新しい日常Ⅰ
「まさか、そんなことが起きていたとはな……」
陰陽寮の術師、賀茂成明と面会した翌日。霞のことを心配して訪ねてきた桑名さんは、目を白黒させて驚いていた。
「霞さんには申し訳なかったが、この件は京弥に任せて正解だったな。他の者では命を落としていたかもしれん」
「今回の件はイレギュラーでしょうからね。もうこんなことはないと思います」
願望も込めてそう言い切る。妖怪や魔物の末裔で構成されたコミュニティは星の数ほどあるが、人を害してまで主張を通そうとする過激派はほんの一握りだし、基本的にそういった組織は陰陽寮が監視しているのだという。
「とりあえずは一安心といったところだな。後は記憶の封印だが……」
そこで言葉を切ると、桑名さんはいい笑顔を浮かべた。
「そこは京弥に任せておけばいい。なんと言っても、この地が誇る錬金術師だからな」
「はい、そのつもりです」
桑名さんの大仰な売り文句を受けて、霞は素直に頷いた。その反応に驚いたのか、桑名さんは面白そうに霞を見つめた。
「ふむ……一週間前に比べて、随分と表情が明るくなったな。いいことだ」
そして、ふと気付いたように口を開く。
「それで、今後はどうするね? もし霞さんが希望するなら、宿泊先として女性用のシェルターなどを紹介することもできるが」
「え?」
その提案は予想外だったのか、霞はきょとんとしていた。言われてみれば、うちの工房に彼女を匿ったのは陰陽術師に狙われて危険だったからだ。その問題が解決した以上、桑名さんの伝手を当たることもできるだろう。
「ええと……そうですね。どんな所があるのか、また今度教えてもらえますか?」
「もちろんだとも」
桑名さんは胸を張って了承する。すると、今度は霞のほうから口を開いた。
「あの、もう一つご相談なのですけれど、桑名さんはお仕事の斡旋はされていますか?」
「法に触れない程度にな。……仕事をするつもりなのかね?」
「はい。いつ記憶が戻るか分かりませんし、その間、ずっと日野さんに養ってもらうわけにはいきませんから」
霞は真剣な顔で説明する。身の危険がなくなった以上、働かない理由はない。彼女はそう言って譲らなかったのだ。
「まあ、紹介できなくはないが……」
そして、その視線が彼女へ向けられる。妖力の多寡を確認したのだろう。
「見たところ、霞さんの妖力は微々たるものだ。儂を頼らずとも、普通に職を求めることができるのではないかな?」
桑名さんは首を傾げた。彼に仕事の斡旋を依頼するのは、妖力や種族特性を抑えきれない人たちがメインだからだ。しかし、霞の場合は――。
「桑名さん。彼女が心配しているのは、妖力じゃなくて身元保証人です」
「おお、そういうことか。ふむ……」
納得すると、桑名さんはまず俺のほうに視線を向けてきた。
「工房の人手は足りてますからね」
霞が錬金術を習得できるとは思えないし、店番だけでは暇すぎる。ついでに言えば、人を雇うと税やら社会保険やらの手続きが一気に煩雑になるからな。
「そういうことなら協力できるだろう。霞さんはどんな仕事の経験がある?」
「それが……私、今までどんな仕事をしていたのかも分からなくて」
「そうか、そうだったな。すまぬ」
霞の返答に桑名さんは少し考え込んでいる様子だった。そして、ふと俺のほうを見る。
「京弥はどう思う」
突然指名された俺は、宙を見上げて頭を回転させた。
「陰陽寮で働いていたなら事務系か……もしくは、料理の腕を活かすか」
「ほう? 霞さんは料理が得意なのか」
「かなりのものです」
興味深そうに問いかける桑名さんに、俺は即答する。
「正社員にこだわらなければ、未経験者を受け入れてくれる所はあるでしょう」
「そうだな。記憶が戻ってからのこともある。正社員は避けて、パートタイムで探すべきか」
