エピローグⅡ
「――霞ちゃんの記憶の復活と再会に……乾杯っ!」
「乾杯!」
三が日も明けた日曜日の夕方。俺は家に集まった五人とともに、酒器を掲げていた。
俺と霞以外では、特に霞のことを心配してくれた美幸、孝祐、そして霞の仕事仲間である水崎さんと、たまたま訪問を打診してきた賀茂成明の四人が参加者だ。
「んー! 今日のビールは最っ高だね!」
「まさか本当に霞ちゃんを奪い返してくるなんてな。そりゃ酒も進むってもんだ」
美幸が口を開けば、孝祐もそれに同意する。霞がすべての記憶を取り戻してから初めて会うこともあって、二人ともかなりテンションが高いようだった。
「あの神山家に対価として娘を要求するとは……いやいや、さすが京弥だ!」
何やら爆笑しながら、孝祐は俺の肩をバンバンと叩いてくる。すると、クスリと笑い声が聞こえてきた。
「あの時の京弥さん、男らしくて素敵でしたよ」
霞は満面の笑みで断言した。彼女にそう言われたことで、俺は返す言葉に困って右往左往する。
「あらあら、息をするように自然にのろけますねぇ」
そんな俺たちを楽しそうに眺めながら、水崎さんはローストビーフを頬張った。そして、次は何を食べようかと真剣に悩んでいる。
なんせ、約十日ぶりに帰ってきた霞が嬉々として料理を作り続けたため、その種類は非常に多岐にわたっている。メインのテーブルだけではまったく足りず、サブテーブルを二つ出しているほどだ。
だが、俺からすれば十日ぶりに食べられる霞の料理だ。すべてを平らげる気迫をもって、俺は箸と皿を構えていた。
「日野殿。……私などが参加してよかったのか?」
そこへ声を掛けてきたのは賀茂成明だ。生真面目な彼は美幸や孝祐のハイテンションに戸惑っているようだったが、霞の料理は大いに気に入ったらしく、かなりの速度で箸を動かしていた。
「もちろんだ。賀茂さんには何度も助けられたからな」
「京弥さんの言う通りです。成明さんには本当に感謝しています」
「その数倍は助けられた気がするが……」
そう呟いてから、賀茂はふと思い出したように口を開いた。
「陰陽四家を初めとして、こちら側では貴殿のことで大騒ぎだぞ。あの透殿とルーカスを倒した錬金術師の話で持ちきりだ」
「そうなのか? 過大評価は遠慮したいが……霞の妖力のことがバレるよりはマシか」
「しかも、京弥は最初から神山派閥だったことにされているしな。おかげで、お前の情報を買いたいって依頼が山のように舞い込んでくる」
口を挟んできたのは孝祐だ。情報屋として無視できない内容だったのだろう。挨拶代わりに賀茂のグラスに酒を注いで、孝祐は陽気に話しかける。
「まさか、日本最強の陰陽師と言葉を交わす日が来るとは思わなかった」
そう言ってグラスを掲げれば、賀茂もグラスを掲げて返礼する。
「こちらこそ、あの『千里眼』と酒席を共にするとはな。諜報部に言えば驚かれることだろう」
そんなやり取りの後で、話題は元に戻る。
「お二人の婚約が公になった以上、日野殿が神山家の関係者と見られることは避けられぬ。まして、相手の霞殿は現当主の子で神山家の直系だ。関係者どころか神山そのものと見る者も多いだろう」
「それはいいんだが、時系列が逆だろう? ルーカスを倒した手柄で霞ちゃんとの婚約を認めさせたはずだ。……ま、面子の問題だろうが」
「その通りです。神山としては、せめて自分たちで始末をつけた形にする必要がありましたから」
男二人の会話に霞が入ってくる。すると、孝祐は納得したように頷いた。
「ああ、やっぱり意図的なものだったか。ルーカスを倒した京弥が霞ちゃんと婚約するんじゃなくて、霞ちゃんと婚約していた京弥がルーカスを倒したという事実が必要な訳だ」
「はい。記憶を失った私が京弥さんと暮らし始めたタイミングで、婚約が成立していたことにしています」
「なるほど。婚約したから同棲していたという主張か」
「少なくとも、婚約者と言って差し支えないレベルでイチャイチャしてたしね」
「おい待て。美幸、さすがにそこまでじゃなかっただろう」
「人間、自分のことは案外分からないものよね」
そんな美幸の言葉に笑いが起こった。次いで、孝祐がからかうように口を開く。
「しかし……結果だけ見れば、京弥は見事にハニートラップに引っ掛かったことになるな」
その言葉には一理あった。俺は霞と婚約し、必然的に神山派閥と見なされるようになった。それは俺も覚悟していたことだ。
