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第一章 二〇二〇年 ナユタ 夏 (1)

      1


 朝四時に携帯が鳴った。起き抜けの頭が条件反射で覚醒した。

すぐに電話に出て、話を聞いた。それから十分ほどで支度をし、買い置きの缶コーヒーを飲み干し、山本やまもと銕郎てつろうは家を出た。こんな呼び出しは警官には珍しくもない。刑事になってからは、特に。

 現場は近い。新市街中央区の路地裏。駅前辺りはまともに見える中央区も、一本裏に入れば埃が積り、ゴミや汚物の異臭が漂う。朝日はまだ昇っておらず、暗いとも明るいとも言えない時間だ。だというのに、もうマスコミらしい車が何台かやって来ている。


 仕事熱心な事だ。山本は胸の中で舌打ちした。これで暑かったら最悪だった。真夏とはいえ朝はまだ過ごし易い。それが唯一の救いだなと思いながら、山本銕郎刑事は非常線をくぐった。

「おはようございます」

 山本が声を掛けると、少し先に立っていた年配の刑事が振り返った。

「おう。早かったじゃねえか」


 ナユタ市警の先輩に当たる刑事、坂東はそう言うと視線を前方へ戻した。

 目が、睨むように細められている。

「家が近いもんですから」

 言いながら、山本もまた坂東が見ているほうへと目をやる。

 ――一瞬、口が利けなかった。

 電話で殺しだとは聞いていた。だが、目の前の光景は、あまりにも異様だった。

 それなりに広い路地裏の中空に、巨大な蜘蛛の巣が掛かっていた。糸によって描かれたいくつかの円と、中心部から放射状に伸びるいくつもの糸、それらが細かく、ほぼ均等な間隔で組み合わさって、さながらタペストリーのような造形を成している。


「ジョロウグモだ」

 山本が近くに寄ると、巣を睨みつけたまま、坂東が言った。

「蜘蛛の種類だ。鑑識の一人に詳しいのがいて、そいつによればジョロウグモの巣だそうだ」

 ジョロウグモ――しかし、本物の蜘蛛ではない。その辺りにいるような蜘蛛が、こんな奇怪な真似をやってのけたのではない。


「フュージョナー、ですか」

「ああ。蜘蛛野郎だか蜘蛛女だか、とにかく体にジョロウグモが混じった奴の仕業だ」

 吐き捨てるように坂東は言った。坂東くらいの世代ではフュージョナーへの危機意識を捨てずにいる者が少なくない。当世では差別発言と取られかねないような言葉でも、平然と口に出してみせる。

「いくらフュージョナーとはいえ、こんな真似が簡単に出来るとは思えません」


「だがやれるとしたら、これだけの糸を造れる奴でなきゃいかん」

 山本の脳裏に自然とある話がよぎった。ここ一か月ばかり、ナユタの街で密かに話題に上がる、ある薬品の話。

「……例の噂、関係ありますかね」

「あれが実在するってんならな。もっともそんな事にでもなれば、化け物みてえな犯罪者が増えちまうよ。冗談じゃない」

 鑑識が蜘蛛の巣を見ながら、口々に何を言い合っている。


 巣から目が離せなかった。あまりにも奇怪で、非道とさえ謗られるようなそのやり口のせいで。

「蜘蛛の糸は見かけよりずいぶんと丈夫らしい。あれくらいの太さになると、チェーンソーくらい持ってこないと切れないかもしれんそうだ。おかげで……ホトケさんを降ろせねえ」

 淡々と、坂東が言った。口を動かしながらも、網目の一つ一つからでさえ手掛かりを読み取らんとするような真剣な眼差しはそのままだ。


 遺体は、巣の中心部にあった――冒涜的な姿で。

 全身には蜘蛛の糸が幾重にも巻き付けられている。ところどころから出血が見られ、糸は斑状に赤く染まっている。両手足はバツの字のように上方と下方、それぞれ大きく広げられていた。後ろに少し反った頭部にもまた糸が巻き付いていたが、大きく開いた口元だけは何もついていない。


 まるで、絶叫を上げたかのような様。その口元は死者が苦悶にのたうちながら殺された事を示していた。全身に巻き付いた糸は、明らかに遺体を締め上げるように巻かれており、何箇所かは骨まで砕いているだろう。ショック死か、窒息死か。詳しい死因については司法解剖を待つしかないが、一つ言えるとすれば、犯人の殺意は相当以上のものだった、という事。

