エピローグⅠ
元旦の朝。激動の大晦日を乗り越えた俺は、まだ神山邸近くのホテルに泊まっていた。
昨日の戦いでルーカスも神山透も確保したとはいえ、事実確認を含め後処理はまったくできていない。そのため、神山家から帰らないでほしいと要請されていたのだ。
「――京弥さん。明けましておめでとうございます」
ホテルの部屋から廊下へ出た俺は、待っていた霞と新年の挨拶を交わした。形としては神山家として迎えにきたことになるが、今の俺たちには口実でしかない。
「おめでとうございます。……今年もよろしくな、霞」
「はい。こちらこそよろしくお願いします」
彼女は嬉しそうに微笑むと、俺の腕を抱きかかえた。そして、上機嫌な様子でエレベーターへ向かう。
「今日は元旦だし、朝食も昨日と変わっていそうだな」
「そうだと思います。少なくともお雑煮はありそうですね」
「バイキング形式で雑煮を食べるのは初めてだな」
そんな話をしながらエレベーターに乗る。今日は神山家に向かう予定だが、その前に二人で朝食を食べることにしていたのだ。
朝食会場のフロアでエレベーターを降りると、いかにも正月らしい琴のBGMが俺たちを迎える。門松を始めとした飾りつけも多く、正月気分を盛り上げるのに一役買っていた。
「……なんだか変な気分ですね。京弥さんとお正月のホテルにいるなんて」
霞は幸せそうに笑う。きっと、俺も同じような顔をしているのだろう。そんなことを考えながら、俺たちは朝食のテーブルへ案内される。と――。
「ん……?」
「京弥さん、どうかしましたか?」
「いや……なんだか視線を感じる気がしてさ。いつものことと言えばそれまでなんだが」
霞の美しい容姿は周囲の耳目を引き付ける。それは嫌というほど分かっているし、それなりに慣れたつもりでいた。だが、何かが違う気がした。
「それは……」
そう問いかければ、霞は気恥ずかしそうに視線を逸らした。心当たりがあるとしか思えない反応に、俺は無言で続きを促す。
「……この辺りって、神山の影響力が強いんです。陰陽寮とか、そっち側の話を抜きにしてもそれなりに名家扱いされていて――」
観念したように霞は口を開いた。そう言えば、表向きは大地主なんだよな。実際にそっちで得る所得も大きいらしいし。
「ですから……私の顔を知っている人も多くて」
「あー、そういうことか」
俺はようやく納得する。朝食会場という少しフォーマルな場に来たためか、腕を組むのは諦めたようだが、俺たちの距離は腕が触れ合うほどに近い。
この地域では有名な大地主の令嬢が、見知らぬ男と仲睦まじく現れたのだ。好奇の目を向けずにはいられないのが人の性というものだろう。
「たぶん、明日――いえ、今日の午後には情報が飛び交っていると思います」
「霞の立場が悪くなったりはしないのか? 外聞が悪いって怒られるとか」
ついそんな心配をすれば、霞は悪戯っぽく微笑んだ。
「一族が外聞を気にするなら、京弥さんとの関係を認めてもらうしかありませんね。相手が婚約者なら、外聞が悪くなることはないですから」
そう言ってから、霞は一人で頬を朱に染めた。おそらく婚約者という響きに自分で照れたのだろう。思わず抱きしめたくなる衝動を堪えようと、俺はあえて話題を変えた。
「お、デザートコーナーに栗ぜんざいと汁粉があるな」
「美味しそうですね。このホテルはお料理が美味しいって密かに人気なんですよ」
「たしかに昨日の食事も美味かったな」
「気に入ったお料理があれば教えてくださいね。私も作ってみたいです」
そんなやり取りを経て、俺たちは朝食を楽しむ。やはり元旦ということで、メニューにも趣向が凝らされているようだった。普段は提供されないだろう料理を、霞とあれこれ言いながら口にする。
それは、ここ数日からすれば信じられないほど幸せな時間だった。