「別に構わないさ。陰陽寮への敵意が的外れだったことも分かったし、忌避するようなことじゃない」
それどころか、陰陽四家の一角である天原家は師匠を匿ってくれていたのだ。そういう意味では恩義すらあった。
「だが、錬金術の腕を見込んで、後ろ暗い依頼が舞い込んでくるんじゃないか?」
「道理を曲げてまで対応するつもりはない。……まあ、霞の身内なら多少は甘くなるだろうが」
そう言ってちらりと霞を見れば、彼女はにこやかに頷いた。
「大丈夫ですよ。今回の一件で、京弥さんは神山に大きな貸しを作りましたから」
「けど、霞ちゃんの嫁入りでチャラになるんじゃないの?」
「わ、私のことは、その……自分で望んでいたことですし」
美幸の言葉に照れたのだろう。霞は恥ずかしそうに答える。
「少なくとも、神山はそのことを知っていますから、無茶を押し付ける可能性は低いです」
「それに、天原の施設にウィリアムの爺さんがいるんだろう? 錬金術絡みならそっちにも頼めるからな」
「師匠の場合、興味が湧かないと手を付けないことがあるからな……」
「そうだったな……」
俺と孝祐は顔を見合わせて笑う。話が一息ついたタイミングで、今度は水崎さんが感心したように口を開いた。
「それにしても……霞ちゃんって神山家のお嬢さんだったんですねぇ」
さっきの霞の説明を聞いたからか、彼女はそんな感想を口にする。
「ねー! 私もびっくりしたもん。ホライゾンカフェに通ってた霞ちゃんのファンも、知ったら大騒ぎなんじゃない?」
「そうですね。妖力持ちのお客さんは皆驚くでしょうし……幾人かは青くなるでしょうねぇ」
美幸の言葉を水崎さんが肯定する。青くなるのは、霞にちょっかいをかけようとしていた奴らだろうか。
「あらあら、日野さんの顔が怖いですね。これなら、神山家の名前を出さなくても充分青くなるんじゃないかしら」
そうからかってきた後で、彼女は霞に笑いかけた。
「でも、嬉しかったです。記憶が戻っても、霞ちゃんが相変わらず仲良くしてくれて」
「私のほうこそ嬉しいです。皆さんに、また温かく迎え入れてもらえるなんて」
霞もまた笑顔で答える。実を言えば、彼女たちと会う直前の霞は少し緊張していたのだが、それもすっかりなくなっているようだった。
「ねえねえ。霞ちゃんって、またホライゾンカフェで働いたりするの?」
「神山の状況が落ち着いて、引継ぎも終わった後になりますけど……オーナーや皆さんが受け入れてくれるなら戻りたいです」
「霞ちゃんなら、みんな大歓迎ですよ。というか――」
水崎さんは笑顔で告げてから、ふと首を傾げた。
「今日からずっとこっちで暮らすわけじゃないんですね。てっきりそうだと思っていました」
「せめて透の件が片付くまでは、父を手伝う必要がありますから」
「霞殿は妖力こそ持たぬものの、御父上の補佐も行っていたからな。すぐに抜けることはできぬだろう」
霞をフォローするように賀茂が言葉を付け加える。そのことについては、俺も相談を受けていたため知っていた。
彼女が不在の四か月でそれなりに体制を構築していたらしいが、やはり引継ぎもなしに抜けた穴は大きかったらしい。
「じゃあ、あんまりこっちには来れない感じ?」
「そうですね……できれば、週に二回くらいは会いに来たいです」
「へー、そうなんだ。もちろん泊まりだよね?」
言って、美幸はニヤニヤとした表情を俺に向ける。それに対して、俺はわざとらしく肩をすくめてみせた。
「冷やかしのつもりだろうが、今さらだろう。これまでだって一緒に暮らしてたし、それくらいで照れたり――」
そう言いかけた俺は言葉を止めた。隣の霞が明らかに照れていたからだ。
「してるね」
「ああ、間違いない」
美幸と孝祐が茶化すと、霞は視線を逸らして口を開く。
「その、それはそれと言うか……今は実家に住んでいますし、昔の記憶もあるせいか、新鮮な気持ちもあると言うか……」
「そ、そうか」
しどろもどろな霞を見ていたせいか、その感情が伝染してくる。そのことを悟られないように、俺は酒器をぐいっと呷った。
「せめて、毎日京弥さんの顔を見て、お料理を作るくらいはしたかったんですけど」
「ふむ……もはや通い妻だな」
「っ!?」
賀茂がふともらした言葉に、再び霞が動揺する。
「まさか成明さんにからかわれるなんて……」
「たしかに、賀茂さんの口から出るのは意外だな」
俺が彼女の言葉に同意すると、賀茂は静かに笑った。
