神山Ⅲ
「ウィリアムさんと会えるなんて、よかったですね。まさかご存命だったなんて」
「霞も知らなかったのか?」
「知りませんでした。知っていたら、絶対に京弥さんに伝えますし」
「……ん? 話を振っておいてなんだが、霞が師匠のことを知っているのは意外だな」
「京弥さんのことですから」
霞は悪戯っぽく微笑む。行方知れずとなった師匠ウィリアム・ホークスとの面会を手配すると言って、神山一斉が席を外したのはついさっきのことだ。
そのため、リビングに残されたのは俺と霞の二人だけだった。ひょっとすると、俺が霞に会いに来た意を汲んでくれたのかもしれない。
「そう言えば……あの日、帰りは大丈夫だったのか? 極度の寒がりなのに、コートも着ずに出て行ったよな?」
「本当に寒かったです……まさか、記憶をなくしている間に真冬になっていたなんて」
そう答えて、霞は寒さを思い出したように身を震わせる。
「財布の中身も記憶と全然違いましたし、携帯電話は見覚えがない上に認証がクリアできませんでした。街がすっかり年末モードだったことにもびっくりして……」
彼女は家に帰りつくまでの困難を語ってくれる。俺が失意の底にいた頃、彼女もまた苦労をしていたようだった。
「――そう言えば、今日の霞は静かだな。父親が近くにいるからか?」
そして、話題が終わったタイミングで気になっていたことを問いかける。すると、霞は考え込むように小首を傾げた。
「静か、ですか?」
その仕草は、ごまかそうとしているようには見えなかった。ひょっとして自覚がないのだろうか。
「ほら、いつもはもっと賑やかと言うか……」
そう説明したところ、霞はようやく思い当たったようだった。だが、その後に返ってきたのは予想外の言葉だった。
「あれは、もうやめました。その……京弥さんに振り向いてもらえませんでしたから」
「……は?」
なんのことか分からず、俺は間の抜けた声を上げる。
「だって、京弥さんは能天気で賑やかな、グイグイ来る人が好みなんですよね? だから――」
「ちょっと待て。誰の好みだそれは」
程度にもよるが、どちらかと言えば苦手な部類かもしれない。そう告げると霞の表情が固まった。
「え……? でも、情報収集をお願いした人たちは、みんな口を揃えて――」
よっぽど動揺していたのだろう。彼女はさらに口を滑らせる。だが、そのおかげで俺は真相に辿り着くことができた。
「それ……孝祐に担がれたな」
「孝祐さんって、どなたですか?」
霞は興味深そうに尋ねてくる。少し前の自分が、その人物と頻繁に顔を合わせていたなどとは思ってもみないのだろう。その事実を再認識した俺は、浮かびそうになった表情をなんとか抑え込んだ。
「俺の友人で、こっちの世界じゃ有名な情報屋だ。俺のプライベートを探ろうとしたら、確実にあいつに辿り着くだろうからな」
おそらくだが、俺の好みのタイプを探ってきた諜報員に対して、意図的に誤情報を流したのだろう。俺がハニートラップに振り回されたりしないように、と。
「そんな……」
説明を受けた霞は大きなショックを受けたようだった。よっぽどダメージを受けたのか、それとも恥ずかしいのか、彼女は顔を両手で覆って嘆く。
「じゃあ、ぜんぶ逆効果だったんですね……」
「あのキャラは演技だったのか」
ここまで聞けば、さすがに俺でも分かる。目の前の霞が素の性格だとすれば、あのキャラ付けはかなり無理をしていたことだろう。
「京弥さん。一つ聞いていいですか?」
そんなことを考えていると、霞がためらいがちに問いかけてくる。何を問うつもりなのか、彼女の太腿に置かれた両手はきゅっと握りしめられていた。
「記憶を失っていた時期の私って、どんな感じだったんですか?」
「それは……」
思わず言葉に詰まる。だが、ここ四か月の記憶がない彼女にしてみれば、気になって当然の話だ。不安に思う気持ちは理解できた。
「実は、父に報告書を読ませてもらったんです」
「報告書?」
「はい。この四か月間、私には監視が付いていたらしくて……」
なるほど、それで報告書か。いくら神山家とはいえ、式神の類が工房に入り込めたとは思わないが、屋外までシャットアウトできるわけじゃないからな。
「じゃあ、最初から霞の居場所は把握されていたのか?」
そう尋ねると、霞は首を横に振った。
「私が失踪してから一週間くらいは、大捜索が行われていたそうです。記憶を封印した井岡さんも行方を眩ませていて、人も式神も動員した物量作戦だったと聞きました」
「一週間か……ちょうど野良陰陽師を捕らえた時期だな」
