監視Ⅰ
「京弥、起きてるー?」
記憶を失った霞と、友人である美幸を家に泊めた翌朝。工房の二階で寝ていた俺は、美幸の陽気な声で目を覚ました。
「今起きた。少し待っててくれ」
答えて、最低限の身支度を整える。部屋の扉を開くと、美幸だけでなく霞の姿もあった。
「おはよー」
「おはようございます」
口々に告げる二人に挨拶を返すと、そのまま霞に話しかける。
「少しは眠れたか?」
「はい、おかげさまで」
そう答える彼女の顔色は悪いものではなかった。そのことにほっとしていると、美幸が口を開く。
「ねえ。私、一度家に戻るね」
「ああ、突然呼び出して悪かったな。ありが……ん?」
と、俺は首を傾げる。その言い方ではまるで――。
「霞ちゃんに貸す服を、いくつか取りに帰ろうと思って。またお昼くらいに戻ってくるから」
「いいのか?」
思わぬ言葉に問い返す。面倒見のいい彼女だが、服まで貸すとは思わなかった。
「だって、霞ちゃんは他に服がないんでしょ? それじゃ困るだろうし」
「本当にすみません……助かります」
「いいよ。買ってみたけど、私じゃ雰囲気が合わなくて、着てないやつを持ってくるだけだから」
にこやかに告げると、美幸は別れの挨拶とともに軽やかに去っていく。今日は土曜日であり、彼女の仕事が休みだということは知っていたが……それにしても協力的だな。霞のことを気に入ったのだろうか。
「昨日、美幸と何か話したか?」
そんな感想から疑問を口にすると、霞は穏やかに微笑む。
「はい。色々と気遣ってくれて、妖怪や魔物、陰陽寮の現状について教えてもらいました」
「ああ、なるほどな」
後でざっと教えるつもりだったが、手間が省けたな。心の中で美幸に感謝する俺だったが、何やら霞の視線が泳いでいることに気付く。
「……他には?」
追及すると、霞の表情が一瞬変わった。自分でもそのことに気付いたのだろう。彼女は気まずそうに視線を逸らす。
「日野さんの昔のお話を少し……」
「あいつ……」
俺はさっきの感謝を取り消すと、小さく溜息をついた。何を話したのか気になるが、聞き出す気にはなれない。
「あの、日野さんの印象が悪くなるようなお話はありませんでしたから……それに、美幸さんのお話も。淫魔の血を引いているんですね。びっくりしました」
「そこまで話したのか。だいぶ美幸に気に入られたな」
美幸は自分の血統に複雑な思いを抱いている。それを考えると少し意外な気がした。
「美幸さんのお話では、『昔の私と似てるから放っておけない』そうです」
「昔の美幸と……?」
俺は首を傾げた。だが、ここでそれを言っても仕方がない。
「ともかく、昼には戻ってくるらしいからな。俺は店があるから、霞のほうで美幸の相手をしてほしい」
「はい、もちろんです」
「あと、家電の類は自由に使ってくれ。なんなら家を掃除してもらっても構わないぞ」
そんな軽口を告げた後で、俺ははっと口をつぐんだ。部屋を無償で貸している俺が言えば、それは命令になってしまうのではないか。
「――今のは忘れてくれ。冗談のつもりだったが不適切だった」
慌てて付け加えれば、彼女はクスリと笑った。
「大丈夫です。日野さんのお気持ちは分かっているつもりです」
そう答えた後で、彼女は「でも」と付け加える。
「私自身、やることがありませんから……もしよかったら、共有部分だけでもお掃除させてもらっていいですか? ただテレビを眺めているのも辛いですし」
「構わないが……無理にする必要はないからな」
それとも、彼女の基準ではあの家は汚すぎるということだろうか。見るに堪えない程度ではないと思うが、細かい所まで手が届いているとは言い難い。その可能性もありそうだな。
「それから、冷蔵庫にあるものは食べてもらって構わない。あまり備蓄はないが、一日分くらいはあるだろう」
「え? いえ、それはさすがに――」
「一日や二日で事件が片付くとは限らないからな。ここで倒れられては、俺が困る」
なんせ、彼女には保険証どころか身分証もないのだ。自由診療という手もあるが、何かと面倒ではある。併せてそう伝えると、霞は恐縮しながらも頷いた。
「日野さんには、ご恩を受けてばかりですね……」
そう苦笑を浮かべてから、ふと顔を上げる。
「あ。もしよかったら、お洗濯とか――」
「大丈夫だ。それは自分でやる」
俺は即答した。家族でもない女性に、自分の衣服や下着を洗ってもらう気にはなれない。借りを作りたくないという気持ちの表れだろうが、それはそれだ。