そんな話をしているうちに、桑名さんの中でいくつか候補が浮かんだらしい。その中でどれがいいか。二人がそんな話をしていると、唐突にインターホンが鳴った。
「荷物か……?」
俺は二人を残して玄関へ向かう。扉の向こうに立っていたのは、今回の件で世話になった学友。美幸と孝祐の二人組だった。
「えへ、来ちゃった」
「そういう台詞は彼氏に言えよ……よお、京弥」
そんな挨拶とともに、彼らは玄関に入ってくる。
「二人揃ってどうしたんだ?」
そう問いかけると、美幸は玄関の外を指差した。
「揃ったのは偶然。そこで出くわしてびっくりしたよ」
「まったくだ。二年ぶりか? お前は変わらないな」
「そういう孝祐はまた痩せたんじゃない? 魔力増幅薬も程々にしなよ」
「おいおい、人聞きの悪い表現は止めてほしいな」
と、和気藹々と話していた孝祐が、俺にひょいっと封筒を渡してくる。
「――頼まれてた資料だ」
「ありがとう。助かる」
どうやら、孝祐は収集した情報を持って来てくれたらしい。相変わらず素早い対応だ。
「なるほどねー。孝祐は仕事だったんだ」
「そういうお前は何なんだよ」
孝祐が尋ねると、美幸はなぜか勝ち誇るように胸を張った。
「私は霞ちゃんに会いに来ただけ。ほら、連絡くれたでしょ?」
「ああ。頼まれたからな」
俺は頷く。霞に頼まれたこともあって、世話になった美幸には事の顛末を伝えていたのだ。と言っても昨晩のことだったし、まさか突然訪問してくるとは思わなかったが。
「おいおい。京弥だけじゃなくて、お前も取り込まれてるのか? 霞ちゃん、見かけによらずやり手だな。さすがはハニトラ――」
「ちょっと、そういう下世話な呼び方は止めてよね。それに、あの霞ちゃんがそんなことできると思う?」
「思うも何も事実だろう? ……まあ、今の彼女には無理だろうが」
そんなやり取りをしながらリビングへ向かう。二人は桑名さんとも顔なじみのため、特別な紹介は必要なかった。
「おじさま、お久しぶりです」
「先生、いつぞやはありがとうございました」
「うむ。二人とも息災のようで何よりだ」
彼らは気負うことなく挨拶を交わす。そして二人が空いている椅子に座ると、入れ替わりで桑名さんが立ち上がった。
「それでは、儂は帰るとしよう。思いがけなく長居してしまったしな」
「私たちのことなら気にしないでください。突然押しかけたのはこっちですから」
「いやいや、ちょうど話が終わったところでな。むしろいいタイミングだった」
そう答えると、桑名さんは霞の方を振り返った。
「詳細が決まれば、また連絡させてもらう。連絡は京弥経由でよいかな?」
「はい。よろしくお願いします」
そんなやり取りを経て、桑名さんが帰宅する。年長者がいなくなったせいか、場の空気が少し弛緩した。
「ねえねえ、何かあったの? また連絡するって、トラブルでも起きた?」
そんな中で、最初に口を開いたのは美幸だった。
「いえ、大丈夫です。外に出られるようになりましたから、お仕事をしようと思って」
霞がそう答えると、ピュゥ、というわざとらしい口笛が鳴った。孝祐だ。
「立派だねぇ。京弥に貢がせて、悠々自適に暮らしててもいいんだぜ?」
「その表現はどうなんだ」
孝祐にツッコミを入れてから、俺は貰った封筒の中身を取り出した。今回の事件の顛末を受けて、いくつか依頼していたものだ。
「なになに? 面白そうな話?」
「美幸、お前も見るなら情報料を払えよ?」
「なんでよ。情報を買った京弥に見せてもらうならいいでしょ? ……あ、男前が写ってる」
美幸がそう評したのは、数日前に知り合った陰陽師、賀茂成明の顔写真だ。
「お前の好みは、もっと濃い顔じゃなかったか?」
「まあね。けど一般的に見れば男前じゃない? ねえ、霞ちゃん」
「え? いえ、私は別に……」
突然話題を振られた霞は、困ったように俺に視線を向ける。