「私とて人の身だ。仲睦まじい二人を見ていれば、軽口の一つも叩きたくなる」
「そういう旦那こそどうなんだい? 相手の一人や二人……いや、十人や二十人はいるだろう」
「それは偏見というものだ。立場上、魔力に秀でた伴侶を探さねばならぬが……私はこの通りの性格だ。あまり女人には好かれぬだろう」
「あら、そんなことはありませんよ? 賀茂さんのように、寡黙で真面目な方は絶対に需要がありますから」
「そうそう。むしろ、家柄に気兼ねされる可能性のほうが高いんじゃない?」
「そうですねぇ。玉の輿に憧れる人もいますけれど、名家となれば気苦労が多そうなイメージもついて回りますから」
「名家同士で結婚する人は多いけど、そういうのに慣れている者同士だからって理由も聞くよね」
水崎さんと美幸が楽しそうに話を展開する。話題にされている賀茂はと言えば、何やら神妙な様子で彼女たちの会話を聞いていた。
「――あ。じゃあ、霞ちゃんと結婚することもあり得たの? 名家同士だし、年齢も近いし、妖力だって本当は凄かったわけだし」
美幸がそんな質問を投げかける。すると、孝祐が呆れたように口を開いた。
「お前、ここでそれを聞くか? もし二人が昔付き合ってたら、気まずいどころじゃないだろう」
「――ち、違います! そんなことありませんでしたから!」
大慌てで否定する霞を見て密かにほっとする。そんな自分の嫉妬深さを自覚して、俺はなんとも言えない気持ちに囚われた。
そんな俺の気持ちを慮ったわけではないだろうが、賀茂は冷静に美幸の指摘を否定する。
「霞殿は素晴らしい女性だが、賀茂と神山で血が混じることはない」
「ひょっとして、妖怪の血を入れないためか?」
そう言えば賀茂家は人間派閥だったな。そう思いついて口を挟めば、彼はあっさり頷いた。
「その通りだ。賀茂に伝わる術式には、人間でなければ扱えないものが多く含まれる」
やっぱりそうだったのか。一人で納得していると、ふと皆の視線がこちらを向いた。
「京弥のほうは?」
「妖力を調整する必要はあるが、妖怪の末裔でも錬金術を扱えることは師匠に確認済みだ」
俺は自信を持って請け合うが、周りから返ってきたのは生暖かい眼差しだった。
「もう話し合った後なんだ……ふーん」
「お前、ここまで先走るキャラだったか?」
「それだけ真剣な想いだということだろう」
三人が口々に呟いて、最後に水崎さんが大きく溜息をついた。
「もう……無自覚な惚気は危険ですね。あてられてしまいそうです」
その言葉に、残る三人は同時に頷いたのだった。
◆◆◆
「霞、お疲れさま。疲れてないか?」
「大丈夫です。京弥さんと会えたおかげか、むしろ元気なくらいです」
宴会の後片付けを終えた俺たちは、リビングのソファーに並んで腰かけていた。最後に二人で座ってから、まだ十日ほどしか経っていない。それにもかかわらず、俺は数年ぶりのような錯覚に囚われていた。
「……こうして、一緒にソファーに座るのも久しぶりですね」
そして、それは霞も同じことだったらしい。彼女はなんだか眩しそうな目で俺を見つめていた。
「どうした?」
「なんだか不思議な気分です。懐かしいと思う私がいる一方で、京弥さんのことをずっと好きだった私にとっては初めての体験ですから」
「そうか。そっちの霞にも幻滅されないようにしないとな」
「大丈夫です。そんなことはありませんから」
そう言って霞は手を重ねてくる。彼女のしなやかな指の感触が伝わってきて、俺は思わずその手を握り返した。
「……捕まっちゃいました」
「そうだな。逃げるのは諦めたほうがいい」
「ふふ、それは私の台詞ですよ?」
そう言って二人で笑い合う。彼女の笑顔はあまりに魅力的で、いつまででも見ていられる気がした。
「そう言えば、今日は作りませんでしたけど……あの霊草もお料理しちゃいますね」
ふと霞が思い出したように口を開く。その言葉に心当たりがなくて、俺は首を傾げた。
「霊草? 調合用じゃなくて食用の霊草なんてあったか?」
そう問えば、彼女は悪戯っぽい表情を浮かべた。
「ありましたよ? それも、四か月以上前から」
「え?」
予想外のヒントをもらって、頭の中の記憶を検索する。四か月以上前と言えば、記憶を失った彼女と出会った頃で――。
「……あ」
そして、ようやく思い当たる。思い出すのに苦戦したのも道理だ。その霊草をくれたのは、記憶を失う前の霞だったのだから。
