新しい日常Ⅱ
「これが魔法障壁を展開する御守りで、こっちが式神に認識されなくなる煙幕だ。煙幕と言っても、視認できるような煙は出ないから安心してくれ」
「え? あの……」
「これは非常用で、身体能力を大幅に引き上げる錬成薬だ。逃げる時に役立つが……翌日は壮絶な筋肉痛に悩まされる」
「日野さん、これって」
仕事先が決まり、今日から勤務だという霞は、護身セットを目の前に差し出されてきょとんとしていた。
「コンパクトにしたつもりだったが、大きかったか?」
「いえ、そんなことはありません。ちょっとびっくりしただけです」
戸惑いながら言われて、ようやく気付く。俺にとっては当然の携行品だが、普通の女性がこんなものを持ち歩くはずがない。
彼女は陰陽師に狙われていたということで、少し神経質になっていたのかもしれない。
「……今のは忘れてくれ」
そして、護身セットを回収しようと手を伸ばす。すると、さっと霞の手が伸びて道具類を掻っ攫った。彼女らしからぬ性急さに驚いていると、霞は慌てたように口を開いた。
「頂きます! その……嬉しいです」
「霞、そんなに気を遣わなくてもいいぞ。冷静に考えるとやり過ぎな気がしてきた」
そう伝えるが、彼女は護身セットを素早くバッグに入れて微笑んだ。
「だって、私のことを心配してくれたんですよね?」
「まあ……そうだな」
そう答えれば、霞はバッグを軽く抱きしめる。
「ありがとうございます。大切にしますね」
「有事の際にはちゃんと使うんだぞ?」
「もちろんです」
笑顔で頷く霞は、本当に上機嫌のように見えた。となれば、これ以上食い下がる必要もない。
「ところで、歩きだよな? 少し遠くないか?」
そして話題を変える。彼女の仕事先は歩いて三十分ほどの距離にある。歩けない距離ではないが、近いとも言いがたい。自転車も進めたのだが、運動がてら歩きたいらしい。
「大丈夫です。商店街が途中にありますから、お買い物をして帰ることもできますし」
「そうか。もし向こうで調子が悪くなったら、遠慮せずに言ってくれ」
その時は迎えに行く――そう続けようとしたが、それはそれで霞の迷惑になる気がする。すんでの所で踏みとどまる俺だったが、彼女は照れたように微笑んだ。
「ありがとうございます。日野さんも、よかったら来てくださいね。……私が仕事に慣れた頃に」
霞はぽそりと付け加える。彼女の勤務先はこの地域で有名なカフェだ。お洒落な雰囲気がウリで、俺は気後れして滅多に行かないが、かなりの人気を誇っている店だった。
「接客が無理そうなら、裏方に戻してもらうんだぞ」
俺はつい余計な口を挟む。料理が得意だということで、桑名さんは調理スタッフとして霞を紹介したのだが、面接を受けに行ったところ、接客スタッフとして働いてほしいと要望されたのだ。
思い起こせば、あのカフェの店員は美男美女揃いだという噂を聞いた覚えがある。それも店の雰囲気づくりというやつだろうか。
「ありがとうございます。でも、私の顔を知っている人が来店するかもしれませんし、できるだけ頑張りますね」
少し緊張した様子ながらも、霞は決意に満ちた表情で宣言するのだった。
◆◆◆
「これを持っていればいいんですか?」
「ああ。魔術の増幅作用がある枝だ。他にも、ここに配置しているのは――」
閉店後の錬金術工房で、椅子に掛けた霞に詳細を説明する。彼女の記憶封印を解くために、すでに何度か解呪を試みているが、さっぱり成果は上がっていなかった。
「術式自体にも癖があるが、何より封印強度が異常だからな。触媒を使って俺の魔力を増幅させる必要がある」
俺もそれなりに魔力はあるが、分類すれば中の上といったところだ。だが、おそらくこの封印をかけた術者は、上の上クラスだろう。触媒なしで挑んでも、鋼鉄に素手で殴りかかるようなものだ。
「霞が気負う必要はない。楽にしていてくれ。……と言っても無理だろうが」
「ふふ、そうですね」
緊張している様子の彼女が、少しだけ笑う。妖力はほぼないが、霞にも魔力は感じられるのだ。自分めがけて膨大な魔力が迫ってくるのは、あまり楽しい気分ではないだろう。
「それじゃ、始めるぞ」
触媒を経由して魔力を増幅させ、そのすべてを解呪の術式に注ぎ込む。展開しておいた魔法陣の効果もあって、かなりの魔力を込めることができたはずだ。だが――。
「駄目だったか」
封印は健在だった。今回はかなりの魔力を使ったはずだが、これで通用しないとなればアプローチを変える必要があるかもしれない。
「すみません……」
「霞が謝ることじゃないさ。むしろ、責められるなら俺のほうだ」
申し訳なさそうに謝る霞に、首を横に振って答える。
「とりあえず、今日はここまでにしよう」
「分かりました。――あ。日野さん、少し待っていてくださいね」