「そんなに気負わなくてもいいさ。もともと部屋は余っているし、一人だと無駄にしてしまう食材も多い。そういう意味では、大してコストは変わらない」
そう言い聞かせながら、霞を住居エリアに繋がる通路まで送っていく。
「じゃあ、せめてこのお家を新築のように磨き上げてみせます……!」
冗談とも本気とも取れる言葉を口にして、彼女は住居エリアへ戻るのだった。
◆◆◆
土曜日ということもあり、『トワイライト』を訪れるお客の数は多かった。
そしてその人数は、現代社会に適応しきれず、錬成薬の力でなんとか自分を矯正しようとしている者の数でもある。
郵送での対応もしているのだが、遠方の人でも最初の一、二回は店で状態を確認するため、特に土曜日は混み合うのだ。
「……ふぅ。もう昼か」
結界を抜けて迷い込んできた一般人に適当な健康食品を掴ませて帰すと、俺はちらりと時計を見た。
この店の特性上、店内に長く居座る客は少ない。話をするとしても、それは症状に関わる話がほとんどであり、後は世間話が好きな常連さんがたまにいるくらいだ。ただ――。
「京弥、手伝ってー」
と、店の扉がわずかに開いて、美幸の声が飛び込んでくる。急いで扉を開けると、美幸がパンパンに膨れた大きな紙袋を両手に持っていた。
「これが朝に言ってた……」
「――怪しい客がいる」
美幸の言葉を遮って、俺は口早に告げた。察しのいい美幸はそれだけで理解したようだった。
「分かった」
彼女から紙袋を一つ受け取ると、一緒に店内へ入る。店内にはまだ三人ほどお客が残っており、彼らの視線が一斉にこちらを向いた。
「何か月か前に頼まれてたやつ、持ってきたよー。全部うちの一族が使ってたやつだから。……まさか、こんなのが錬成薬の材料になるなんてね」
美幸は紙袋をカウンターに置くと、不思議そうな表情を浮かべる。即席のアドリブにしては上手い設定だ。
「錬成薬の材料は千差万別だからな。それより美幸……魔力がこぼれてるぞ」
「え!? ごめん!」
俺が指摘すると、彼女は慌てた様子で魔力を制御する。淫魔の末裔であり、その中でも特に力を強く受け継いでいる彼女は、気を抜くと誘惑の魔力が溢れる傾向にあった。
その瞬間、店内にいた三人の視線が彼女から離れる。誘惑の効果が切れたのだろう。
「この店に来ると、どうしても気が緩むんだよね。結界もあるし、半分自分の家みたいなものだし?」
「結界は張ってあるが、お前は力が強いからな……」
そんな小芝居の後で、美幸はくるりと店内のお客に向き直った。
「あの、皆さんもすみませんでした!」
ぺこりと頭を下げれば、彼らは曖昧な笑みで目礼を返す。この店にいる時点で、彼らも自分で制御できない魔力や種族特性に悩まされているのだ。そこに突っかかるような客はあまりいない。
「ねえねえ、もうすぐ午前の営業終わりでしょ? 終わったら一緒にお昼食べようよ」
「ああ、分かった。奥で待っててくれ。……ついでに、それも奥へ運んでおいてもらえると助かる」
そう言って、彼女が持って来てくれた紙袋を指差す。
「おっけー」
彼女は上機嫌な様子で了解すると、紙袋を持ってカウンターの奥へ姿を消す。そのまま住居エリアへ向かって、霞に衣服を渡すつもりだろう。
「さて……」
疑念が確信に変わった俺は、とある男性客に意識を向けるのだった。
◆◆◆
午前の営業時間が終わった俺は、自宅エリアへ戻ってきていた。午後一時から四時までは休憩時間と仕入・作業時間であり、店舗にはcloseの札をかけている。
「京弥、どうだった?」
リビングにいた美幸は、俺の顔を見るなり口を開いた。
「おそらくあいつだな。……ありがとう、美幸。助かった」
そう告げれば、今度は霞が首を傾げる。
「何かあったんですか?」
「うちの様子を探りに来た術師がいた」
そう答えると、彼女の表情に緊張が走った。だが、隠しておくつもりはない。
「商品を長らく物色していた新顔の客がいてな。魔力をひけらかすような馬鹿ではなかったから、俺も判断しかねていたんだが……」
「だから、ちょっと誘惑の魔力をばら撒いてやったのよ」
「……え?」
思わぬ手段だったのか、霞は呆気に取られた様子だった。
「さすがに結界を張るような愚は犯さなかったが、自分にこっそり抗魔力の術をかけていた」
その時の魔力の動きからすると手練れの術師だろう。陰陽術は管轄外だが、その程度のことは分かる。
「じゃあ、私がここに匿われていることはもうバレて……」
「確信はないはずだ。まあ、監視の式神を潰したのは俺だからな。ここを疑うことは当然の帰結だ」
