監視Ⅳ
魔力の過剰供給の反動も抜けて、すっかり元気になった金曜日の夜。俺はとある目的のために、錬金術工房にこもっていた。
「そろそろ焼けたか?」
工房内に、燻された魚の香りが充満する。魔法陣の上でパチパチと音を立てている鯵の干物を箸で取り上げると、俺は用意していた皿の上に載せた。
「んん……!」
思わず声がもれる。鯵とは思えないほど脂がのった身は至福の味わいで、旨味が口の中に広がったところへ白ご飯を投入する。その相性は抜群で、俺は無心で干物と白米の間を往復していた。
「今日は干物にして正解だったな……!」
そして、自分の目利きを賞賛する。霞に住居フロアの台所を貸しているため、今の俺はグリルを使うことができない。一つ口のコンロがあるだけだ。
もちろん、霞に言えばいつでも使えるのだが、そうなれば彼女が遠慮して、台所そのものを使わなくなるような気がしていた。
「……懐かしいな」
そして、ふと思い出す。俺の師匠もまた、この工房でよく食事を作っていたのだ。せっかく立派な台所があるのに勿体ないと、師匠に小言を言っていた記憶が蘇る。
そうして、昔を懐かしみながら食事を終えようとしていた時だった。ふと、工房の入口から人の気配を感じる。
「霞か。どうした?」
そこに立っていたのは、面食らった顔で立ち尽くしている霞だった。よく工房に籠もりっきりになる俺を心配して、これまでも何度か声を掛けてくれた彼女だが、今日は少し様子が違っている。
「その、工房から不思議な香りが漂っていたので、気になって……」
「不思議な香りって……これか」
俺が視線を干物に向ければ、彼女はこくりと頷く。まあ、錬金術工房で干物を焼く錬金術師なんて、俺くらいだろうからな。
「最初は焼き魚の香りだと思ったんですけど……でも、工房からそんな匂いがするわけないですし。そう考えていたら、なんだか混乱してしまって」
「それで、原因を確かめに来たと」
そうしたら、本当に工房で魚を焼いていた錬金術師を目の当たりにしたわけだ。混乱して当然だろう。
「魔法陣で魚を焼くと、美味しく仕上がるんですか?」
だが、彼女の問いは予想の斜め上を行くものだった。料理上手の血が騒ぐのだろうか。
「どうかな……高熱を与えるのは簡単だが、それだけじゃ香ばしさに欠けるからな。だから、それとは別に炎を生み出して炙るんだが、この加減が難しくてさ」
そう答えて笑う。慣れない頃は、よく表面を黒焦げにしたものだ。俺が過去の失敗を思い出していると、霞は不思議そうに目を瞬かせた。
「え? それじゃ、どうしてグリルを使わないんですか? 修練の一環で――」
そして、途中ではっとしたように口を閉じると、彼女は申し訳なさそうに俺のほうを見つめる。
「ひょっとして……こちら側の台所にはグリルがないんですか?」
「まあ、滅多に使わないからな」
そうフォローするが、霞は恐縮しきった様子だった。そして、恐る恐るといった様子で口を開く。
「もしかして、今の日野さんがお料理を作っている場所って、お店の裏にある給湯室じゃ……」
「ああ。そこだ」
そう答えると、彼女は気の毒なほど狼狽していた。
「だって、あそこのコンロは一つ口ですよね? お料理するのが大変じゃありませんか?」
「あまり困ってないぞ。俺が作るのは野菜炒めとか丼ものみたいな、一つしか火を使わない料理ばかりだから」
俺は胸を張って答える。このあたりもまた、美幸に『京弥の料理は大雑把』と言われる由縁だ。
「だから、気にしないでいい。コンロもグリルも、霞が使ったほうが有意義だ」
俺はそう結論付ける。今日の焼き魚のように不便を感じることもあるのだが、グリル付きの三つ口コンロを持て余しているのも事実だ。
「家主から台所を奪う店子がどこにいるんですか……」
霞は困ったように呟いた。その顔を見ているうちに、ふと図々しい提案が脳裏に浮かぶ。
「じゃあ、差し入れで手を打たないか」
「差し入れですか?」
「俺と違って、霞はちゃんと料理を作っているだろう? それなら、作りすぎた時や、たくさん作ったほうが効率のいい料理を作った時に、俺にも分けてくれないか」
俺は半ば本気だった。以前に美幸と三人で食べたサンドイッチやスープ。そして、昨日、看病の一環として作ってくれた三食。そのどれもがあまりに美味しかったからだ。
これまでのやり取りからしても、人に料理を食べさせることは好きみたいだしな。さらに言えば、借りばかりだという霞の心苦しさを和らげることもできて一石二鳥だ。
と、そんな思いを口に出して説明すると、彼女は不思議そうにこちらを見つめた。
「そんなことでいいんですか……?」
「むしろ、それがいい」
即答すると、霞は嬉しそうに微笑む。普段の彼女は、真面目な顔か不安そうな表情を浮かべていることが大半であるため、その笑顔はなんだか新鮮だった。