「これまでの経緯から、京弥さんの工房も捜索対象だったそうです」
なんとなく思い出す。あの頃は野良陰陽師の式神が工房を狙ってきていたからな。工房の結界も強化していたし、霞も外に出さないようにしていた。見つからなくても無理はない。
それどころか、俺が潰した式神のいくつかは、神山家のものだった可能性すらあるな。
「となると……そうか。野良陰陽師や背後の組織が壊滅してからは、霞も普通に外出するようになったからな。そこで捕捉されたわけか」
「それに、成明さんから連絡があったみたいです。私にそっくりな女性を見かけたって」
そう言えば、賀茂もそんなことを言っていたな。そう納得した俺だったが、すぐに別の疑問が湧いてくる。
「じゃあ、どうしてすぐに迎えに来なかったんだ? 神山家の令嬢が男と一緒に暮らすなんて、外聞が悪いだろう」
まして、彼女は結婚を願い出られていた身だ。その名家とやらの関係もこじれかねない。不思議に思っていると、なぜか霞は頬を膨らませた。
「『神山家の令嬢』という呼び方は、距離を感じて寂しいです」
そんな予想外のクレームに、俺は小さく噴き出した。
「悪かったよ」
ひょっとして、苗字を名乗らなかった原因はそのあたりにあったのだろうか。そこまで珍しい名前ではないが、こちら側ではまず脳裏に浮かぶ家名だ。
「……すみません、話が逸れちゃいました。神山家が私を迎えに来なかった理由でしたよね? 私を見つけた監視役の方も、私がすべての記憶を失っていることに気付きました」
「自由に動き回っているのに、家に帰ってこないわけだからな」
「それに、顔見知りの監視役に話しかけられても、まったく反応しなかったそうです。その時に、私に強固な封印がなされていることも分かって……」
霞は申し訳なさそうに俯く。神山家が大騒ぎになったことは想像に難くない。
「井岡さんは、封印術の第一人者でした。神山家の『執着』を矯正する実験も兼ねていたため、もともとご本人でも解けない強度の封印を施す予定だったんです」
「ということは、あの封印強度は予定通りだったのか。凄まじい技量だな」
俺は半ば感心していた。霞の規格外の妖力がなければ、今だって封印を解けていたかは怪しい。それほどに卓越した技量だったのだ。
「そのせいで、私の解呪は絶望的だと思われていたそうです」
「だから、神山家は連れ帰るのを諦めたのか? ……なんだか薄情に思えるな」
俺の胸に小さな憤りが生まれる。記憶を失ったからと言って、まるで厄介払いするような対応には馴染めない。そう憤慨した俺だったが、霞は小さく首を横に振った。
「いえ、むしろ逆なんです。私が京弥さんに保護されていて、その……」
そして、少し恥ずかしそうに視線を合わせてくる。
「なんだかいい雰囲気になっていたので、様子を見ることにしたそうです」
「……そうか」
彼女の恥じらいが伝染したのか、こっちまで落ち着かなくなってくる。気まずい沈黙が流れたことで、霞は慌てたように手をぶんぶんと振った。
「あ、あの! 今のは報告書に書かれていたことですから! あくまで客観的に見た結果でしかなくて――」
「むしろ、そのほうが恥ずかしいんだが」
俺としては、あの頃は紳士的に接していたつもりだったのだ。周りにそう見られていたという事実が、チクチクと羞恥心を刺激してくる。
「そ、それで? 神山家は様子を見てどうするつもりだったんだ?」
少し動揺しながらも話の続きを促す。すると、帰ってきたのは意外とシビアな答えだった。
「もし私たちが、その……深い仲になっていれば、後戻りできないタイミングで素性を明かして、京弥さんごと取り込むつもりだったみたいです」
なるほど。当初のハニートラップ方針を復活させて、手を出した責任を取らせるつもりだったわけか。
「その交換条件は期限切れじゃなかったか?」
「あくまで神山家の内部で定めた期限でしたから。それに、みんな協力的というか……『執着した相手と結ばれたなら、素性を明かさずそっとしておこう』という案も検討されていたみたいです」
「今度は寛容すぎて信じがたいな……」
思わず本音がこぼれるが、霞が気分を害した様子はなかった。
「それくらい、私たちにとって『執着』は特別なものなんです。亡くなった母も、そのせいで大恋愛だったみたいですし……」
言ってから、彼女はその顔を曇らせる。
「ただ、透はこの話を知らなかったみたいです。絶対に反対するし、そもそも居所を知れば突撃するからって」
「そこをルーカスに利用されたわけか……」
俺は苦々しく呟いた。霞の居場所を教えることで神山家に対する不信感を煽り、自分への信頼を勝ち取る。非常にいやらしい立ち回りだ。