だからこそ、あの時の美幸は一芝居うったのだ。女性ものの服を大量に持ち込むなど、ワケありだと喧伝するようなものだ。
「それに、帰り際にしれっと式神を忍ばせていったしな。もともとマークしていたし、当然潰したが」
「それって大丈夫? 逆に疑われるんじゃない?」
「霞の件に関係なく、これまでもうちの工房に忍び込もうとする式神は即殲滅してきたし、それは他の魔術施設でも同じだろう。確信は持てないはずだ」
ただ、おかげで術師らしき男の顔は覚えた。こちらの動向を窺っていることが確認できただけでも、収穫と言っていいだろう。
「ところで……」
思考を切り替えると、俺は台所へ視線を向けた。なんだか美味しそうな匂いが漂ってきたからだ。
「あ、気付いた?」
「一緒に昼を食べようって、ここで食べるって意味だったのか」
「そりゃそうでしょ。じゃないと、出掛けられない霞ちゃんが一人になっちゃうし」
そんな話をしていると、霞が大皿を持って来てくれる。その上に載っているのは数種類のサンドイッチだ。
「ああ、そう言えば食パンの賞味期限が切れかけてたな」
「ちょっと、作ってもらったのにそういうこと言う?」
「いや、俺はよくぞ使ってくれたという、感謝の気持ちをだな……」
「大丈夫です、伝わっていますから」
俺と美幸のやり取りを聞いて、霞は控えめに笑う。彼女は台所へ戻ると、さらに三人分のスープ皿とサラダを運んできた。その様子から察するに、彼女が料理を作ってくれたのだろうが……。
「では、頂きます」
手を合わせると、俺はさっそく定番のハムサンドイッチに手を伸ばした。
柔らかく沈むパン生地に歯を立てると、バターの香りがふわりと立つ。続けて、重ねられたハムの濃厚な味わいと、レタスの瑞々しい歯触りが口内に広がった。
「美味い……」
それらのフィリングは、主張が控えめなマヨネーズによって一つにまとめ上げられていた。同時に、マヨネーズだけでぼやけそうになる味わいを、黒胡椒とマスタードが引き締める。
「これは参ったな……」
ハムサンドイッチなんて誰でも作れるし、同じような味に収束するものだ。そう考えていた俺は、自分の考えが甘かったことを知った。
「うわっ、美味しっ!」
その一方で、美幸はタマゴサンドに舌鼓を打っていた。卵サラダではなく、オムレツを使ったそのサンドイッチは、いたく彼女のお気に召したらしい。
「霞ちゃん、すっごく美味しいよ!?」
「ありがとうございます」
そんな言葉につられて俺も手を出せば、こちらもバターの香りが鼻腔をくすぐる。卵とバターの深いコクを、軽くトーストされたパンがしっかりと受け止めており、刻まれたピクルスの甘みと酸味が、絶妙な加減で味に深みを出していた。
「本当に美味しかった。……ごちそうさま」
そうして十分ほど経っただろうか。自分でも驚くほどの速度で大皿のサンドイッチを空にした俺は、満ち足りた気持ちで椅子の背もたれに体重を預ける。
「気に入ってくれてよかったです」
彼女はほっとしたように微笑んだ。その顔を見ていると、なんだかこちらまで表情が緩んでくる。
「スープも美味しかったー。火加減は大切なんだって思い知ったわ」
「分かる……」
俺はしみじみと頷く。自分で作ると、スープの具はすべてグズグズになるからな。
「京弥って、料理はできるけど大雑把だからね」
「その大雑把な料理をさんざん食べてたのは誰だよ」
俺は半眼で抗議するが、彼女の言は正しい。さっきのハムサンドだって、俺が作ればパンとハムしか使わないだろう。
「なんだか、買ってきたサラダが見劣りするレベルだったわ」
「いえ、そんなことは……」
サラダは美幸が出来合いのものを買ってきてくれたらしい。あれも高級デリカテッセンの味がしたが……個人的には霞の味付けのほうが好きかもしれない。
「いや、本当に美味しかった。そう言えば、ハムサンドのマヨネーズって何か混ぜたのか? いつもと少し味が違ったような」
「あれは、酢を少なめにして作りました」
「あー、マヨネーズから作ったんだ。これが女子力……」
美幸がよく分からないところで悔しがっている。俺もマヨネーズの作り方は知っているが、実際に作ろうなんて考えたこともないからな。
「家にあった食材だけでこれだからな。もし霞が本気を出せば、一体どうなるのか」
「私も気になる」
「そんなに変わりませんよ。特に今日は、時間があったので手間をかけられただけです」
霞は謙遜するが、その表情はどこか芯の強さを感じるものだった。ずっと遠慮ばかりしていた彼女の新しい一面を見た気がして、ついこちらの口角が上がる。
