なろう界隈は光と闇があわさり最強に見える。~蚊の野郎に一日に七度も刺されたので、ぶちころがしてやったら、大量の血が手のひらにブシャァと広がって、これが「ざまぁ」の快感なんだと思い知った話~
蚊である。
噛まれた。噛まれるというのは方言で、刺されたというのが標準語的な表現らしい。
でも、いまのわたしは噛まれたと表現したい。
なぜなら、それだけわたしに接着した、生活的な言語で表現したいからである。
つまり、意味に呪いをこめたいからである。
魔術的な幻想◇の力をこめたいからである。
ファンタジックに生きたいからである。
思うに、なろう小説とは、多くの場合ファンタジーのガワを被ってはいるが、その実19世紀のリアリズム小説である。
リアリズム小説とは、生活の生々しさを、時空間ごとに切り取ったものである。
そこに暮らす人々の思想や考え方、モノの見方などを、言語によって削りだす――。
つまり、『理屈』の小説である。
ロゴスの小説とも呼べるかもしれない。
したがって、なろう小説はファンタジーなんかではなく、その逆、リアリズムの小説であるというのが正しい。
逆を考えてみればわかりやすいかもね。
リアリズム小説の逆っていうのはロマン主義。マジモンのファンタジーでしょ。
要するに映像美的なやつ。
わたしはこの系譜っていうのは、Ibや魔女の家みたいなフリーホラーゲームだと思う。
いやあれゲームやんって思うけど、書籍化もされてるんで無問題だ。
ねえ。
なろう小説は言葉の「理屈」を重視してるよね。
言葉の理屈というのは、父性原理のことだよ。
父性原理というのは社会に満ちている『力』のことだから、わかりやすいのは『権力』あるいは『資本主義』かな。
なろう小説は、資本主義に染まっている。正確には資本主義の原理に染まっている。
しかし、他方で同人的な性質が、対象аの領域から、すなわちデストルドーのベクトルとして他者を貫くという面も持っている。
なんといえばいいだろうか。
お金を求めるのは、もちろん自分のためだろう。
だから、なろう小説を書く意味が、もしお金を稼ぐためであれば、それは自分のためということになる。
失われた万能感を求めるという、対象аを求めるものに他ならない。
だけど、作者は読者を精神分析し、読者のために書こうとする。
精神分析家のディスクールとして、そこでは作者は対象аへとなりかわる。
これは他者の享楽と呼ばれるもの。
要するに、作者は読者がどんな物語を求めるかを分析して、それを書く。
作者は利他的である。あなたのために書いているんだから。
この喜びは、ファルス享楽よりも根源的であり強烈である。愛されるより愛したいマジでってやつ。たぶんね。
他方で、あなた――、つまり読者は対象аからの放射光を感じて、誘蛾灯に誘われるみたいに享楽へと近接しようとするだろう。
このファルスは、対象аへ近接しようとするもの、すなわち対象аを求めようとするもの、ファルス的享楽に他ならない。
この構造が、わたしはゆりかごのように見える。欲望の遷移が見えますか? ぎっこぎっこと優しく動いている世界が見えますか?
デストルドーとリビドーが揺らめいているのが見えるでしょうか。愛がなければ見えない。
つまるところ、わたしには、なろう界隈というのは光と闇があわさり最強に見えるって話。
べつに揶揄でもなんでもなく、構造的にそうだろう。
なぜなら、なろうというのは同人的であり、読者はいますぐにでも作者になれるのだから。
ついでに言えば、感想書いたりするのも、立派な創作活動だと思うよ。
感想の極限が二次創作だと思うしね。
ただ、勘違いされやすいのが、例えば読者なりが「ざまぁ」を求めていたとして、それが心理的な抑圧された闇みたいなことではないってことだ。
むしろ、作者が他者のために書くという光属性こそが、デストルドーを基点としていることに着目しなければならない。
死は闇でしょ。なので、光は闇なのです。これ魔法検定にでますから注意。
話がそれたので、蚊に噛まれた話に戻ります。
いやいくらなんでも、一日に七度噛まれるって相当鈍感じゃねって、正直思う。
お腹、足、このあたりはまあわからなくもない。
しかし、うとうとしていたとはいえ、まさかお顔まで噛まれるとは思わなかった!
いくらなんでも気づくでしょ。
己の不明さに恥じ入り、そして恥を雪ぎたいと考えた。
必ず、邪知暴虐なる蚊の野郎をぶちころがしてやろうと思ったんだ。
もちろん、生命は尊い。
蚊にも魂はあるかもしれない。
聞くところによると、血を吸う蚊は、メスであり、つまり自己のためというよりは子のために血を吸うのだ。
それは利他的で美しい行為だと思う。
対するわたしが被った被害といえば、このかゆみと、恥辱にすぎない。
命に優劣がないとすれば、蚊の命こそが優先されるべきであろう。
だが――、復讐は美しくないと他者はいうが、それはわたしの意見ではない。
わたしは今のこの袋小路に迷い込んだ魂を解放したいのだ。
だから「ざまぁ」したい。
チャンスはすぐに訪れた。
ハッキリいえば、血を吸うということは、それだけの重みを身にまとうことに他ならない。
それは脆弱な蚊という生命体にとっては致命傷だったのである。
わたしの目の前にたまたま飛んできたヤツは、鈍重であり、しかも血を吸っていくぶん巨大に見えた。
だから、簡単だった。
ぺちっ。
ざまぁwwwwwww
これがど、読者様の求めているもの。た、確かにクセになる。
こ、こんなのおかひくなっちゃうよおおおおおぉぉぉ。
あ、かゆ……。
なろう界隈というものに唯一、批判的な意見を加えるとするなら、
わたしの言葉でいうと、エンコードがされていることといえるだろう。
先に述べたように、作者が対象аとなり、読者が/Sとなるのであれば、
対象а→/Sの構図は、逆の視点からいうと、/S→対象аとなり、幸せな結婚である。
読者が作者になり、作者が読者になるという、くんずほぐれつこそが、なろう界隈の構造であろうから。
もはや言葉は停止してしまう。
熟年夫婦のように、「ん……」とだけ言えば、「はいはいお茶ですね」と了解されてしまう。
言葉が圧縮されているのである。
これをエンコードとわたしは表現する。
エンコードはいいんだけどさ。問題は、これの究極系って無なんだよね。ぬるぽ。
もう、なんというか、わたしたちって訓練されすぎて、読む前から理解しているって感じしない?
言葉が停止する。
デストルドーの行きつく先は、やはり死なのだろうか。
なろう界隈は死んだ母親になりうるということである。
死産になりたくなければ、早々に切開しなければならない。
胎内の死んだ空気のままでは窒息してしまう。
ざまぁを気持ち悪いという言葉は、闇ではなく光である。
生きたいという欲求そのものである。
蚊も生きたかっただろうにな。ごめんね♡
なろう作家は、なろう読者限定サプライズプレゼンツなんで、その点に注目した批判も加えられるとは思うよ。わかりやすく言えば、普遍性がない。水平と垂直の広がりに耐えられない。要するに芸術性がないというか、あんま考えてないんだ。作者さんそんなこと考えてないと思うよって、マジレスされちゃうだろうけどね。純文重視の人はそのあたりを問題視しているみたいだけど、べつにいーじゃんって思うのが私の考え方です。その水平も垂直も、人間という枠組を越えていない。つまり言葉を越えていない。それを越えようとして越えられなかったから、太宰は死んだわけでしょう。戯言だけどね。