「透、ごめんね……」
自責の念に駆られたのか、霞はぽつりと呟く。そんな彼女が気の毒で、俺は急いで話題を変えた。
「話を戻すが、神山家が霞を放っておいたのは、ハニートラップ作戦を再開したためだという理解でいいか?」
「その表現には抵抗がありますけど……その通りです」
俺の強引なまとめに、霞は複雑そうな表情で頷く。
「悪かった。他に簡潔な表現が思い浮かばなくてさ」
「じゃあ、『京弥さん獲得計画』とかどうですか?」
「ええと……もうちょっと汎用性のある名称にならないか?」
そんな他愛ない会話をしているうちに、霞の表情が少しずつ元に戻っていく。それでこそ引っ掛かる表現を使った甲斐があったというものだ。そして、自然と話題も元に戻る。
「そう言えば、私を迎えに来なかった理由がもう一つありました」
「もう一つ?」
「はい。京弥さんなら記憶の封印を解けるかもしれない。そう判断したんです。神山家として正式に依頼することも検討したみたいですけど、陰陽寮嫌いの京弥さんが受けてくれるか怪しくて」
「一緒に暮らして情が移れば、必死で解呪に取り組む。そう考えたわけか」
俺は苦笑するしかなかった。後悔はしていないが、結果として彼らの希望通りに動いてしまったわけだ。
「すみません……」
「謝ることはないさ。記憶を取り戻すことは、俺と……霞が決めた話だ」
自分の言葉にちくりと胸が痛む。それはもういない霞への想いであり、それを今の霞へ告げることへの罪悪感でもあった。
「……」
その言葉をどう受け取ったのか、霞はしばらく沈黙していた。そして、首から提げているペンダントを手で持ち上げる。
「それは――」
思わず声がもれる。霞自身に気を取られて気付かなかったが、それはクリスマスに俺が贈ったペンダントだった。解呪を行った時に身に着けていたため、そのまま持って来てしまったのだろう。
「この素敵なペンダント、京弥さんがくれたんですか?」
「……どうして分かった?」
俺が認めると、彼女は切なげな表情を浮かべた。
「持ち帰ったバッグに、家計簿みたいなメモ帳が入っていました。私の筆跡で、知らない買い物の記録が残されていて……」
その言葉で、メモ帳に履歴を書き込んでいた彼女の姿を思い出す。アプリではなく手帳を使っていたのが、なんとも霞らしかった。
「でも、服や靴の購入記録はあってもペンダントの記録はありませんでした。その代わりに、『京弥さんへのクリスマスプレゼント』と書かれた項目があって……」
「……そうか」
俺はちらりと足下の鞄へ視線を向ける。この鞄こそが、彼女から貰ったクリスマスプレゼントだった。
「報告書では、かつての私と京弥さんが、クリスマスにデートしていたと書かれていました。あと……誰がどう見ても恋人同士にしか見えない、とも」
こちらが切なくなるような、弱々しい微笑み。そんな表情のまま、霞はそっとペンダントから手を放した。元の位置に戻ったペンダントトップが静かに揺れる。
「かつての私と京弥さんは……クリスマスにデートをしたり、プレゼントを贈り合う関係だったんですね」
「……ああ、その通りだ」
脳裏にクリスマスの記憶が蘇る。あの日の霞の笑顔は、今でもはっきり思い出すことができた。
「どうして……」
俯いたまま、霞はぽつりと呟く。だが、その言葉が最後まで語られることはなかった。リビングの扉が開いて、神山一斉が姿を見せたからだ。
「――日野殿。待たせたな。ウィリアム殿との面会の手筈が整った。明日なら面会可能とのことだ」
「明日ですか?」
提示された日程に驚く。明日は大晦日だ。おおよそ予定を入れるような日ではない。
「あそこは特殊な場所でな。年中無休だが、面会には神山家の人間を伴う必要がある。三が日はこちらも儀式の予定が詰まっているため、明日が無理ならしばらく日を空けることになる」
彼はどこか性急に告げると、霞へ視線を移す。
「かの施設は極秘扱いとなっている。こちらからは霞を同伴させよう」
「霞さんを?」
「他の家人は予定が詰まっている。霞では不服かな?」
「私は構いませんが……」
答えて霞へ視線を向ける。今の俺と霞は、なんとも複雑な間柄になっている。彼女が俺の顔を見たくない可能性だってあり得るだろう。
そう心配した俺だったが、霞はあっさりと頷いた。
「私も大丈夫です。それじゃ、今日は――」
「日野殿のために、傘下のホテルを手配させた。今日はそちらで休むといい」
神山家の当主はこともなげに答えた。至れり尽くせりで申し訳ないな。あまりに協力的なことから、裏があるのではないかと思えてくるくらいだ。
