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序章 二〇〇四年 冬

明日には来たるべきそれら事々(くさぐさ)は、神々にさえ予知されることがない。


                     ――荒俣宏訳「黎明を創る」

                      (ロード・ダンセイニ『ペガーナの神々』)





 クリスマス前だったが、雪はすでに街を覆い尽くしていた。

 異常気象、なのだという。関東では珍しく雪はもう何日も降り続けている。深夜のこの時刻になってさえまだ。まるで世界が凍り付くのではないかと思えるほど。

目に映る景色は何もかもが白に染まっていた。銃火によって焼き尽くされたアスファルト、爆撃で吹き飛ばされた民家、ひっくり返ったままの改造車、ほとんどの肉を抉られた犬の腐乱死体、倒壊したビル群、内戦の傷跡何もかも全て。


 傷跡? いや、違う。これは生傷だ。内戦はまだ終わってはいない。東京崩壊から十一年が経過した今でも、人々は争いを続けている。

 底冷えする夜だった。彼女は深く積もった雪を踏む。手袋をし、厚く衣服を着ていても冷気は容赦なく侵入してくる。外套の上にさらに毛布を纏ってきたが、全身を覆い隠す事は出来なかった。人が見れば、毛布からはみ出た尾の先に気付くだろう。


 フュージョナー。それが世間一般でいう彼女の〝人種〟だ。体のどこかに、他の生物の部位を持つ人間。生まれながらに、この体には犬の耳と尻尾が存在していた。

彼女が生まれた時、母は悲鳴を上げたという。フュージョナーという言葉が人種ではなく、〝怪物〟というニュアンスで使われていた頃の話だ。それでも、生まれた一人娘を母は育ててくれた。良家の跡取りという母自身の世間体を保つために。


 高級旅館を経営していたおかげで経済的に困る事はなかったが、自分を見る母の目に温かみを感じた事は一度もない。父親は母よりはまだ親身に面倒を見てくれたが、それでも一歩引いているような感覚は否めなかった。

結局、彼女は生家を飛び出した。一九九五年。十五歳の時。東京崩壊の二年後の事だった。

 腕の中で、衣類にくるまれた赤ん坊がわずかに身動ぎする。五か月前に生まれた彼女の娘は、気持ち良さそうに眠っている。出来る限り暖かくはしたが、こんな寒い中をいつまでも連れては歩けない。


 赤ん坊の耳が震える。白金の毛髪の間から生えた、灰毛の狼のような二つの耳が。

 彼女の子もまた、獣の耳と尻尾を持って生まれた。犬か狼の物のようだが、正確な種類はわからない。両親のどちらかがフュージョナーであっても、その子供が同じ動物の遺伝子を持って生まれてくるとは限らないと、医者が言っていた。

 娘は他にも、親の彼女とは違う部分を持っていた。髪と、目の色だ。娘の髪はプラチナブロンドで、瞳はグリーンだった。


 娘が彼女と夫の子供である事は彼女自身が一番よく知っているが、それでも最初は戸惑った。夫も彼女も黒髪で、瞳はそれぞれ茶と黒だ。自分達とはあまりに違う。

 夫は、彼女の不義を疑ったりはしなかった。生まれてきた娘を愛おしそうに見つめていた。獣の耳も尾も、異国人のような髪も瞳にも、怯む素振りさえ見せなかった。

 世界規模の遺伝子変異が起きている。彼女のお産に立ち会った医者はそんな事を言った。難しい事はよくわからないが、医者の言った言葉は印象に残っている。『種としての変革の時代が訪れたのだ』と。


 冷たい空気が肺に染み込む。雪が止む気配はない。風がないのがせめてもの救いだ。周囲の民家や店はどこも暗く、またどの建物も壁や窓ガラスが破壊されているのが見て取れた。割れた窓ガラスは段ボールで塞いであったりするから、中にはまだ人がいるかもしれない。少なくとも、今、こんな雪の中を歩いているのは彼女くらいのものだった。