「分かりました。毎日、きちんと差し入れをお持ちしますね」
「毎日じゃなくていいぞ? それじゃ負担が大きいだろう」
「一人分も二人分も変わりませんから」
そう答える霞は、想像以上に嬉しそうだった。借りを返せることが嬉しいのか、料理を作ることが好きなのか。おそらくはその両方なのだろうが、見ているこっちまで頬が緩む。
「それじゃ、日野さんの好みを聞いていいですか? 苦手なものを差し入れすると悪いですから」
やる気に満ちているのか、霞は詰め寄らんばかりの勢いで身を乗り出した。
「別に苦手なものはないから、自由に作ってくれ」
まるで肩透かしのような返答だが、事実なのだから仕方がない。彼女はめげた様子もなく、さらに身を乗り出す。
「それじゃ、好きなものはなんですか?」
「色々あるが……そこまで気を遣わなくてもいいぞ?」
「何を作るか悩んだ時に、日野さんが好きなものが分かっていれば、メニューを決めるのも楽ですから。そんな時の参考にしようかなって」
「む……たしかにそれは嬉しいな」
俺は素直に同意する。別に禁欲生活を送っているわけではないし、食卓に好物が多いということは、幸せの総量が増えるということだ。食事以外の楽しみを持たない身としては、非常に大きな意味があった。
「そうですよね! それじゃあ――」
と、そんな時だった。工房の作業台に置いていた携帯電話が音を立てる。仕事用に契約している端末だ。
「こんな時間に珍しいな」
孝祐や美幸ならプライベート用の端末に電話してくるだろうし、完全な仕事がらみの客がこの時間に連絡してくることも滅多にない。
そう思いながら出た電話の相手は、二日前に知り合ったばかりの男だった。
『日野殿か。こんな夜分に申し訳ない。明日そちらを訪問したくて、連絡させてもらった。例の件が片付いたのでな』
陰陽寮に所属する陰陽師――賀茂成明は、早々に用件を切り出す。
『構わないが、明日は営業日だ。込み入った話になるなら、昼の一時から四時の間、もしくは夜七時以降にしてほしいが……大丈夫か?』
『承知した。それでは、明日の二時にそちらへ伺う。それと、可能なら件の女性にも会わせてもらいたい』
そんな賀茂の要望に驚くが、これまでの経緯を考えればおかしなことではない。陰陽寮も調書を取ったりするのだろうか、などと疑問が頭に浮かぶ。
『本人に聞いてみるが、無理強いはしないぞ』
『無論だ。この事件を預かった者として、直接話をしたいだけだ。それでは、また明日』
そんな言葉を残して、賀茂からの電話は切れる。
「凶報か、それとも吉報か……」
ぼそりと呟く俺を、霞が不安な顔で見つめていた。
◆◆◆
「わざわざ足を運んでもらってすまない」
「こちらこそ、突然ですまなかった」
お客のいない昼過ぎの店内。小さな丸テーブルを挟んで、俺は陰陽寮の術師である賀茂成明と向かい合っていた。
「――すみません、遅くなりました」
少し遅れて、カウンターの奥から霞が現れる。俺がやると伝えたのだが、来客用のコーヒーくらいは自分が用意すると主張したため任せていたのだ。
「気遣い、痛み入る」
会釈して、賀茂は霞へ視線を向ける。そして……彼女を見つめたまま、しばらく固まっていた。ひょっとして、霞に見惚れたのだろうか。そんな雑念が頭に浮かぶ。
「あの、どうかしましたか?」
霞が問いかけると、彼ははっと我に返った様子だった。
「失礼した。貴女が日野殿が話していた被害者だろうか」
「はい」
「たしかに強固な封印だな。陰陽寮でも解ける者がいるかどうか……」
霞の封印を確認していた賀茂は、やがてぼそりと呟いた。そして、再び俺のほうへ向き直る。
「まず、結果を伝えておく。拘束した陰陽師――佐原亮吾の依頼主であった組織は、昨日壊滅した」
「壊滅?」
予想外の成り行きに、俺は唖然とするほかなかった。隣を見れば、霞も驚いた様子で賀茂を見つめている。そもそも佐原を捕らえたのは水曜日。たった三日前の話だ。
「つまり、もともとマークされていた組織が依頼主だったのか?」
佐原を捕らえてから動いたのだとすれば、あまりに早すぎる。となれば、それくらいしか考えつかない。
「話が早くて助かる」
俺の予測は正しかったようで、賀茂は静かに頷いた。
「それで……その組織のことは教えてもらえるのか?」
「こんなご時世だ。構成員などの個人情報は教えられないが……東西の融和を否定する組織だったとだけ言っておく」
「東西の融和……」
霞がぽつりと呟く。あまりピンと来ない表現だったが、東とはこの国に古くから在る妖怪や陰陽師たちのことで、西とは西洋の流れを組む魔術師や錬金術師、西洋に起源を持つ魔物のことだろう。それくらいの見当は付いた。