「ご丁寧にありがとうございます」
「当然のことだ。……日野殿。君には本当に感謝している。今後、何か困りごとがあればいつでも相談してくれ」
そうして二言、三言言葉を交わして、彼はリビングから退室する。残された俺と霞は、同時に顔を見合わせた。
「すみません。父が勝手に話を進めてしまって……」
「顔見知りのほうが気楽だからな。俺としてもありがたい。……ところで、明日のために連絡先を教えてもらえるか?」
「はい、もちろんです」
そして、改めて彼女と連絡先を交換する。すでに登録されている『霞』の連絡先を上書きする気にはなれず、新しく『神山霞』として登録を行う。
「予約してくれたホテルって、どこのことか分かるか?」
「ちょっと待ってくださいね。……このホテルです」
霞は素早い手つきで携帯電話を操作すると、液晶画面を俺に見せてくれる。その画面には、立派なホテルの全景が写っていた。
「なんだか高級感が漂ってないか?」
「……大丈夫です。あの口ぶりなら、費用はこちら持ちですから」
「高級感は否定しないんだな……」
庶民としては落ち着かないが、せっかくの心遣いだ。ここはお世話になっておこう。師匠と再会する前に、長距離運転でへばっているわけにもいかないしな。
「――じゃあ、明日はよろしく頼む」
そう告げて、俺はソファーから立ち上がった。そう言えば賀茂はどうしただろうか。俺の車で一緒に来たわけだが、まさか待っているなんてことはないだろうな。
そんなことを考えながら、霞が開けてくれたドアから廊下へ出る。後ろを付いてくるということは、玄関まで見送ってくれるつもりなのだろう。そう考えた時だった。
「京弥さん……っ」
背後から伸びてきた彼女の腕が、俺を抱きすくめた。まるで俺を引き留めるように、その腕にきゅっと力がこもる。
「霞……?」
後ろから抱き着かれた俺は、戸惑いながらも呼びかけた。彼女と密着した背面から、ふわりと甘い香りが漂ってくる。
「私じゃ……駄目ですか……?」
背中越しに聞こえたその声は、あまりに張り詰めていて……そして、今にも消え入りそうなほどに弱々しいものだった。
「……私にだって分かっています。京弥さんが見ているのは、今の私じゃなくて……京弥さんと一緒に過ごした私だって」
「……」
「そっちの私の話をする時の京弥さんは、とても優しい顔で、大切なものを語るようで……そして、とても寂しそうでした」
俺の返事を求めることなく、霞は震える声で話し続ける。
「そんなに想ってもらえていたなんて……京弥さんと一緒に暮らしていた私が、本当に羨ましいです」
そして、霞の腕にきゅっと力がこもる。その身体はかすかに震えていた。
「代わりでも……いいです。その寂しさを、私が埋めることはできませんか?」
「それは――」
彼女の腕の中で、俺はするりと身体を回転させた。涙を湛えた霞の瞳に、俺の顔が映りこむ。
その顔も、声も。仕草までもが同じ彼女の姿に心がざわめき立つ。だが……俺に抱き着く力の加減が。身を寄せる時の距離感が。霞の中に見えるわずかな差異が、彼女は別人だと囁いていた。
「霞」
そして、何よりも。今の霞を受け入れるということは、あの霞の存在を否定することだと、そう思えてならなかった。
彼女と一緒に過ごした日々を、彼女が存在した事実を、俺以外の誰が覚えていられるというのか。
「……それはできない」
愛する人と同じ顔をした彼女に。あの霞を構成していた身体に。俺は拒絶の言葉を返した。自分で最後の梯子を外したという事実が、喪失感となって俺を苛む。
そして、そんな感情が俺の顔に出てしまったのだろう。俺を見つめていた霞は、はっとしたように身を震わせた。
「私、そんな顔をさせるつもりじゃ……ごめんなさい」
謝罪する彼女の双眸からは、大粒の涙が零れ落ちていた。そんな霞を見つめるのは辛かったが、これは俺が決めたことだ。目を逸らすわけにはいかなかった。
「――京弥さん」
そうしてどれほどの時間が経っただろうか。涙を止めた霞は、まだ濡れた瞳で無理やり微笑んだ。それは、彼女の決意のように見えた。
「今まで……本当にありがとうございました。
ずっと私を守ってくれて。
たとえ別の私だとしても、好きになってくれて」
彼女の訣別の言葉が、しんと静まり返った廊下に溶けていく。
「すまな――」
「京弥さんは悪くないです」
言いかけた俺の口を、彼女は人差し指で塞ぐ。そして……コツンと額を俺の胸に押し当てた。
「ただ……少しだけ、胸を貸してください。明日からは、京弥さんを困らせたりしませんから――」