「――あ、師匠からメッセージが着てるな。中枢設備に影響はなかったらしい」
携帯電話の着信を確認した俺は、ちらりとディスプレイに視線を落とした。
昨日、ルーカスたちに破壊された結界施設だが、中枢機能は地下にある上に魔術的な防御もされていたらしく、深刻なダメージは受けていないとのことだった。
あの施設は師匠の生命維持装置も兼ねているため、その安否は俺も気になっていたのだ。
「よかった……」
霞はほっとした様子で息を吐いた。施設を破壊したのはほぼルーカスだが、弟の透も無関係ではない。そのこともあって気にしていたのだろう。
「霞にもよろしくだってさ。また二人で顔を見せてほしいって」
「ふふ、ありがとうございます」
そう答えながらも、彼女の所作にぎこちなさが混じる。おそらく昨日のことを思い出したのだろう。
昨日の戦いの後、荒れ地になった敷地で抱きしめ合っていた俺と霞は、いつの間にか師匠と妹弟子に見られていたのだ。
戦闘が終結した雰囲気を感じ取ったため、施設の中枢へ避難していた師匠は半壊した地上施設から顔を出して……そして、俺たちを見つけたらしい。
しかも『おそらく子供は強い妖力を持って生まれる。錬金術に妖力を用いる際の注意点を忘れぬように』などと言い出したため、霞が顔から湯気を噴きそうになっていたのだ。
五年ぶりに再会しておいてなんだが、軽く小突くくらいはするべきだったかもしれない。
……まあ、子供が生まれたら見せに行くけどさ。
「京弥さん?」
「いや、なんでもない! ところで、本当に今日はよかったのか? 神山家の儀式があるんだろう?」
気の早い思考を即座に打ち消して、俺は別の話題を振る。
「お昼からですし、大丈夫です。私に限って言えば、そもそも今年は参加しない予定でしたし」
「なるほど。この土壇場で記憶を取り戻して帰ってくるなんて、まず思わないもんな」
「はい。ですから、私は意外と余裕があるんです。……こうして、京弥さんと今年初めての朝ごはんを食べられるくらいに」
そう告げて、霞は嬉しそうに俺の顔を見つめていた。
◆◆◆
元旦の朝十時頃。俺と霞は、神山邸のリビングで神山家の当主である神山一斉と向かい合っていた。
「日野殿、よく来てくれた。元旦から呼びつける形になって申し訳ない」
「いえ、私からも説明する必要があると考えていたところです」
「そう言ってもらえると助かるよ。……ところで」
そして、彼は霞に視線を移した。二日前は父親の側に座っていた彼女だが、今日は俺の隣に座っている。
「座る場所はそこでよいのだな?」
「はい」
霞は笑顔で即答した。なんだか寂しそうな様子の当主だが、その幸せそうな顔を見ては何も言えないようだった。
目の前に彼女の父親がいると思えば気まずいが、俺としても霞には傍にいてほしい。彼女に向こう側に行くよう薦める気はなかった。
神山一斉は気を取り直すように咳ばらいをすると、本題を切り出した。
「日野殿は透を取り戻し、あのルーカスを打倒してくれた。本当に感謝している」
「霞さんの力があってこそです。私一人ではどうしようもありませんでした」
「だとしても、君が重大な役割を果たしたことに違いはない」
神山一斉は朗らかな笑顔を浮かべた。一昨日には見られなかったその表情は、ルーカスと透という二つの懸案事項が片付いたことによるものだろう。
「お気にされているでしょうから、先に霞さんの妖力についてご説明しておきます」
どうせ聞かれるだろうし、今後の話にも影響することだ。そう考えた俺は、早々に霞のもう一つの妖力について説明する。
意外なことに、話を聞いた当主はあまり驚きを見せなかった。
「現在はいないと思われていたが、神山家には稀にそういった妖力持ちが生まれる。そして、我々も草薙剣の生成に関わっていた妖力だと考えている」
「そうでしたか」