「まあ、好みは人それぞれだからな」
フォローになるかどうか分からないが、とりあえず口を挟む。それをどう捉えたのか、美幸は悪戯っぽく俺を見た。
「京弥も素材はいいんだから、その気になれば大丈夫だって」
「何が大丈夫なんだ。というか、別に悩んでない」
そう返したところで、隣にいる孝祐が声をかけてくる。
「京弥。美幸たちは放っておいて説明をするぞ」
「ああ、分かった」
さっと仕事モードに切り替えた孝祐に合わせて、俺も真面目な顔を作った。
「――賀茂成明。陰陽寮退魔局に所属する陰陽師だ。安倍家と並ぶ陰陽師の名家、賀茂家の長男で、いずれは陰陽頭になると言われている逸材だ。戦闘評価はSプラス。当代最強の陰陽師との呼び声も高い」
「なるほど……想像通りだが、改めて聞くと凄まじいな」
日本には様々な術体系が存在するが、基本的にそれらは陰陽寮に統括されている。そのこともあって、今では日本の伝統的な魔術師はすべて陰陽師と呼ばれている。
つまり、当代最強の陰陽師ということは、日本最強の術師とほぼ同義だ。
「所属は退魔局だが、陰陽頭の直属とされていて、自由行動が高いレベルで認められている。そして何より、賀茂家は『陰陽四家』の一つだからな。敵に回すと非常に厄介だぞ」
その響きには覚えがあった。たしか、陰陽寮を牛耳っている四つの家柄を指していたはずだ。
「大丈夫だ。戦うつもりはないし、むしろ彼個人には好感を持っているくらいだ。ただ、用心するに越したことはないだろう?」
「本当だろうな?」
少し疑わしそうに念押しすると、孝祐は別の情報の説明に移る。金曜日に壊滅した組織の詳細や、最近の諸勢力の動きなど、その内容は多岐にわたっていた。
と、そんな時だった。美幸の驚いた声がリビングに響き渡った。
「――え? じゃあ、霞ちゃん引っ越すの?」
「はい。桑名さんが紹介してくれるそうです」
「そっか……寂しくなるね」
続いてそんな会話が聞こえてきて、つい彼女たちに視線を向ける。
「連絡が取りにくくなっちゃうね。京弥を通じて、ってワケにもいかないし」
「そのあたりも桑名さんに相談しています。それに、日野さんには私の封印の解除をお願いしていますから、こちらと無縁になるわけでもありませんし」
色々と考えていたのだろう。霞の口から今後の方針がスラスラと出てくる。そのことに不思議な感慨を抱いていると、孝祐がぼそりと呟いた。
「――寂しそうだな」
「……え?」
「そんな顔をしてたぞ。ウィリアムの爺さんがいなくなった時ほどじゃないが、しょぼくれた顔だ」
「まさか。たった一週間だぞ? それに、ほとんど顔を合わせることもなかったし」
俺は首を横に振った。霞とはリビングで話をしたり、店舗や工房に顔を見せたり、差し入れをくれるようになった程度で――。
「……?」
自分の頭の中で、彼女と共有した様々な時間が勝手に再生されていく。そのことに戸惑っていると、孝祐が大きく溜息をついた。
「だから、お前は情が深いから気を付けろって言ったんだ……」
俺の様子から何を感じ取ったのか、彼は渋い表情を浮かべていた。
「ほら。見られてるぞ」
「え?」
孝祐が言う通り、いつの間にか彼女たちの視線は俺に向けられていた。やがて……俺は霞と視線を合わせると、ためらいがちに口を開いた。
「桑名さんに頼んでいる住居の件だが……」
「分かっています。住む場所が決まったらすぐに引っ越しますから……もう少しだけ、ここにいさせてください」
何を思ったのか、霞は神妙な顔で頼み込んでくる。そういうつもりではなかったのだが――。
「これ以上、日野さんにご迷惑はかけられませんから」
何かに堪えるように、霞は自分の手をきゅっと握りしめた。その言葉はいかにも彼女らしいものだ。
だが……その言葉を紡いだ霞は、相反する表情を浮かべていた。彼女自身も気付いていないのだろうが、その表情はまるで――。