「怨恨ですかね」


 予断は禁物だが、山本は言った。すぐさま、坂東の首が横に振られる。

「違うだろうな」

「何でそう言えるんです?」

 問いながら、山本の胸中にはある予感が生まれていた。

 殺しは、今月に入ってこれでもう三度目だ。そのうちに二件は、いくつかの共通点を抱えている。


 坂東は口では言わず、右手側の壁を指差した。

 すぐにわかった。薄汚れた壁に小さく何か書かれている。そう認識した時点で、予感は確信に変わっていた。山本は近付いてそれを読んだ。

 壁にあったのは、血文字だ。


《虚言を弄して富を奪う者、死の悲鳴を上げるべし――鉄仮面党》


「前の二件とは違う奴ですか……」

 血文字を凝視しながら、山本は呟いた。「ああ」と坂東が答える。

「蜘蛛なんざ今日まで影も形もなかったからな。党って事は何人かいるってこったろう。イカレた半人どもの寄り合いだ」

 半人はフュージョナーの蔑称である。咎められて然るべき言葉遣いだが、今はあえて聞き流す。この状況で無用な対立は御免だ。


「……磔刑か。処刑人気取りってわけだ」

 後方でマスコミが騒ぐ声が聞こえる。早晩、この一件は街中に広まるだろう。今はまだ隠せているが、前の二件についてもそのうち嗅ぎつけるかもしれない。ニュースは、新旧を問わず街中を駆け巡る。

 そこから予想される事態は、あまり良いものではない。ナユタという街の創設理念に背くもの。疑心。怯懦。自衛のために容赦なく湧き出る、敵意。


「カルトのフュージョナーどもの連続殺人……か」

 不穏な感情を隠そうともせず、坂東が言った。その目は刑事の目つきであり、獲物を見定め、追い詰めていく猟犬の目だ。

「楽しい夏になるな」

 とても同意出来ない。だが、追わなければならないのは確かだ。自分もまた猟犬の一匹なのだから。

 山本は友人の顔を思い出していた。警官とは違う目を持つ街の住人。表と裏を巧みに行き来する、蠍尾の探偵。


 ――厄介な事になる。おれも、あいつも。

 山本は蜘蛛の巣を睨む。今月で三人目の、殺人による被害者。これ以上の犯行は絶対に阻止しなくてはならない。

 巣の向こう側に、昇り始めた太陽が見える。

 陽光を受けた死のタペストリーが、鈍い金色に輝き始めた――……



      ※



 うだるような暑さと照りつける陽光の中にあっても、ストリートは活気を失っていなかった。

 むしろ逆だ。若者達は口々に暑い暑いと言いながらも、平然と通りを闊歩していく。この街で夏を迎えるのはこれで三度目になるが、繁華街の賑わいは年を追うごとに増しているように思える。考えてみれば当たり前の事だ。街は日に日に拡大を続け、人もまたこの街に移ってくる。新たな人間を受け入れて街はより活発化し、より複雑になっていく。

 ――関東最大の都市、ナユタ市。


 その新市街にある風戸区ウインドストリートを、尾賀叉反おがさそりは一人歩いていた。

 大勢の人が行き交う中で、叉反の周りだけは少し広い。

 人込みの中を歩くのはこの仕事の常だが、いつも他人以上に気を遣う。腰から生えた蠍の尾があるためだ。尾の先には針があり、それが不用意に他人に触れないよう、道を行く時は尻尾を丸めるようにして歩かなければならない。だいたいは、このように周囲の人間のほうが尻尾を気にして、自然と叉反と距離を置くものの、たまに意図せず尾が人にぶつかってしまって、トラブルになり掛けた事が何度かある。


 そういう場合、たとえ過失がなくても、たいていはこちらが不利だ。犬や猫の尻尾ならいざ知らず、毒虫の尻尾が触れて気分のいい人間はまずいない。相手は叉反を叱責する。そういう危険な物を何故見せびらかして歩くのか、と。

 尻尾のある人間の気持ちは、同じく尻尾を持つ者にしかわからない。風呂に入れば尻尾も洗う。毒針にも適切な配慮をしている。尻尾がぶつかって怪我をした人間もいない。だが、煩わしい罵りは止まない。住人の大半がフュージョナーであるナユタでさえ、尻尾周りのトラブルは起こりうる。


 おかげで、仕事でもなければこんな人込みに来る事はない。

 白い壁が眩しいカフェを見つけ、叉反は足をそちらに向ける。ストリートの真ん中に設置されたベンチでは若者が談笑し、ビジネスマンがひと休みしている。誰も叉反には目もくれない。