「だが、八岐大蛇と草薙剣の両方を兼ね備えたという例は初めてだ。霞のように、ただ妖力が弱い者として扱われていたのかもしれんな」
彼は視線を霞に向けた後で、再び俺に話しかける。
「率直に言おう。日野殿、神山で働かないか。娘の妖力は日野殿がいなければ発揮できん。だが、その制約を差し引いても非常に大きな力となる」
「霞さんの専属として、神山家の仕事に従事するということですか?」
「その通りだ。収入については、今の倍額以上を出す。待遇も神山家の直系と同じレベルを保証しよう」
彼は破格の条件を提示してくる。それは予想外の好待遇だったが、俺が頷く理由にはならなかった。
「申し訳ありませんが、私には錬金術工房があります。現代社会に適応できない人々の支えになる重要な仕事ですし、ウィリアム師匠にも合わせる顔がありません」
俺はまず第一の理由を告げる。それは彼も予想していたのだろう。その表情に変化はなかった。
「それに、そのお話を受けた場合、霞は戦力として扱われますよね? 彼女は戦闘に向いた性格ではありません。状況的に戦わざるを得なかった昨日はともかく、日常的に戦力としての心構えを持たせるのは酷ではないでしょうか」
「む……」
「公式には、彼女の妖力は明らかになっていません。昨日のことも、前回に引き続き私の降霊術として記録されるでしょう」
だから、彼女に戦闘員としての道を歩ませる必要はない。そんな俺の主張を受けて、神山一斉は考え込んでいる様子だった。
「お父様。錬金術師の増員や工房の普及は、政府も推奨している国策ですよね? 五人しかいない錬金術師の一人を工房から引き剝がしたとなれば、他家や陰陽寮が攻撃材料にしてくるかもしれません」
さらに、そこへ霞の援護が入った。錬金術工房を続けてほしいと取れる彼女の主張に、思わず口角が上がる。
「ただでさえ、今回の一件で神山の立場は悪くなっています。ルーカスが結界施設を襲撃してきたのは、お父様が情報をリークしたからですよね? そうでなければタイミングがよすぎます」
「霞。それは――」
「大丈夫です。隠さなくても、京弥さんは最初から気付いていましたから」
制止しようとした父親の言葉を遮って、霞は最後まで言い切る。どうやら俺が囮にされたことに怒っているようだった。
「そうか……まあ、ルーカスの襲撃についてはその通りだ」
そんな娘の剣幕に押されたわけではないだろうが、彼はあっさり関与を認めた。
「二人に事情を説明すれば、挙動不審になってルーカスに罠だと悟られるかもしれない。そう懸念したのだよ」
「結界施設にだって甚大な被害が――」
「向こうのトップには協力を要請済みだ。防衛部隊を除けば、地上部にいたスタッフはいなかっただろう? それこそウィリアム殿を除いてな」
彼曰く、新しい施設が完成したため、もともとあの施設は放棄する予定だったという。防衛部隊からして、天原家ではなく神山傘下の人間と入れ替わっていたらしい。
「それほどに、ルーカスを危険視していたということですか」
そんな裏事情を聞いて、俺は思わず呟いた。複雑な策ではないが、施設の準備期間は一日もなかったはずだ。その動きの速さは、よほどの緊張感がなければなし得ないものだ。
「それもあるが……透を取り戻したかったのだよ」
「強大な戦力ですからね」
挑戦的に告げてから、失言だったと後悔する。彼が霞を戦力として数えようとしていたことが、俺の中でずっと燻っていたらしい。
だが、神山家の当主は怒ることもなく、静かな微笑みを見せた。
「家族だから、と答えてはおかしいかな?」
そう告げる表情は、本当に我が子を案じる父親の顔をしていた。あまり見せない顔なのか、隣の霞から驚いた雰囲気が伝わってくる。
「いえ。失礼なことを言って申し訳ありませんでした」
「そう言われても仕方がないとは思っているよ。……あの子を上手く教育できなかった責任は私にある」
