国家試験受験
大学法学部を卒業しても、就職がないようになったころ・・。
晴信は、1993年に、法学部の大学を卒業した。
就職せず、国家試験の司法書士試験の受験生であった。
晴信は、司法書士試験の講座を受けに、法律の学校に通った。
その通っている途中に、一枚のCDを見つけた。
trfのアルバムである。
家に帰って、聞いてみると、「20歳やそこらで、人生のモチベーション・・」と歌っている。
20歳やそこらで、人生を決めたりあきらめたりしてはいけないと、歌っているようだった。
晴信は、これを、自分への応援歌にして、勉強した。
司法書士試験で、勉強しなくてはならないのは、司法試験ほどではないが、多かった。
講座は、大学在学のときからで、20か月の講座だった。
(現在、司法書士試験の講座は進歩して、1年講座あたりがふつうのようだ。)
科目も多く、テキストを全部並べると、本棚一列くらい。
その中には、過去問(過去の試験で、出題された問題)を集めたものも、含まれる。
晴信は、なんとか、全内容を頭に入れられると思い、頑張った。
1994年度の試験を、法律の学校の指導で、試験会場などを、知るために受験した。
試験は、年一回、問題以外は、ほぼ同じであった。
1995年度試験、これは、本番の試験で、力を入れて、晴信は、受験した。
しかし、結果は、不合格だった。
晴信は、一回で、あきらめることはせず、合格するまで勉強して受験するつもりでいた。
ところが、晴信は、高校のときに、精神病のようなものに、かかってしまっていて、静養によって、大学から、試験を一回受けるところまできたのだったが、それが、再発か悪化によって、再び、病院通いになってしまった。
それでも、国家試験は、あきらめなかった。
勉強量の少なくて済む、行政書士試験に手をだし、結局、司法書士と行政書士の試験の受験生になってしまったが、どちらか、一方でも、合格したらという気持ちは、晴信だけでなく、晴信の両親の気持ちにもなった。
それにもかかわらず、病気は悪化して、主治医に、病院のデイ・ケアに来るようにいわれた。
晴信は、試験合格が、遠のいた気がした。両親は、あきらめた。
デイ・ケアは、病院のある区域にあって、スポーツや文化のレクリエーションで、精神のリハビリという場所だった。
バス・ツアーというのもあって、一年に一度、バスでの日帰りの旅行であった。
参加希望者の中から、くじ引きのように、参加者が決まる。
晴信は、できるだけ、デイ・ケアに通い、積極的に、レクリエーションに参加した。
その中で、レクリエーションのスタッフの人から、障害基礎年金の話を聞き、晴信は、躊躇したが、少し、考える返事をして、2~3か月、考えた。
「この状態から、ふつうに働けるようになるだろうか」
自分で、出した答えは、ノーで、父に相談。
主治医に、診察の際、年金の話をした。
話をすると、診断書に、「就労不能」と書くよ、それでもいい?と、聞かれた。
晴信は、「はい」と、答えた。そのときから、晴信は、国の福祉を受ける身になった。
物語は続く。