 カフェの入り口はストリートから小さな階段を下りたところにあった。

店外にパラソル付きのテーブル席が三つ設けられている。店の中には入らず、叉反は一番奥のテーブルまで進み、椅子を引いた。


 尻尾付きの人間でも楽に座れる、背もたれのない丸椅子だ。

 すでにテーブルには先客がいた。男性。四十過ぎくらい。浅黒い肌。大柄の体にアロハシャツ、鋭角なデザインのサングラス、麦わら帽子を被り、イチゴのシロップがたっぷり掛かったかき氷のラージサイズを食べている。

「人を待ってるんだがな」

 氷を咀嚼しながら、男が言った。


「俺も待っている」

 言いながら、叉反は灰皿を引き寄せ、ハイライトのケースから一本取り出すと、男に銘柄が見えるようにケースを置いた。

 店員がやって来た。火をつける前に言った。


「キリマンジャロとチョコレートパフェを」

「かしこまりました。コーヒーから先にお持ちしてよろしいですか?」

「いや、すまないが二つとも一緒に持ってきてくれ。時間はかかって構わないから」

「かしこまりました。二つともご一緒に、ですね」

「頼むよ」


 店員がテーブルから去ると、男が向き直った。上目遣いに、こちらを値踏みするように見ている。その口が動いた。

「なるほど。あんたが社長の代理人か」

「そうだ」

 叉反は答えて、煙草に火をつける。

 全て符丁だ。席に着く前のやり取り、持ってきた煙草の銘柄、注文の仕方まで。フュージョナーが多いこの街でも蠍の尾を生やした人間はそうは見ないが、互いに相手がわかるように、念のために講じた手立てだった。


高山喜一たかやまよしかずさん、で間違いないな?」

「そういうあんたが探偵の尾賀叉反か?」

 叉反は頷いた。

「俺も一本もらおう」

 叉反が返答するより早く、高山はハイライトを一本抜き取ると、ケースを投げて返した。


 下調べはしたし、電話で一度話もしたが、実際に会ってみて確信する。予想通りの、どこにでもいる不良中年だ。

――高山喜一。格安航空会社ライアンエアの元パイロット。見てくれからは想像もつかないが、小型機と中型輸送機の操縦免許を持つ。ライアンエアでは主に輸送を担当していたが、ひと月前に素行不良で解雇処分にされている。

 前々から社長との折り合いが悪かった高山は、会社を辞める際、意趣返しとして社長室からある物を持ち出した。誰にも知られていない社長の隠れた趣味を収めた、プライベートスナップ三十枚を。


他人の弱みを握った人間が取る行動は、大別して二つ。

――全てを自分の胸に収めて何事もなかったかのように振る舞うか。

――あるいは弱みを徹底的に利用して、相手からさらに奪い取るか。

高山がどちらのタイプであるかは、言うまでもない。

「前置きはいらねえ。本題に入ろうじゃねえか」


 見てくれはごついが安っぽくも見える金のライターで火をつけ、高山は煙を吐き出した。

「で、社長はちゃんと言った通り用意したんだろうな? 現金で一千万をよ」

「いいや」

 即座に叉反は言った。高山の目に剣呑な光が見えた。

「ああ?」


「西ヶ谷社長は今回の取引に応じないそうだ。だが事は穏便に済ませたい。素直に例の写真を返却するなら、今回の脅迫については通報しない、と」

「おいおい、何か勘違いしてんじゃねえか」

 苛立たしげに煙草を吹かし、高山は半笑いで言った。

「モノを握ってんのはこっちだぜ? そっちが選べる立場かよ。いいか、金さえ払えば写真は返してやるって言ってんだ。でなきゃ、どうなるかはわかるよな。あんな写真がばら撒かれたら、あのおっさんは今後まともに外を歩けなくなっちまうぜ」


 叉反は無表情で相手を見返した。実際、言うべき事は限られている。

「こちらももう一度言おう。社長は取引に応じない。今なら穏便に済ませられる。写真を返却して終わりにしろ。それなら、あんたの今回の脅迫は警察には知られない」

「は、何が警察だ」

 高山の声が大きくなった。


「あんな変態野郎に何が出来る。あいつが出さねえってんなら他のとこに持ってったっていいんだ。週刊誌でもどこにでもな。写真が世に出たら終わるのはあいつだ。一千万で今後の人生が買えるなら安いもんだろうが」

 叉反は黙って一服した。

「あんたの事を調べさせてもらったよ、高山さん」

 灰を落として、叉反は言った。


 それが可笑しかったのか、高山は鼻で笑う。

「ふん、何を調べるってんだ。電話番号か、SNSのアカウントか? それとも女の趣味か?」

「ずいぶん儲けてるみたいじゃないか。副業のインターネットビジネスで」

 途端に、高山の顔から笑いが消えた。

 叉反は懐からスマートフォンを取り出し、画像を表示して高山に見せる。隠語と暗号によってブツの値段と量を示した、高山と客とのメールを。


「今月は頭だけで三十万の売り上げだな。グループ相手の取引だと実入りも大きいだろう。グロワーへの草代はともかく、基本的にはあんたの個人経営だから上前もはねられない」