と、椅子から立ち上がった霞は、急ぎ足で工房から出て行く。工房を片付けながら待っていると、やがて彼女が姿を見せた。
「これ、さっき作ったお料理です」
そう言ってラップがかかった深皿を渡してくれる。解呪実験の直前に作っていたのか、まだ温かい。
「今日は、鶏ときのこを中心にした煮物です。きのこ、お好きですよね?」
そう聞かれれば、満面の笑みで肯定するしかない。
「ありがとう。最近、これが一番の楽しみかもしれない」
それはお世辞でもなんでもなく、正直な感想だった。特別な材料を使っているわけではないので、ちょっとした工夫や知識、そして丁寧な作業が結実しているのだろう。
「そう言ってもらえると、作り甲斐があります」
そう答えて微笑む。彼女が外で働き始めて二週間ほど経つが、だいぶ雰囲気が明るくなったように思えた。
何者かに狙われて外にも出られず、見ず知らずの男に養われている状態では、気持ちが暗くなって当然だし、むしろ今の彼女が本来の姿なのかもしれない。
「……」
ふと能天気で強引な、かつての霞を思い出す。本来の彼女の性格はそっちなのだろうが……記憶の封印でどの程度人格が変わるものだろうか。性格に直結するようなエピソードを喪失すれば、性格もまた変わるのか。
「日野さん? どうかしましたか?」
考え込んでしまった俺を不思議に思ったようで、霞が声をかけてくる。
「いや、もう二週間経つのかと思ってさ」
そうごまかせば、霞はあっさり話題に乗ってきた。
「そうですね。なんだかあっという間です」
「大丈夫か? 接客をしていると、厄介な客に絡まれることだってあるだろう。同僚との相性もあるし……」
思わず身を乗り出してしまう。その様子がおかしかったのか、霞は小さく笑った。
「心配してくれてありがとうございます。でも、職場の皆さんはいい方ばかりですよ? 色々と気遣ってくださいますし、困ったお客さんもあまりいませんから」
そう答えた霞だったが、苦笑交じりに付け加える。
「たまに、連絡先を訊いてきたり、逆にそういうメモを渡してくる方はいますけど」
「……そうなのか」
思わず返事に詰まる。ずっと一緒にいるため麻痺しがちだが、彼女は控えめに言ってもかなりの美人だ。所作も綺麗だし、人の目を惹きつける要素には事欠かない。
「そういうことって、頻繁にあるのか?」
つい尋ねる。すると、彼女は思い出すように中空を見つめた。
「そうですね……一日に一、二回くらいです」
「多くないか!?」
声が裏返りそうになる。さすがに毎日だとは思わなかった。
「でも、困っていると職場の皆さんが助けてくれますから」
霞は穏やかに答える。その様子からすると、あまり困っているわけでもないようだった。
「そういうものか……?」
まあ、あそこの店員はそういうことに慣れていそうだからな。上手くあしらう術を伝授されているのかもしれない。
そんなことを考えながら、俺は霞の話に耳を傾けた。
◆◆◆
性質上、地域との関わりが薄くなってしまう『錬金術工房トワイライト』だが、一つ例外がある。この地域で暮らす妖怪の末裔や術師といった、こっち側の人間の代表等が集う会議だ。
表向きは地域の活性化を目的とした会合ということになっているが、一般人から見れば、その実態はオカルトとしか言えないものだ。
「陰陽寮からの伝達は以上だ。次に、地域独自の連絡事項だが――」
大きめの会議室に、まとめ役の桑名さんの声が響く。かつて名を馳せた退魔師ということもあって、彼は会議に出席する誰もから一目置かれていた。
「最近、低級霊が動物等に乗り移り、妖怪化する現象が複数目撃されている。注意してもらいたい」
その言葉に会議の出席者が少しざわめく。そんな中で、参加者の一人が挙手した。
「低級霊が憑依したところで、妖力を振るうほどの力はないのでは?」
「妖怪としての力は最底辺だが、野良犬等に憑依した場合、物理的な危険を伴う。憑依の有無に関係なく、野良犬に本気で襲われた場合、無事に切り抜けられる者は少数だ」
桑名さんは真面目な顔で答えると、俺を含めた数人に視線を向けた。
「そのため、低級霊を見かけた場合は、それを駆逐できる人間に連絡を入れてほしい。儂ももちろん協力するが、場所によっては他のメンバーのほうが近いこともあるだろう」
そして、彼はスライドに幾人かの人物、もしくは施設の一覧を映し出す。そこには『健康食品店トワイライト』の名称もあったが、事前に打診されていたため、特に問題はない。
「陰陽寮に見回り要請を出しているが、人を派遣してくれるかは不明だ。協力金の支出は取り付けたので、働き損ということはないだろう。ただし、後で難癖をつけられないよう、報告書はしっかり作成しておいてもらいたい」
そうしていくつかの注意点を上げると、桑名さんは別の議題を取り上げる。種族特性を暴走させてしまった事件を取り上げて注意喚起し、霊脈を長期間独占しがちな団体に自粛を促す。