「そう言えば、服のほうは大丈夫だったか?」
そして話題を変えると、霞は嬉しそうに頷いた。
「はい。美幸さんのおかげで、困ることはなさそうです」
「サイズも問題なさそうで、着回しできるやつをたくさん持ってきたから、しばらくは大丈夫だと思うけど……こればっかりは好みの問題だからねー」
そして、美幸は意味ありげな視線を俺へ向ける。
「あとは京弥に買ってもらえばいいよ。霞ちゃんが上目遣いで頼めば一発だって」
「適当なことを言うな」
余計なことを吹き込もうとする美幸を牽制すると、俺は軽く咳払いをする。
「まあ、困った時は相談してくれ。無利子で貸すから」
「うわっ、京弥せっこーい!」
「無利子というところに誠意を感じてほしいな。それに、霞はタダで物を貰うと心苦しくなるタイプじゃないか?」
「あー……それはありそう」
俺の言葉に美幸が頷く。俺たちの視線を受けて、霞は困ったように笑った。
◆◆◆
「それじゃ、またね。霞ちゃん、いつでも頼ってくれていいから」
「美幸さん、本当にありがとうございました。このご恩は絶対に忘れませんし、借りたお洋服は必ず返しますから……」
午後七時で店を閉めた俺は、住居エリアで美幸を送り出していた。午前中にいったん帰ったものの、ほとんど一日中うちにいたことになる。
「そんなに大袈裟に考えなくてもいいって。その代わりじゃないけどさ。霞ちゃんさえよかったら、記憶が戻っても仲良くしてね」
「はい、もちろん」
「美幸、本当に助かった。大きめの借りとして覚えておく」
俺も素直に礼を口にする。霞のかわりに食料や生活用品の買い出しに行ったり、霞の相談相手になってくれたりと、今回の彼女にはいくら感謝してもしきれない。
「それじゃ、そのうちまとめて返してもらおうかな。じゃあね!」
賑やかな別れの挨拶とともに美幸が去っていく。玄関のドアを施錠すると、俺はリビングへと戻った。
「それじゃ、俺は工房に戻るから。何かあったら遠慮せず呼んでくれ」
そう告げて渡り廊下へ向かおうとすると、霞が俺の進行方向へ回り込んでくる。
「日野さん。今後のことでご相談があるのですが、お時間をもらえませんか?」
そう真剣に告げられては、断れるはずもない。
「分かった」
俺がリビングの椅子に座ると、霞はさっそく本題を切り出した。
「一つ目はお金の話です。やっぱり、お支払いしておこうと思って」
そう言って、彼女は財布から紙幣を取り出す。俺の記憶が正しければ、それは彼女のほぼ全財産のはずだ。
「私は外に出られませんから、お金を使うこともありません。宿泊費や食費のこともありますし、日野さんにお渡ししたほうが……」
「それは事後精算でいい。たしかに今は外へ出られないが、それでも君が自由に処分できる財産を持っておくべきだ」
この件は俺も考えていたことであり、譲るつもりはなかった。その意思が伝わったのか、やがて彼女は紙幣を財布へ戻した。
「お気遣いありがとうございます。でも……そうなると、二つ目のお願いがしにくくなっちゃいますね」
「二つ目のお願い?」
俺が聞き返すと、彼女は神妙な顔で口を開いた。
「日野さんに、私の封印の解除を依頼できませんか?」
「俺に?」
「はい。美幸さんに聞きました。日野さんはとても優秀な錬金術師で、難しい解呪をいくつも成功させたって」
「陰陽寮あたりなら、俺より優れた術師がいるはずだぞ」
「だとしても、私には陰陽寮への伝手がありませんし……何より、私自身が日野さんにお願いしたいんです」
そう言うと、彼女は机に身を乗り出した。
「知り合ってまだ一日ですけど、日野さんが信頼できる方だということは分かったつもりです。もし封印が解けなかったとしても、それなら諦めがつきますから」
「それは――」
「駄目ですか……?」
霞は不安そうに俺を見つめる。こんな表情を見ておいて、駄目だなどと言えるわけがない。
「分かった。その依頼を受けるよ」
「ありがとうございます!」
俺が頷けば、彼女はほっとしたように息を吐いた。
「後払いになっちゃいますけど、必ずお支払いしますから」
「ああ。無利子にしておく」
そう冗談めかすと、霞が小さく笑った。昼の話題を覚えていたのだろう。そして――。
「となれば、明日は気合を入れないとな」
「明日って、お店はお休みですよね? 何かあるんですか?」
不思議そうに問いかける霞に、俺は真剣な顔で頷いた。
「――ちょっかいを掛けてきた術師を、返り討ちにしてやろうと思う」