 草――大麻の隠語だ。

 高山の煙草の灰が長くなりつつあった。携帯を仕舞い、続ける。


「会社の輸送機で運輸をやる傍ら、契約した各地の〝農場〟から草を仕入れてナユタまで持ち帰る。個人経営も大変だ。ほとんどの事は自分でやらなくちゃならない。人任せにも出来ないしな。昼はパイロットで、夜は草の販売員。日によっては寝る暇もなかっただろう」

 高山がさっきまで口に運んでいたかき氷が、水になり始めている。カップを持つ手が小刻みに震えている。

「さっきも言った通り、社長は穏便に話を済ませたがっている。あんたが何も言わずに写真を返すなら、この件はそれで終わる」


「……脅そうって言うのか。今度は俺を」

「まさか」

 叉反は銜え煙草のまま笑って答える。

「お前と一緒にするな。副業については警察に伝えてある。まもなく迎えが来るだろうさ」

 直後、唸り声とともに飛んできたかき氷のカップを叉反は片手で払った。次いで投げつけられた椅子を受け止める。高山は案外素早かった。テーブルを蹴り倒し、植え込みを踏み散らかし、あっという間に壁をよじ登って、ストリートに出る。


「トビ!」

 上方に向かって叉反は叫んだ。すかさず植え込みの縁を踏み切りに、跳ねるように壁を蹴って登り、ストリートへと降り立つ。

「ふん。出番だな」

 店のすぐ近くのベンチに座っていた癖っ毛の若者が、そんな事を呟きながら立ち上がった。その時には高山が道を猛進している。

「おい、おっさん。残念だが大人しく――」


「どけ、この野郎!」

 余裕ぶって道を遮った若者を、高山が容赦なく殴り飛ばす。どこかから悲鳴が上がった。若者を押しのけ、高山は人込みの中を突き進んでいく。

「く、この――っ!」

 間を置かず立ち上がった若者が高山のアロハシャツの襟首を掴んだ。荒々しく振るわれる高山の拳を寸でで躱し、右腕でその体に組み付く。だが、腕力は向こうのほうが上だ。あっさり振り払われ、再度拳が飛んだ。


「邪魔なんだよ、この鳥野郎が!」

 顔面に拳を受けた若者は、しかし今度は倒れなかった。くるりと回転しざま、お返しとばかりに右腕を振り、裏拳を高山の顔にヒットさせる。鳶のアシユビの硬い節が高山を怯ませるが、倒すには至らない。すかさず反撃のための腕が振り上がり、次の瞬間腕を捻り上げられた高山は、苦悶の声を上げた。

「終わりだ。高山さん」


 掴んだ高山の腕をさらに捻り上げ、叉反は言った。

 呻き続けていた高山は、やがて諦めたのか、ふっと力を抜いて跪いた。

 拘束用のゴムバンドで高山の手を括る。裏稼業も今日限りだ。営利目的での大麻所持および譲渡は七年以下の懲役とされる。そう簡単には出てこられないだろう。

 意気消沈しているであろう高山の顔は、しかしどこか冷静だった。


 妙には思ったが、今日の〝取引〟も含めて、高山の件は前もって知り合いの刑事に伝えてある。じきにパトカーがやって来るだろう。あとは向こうに任せればいい。

「油断し過ぎだ、トビ」

 叉反は苦い口調で言った。

 鳶手の若者――トビは顔しかめながら答える。


「反省してるよ。たく、中年のおっさんだって言うから」

「やり遂げるまで油断はするな。怪我するだけじゃない、対象を逃すかもしれないんだ」

 相手の弛緩した空気を感じ取って、思わず言葉に険が混じる。

「……悪かった。身に染みたよ、所長」

 殴られた箇所を押さえながら、トビは気まずそうに目を伏せた。


 やれやれ……。先が思いやられる新人だ。そう思いながら、叉反はしかし、かつての記憶を思い出す。昔、自分がまだ見習いだった頃。自分の実力を高く見積もったせいで犯した、みっともない失敗を。