そんな議題をいくつも片付けて、最後に次の会議の日程を決める。そうして解散の運びとなった会議室は、ぞろぞろと出口へ向かう人々でごった返していた。
「京弥、少しいいか」
そんな中で声をかけてきたのは、先程まで精力的に司会・説明をしていた桑名さんだった。
「桑名さん、お疲れ様でした。どうかしましたか?」
そう問いかけた俺は、彼の傍らに女性の姿があることに気付いた。五十歳前後だろうか。仕立てのいいスーツに、短く切り揃えられた髪がよく似合っていた。
「紹介しておこうと思ってな。『ホライゾンカフェ』のオーナー、長沢さんだ」
その店名には聞き覚えがあった。三週間ほど前から霞が働いているカフェだ。この人がオーナーなのか。
「初めまして。ご紹介に与りました長沢と申します」
彼女は柔和な表情で名刺を差し出した。さすがは人気店のオーナーと言うべきか、その所作は実に様になっている。
「ご丁寧にありがとうございます。錬金術工房トワイライトの日野と申します」
そして、反射的にこちらも名刺を差し出す。彼女自身からはまったく妖力を感じないため、健康食品店のほうの名刺を出すことも考えたが、この会合にいる時点でこちら側だと見ていいだろう。
「……霞がお世話になっています」
少し躊躇してから、そう告げる。彼女の保護者でもなんでもないが、桑名さんがわざわざ引き合わせたということは、俺の家に住んでいることくらいは説明しているだろう。
「いえいえ、こちらこそ。まだ働き始めて三週間ですけど、彼女はとても優秀で助かっています」
「そうなんですか?」
つい話題を掘り下げてしまう。どちらかと言えば控えめな性格の彼女が、苦労しているのではないかと心配していたせいだろうか。
「ええ。とても手際がいいし、何より所作が綺麗ね。どれだけ急いでいても、動きに品があるもの」
そう語る長沢さんの表情はとてもにこやかで、本当に霞を評価していることが伝わってくる。
「そのお話を伺ってほっとしました」
俺は衷心から言葉を返した。俺には関係のない話だが、それでも彼女が高い評価を受けているのは嬉しいものだ。
そんなことを考えていると、なぜか長沢さんが楽しそうな表情を浮かべて俺を見ていた。
「どうかしましたか?」
「実はね、霞さんから貴方の話を聞いていたから、どんな方か気になっていたの」
「霞が俺――いえ、私の話を?」
「ええ。でも、詳しい内容は秘密ですよ」
彼女は人差し指を口に当てると、悪戯っぽく笑う。
「でも、一つ謝っておかなければ。あの子からも、お客様から声を掛けられている話は聞いているでしょう?」
「はい。毎日一、二件はあると聞きました」
「一、二件……?」
俺の答えに長沢さんは目を瞬かせた。これはひょっとすると――。そんな思考を遮るように、彼女は言葉を続ける。
「ともかく、彼女のファンのような方が増えていることは事実です。そこでお願いなのですが……霞さんが、もし彼らの対応に疲弊しているようであれば、私に教えてくださいませんか? 彼女は我慢強い性格のようですから、限界まで溜め込みそうで心配です」
「それはよく分かります」
その言葉に俺は強く頷いた。むしろ、こちらから頼みたいくらいだ。
「彼女のことをよく見ていてくださって、とても心強いです。これからもよろしくお願いします」
そう言って頭を下げると、彼女は穏やかな笑顔を浮かべた。
「ええ、もちろんです。それでは、これで失礼しますけれど……もしよかったら、日野さんも当店にお出でくださいね」
そう言い残して、ホライゾンカフェのオーナーは去っていく。やがてその姿が見えなくなったところで、俺は桑名さんに向き直った。
「あの方からは魔力を感じませんでしたが……関係者なんですよね?」
「うむ。それ絡みの事件に遭ったり、ご家族がそうだったりと、何かと縁があってな。そのおかげでこちら側に理解があるのだ」
「なるほど……。でも、安心しました。紹介してくれてありがとうございます」
そうお礼を言うと、俺は持ってきた鞄を引き寄せる。夜から始まった会議であるため、時刻はもう夜の九時近かった。
「それでは――」
「まあ、待て」
そして踵を返そうとした俺の肩に、桑名さんが手を置いた。どうしたのかと訝しんでいる俺に構わず、彼は周囲を見回した。
「実は、ずっと問い合わせていた事項について、陰陽寮から回答が来てな」
「それは……」
その言葉にはっとする。桑名さんが陰陽寮へ問い合わせていて、俺に関係あることと言えば、まず間違いなく霞の話だろう。
真面目な顔で向き合うと、彼は言いにくそうに、だがはっきりとした言葉で回答を告げた。
「――失踪した職員も、霞と名前のつく職員も陰陽寮には存在しない。それが陰陽寮の回答だ」