 逃げなければならなかった。自分と娘の命を守るために。

 突然、遠くのほうで突き抜けるような轟音が響く。思わず振り返れば、灰色の空が赤々と照らされ、太い黒煙が立ち上っていた。


 二度目の轟音。今度は爆炎がはっきりと見えた。

 ――武装勢力同士の激突だ。治安維持軍崩れが組織した自警団と、弾圧に抗い、戦乱を血みどろになりながら戦ってきたフュージョナー系ヤクザとの。

 内戦はまだ終わってはいない。

 彼女は歩を早める。急がなければ。後方の戦火が、いつこちらにまで飛び火してくるかわからない。

 車道を慎重に進み、半ばからへし折られた信号機が深雪に埋もれる交差点を抜け、先に続く緩やかな坂道を登っていく。


 坂の途中の曲がり角へと入ると、そこからは居住区だ。そこまで行けば、目指す場所はもうすぐだった。

 前方から、唸るような音が聞こえる。エンジン音だ。猛然とこちらのほうへ近付いて来ている。咄嗟に彼女は雪道を駆けた。陰に入らなければ。嫌な予感が胸中にもたげる。今は誰にも姿を見られたくない。雪に足を取られる。赤子に衝撃を与えぬように堪えながら膝を突き、痛みを振り払いながら這うように進む。曲がり角に明かりはない。何とか住宅の陰に身を隠すと、ほとんどそのすぐあとから、車道を何台かのトラックが走り抜けていった。ガチャガチャとチェーンを震わせ、雪道なのも構わず飛ばしていく。


 おおよその見当はつく。戦いに参加する者達。今この時、そんなスピードで走らなければならない連中は他にはいない。

 娘が起きてしまうかもと思ったが、寝顔に変わりはなかった。愛おしい娘。髪色と相まってまるで西洋の天使のようだ。事実、彼女と彼女の夫にとって、この一人娘は天使だった。不安に押し潰されそうな生活の中に差し込んだ光だった。

 その娘をしっかりと抱きかかえ、彼女は立ち上がる。

 この先だ。そこまで行けば逃げ切れる。



 内戦の最中にあっても、この辺りは比較的被害が少なかった地域だ。路面は抉られておらず、壁は破壊されていない。代わりにどの家も厳重に戸締りしてある。住人は皆、区内に留まっていると聞く。区外の出来事には関わらない、というのがこの辺りの住人のスタンスだ。助けを求める声にさえ無反応だろう。

 目的地は通りを抜けた先にあった。

 雪の中に、古びた教会がひっそりと佇んでいる。小さな教会だ。雨戸を閉め、明かりを一切外に漏らしていないが、中に人がいるのはわかっている。


 すでに体は凍えている。震える拳で、教会のドアをノックする。

 少しの間があって、鍵の開く音がした。中から、祭服(カソック)を着た男が一人、顔を覗かせた。辺りを素早く見回し、男は無言のまま、彼女を引っ張るように教会へと入れた。

 暖炉には火が灯り、中は暖気で満たされていた。凍りついていた血が再び熱を取り戻し始める。火のそばの長椅子に腰掛け、ようやく彼女は安堵した。


 男が鍵を掛け、毛布を持ってこちらへとやって来た。

「これを身に着けて温まってください。もっと火のそばに寄って。さあ」

「ありがとうございます。神父様」

「今はそんな事はいいんです。さあ、早く」

 五十代に近い外国人の神父は厳めしい顔で彼女に言った。彼女は言われた通りにした。身に着けていた自前の毛布を取り、新しい毛布で自分と赤子を包んで、火のそばへ寄る。


 奥のほうへと引っ込んだ神父は、すぐに湯気の立つマグカップを片手に戻ってきた。差し出されたカップの中には、野菜のスープが入っている。

「それを飲んでゆっくり休んでください。おかわりもありますから」

 そう言って、ようやく神父は微笑んだ。その笑みに、彼女も緊張がほぐれるのがわかった。

「ありがとう」

「いえ。無事でよかった。よく頑張りましたね」


 頷き、彼女はスープに口をつけた。ろくに物も食べずに家を出ただけに、温かいスープは凍えた彼女を満たしてくれた。あっという間に一杯を飲み干すと、すかさず神父が二杯目を注いで来てくれた。

 長椅子の上に新たに毛布を敷き、神父は赤ん坊をそこへ寝かせるように言った。娘をそっと毛布の上に降ろすと、神父が厚手の布を掛けてくれた。

「地下室に寝床を用意してあります。今、部屋を暖めていますから、もう少しだけ待ってください」


「何から何まで、本当にすみません」

「……いえ、人間として当然の行いですよ。理屈などありません。助けなければ」

 神父は少しだけ顔を俯け、それから言った。

「――彼は?」

 神父の言葉は、彼女の胸中に錘を落とした。わだかまり続ける暗い気持ちを。

「……昼前に、先に家を出ました。私は携帯を持っていないですし、ついさっき駅のほうで戦闘が始まりましたから、たぶん、しばらくの間連絡は来ないでしょう」


 彼女の夫――正確には、まだ結婚はしていない――獣の遺伝子が発現した娘の実の父親。その彼は今、街のどこかで銃を手に戦っている。組織での、彼の最後の仕事だ。戦いさえ終われば、彼は自由の身となる。