 ――指導はする。失敗を繰り返させないために。だが根気よく、だ。お互いのために。

「トビ、頼みがある。さっきのカフェに行ってきてくれ」

「後片付けでもして来いって?」


 こちらの顔は見ないようにしながら、トビが沈んだ声で答える。

「それもあるが、もう一つ」

 叉反は腕時計を見る。時間的には、そろそろだろう。

「パフェを貰ってきてくれ。キリマンジャロも一緒に」

 トビは何とも言えない顔で叉反を見返した。




 ウインドストリートで目的の写真を取り返し、警察で事情を説明してから、ライアンエアのビルへと向かった。依頼人である社長の西ヶ谷に写真を渡し、奪われた全てのプライベートスナップが揃っているかどうかを確かめてもらう。

 意外な事に高山は写真を全て持って来ていた。似たような脅迫の事例では、たいていの場合、奪った物を小出しに返す事で、長期間に渡り金銭をせしめるというのが脅迫する側の手口だ。高山はそうする気がなかったのだろうか。

「辞める前の話ですが、高山はひどく金に困っていたようです。今回の脅迫がもしうまくいっていたら、案外、どこかに高飛びでもするつもりだったのかもしれません」


 と、人には言えない趣味を持つ西ヶ谷社長は、思い出したように言った。

 それから、これまでの経費と報酬について再度確認し、ネットを通して送金してもらい依頼は完了。

「わかっているとは思いますが、写真については……」

 ライアンエアを辞する際、西ヶ谷社長は念を押すように言った。

「もちろんです。こちらの信用問題にも関わる事ですから、どうかご心配なさらず」


 叉反がそう言ったにも関わらず、西ヶ谷社長はその後二度も念を押した。叉反は淡々と答え、社長が三度目を言い出さないうちに、トビとともに会社を出た。


 

 あとは報告書に今回の案件をまとめなければならない。新たに依頼が入らない限り、今日の仕事はデスクワークになりそうだ。

「トビ、コーヒーを淹れてくれ」

 旧市街にある事務所に戻り、叉反は上着を掛けると事務机に着く。了解、とトビは答え、そのまま奥の給湯室に向かう。

 パソコンを立ち上げ、ついでにテレビをつけた。ひとまず休憩だ。簡単にメールをチェックし、チャンネルを回して、ニュースをやっている番組を探す。ワイドショーで止める。しばらく眺めてみる。いくつかの全く知らないニュースと、見出しだけは見たが詳しい内容は知らないニュース。


 気になったものから順にインターネットの検索にかける。今日の午後、他県の保育施設で起きた集団食中毒。二か月前に起きた、普通人の会社員によるフュージョナーの男性アルバイトへの差別的な暴行事件の初公判。五日前に隣国で起きた化学薬品研究所の火災事故。それから、一週間後に新市街螺合(らごう)区で行われる、内戦終結と新時代到来を語るという趣旨のセレモニーの予告。


 いわゆる事件だけでなく、芸能やスポーツ、流行などは知っておけば役に立つ。テレビとネットの両方を見ておくのは情報の確度を上げるためだ。

「何だ、仕事してるのかと思ったらテレビ見てネットサーフィンかよ」

 コーヒーの入ったマグカップを置きながら、トビがぼやいた。


 五月の終わりに雇った頃にはさすがに口調も硬かったが、いくつか一緒に事件を手掛けた事と、連携の取りやすさを考慮するうち砕けた会話も珍しくはなくなった。無理して硬く振る舞っているより軽い調子で話すほうが、トビもやりやすいようだった。

「SNSの呟きが手掛かりになる事もあるんだよ。ありがとう」

 マグカップを軽く掲げて、中身を一口飲む。……悪くない。


「SNSぅ? 所長、あんたも呟くのか」

「気が向いた時は夕飯の写真もアップする。盛りつけがうまくいった時とかな」

 軽口を叩きながら、叉反はパソコンをスリープにして立ち上がる。

「三十分休憩だ。そのあとで報告書の作成」

「りょーかい」


 右手で持ったカップのコーヒーを啜り、トビはテレビへと目を向ける。叉反は煙草を手に取った。依頼人の応接室にもなる事務所では煙草は喫わない。嫌煙の依頼人はもとより、体質上嗅覚が鋭い人間が来る事だってある。一応、灰皿の用意はあるがこれは客人用だ。叉反の主な喫煙所は事務所の上にある自宅のベランダか、事務所ビルの階を行き来するために外壁に設置された錆びついた階段である。

 午後になって日差しはきつくなっている。階段は隣のビルの陰に隠れているから多少はましだが、それでも暑いのに変わりはない。


 出入り口のドアへ一歩足を向けた時、窓の外で車が止まる気配がした。続いて、車のドアが開く音。

 下したブラインドを少しだけ開けて外を見る。スーツ姿の強面が二人に、黒塗りのセダンが二台。古びた旧市街には似つかわしくない高級車。それがこの事務所ビルの前に止まっている。