「俺は構わない」
そんな彼女の表情に後押しされて、俺の口から言葉がこぼれた。
「……え?」
「霞の記憶が戻るまで、この家にいればいいさ」
驚く霞に重ねて告げると、彼女は目を見開いたまま固まっていた。ひょっとして俺の思い違いだったのだろうか。そんな気がしてきた俺は、慌てて言葉を続ける。
「その……封印の解除という依頼を受けているからな。試行錯誤になると思うから、対象者には近くにいてもらったほうが都合はいい。
それに、部屋は余っているし、家賃を取るつもりもない。気が引けると言うなら、今まで通り食事を差し入れてくれると嬉しい」
なぜか気が焦っていた俺は一息に言い切った。すると、ようやく霞が口を開く。
「本当に、いいんですか……?」
信じられない、という表情で霞は念を押してきた。だが、俺からすればこっちの台詞だ。
「もちろんだ。……ただ、知っての通りこの家には俺しかいない。それが不安だという気持ちは分かるから、無理強いするつもりはない。そこは絶対に遠慮しないでくれ」
俺は真剣な口調で告げる。彼女が心配だとか、料理をもっと食べたいだとか、そんなものは俺の都合でしかない。ただ、もし霞がこの家に留まることを願っているのなら、それを拒む理由はない。そう伝えたかった。
「日野さん」
やがて。彼女は姿勢を正してから、綺麗な所作で頭を下げた。
「その……これからも、よろしくお願いします」
あらためて言葉にするのは恥ずかしいのか、顔を上げた彼女は、はにかんだ笑みを浮かべた。
「ああ。こっちこそ」
そんな彼女の表情を直視すると、こっちまで落ち着かなくなってしまう。どうしたものかと意識を逸らしていると、外野二人の声が聞こえてきた。
「ねえ、孝祐。これ、口説いてるんだと思う?」
「だと面白いが、あの京弥だぞ? 堅物っぷりはお前も知ってるだろう」
「あと、食事の差し入れって聞こえたよね? しかも『今まで通り』って――」
「ったく、もう胃袋を掴まれてるんじゃねえか……」
そんな会話が聞こえてきて、俺は渋面を隠すように手で顔を覆った。見れば、霞も気まずそうに下を向いている。そんな気恥ずかしい雰囲気に耐えられず、俺は学友たちにクレームを入れた。
「――二人とも、聞こえてるぞ。せめて聞こえない音量でやってくれ」
「はいはい。悪かったよ」
まったく悪びれていない声色で孝祐が答える。
「それよりさ、皆でちょっと出掛けない? もともと、今日は霞ちゃんと出掛けようと思って来たんだよね」
ごまかそうと思ったわけではないだろうが、ふと美幸が話題を変えた。なるほど、それで押しかけてきたのか。
「悪いが俺はパスだ。色々と予定があるからな」
「また女遊び? 孝祐、そのうち刺されるよ」
「刺されるようなヘマ……もとい、誠意のない真似はしないさ」
「いっそ刺されたらいいのに」
そんな会話を聞き流しつつ、俺は霞に視線を向ける。呆気に取られた様子で二人の会話を眺めていた彼女は、やがて俺の視線に気付いたようだった。
「ええと……その、なんだ」
さっきの雰囲気の名残なのか、目を合わせるとどうにも落ち着かない。そんな感情をなんとか飲み込んで、俺は口を開いた。
「ちょうどいいから、ついでに携帯電話の契約にいこう。連絡先がない履歴書じゃ、受かる面接も受からないからな」
「え? でも、身分証明書が――」
「俺の名義でもう一台契約すればいい。実際に使うのは霞だから、機種を選んでくれ。……ああ、ちゃんと使用料金は請求するから安心していい」
「はい。ありがとうございます」
そう伝えれば、霞はほっとしたように微笑んだ。色々と気になっていたのだろう。
「――あ。京弥が彼氏面してる」
「いやぁ、あれは父親面じゃないか?」
「言えてる!」
「もう好きに言ってろ……」
そんな声を無視して、俺は外出の支度をするのだった。