そう告げて、彼は姿勢をまっすぐ正した。その真剣な瞳に、思わずこちらも姿勢をあらためる。
「透の暴走は大きな被害を生んだが、君のおかげで奇跡的に死者は出ていない。そのことに深く感謝する。かの霊山で成明君たちが戦闘した際には、重傷者の治療に当たってくれたと聞いた」
「そのおかげで、透の罪は当初の見通しよりもだいぶ軽くなりそうなんです。監視は付きますけど、またこの家で暮らせると思います」
霞が父親の言葉を捕捉する。元々こちら側の話であり、一般的な量刑とは基準が異なるのだが、死者の有無で大きく判定が変わることに違いはない。
「それはよかったな」
「はい」
霞はほっとした様子で頷いた。透は彼女にずいぶん懐いていたという話だから、余計に気になるのだろう。そして、彼女はぽつりと呟く。
「でも……本当に、京弥さんには借りばっかりですね」
「うむ。ウィリアム殿の面会を手配しただけでは足りぬか」
「ウィリアムさんとの面会は、お父様の策の一部でしたよね? それをカウントするのは図々しい気がします」
霞がばっさり切って捨てると、彼は苦笑を浮かべた。娘に裏切られた気分なのかもしれない。
「日野殿はウィリアム殿と面会が叶う。神山家は透を取り戻せる。どちらも得をする提案だったと思うのだが……」
「だとしても、命を賭けた戦いの対価に値するとは思えません」
「日本最強の術師である成明君も手配したし、神山の最高の護衛二人も向かわせた。他にも数百人単位で人員を動員したぞ?」
「たまたま、私に草薙剣の力が宿っていたから倒せただけです。そうでなければ確実に負けていました」
「……すまなかった」
霞が強く断言すると、当主はしょんぼりとした様子で謝った。ずっと霞と話しているからか、どうやら父親モードになっているようだった。
そんな彼は、やがて気を取り直したように俺に向き直る。
「日野殿。本当に君には助けられた。神山として君に礼がしたいが、何か希望するものはあるかな?」
「え――?」
「希少な錬金術の素材でも、社会的なステータスとなる地位でもいい。こちらが用意できるものなら、できるだけ希望に沿おう」
思わぬ豪快な提案に、俺は呆気にとられるしかなかった。とは言っても、そこには錬金術師を取り込もうという思惑がまだあるのかもしれないが。
ちらりと霞の表情を窺えば、彼女はしてやったりという満足そうな顔をしていた。俺のために頑張ってくれたということなのだろう。
「そうですね。報酬として求めるのは不適当かもしれませんが……」
「構わぬさ。無理なら無理と言うだけの話だ。まずは忌憚のない希望を聞かせてもらいたい」
そんな俺の前置きに、彼は鷹揚に答える。もう一度霞を見れば、彼女も何を願うのかと興味津々な様子で身を乗り出していた。
だが……俺が願うものなんて一つしかない。
「霞さんをください」
「――っ!?」
先に反応したのは霞のほうだった。どうやら予想していなかったようで、彼女の顔は耳の先まで真っ赤に染まっている。
「ま、待ちたまえ。この通り娘も驚いているようだし……その、なんだ。時期尚早というものではないかね?」
一拍遅れて、神山一斉が再考を促してくる。明らかに動揺しているのは、当主ではなく父親として反応しているからだろう。
「もうプロポーズは済んでいますから」
「な――っ!?」
その言葉に、彼は気の毒なほどショックを受けたようだった。そして助けを求めるように娘へ視線を送る。だが――。
「あの言葉、まだ有効なんですね。……嬉しいです」
彼女は懐かしそうに呟いて、身体ごとこちらに向き直った。俺も向きを変えたことで視線が交錯し、彼女は照れたように微笑む。
そして……恥じらいを含みながらも、彼女ははっきりと告げた。
「京弥さん――ずっと、お傍にいさせてください」