「トビ」

 声をかけた時には、トビはすでに警戒態勢に入っていた。数人が外壁沿いの階段を上って来る。足音こそ静かにしているが、物々しい気配。


 行儀よくドアが開いた。

だが、入って来た連中の人相は穏やかではない。

 基本的に、全員が仕立ての良いスーツ姿の男性だ。皆若い。二十代から三十代手前といったところだろう。そして、全員がフュージョナーだ。鼠の尾が生えた者、二の腕からサイの角らしきものが生えた者、ジャガーの毛皮が半身を覆って、上半身は裸の者。しいて険しい表情を作っているわけでもないだろうに、若者達の目つきは皆鋭く、誰をとってもすぐにその筋の者とわかるような面構えだった。


 男の一人がドアマンをやり、残りの連中が三人ずつ左右に分かれて道を作った。全員が背筋を伸ばし、手を後ろに組んでいる。ドアマンを含め、七人。

 靴音を響かせて、一人の男が階段を上って来た。

 四十近い、整った顔の男だ。黒髪を短めにカットし、眼光は若者達よりも冷たく、この手の組織の幹部らしい上等そうな白のスーツ、黒いワイシャツを身に着けている。上着のボタンは全て開け、ノータイ。身長は叉反と同じくらいで、服の上からでも発達した筋骨がよくわかる。


「やめろ、お前ら。大袈裟だ」

 顔色も変えず、男はそう言った。部下らしい若者達は姿勢を崩そうとはしない。苦笑いして、男は事務所の中へと入る。

「プライベートの用事だっていうのにこれだ。全く、堅苦しくて敵わんよ」

「何の用だ、天霧あまぎり


 叉反は言った。知らない相手ではない。かといって、歓迎する義理は全くない。

 組員達が一斉に叉反を睨みつける。ここで暴れられるのは勘弁だ。営業に差し支える。

「おいおい、せめて煙草の一本でも喫わせろよ。せっかく暑い中やって来たんだ。そう無下に扱われちゃこっちも困る」

 言いながら、天霧は胸ポケットからゴロワーズを取り出し、一本銜える。すかさず組員の一人が火を差し出した。

「そこで喫うな。灰が落ちる」


「じゃあ灰皿をくれ。それに、座っていいだろ?」

「……」

 叉反は黙って灰皿を取り、応接テーブルの客席側へ置いた。

 天霧はにっと笑って灰皿の前の席に腰掛けた。ドアマンがドアを閉め、男達が少しも乱れずにその後ろに並ぶ。自然、天霧側の威圧感が増した。


「どうも。あとコーヒーもらえるか」

「うちは喫茶店じゃない」

「そう言うなよ。近頃じゃヤクザも熱中症に気をつけなくちゃいけないんだ。体が資本でね。動けなくなると色々困る」

「コーヒーで熱中症は防げない」

 天霧は答えず、うまそうに煙草を燻らせている。ゴロワーズ独特の強い匂いが香る。


 仕方なく、叉反は助手に言った。

「トビ、すまないが一杯淹れてきてくれ。……とびっきり濃いめで、だ」

 出涸らしでいい、という言葉を叉反は何とか飲み込んだ。

「……りょーかい」

 硬い表情のまま返事をして、トビは給湯室へと戻った。


 テレビを消し、自分のカップを持って天霧の対面に座る。ハイライトを一本取り出して銜える。こいつらが帰ったら換気に消臭だ。余計な手間を増やしてくれる。

天霧がライターを取り出したが、構わず叉反は自分で火をつけた。気にした様子もなく、天霧は煙を吐き出して笑う。


――天霧久我くが

ナユタ最大のフュージョナー系組織、崔樹さいき組の幹部。かの内戦の混乱期に生まれた崔樹組では異例の、普通人の幹部だ。以前調べた時には、役目柄ナユタにいる事はほとんどないと聞いた。だというのに、直接会うのはこれでもう三度目となる。ヤクザの幹部と親しくなりたいとは決して思わないが。

「新入りか」


 灰を叩き落とし、天霧が言った。

「お前に部下がいるのは初めてだな」

「助手だ。まだ見習いだが」

「なるほど。ゆくゆくはここのナンバーツーか、はたまたどこぞで消えてしまうか……」

「用件を言え。茶飲み話に付き合う気はない」


「お前は変わらないな。この街に来た時からそうだ。気に食わない人間には決して尻尾を振らない。そうする事が決して自分のためにはならないとしてもだ」

 短くなった煙草を、天霧は灰皿に押し付ける。口元に笑みをたたえたまま。

「そこが気に入らない。素直に恐れ入ってくれれば悪いようにはしないのにな。いらん意地を張らないでもらいたい」

「何の用かと思えばくだを巻きに来たのか」


 灰皿をテーブルの真ん中まで引き、叉反は灰を落とす。

「ヤクザってのはずいぶん暇なんだな」

「日がな一日ぶらぶらしてる奴が多いのは認めるよ。『どうしたらいいかわからない』ってさ。真剣に生き残ろうとしない奴は、この世界じゃ野垂れ死に以下の死に方をする。現状に甘んじているようじゃ駄目さ。ヤクザは自分で稼がないとな」