「分かった。『あなたの霞より』の鉢植えだな?」
「そうですけど……その表現は恥ずかしいです」
言葉通りに、霞は羞恥で頬を赤く染めていた。彼女が俺の好みのタイプを勘違いしていた時に、無理して書き記したものだったのだろう。
「今の俺にとっては、それも大切な記憶だからな。それに、霞の名前が早期に分かったのはあの鉢植えのおかげだ」
当時を懐かしみながら告げる。たった数カ月前のことなのに、もはや遠い出来事のようだった。
「……というか、あれは食べるために持ってきたのか」
「はい。京弥さんが霊草好きなことは知っていましたから」
「それなら、そう言ってくれればよかったのに」
「渡す直前で気付いたんです。京弥さんの好みを知っているのは、その……情報収集をした成果だって」
霞はかすかな苦笑を浮かべる。たしかに、教えてもいない好物を知っているとなれば、ストーカー扱いされかねないからな。
「しかし、そうなるとなんだか勿体ないな。今となっては大切な思い出の一部だし」
そう本音をこぼすと、霞はクスリと笑った。
「それじゃ、もうしばらく置いておきますね。暖かくなると花が咲いて、霊草料理には適さなくなっちゃいます」
「それは勿体ないな。美味しく頂こう」
そうして、俺たちは他愛ない会話を楽しむ。これまではすることのできなかった霞の思い出話を中心に、過去へ未来へと俺たちの話は広がっていく。
「透君の具合はどうなんだ?」
「結論から言えば、至って正常らしいです。みんな驚いていますけれど」
「そうなのか?」
霞の説明に驚く。俺が数日前に聞いた話では、捕まってからの透はやけに素直な性格になったらしい。傲慢を絵に描いたような性格だっただけに周りも驚いており、どこか調子が悪いのではないかと言われていたのだ。
「初めて戦いに負けたことで、強いショックを受けたみたいです。自分より強い妖力持ちなんて、今までいませんでしたから」
「ああ、そういうことか」
つまりは鼻柱を折られたということだろう。自分こそが最強だと我儘を通すきらいがあったようだし、こう言ってはなんだがいい薬だったのかもしれない。
「あと――」
霞は言いかけてためらう。続きを促すと、彼女は気まずそうに再び口を開いた。
「私が京弥さんと婚約して、今年中に家を出る予定だということもショックだったみたいです」
「懐かれていると大変だな……透君の気持ちも分からないではないが」
なんとなく同情していると、霞は申し訳なさそうな顔で俺を見つめた。
「そのせいか、透は京弥さんの話題にだけとても敏感に反応するんです」
「え?」
「私には言いませんでしたけど、『お姉ちゃんにふさわしい奴か試してやるんだ』とよく言っているらしくて……」
「そ、そうか。できれば事前に通告してほしいところだな」
ある程度は想像していたが、なかなかのシスコンぶりだな。霞抜きではまともに相対できる自信がない。
「それでも、私への依存は弱くなった気がします。たぶんですけど、私が守られるだけの存在ではないと分かったからだと思います」
「それはよかった。……と言っていいのか?」
「はい。寂しい気持ちはありますけど、あの子の人生にずっと寄り添うことはできませんから」
そう断言して、彼女は甘えるように頭をすり寄せてくる。そのくすぐったいような感触を享受しながら、俺は彼女の言葉に頷いた。
「そうだな。透君には申し訳ないが、霞の人生に寄り添うのは俺だ。それだけは譲れないな」
そう告げれば、霞ははにかんだように微笑む。
「約束、ですよ? 京弥さんの隣は私の場所ですから」
「ああ。約束だ」
俺は重ねていた手を外すと、その手で彼女の肩を抱き寄せる。ぴたりと身を寄せていると、彼女の鼓動が伝わってくるようだった。
そうして、どれほど経っただろうか。少し身じろぎした霞に合わせて力を緩めると、彼女はするりと俺の胸へ飛び込んできた。
「京弥さん――」
膝に乗るような形で抱き合うと、彼女は俺に身体を預けてしなだれかかってくる。やがて顔を上げた彼女は、甘さを帯びた声で囁いた。
「……こうしていると、帰ってきた気がします」
甘い香りがふわりと俺を包みこみ、彼女の柔らかさがその存在を伝えてくる。俺の視界いっぱいに、幸せそうに微笑んだ霞の顔が映った。
この笑顔を、生涯忘れることはないだろう。俺は彼女を強く抱きしめて……そして、優しく耳元で囁いた。
「――おかえり、霞」