 雨戸がガタガタと鳴った。風が出てきたようだ。

「聞いているかもしれませんが、明日の朝に、あなたと娘さんには街を出てもらいます。十時に、教区へ物資を運んでくれるトラックが来ますから、それに乗ってください。運転手が安全なルートで千葉の施設まで運んでくれます。この手の任務を何度もこなしている男ですから、心配なさらずに。向こうに着いたら、施設長にこれを渡してください」


 そう言って、神父は上等そうな紙で出来た封筒を差し出した。

「紹介状です。話は前もって通してありますが、それがあれば施設での居住が正式に認められます」

「ありがとうございます」

 深く頭を下げ、受け取った紹介状を背負ってきた小さな鞄に仕舞う。

「ご主人と合流したあとも、しばらくは施設で暮らす事になるでしょう。決して楽な生活だとは言えませんが……」


「いいえ。ここまでしてくれただけで十分過ぎます。夫ともども、必ずこの御恩はお返しさせていただきます」

 神父は何も言わずに視線を落とし、少しの間沈黙した。彼女も何も言わずにいた。

 ――夫は帰ってくる。戦いを終えて。これまで何度も危ない橋を渡ってきた彼が、死の気配を漂わせた事は一度もない。今日送り出した時でさえそうだった。夫は必ず帰ってきてくれるという確信めいたものが、彼女にはあった。

 やがて、神父は口を開いた。


「寝床の様子を見てきます。ストーブを出しているんですが、この寒さでなかなか暖まらなくて。あなたはここで休んでいてください」

「……ありがとうございます。マレス神父様」

 三度、彼女は礼を言った。

「本当に、ありがとう。あなたのおかげで、私達は希望を持つ事が出来ます」

 でも、と彼女はつい続けてしまった。

 マレス神父が怪訝そうな顔をした。


 最初にこの神父の援助を受けると聞いた時から、ずっと疑問がついて回っていた。言い掛けてしまった手前、彼女はそれを問う事にした。

「でも、どうしてそこまでしてくれるんですか? 私達、別に信仰があるわけでもないのに」

 神父は柔和な笑みを浮かべた。その咄嗟の表情の切り替わりが、少し気になった。

「目の前で苦難の道を歩まれる人を、どうして見捨てておけるでしょうか。ましてや今は、誰しもが苦しみ、希望を見失ってしまう時代です。こんな時にこそ身を粉にし、救いの手を伸ばさずして、どうして私は神に仕えていられるでしょうか」


 わかったような、わからないような、そんな言い方だ。彼女の考えを見て取ったように、神父が続ける。

「先ほども言ったとおりですよ。人助けに理屈はいりません。今日はゆっくり休んでください」

 一礼して、神父は奥のほうへ引っ込もうとした。途中、娘の寝顔を見て、ふと動きを止める。

「可愛いお子さんだ」

 それから、今度は振り返らずに奥のほうへ姿を消した。


 ほっとしている自分に気付く。ここまでたどり着けた事で、少し気が抜けたのかもしれない。

 それに、自分の娘を人に褒められたのは初めてだ。退院してからは極力人目につかないようにしていたし、そもそも自宅のアパート自体、街から少し離れていた。娘を人目に晒す事はそうそうなかった。

 素直に嬉しかった。この子を可愛いと言ってくれた事が。

 不思議な気持ちだ。自分の娘を褒められる。金糸の髪に、ぴょんと立った二つの耳。私と同じ獣の子。可愛い。よくあるお世辞なのだろう。でもきっと、神父様は心の底からそう言ってくれた。

 生まれてきた事を肯定されたような気分だ。


 スープを一口飲み、その熱に身が癒える。まだ気は抜けない。明日、目的地にたどり着くまでは。夫と再会するまでは……。

 けれど、この先の未来が必ずしも暗闇だというわけではない。

 スープを飲み干し、カップを脇に置く。眠気が起こってくる。出来るなら早く横になりたい。明日のために、体を休めなければ。


 風が吹き、雨戸がまた激しく音を立てている。外はいよいよ吹雪いているようだ。ただでさえひどい雪道だというのに、車はうまく走れるだろうか。ぼんやり、そんな事を考える。

 眠い。ひどく眠い。

 このまま少し眠ってしまおうか。暖炉の火も毛布もある。少し眠って、それから――

 不意に、硬い音が二回、耳に飛び込んできた。



 風と雨戸の鳴る音の中で、その二回は異様に響いた。

 コンコン、と間を置かずもう一度繰り返される。扉のほうからだ。

 身が固まる。誰かが、この吹雪の中で、教会に訪ねてきたのだ。

 犬耳がぴくりと震えた。自分達以外にも、今晩ここに誰かが来る予定だったのだろうか? しかし、神父はそんな事は一言も言っていなかった。ならば、突然の来客なのだろうか。


 コンコン、と三度目のノックが聞こえた。

 彼女は立ち上がり、じっと扉を見つめる。神父を呼ばなければ。外では、自分達と同じように助けを求める者が待っているのかもしれない。地下から、神父を呼んでこなければ。

 長椅子を離れ、一歩通路に出る。寝息を立てている娘の顔をちらと見る。さっきから妙な予感が離れない。

 ――何故来訪者は、ノックだけを執拗に繰り返しているのか?