「だったら行け。出口は後ろだ」

「言っただろう、プライベートな用件だ。今日は組の用事じゃない。俺個人の依頼をしに来たんだよ」

「依頼だと?」

 ちょうどその時、給湯室からトビがコーヒーカップをトレイに載せて運んできた。天霧の前に、左手でカップを置く。

「どうぞ」


 緊張しながらトビが言った。

 悠然とした仕草でカップを取り上げ、天霧は一口飲む。途端にその片方の眉が吊り上がった。

「おい。若いの」

 低く唸るように、天霧が言った。トビの顔が青くなる。

「は、はい!」


「……意外とうまいじゃないか。ここをクビになったら、うちが仕切ってる喫茶店で雇ってやるよ」

 天霧がにやりと笑う。はあ、とトビはぎこちなく笑顔を作った。

「下らない事を抜かすな。話を続けろ」

「ユーモアだよ、探偵。かりかりするな」

 息をついて、天霧はカップをソーサーの上に置いた。足を組み直し、口を開く。


「探してほしい奴がいる。俺の大事な家族だ」

「家族?」

「血は繋がっていないが可愛げのある奴でね。独り身の俺にとってはそう、もはや唯一の家族といっても差し支えない」

「誰であれ、何で俺達が探さなきゃならない。自分のところの兵隊を使えばいいだろう」

「兵隊には兵隊の仕事がある。探偵の真似事をさせるわけにはいかない」


 言いながら、天霧は懐から何かを取り出して、テーブルの上に置く。一葉の写真。

「こいつが俺の家族だ」

 裏向きに置かれたそれを叉反は取り上げる。トビも顔を寄せ、写真に写っている者を見た。

 叉反は軽く眉根を寄せた。トビが訝しげに呟いた。

「……犬?」


 写真に写っていたのは一頭の犬だ。若くて元気そうな犬が座っている。立派な体格のゴールデンレトリバー。黄金色の毛並みはすっかり整えられていたが、唯一、茶色の首輪だけはところどころ剥げていたり、全体的に色褪せていた。

「そうだ。名前はツクモ。一年前から一緒に暮らしていてな。知らない奴にはまずついて行かない。そいつが昨日姿を消した」

 言って、天霧は新たに銜えたゴロワーズに火をつける。


「庭で放し飼いにしていたんだが、夜、仕事から帰ると首輪だけが落ちていた。他には何もない。ツクモが抵抗したんならそれらしい痕跡が残ってそうなもんだが、庭は綺麗なままだった。カメラに不審者の姿はなく、家のセキュリティを破られた形跡もない。完全に、忽然と姿を消した」

「神隠しだとでも言うのか」

「攫われたんだよ。おそらくな」


 面白くもなさそうに天霧は煙草を吹かす。

「どんな手口かは知らんし、証拠もないがね。それ以外に考えられん。俺も敵は多い身だ」

 紫煙を吐いて、天霧はソファの背もたれにもたれかかった。

 ペット探しというのは多くの探偵が受け得る依頼の一つだ。現に叉反もここ数か月の間で手掛けた案件のうち、四割はペット探しだった。だが、この一件は話が違う。


「なら警察に行け。いくら被害者がヤクザでも窃盗事件なら動いてくれるだろう」

「当てにならん。これでも警官連中とはうまくやっているつもりだが、あいつらが俺の飼い犬に本気なってくれるとは思わない。そうでなくても、今は例のセレモニーの件で掛かり切りのようだしな。後回しにされるのは目に見えている」

「では自分で探せ」

「そうしたいのは山々だが、生憎とこういう場合の対処などわからんよ。それに、あまり言いたくはないが、ここしばらくはスケジュールをがっちり押さえられていてね。身動きが取れない俺としては、是非とも専門家に捜索を依頼したい」


