

「許さない許さない許さない許さない。何で何で何でこういう事をするんだ。弱い人間をいじめて楽しいのか。僕がお前に何をしたっていうんだ」

 早口にまくしたてながら震える手を鞄に入れ、男は中から何かを取り出し顔に宛がう。


 仮面だ。表情のない鈍色の仮面。その両目に空いた二つの穴から、怒りに歪んだ双眸が睨む。

「お前らみたいなのがいるから罪が消えないんだ。ただ愚かで暴力的なだけの屑どもが大手を振って歩いているからいけないんだ。屑くずくずくず。罪人は罪人らしくしていればいいんだ」

「何を言ってやがる……」

 若者の足が一歩引いた。仮面を付けた男が泣き出しそうな叫んだ。

「お前らが罪を犯すからいけないんだ! 何も考えずに生きているだけの屑どもッ!! 僕が罰してやる、この超越した体で!」


 超越――叉反の胸中に予感が走った。嫌な予感が。

 まさか……

 蜘蛛の脚に、緑色の電流が弾ける。

「イクシイイィ――――ド!!」

 裏通りに緑雷が迸る。思わず目を背けたその光の中で、男の体が急激に膨張し、筋肉と骨とが音を立てて変形していく。巨大に。


 熱が朦々とした白煙を生んでいた。その中で、ひと際高い位置に男の影が見えた。先ほどまでと変わらない背中から八本の脚が生えた男の半身。だが、もう半分は驚異的な変貌を遂げている。

「ちくしょう、何だってんだ!」

 若者が喚いた。


 ――さながら、それはケンタウロスのようだった。人間の半身に馬の胴体を持つ神話の存在。だが男が持っているのは馬の体ではない。男の腹より下は蜘蛛の体へと変じていた。触肢がなく、頭胸部がほぼ直角に跳ね上がり、上顎から人間の体が生えているような形態。計十六本の蜘蛛脚が蠢き、筋肉質になった体は鮮やかな体毛に覆われている。

 人と虫の両特性を兼ね備えた姿――人蟲態、とでも呼ぶべきか。

「モンストロ……」


 かつて叉反がトビや仲間とともに戦ったかの秘密結社が造り出した、フュージョナー因子を操作する薬品モンストロ。驚異的な身体構造の変化と、放たれた緑電がその証だった。

「我が名は使徒シェロブ! 暴虐の罪により、汝ら愚者どもを罰する!」

 仮面の男――シェロブはそう叫ぶやいなや、白煙の中から跳躍した。

「逃げろ!」


 悲鳴を上げた若者が足をもつらせ、その場に倒れ込んだ。ナイフが彼の手を離れ、軽々とビルを越すほどに飛び上がったシェロブの影がその上に落ちる。

「教義執行!」

 男の掌から粘りを帯びた白い塊が射出される。全身の力を振り絞り、叉反は地を蹴って若者の体を抱えざまアスファルトの上を転がる。びちゃりと汚い音を立てて、蜘蛛の糸の成り損ないが地面にへばりついた。


「早く逃げろ。奴はお前らを狙っている」

 すっかり怯え切った若者は震えるばかりで答えない。その間にも黒い影が落下してくる。

「何故そいつを庇ったあああ!?」

「急げ!」

 眼前で怒鳴り、若者を仲間のほうへ突き飛ばす。頷いた若者は同じように驚愕に震えていた仲間の襟首を掴み、引き摺るようにして立たせた。


 彼らと叉反との間に、シェロブは軽やかに着地した。巨体のわりに足音一つしない。仮面の下の形相は憤怒のそれと化している。モンストロの緑電が毛を逆立だせ、体のそこかしこでばちばちと弾けている。