 四度目のノックが聞こえた。さっきまでと全く同じ間隔の。

 次の瞬間、地下のほうからけたたましい炸裂音が響き渡った。同時に、扉の取っ手が爆発したかのように鍵ごと吹き飛ぶ。

 二方向から同時に銃声。間を置かず、目の前の扉が蹴破られる。ショットガンを構えた黒ずくめの男が、すかさずその銃口をこちらに向けた。


 咄嗟に毛布を脱ぎ飛ばし、寝息を立てる娘に覆いかぶさる。射撃音。続いて熱い激痛が背中に走った。

 腰が落ち、椅子にもたれかかる。撃たれた。痛みに全身が震える。立てそうもない。だが、娘は無事だ。

「動くんじゃねえよ、ケダモノ女が」

 ショットガンを持った男が口汚く罵った。大股でやってきて、彼女の頭髪を手ひどく掴みざま、反対側の長椅子へ投げ飛ばす。吐き出すように呻き声が出た。


 ショットガンの銃口が眼前にあった。侵入者はもう一人いた。髭を生やした若い男。得意そうに煙草を銜え、ショットガンを構えた男の後方から彼女を見下ろしている。

「あの野郎、ケダモノ女囲ってるって噂は本当だったんだな」

 煙草の男はそう言いながら紫煙を吐き出した。ショットガンの男が下品な笑いを浮かべた。

「信じらんねえな。犬と寝る趣味があるなんてよ」


「おまけにガキまで作っちまうとは」

 煙草の男が向かいの長椅子へと寄った。娘のほうへ。

「やめて!」

 痛みも忘れて彼女は立ち上がった。「娘に触らないで!」

「うるせえんだよ、雌犬」


 ショットガンの男がすかさず彼女を蹴倒す。立ち上がろうとした彼女を踏みつけ、銃口を頬に押し付ける。

 もう一人の男が、娘を抱き上げて戻ってきた。

「ほうら、ママが押し倒されてまちゅよお」

 血の気が引いた。

「その子から手を放して!」


「うるせえってんだよ!」

 男の怒鳴り声など耳に届いてはいない。自分の身はどうでもいい。男の汚い手が娘に触れるのが忌まわしかった。

「獣臭えガキだな。どうすんだ、二匹ともここでやるか」

「いや、あいつの前まで連れて行こう。人間様を裏切って獣とよろしくやってたんだ。それ相応の罰を与えなきゃな」

「神父は?」


「下にはヤマザキの奴が行ってる。もう死んでるさ」

 まるで雑談のように、男達はおぞましい会話を繰り広げる。ふと気付く。さっきまで聞こえていた、地下からの銃声が止んでいる。

 娘がもぞもぞと動いた。起きた。顔は見えないが、どんな表情かはわかる。すすり泣きもつかの間、すぐに娘は大声を上げて泣き出した。


「おや、おっきしましたねえ」

 煙草を銜えたまま、男はげらげらと笑う。

「おい、うるせえんだよ。黙らせろ!」

 仲間の怒声を聞き流し、男は銜えていた煙草を外し、泣きじゃくる娘の顔の前でくるくると回し始める。

「ほら、泣き止まないと火傷しちゃうぜえ」


「やめて!」

 絶叫し、身を持ち上げようとするが、男の足は杭のように彼女を押さえつける。

「ああ、何だ? 獣の言葉はわからねえよ」

 娘はさらに声を張り上げる。足をばたつかせ、男から逃れようとしている。

「どうでもいい。早く黙らせろ。ガキは嫌いなんだよ」


 ショットガンの男が怒鳴り声を上げた刹那、その後頭部が赤く弾けた。

 娘を抱えた男がはっとして身構える。どさり、とショットガンの男の死体が倒れ込んだ。

「あいつ……しくじりやがったか」

 銃弾が飛んできた方向を睨み付けながら、口元を歪めて男がぽつりと呟いた。

 奥のほうから、拳銃を構えた神父が歩いてきた。カソックの襟の白地に、血痕のようなものが付着している。


「その子を放せ」

 銃口を向けたまま、冷徹な目をして神父が言った。娘が泣き叫んでいる。男は乱暴に娘を抱え上げた。娘の泣き声がさらに激しくなる。

「おら撃てよ。撃ってみろ」

 引きつった笑い浮かべながら、男は素早く後ろに手を回し、拳銃を握って、その銃口をあろうことか赤子に宛がう。


「撃てよ! このガキごと俺を撃ってみやがれ、くそ神父が!」