 すっかり冷めたコーヒーを飲み、短くなったほうの煙草を灰皿に押し付けると、叉反は新たに一本銜え、火をつける。

「俺はヤクザからの仕事は受けない」

 にべもない叉反に、天霧は鼻を鳴らして答える。

「二年前の事をまだ根に持っているのか。あんなものは挨拶だろう。初めての街で商売するんなら、それなりの通過儀礼は必要さ」


「関係ない。ヤクザと仲良くしていたらそれこそ商売が立ち行かない」

「……やれやれ。こんな事なら、あの時もう少し追い込んでおくんだったな」

 銜え煙草のまま、天霧は立ち上がった。

「写真は置いていく。その気になったら連絡をくれ。しばらくはナユタにいるからな。《ベラドンナ》にでも伝言を残してくれればいい」


 ベラドンナは旧市街の地下にあるバーだ。一般客はあまり寄り付かず、ナユタの裏社会に生きる者達の中立地帯と呼ばれている。

 上目遣いに叉反は天霧を睨む。

「期待されても、俺は受けない」

 天霧は目を閉じて叉反の返答を聞いていた。黒煙草のきつい匂いが紫煙とともに叉反のほうへと漂ってくる。


「ではツクモは死ぬ。無残にな」

 それまで多少なりとも柔和だった雰囲気が消え、冷たい双眸が叉反を見ていた。

「そういうものだ。あいつは死に、バラバラにされるか、良くて骨になって帰って来る。宅急便で届くか、ベッドの上にぶち撒けられるか、まあそんなところだろう」

「同情を買おうとしているなら無駄だ」


「お前はこの俺がそんな事をするように見えるのか」

「家族だというくらいなら、少しは自分で努力したらどうだ」

「ごもっともかもしれないが、他の客もそうやってあしらうのか? ここの事務所は」

 こちらを見つめる二つの目を睨み返す。天霧が無言で見下ろしている。

 沈黙が事務所の中に下りた。


天霧は息を吐いた。時間にすれば三十秒にも満たなかっただろう。灰皿に煙草の先を押し付けると、天霧はドアのほうへと踵を返した。部下の一人がドアを開ける。

「探偵」

 背を向けたまま、天霧が言った。

「ツクモは捨て犬だった。最初に見つけた時にはひどく痩せていて、弱っていた。仕方なく病院に入れてやって、新しい飼い主も探したが……結局、俺が引き取った」


 少し間を空けて、天霧は続ける。

「成り行きで出来た家族だが、それでもあいつが死ぬところを見たくはない。勝手を言うようだが、どうか頼む」

 叉反は答えなかった。言い終えると、天霧は黙って事務所を出て行った。組員達がそれに続く。ドアが閉められ、階段を下りる足音が響き、やがて二台分のエンジンがかかり、車が去っていった。

 テーブルの上には写真が置かれている。若く、健康そうなゴールデンレトリバー。写真からはかつての衰弱など微塵も伺わせない。


「……どうするんだ、所長?」

 おずおずとトビが言った。答えずじっと写真を見つめる。

 失踪自体が作り話だという可能性もなくはないが、まず除外していいだろう。天霧が本気になれば、叉反に仕事をさせる手段などいくらでもある。たとえそれがどんな汚い仕事でも、強制させようと思えば出来るだろう。わざわざ話をでっち上げてまで依頼する必要はない。


 では、天霧は本当に自分からは動かないつもりなのか。奴が今取れる手段は、叉反に依頼する事だけなのか。

 不審な点はいくつもある。ただの犬探しでない事は間違いない。

 一つ言えるのは、このまま放置すれば写真の犬の命は終わるだろう、という事。

「……トビ、留守番を頼む」

 灰だけが長くなった煙草の火を消し、コート掛けにあった薄手の夏用コートを手に取り、身に着ける。写真を手帳に挟み、懐に仕舞う。


 トビが、幾分か思案気に言った。

「引き受けるのか? そりゃ犬の事は心配だけど……ヤーさんの頼み事だぜ?」

「少し調べるだけだ。別に金を受け取ったわけでもないしな。おかしな事がわかった段階で警察に連絡する」

 若い助手が眉根を寄せる。

「……わかってるとは思うけど絶対に裏があるだろ、この話」


「天霧の使い走りになるつもりはない」

「なら、何で」

「犬に罪はない」

 必要な物を手早く揃え、引き出しから銃の入ったホルスターを取り出し、装着する。あまり持ち歩きたくはないが、二か月前に巻き込まれた菊月での事件以降、いつ何があるかわからない。銃を持っておくに越したことはなかった。


 時計を確認する。午後二時五十一分。

「六時になっても戻らなければ退社していい。あとは頼む」

 叉反は足早に事務所を出た。まるで亜熱帯の熱気の中に飛び込んだかのようだった。階段を下り、車庫のシャッターの鍵を開け、持ち上げる。黒いボディのミニバンが顔を出す。

 ――少し調べるだけだ。ひとまずは。


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