「それじゃ、私を日野さんから引き離すというのは……」
「軽く調べさせてもらったが、日野殿は有名な御仁のようだな。陰陽寮の資料にも名があった」
「……それは光栄だ」
思わず皮肉めいた口調に変わる。陰陽寮に俺の名前が記録されているとすれば、師匠が追い出された一件くらいしか心当たりがないからだ。
「英国の錬金術師、ウィリアム・ロッド卿が日本で育てた五人の後継。その弟子たちは、いずれも妖怪や魔物の末裔が現代社会で生きていく手助けを行っている」
「そうらしいな」
言葉少なに頷く。兄弟子がいることは知っていたが、連絡先を教えてもらう前に師匠がいなくなってしまったせいで、詳しいことは知らないからだ。
「わが国では、修練によって妖力や種族特性を抑え込む方法が主流だった。だが、それ以外の方法を示したのが錬金術師であり、その有用性は非常に大きい」
そう前置いてから、賀茂は苦笑とともに言葉を続ける。
「だからこそ、錬金術師への態度は千差万別だ。錬金術師の恩恵を西洋系で独占したい勢力や、渡来の魔術師や魔物を排除したい勢力。逆に錬金術師を我が国の魔術体系に取り込みたい勢力などが代表的だ」
「ということは、霞を狙ったのは西洋系の組織か」
陰陽寮に所属する彼女が、西洋の錬金術師を取り込もうとしている。そう判断して凶行に及んだのだろう。
「そうだ。もともとマークしていた過激派が、佐原を雇っていたことが判明したのでな」
なるほど。それで『壊滅した』に繋がるのか。そう納得していると、ふと賀茂が携帯電話を取り出した。着信があったのだろう。
「すまないが、少し外す」
「分かった」
頷くと、彼は端末を持ったまま店の外へ出た。残された俺と霞は、同時に顔を見合わせる。
「……俺の事情に巻き込んでいたようだな。すまない」
やがて、俺は口を開いた。てっきり霞の記憶封印絡みだと思っていたが、賀茂の説明からすると、錬金術師を巡るあれこれに彼女が巻き込まれた形なのだろう。
そう伝えたところ、霞は慌てたように手を振って否定する。
「私が陰陽寮に所属していて、その……日野さんを取り込もうとしていたのなら、原因はやっぱり私です」
「だが……」
「だって……」
俺たちは同時に口を開いて、同時に口をつぐむ。そのことが不思議と面白くて、どちらからともなく笑いがこぼれた。
「この件については、お互いにもう謝らないし、引け目も感じない。そういうことで手を打たないか」
「そうですね。私も賛成です」
ふふ、ともう一度笑ってから、霞は俺の提案に頷く。
「――ふむ。いつの間にやら和やかな空気だな」
電話を終えた賀茂が戻ってきたのは、そんなタイミングだった。彼はまじまじと俺たちを観察した後で、自分が座っていた席へ戻る。
「それで、どこまで話したのだったか……ああ、そうだ」
一人でそう完結すると、彼は霞に視線を向けた。
「貴女の記憶の封印について、まだ話をしていなかった」
「!」
思いがけないタイミングだったのか、霞の表情が強張る。だが、続く賀茂の言葉は実のないものだった。
「佐原も、そして雇い主だった組織も、封印については何も知らなかったようだ」
「そうですか……」
期待していただけにショックが大きかったのか、彼女は気落ちした様子を隠しきれていなかった。
「少なくとも、貴女を害しようとしていた組織は壊滅した。外を出歩くことすらできない、などということはないはずだ」
そんな霞を励ますように、賀茂は真剣な顔で断じる。なんとなく分かっていたが、けっこういい奴だな。陰陽寮のイメージと合わないが、巨大な組織ともなれば様々な人間がいて当然なのかもしれない。
「はい。賀茂さん、ありがとうございます」
その気遣いは霞にも届いたようで、彼女は穏やかに微笑んだ。すると、賀茂は落ち着かない様子で視線を逸らす。ひょっとして照れているのだろうか。
「それでは、私はこれで失礼する。何かあればいつでも頼ってもらって構わない」
そう言って去っていく仕草もどこか不自然で、その様子に微笑ましさすら感じる。ろくにお礼の言葉を掛けられなかったことは心残りだが、また会うこともあるだろう。
やがて、カランカラン、と店の扉が音を立てて閉まる。それを機に、俺は霞のほうへ向き直った。
「さて……封印のことは残念だったが、もう霞が狙われることはない。一歩前進だ」
俺はあえて断定的に言い切った。振り出しに戻っただけとも言えるが、今はそのことを素直に喜んでおくべきだろう。
そんな意思が伝わったのか、霞は素直に頷いた。
「そうですね。少なくとも、これで外に出られます」
彼女は店の扉の前に立つと、くるりとこちらを振り返る。その顔には柔らかな微笑みが湛えられていた。
「――この町のこと、教えてくださいね」
そう告げて、彼女は目の前の扉を押し開いた。