「何故罪人を助けた? 貴様も奴らに傷つけられたではないか!」

 超越イクシードして体が変わったせいか、シェロブの声はまるで別人のようだった。

「馬鹿な奴らなら適当にあしらってやればいい。度が過ぎたなら警察の仕事だ。モンストロの出る幕じゃない」


 シェロブの目が驚いたかのように動いた。

「貴様……知っているのか、モンストロを」

「お前も結社の一員か。ナユタに潜んで今度は何を企んでいる」

「結社だと?」

 シェロブが怪訝そうな声を上げた。


「一体何の話だ。我らはただ、我らの教義を執行するために存在する」

「……」

 ――この男は結社の一員ではないというのか? しかし、ならば何故モンストロを……

「まあいい。何であろうと執行を邪魔するのであれば、貴様も罪人と見なすしかない。同じフュージョナーを手に掛けるのは気が引けるが……」


 シェロブの手が動く――足の痺れは取れつつある。

「せめて苦しまずに逝け!」

 粘液の放出と同時に、シェロブは跳躍していた。側転の要領で粘液を躱しながら、叉反は咄嗟にナイフを拾って駆け出した。

 右へ左へと動きながら走り続ける。壁から壁へと飛び移りながら、シェロブが背後から迫って来た。射出音とともに飛来した粘塊がわずかに手首を掠める。瞬間的に腕を引いた。コートの生地が千切れ粘塊とともに壁に張り付く。


「どうしたァ! 逃げるのか!」

 軽業師の如く飛び跳ねながら、シェロブは瞬く間に頭上を追い越し眼前へと着地する。右手が上がり、相手が狙いを合わせたと感じ取った瞬間、巨大蜘蛛の歩脚が叉反の体を攫った。たちまちビルの外壁へと撥ね飛ばされ叩き付けられる。

「ぐ……ッ」

 背面の痛みを堪えつつ、何とか立ち上がる。フェイントだ。やるじゃないか。


 背の裂傷は残ったままだ。傷の治りが遅い。フュージョナーが持つフュージョナー因子は、身体の危機を敏感に察知し、およそ通常では考えられないほどに細胞を活性化させ、体の修復を図るという。フュージョナーの〝超回復〟とも言い表されるこの現象は、しかし、まだ起こらない。

 笑みが脳裏に浮かぶ。奴の笑みが。

 ――怪物め……


 意識深層に潜む怪物が、意図的に叉反の回復機能を制限しているのだ。あいつはそうする事で、苦痛に耐えきれなくなった叉反が自分に屈服するのを待ち望んでいる。

 ――こちらも〝超越〟出来れば。だが、力を司る怪物が機能を制限している以上――

「しゃあッ!」


 風を切って蜘蛛脚が躍りかかる。同時に襲い来る四つの爪。背の痛みが一瞬動きを鈍らせる。躱し損ねた叉反の身を蜘蛛の爪が胸から腹まで一気に抉った。浅い。 だが、敵の追撃は速かった。糸のなり損ないである粘塊を間一髪バックステップで躱し、滑るように後方へと下がる。跳躍するシェロブが間髪入れず粘塊を放つ。左足をぎりぎり掠めた粘塊を横へ跳んで躱し、ナイフを投擲するように構えたその瞬間、壁に張り付いたシェロブの両手から放電音とともに粘糸が溢れるように飛び出した。


「っ!?」

 視界一杯に放出された多量の粘糸が叉反へと降り注ぐ。逃げ場はない。咄嗟に壁を蹴って跳ぶ。その瞬間、顔面に粘塊が直撃し、続けて何発もの粘塊が叉反の体を撃った。柔らかな感触が肩に触れたと同時に、全身が容赦なく地面へと押し付けられた。


「他愛ない」

 放電音がして粘糸が一斉に体を締め付ける。大蛇に締め付けられるよりひどい。軽口を思い浮かべる余裕もない。

「食うまではしない。罪を贖え、教義を愚弄した罪を――」

 シェロブが何かを言っているが、もう言葉が聞こえない。思考を集中する。意識が途切れる前に。怪物がほくそ笑んでいる。叉反は集中する。闇の中に浮かぶ赤い星――


 次の瞬間、全身から発する高温の熱が体中にまとわりついた粘糸を焼き払った。粘糸の網を突き破り、灰になった顔面の粘塊を払い捨て、叉反はシェロブを睨む。両手は炎に包まれていた。燃える星のような炎に。