 挑発的な男の罵声。泣きじゃくる娘の声。破壊された扉からは風とともに雪が吹き込んでくる。銃口を向けながらも神父は動けずにいた。下手に撃てば娘に当たる。

 男がじりじりと後ろに下がっていく。逃げる気だ。彼女の娘を連れて。

 胸元に、ショットガンが落ちている。さっきまで彼女自身に突き付けられていたもの。


 ――咄嗟に彼女は決断した。その瞬間には動いていた。

 ショットガンを掴み、椅子の背を掴んで、勢いに任せて立ち上がる。激痛が背中を走ったが、そんな事はどうでもいい。男の注意をこちらに向けられれば。

さながら的当ての標的だ。ショットガンを持ったのも、よりこちらに注意を引くためだ。案の定、突然立ち上がった彼女に向けて、男もまた咄嗟に二度引き金を引いた。躱せはしない。銃弾が身を食い破り、瞬く間に臓腑が灼ける。


 同時に、銃口が赤子から逸れたその瞬間、神父の銃が火を噴いていた。男の肩口が弾け、その体が揺らめく。弾丸のように飛び出した神父が瞬く間に男へと接近し、赤子を掴んで引き剥がす。男が突き飛ばされ、床に転げる。そこへ、神父は容赦なく二発の銃弾を撃ち込んだ。

 赤子を抱えた神父は、すぐに彼女の元へとやって来た。

ショットガンを杖代わりに、気力で体を支えていたが、限界が近づいている。力が抜けて膝が落ちる。足元に血だまりが出来ていた。


「何て無茶を」

 神父が掠れた声で言った。赤子はまだ泣いている。が、幸い怪我はなさそうだ。この子は運がいい。何かに守られているに違いない。

 目が霞む。体から出血が続いている。激痛に苛まれるあまり、感覚が麻痺している。

 おのずとわかった。もう、保たない。


「神父……様」

 口を開くと血がせり上がってきた。神父が焦燥した顔で何か言った。だが、よく聞こえない。

「娘を……お願いします。どうか、あの人に……」


 だがその時、轟音とともに神父の背中から赤い血が噴き出した。銃撃だ。床に倒れたはずの男が、体をくの字に折り曲げながら、狂ったように何かを叫んでいた。スローモーションに流れる事象。硝煙の立ち上る銃を放り投げ、男は手に持っていたボールのようなものを口元にやる――ボールの上部には丸い輪のついたピンが見えた――男の歯が、その輪っかに引っかかる。


「逃げて!!」

 最後の力を振り絞り、赤子を抱えた神父を彼女は突き飛ばした。一瞬だけ振り返った神父の目が、決断を語っていた。赤子を抱え込んだ神父が、転げるように説教台の陰に飛び込む。

 これまで体感した事のない熱と、衝撃。自分の体が吹き飛ぶのがわかった。次の瞬間、強烈に壁に叩き付けられた彼女の体は、冗談のように床へとずり落ちた。



 ――炎が瞬く間に燃え広がる。教会の長椅子が火炎に飲まれ、燃え盛る。

 ――もう、動けはしない。もはや、自分は助からない。


 目を開けば、辺り一面は火の海と化していた。

 血を流し過ぎたのか、あるいは、壁に叩き付けられた拍子に骨が砕けたのか。もはや彼女には一片たりとも動けるだけの力は残っていない。

 説教台の裏側に逃げ込んだはずの神父と、彼に抱えられた娘の姿は、どこにもない。

 娘は無事逃げただろうか。考えるのはそればかりだ。彼女と夫の人生の証。二人の元へとやって来てくれた、天からの使い。


「ミサキ……」

 その名を呼ぶ。声になっていたかどうかさえわからない。

 火炎に包まれた天井が、目の前で崩れ落ちた。


      ※


 こうして、その地で古くから存在していた小さな教会は一晩のうちに焼失した。

 この晩勃発した抗争は、その後三日間止む事なく続き、双方の勢力はもとより無関係の一般市民にまで、多くの犠牲者を出した。

 ――十六年前。雪が降り続いた夜。

 のちに、ナユタと呼ばれる土地で起きた事件だった。

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