「な……」

「特別なのは自分だけだと思っていたか?」

 粘糸の中から足を引き抜き、シェロブへと近付いていく。意図的に炎を出すだけでも一苦労だ。だが、徐々に体は慣れつつある。深く息を吸う。超越は出来ないだろうが、今はこれで十分だ。


「馬鹿……馬鹿を言うな。俺は超越したんだ!」

 シェロブの両手が粘塊を乱れ撃つ。眼前に迫って来たそれを拳で払いのける。同時に駆けた。幸い、的は大きい。シェロブの左手が僅かに痙攣した。

 シェロブの糸いぼが動く。左手は下がっている。右手のみ。射出のタイミングは見切っている。素早く腰の後ろに手をやる。


「ダーツは好きか?」

 炎に包まれたナイフが左手から飛んでいく。回転する炎の刃に咄嗟にシェロブが狙いを変えた瞬間、飛び込んだ叉反の拳が仮面を殴り飛ばす。やはり見た目のわりに重量はないのか、呻き声を上げながらシェロブは壁から路地裏へ転がる。

「俺は苦手だ」

 シェロブが答える代わりにひと際大きい放電音がした。大蜘蛛の身体が縮み、人間大になっていく。蟲人態。へこんだ仮面を手で押さえながら、シェロブは荒い息をついている。


「どうする。糸が尽きるまでやるか」

「……な、なめるな。このむ、むむムシ虫むしが」

 仮面を押さえつける手が震えている。

「おおお前にここれ以上関わっている暇はない。次だ。次に会った時は必ず殺してやる……」

「勿体ぶるなよ。今やろうじゃないか」


「黙れェッ!!」

 放たれた大量の糸を右手で受け止める。炎が、粘糸を燃やしていく。その時、シェロブの影がビルの屋上へと昇っていくのが見えた。そのままどこかへと飛び去ってしまう。

 糸の残骸を払うと、途端に体から力が抜けた。思わず膝を突きかける。奴にはああ言ったものの、続けていたら危なかっただろう。炎を出すだけでこれだ。煙草を吸う気にもなれない。


 深呼吸し、立ち上がる。また厄介事に関わってしまった。モンストロを使った人間がいる。あいつ一人なのか、それとも……。

 調べる必要があるだろう。一度事務所に戻るか。……ああ、いや駄目だ。先にやる事があるのだった。

 最初の目的へと叉反は足を向ける。何の偶然か、ブルータスはすぐそこだ。曲がり角の先に木製の洒落た扉が見えてくる。ぼろぼろになったコートの埃を払う。さて、結局策などないが。


 扉の前に立つ。小さな曇りガラスの窓からは明かりが見えるが、それだけだ。ノブに手をかけ、そっと引く。備え付けのベルが来客を知らせた。

 誰も出てこなかった。ブルータスはマスターと数人のバイトで経営している店だ。少なくともマスターはいるだろう。小さな階段を下り、大テーブルがあるほうへ進む。

「すまないが――」


 言うのと同時に叉反は店内で初めて人影を見つけた。背を向けたマスターは大テーブルに向き合っていた。様子がおかしかった。テーブルの上に載っているものも変わっていた。料理でも飾りの花でもない。二つに結った長い金髪。ふさふさとした獣尾。すらりとした足は投げ出され、まるで眠っているかのような白磁の肌の少女。ついさっきまで被っていたハンチングは床に落ちている。服装は乱れていない。


 ぎょっとした顔でマスターが振り返る。血走った目が叉反を見ている。冷えた感情が体の芯を走る。

「やれやれ」

 嘆息しながら、右手を懐にやる。取り出したP9Rの銃口を素早くマスターへと向けた。

「犬を探しに来たんだがな」


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