健康食品店トワイライトⅢ
この町に古くからある由緒正しい神社。その一室で、俺たちは改めて神社の主と向かい合っていた。
桑名宗明。師匠の知人であり、かつては腕利きの退魔師でもあった人物だ。古い付き合いであり、師匠が姿を消してからは後見人代わりだったこともあって、非常に気安い仲だった。
「なるほど、事情は承知した。まさか記憶の封印とはな……」
思っていたより重い話だったのだろう。さっきまで豪快に笑っていた彼は、声のトーンを少し落とす。
「封印云々は、あくまで俺の見立てですよ?」
「優秀な錬金術師の見立てであれば、儂がそれを否定する理由はない」
「とか言って、自分で調べるのが面倒なだけじゃありませんか?」
「はっはっはっ……京弥も穿った見方をするようになったな」
「図星ですね……?」
俺が半眼でぼやくと、桑名さんはわざとらしく肩をすくめてみせた。
「というのは冗談で、儂も京弥と同意見だ。彼女に強固な封印術が施されているのは間違いない」
「どうしてこんなことに……」
桑名さんの言葉に、俺の隣にいた霞が肩を落とす。
「いくつか考えられるが、可能性が高いのは口封じだろう。現代社会との折り合いの面からすると、殺人より記憶喪失のほうが都合がいい」
その言葉は頷けるものだった。殺人事件は大騒ぎになるが、記憶喪失なら病気の一種として捉えられる。本人の身元が発覚したところで、それ以上の事件には繋がらないのだ。
「つまり、彼女は見られてはまずい現場を目撃したと?」
「この封印の強さからすると、あり得る話だ。……まあ、ここで考えても答えは出ぬ。それと、身元については儂から陰陽寮に照会してみよう」
「よろしくお願いします」
桑名さんの言葉を受けて、霞が深々と頭を下げる。そんな彼女に頷きを返すと、彼は渋い表情で空を見つめた。
「それよりも、問題は当面の身の振り方だな。ここへ来る途中で式神に襲われたと聞いたが……」
桑名さんは考え込んでいる様子だった。普段であれば、妖怪の末裔とはいえ、妙齢の女性に相応しい人物なり施設なりを紹介してくれたことだろう。だが……。
「日中の公園で襲われたということは、紹介先に危険が及ぶ可能性がある。無責任に紹介することはできん」
その答えは予想していたものだった。だが、それでは霞が不憫すぎる。
「それは俺が式神を破壊したせいではありませんか? 彼女に対して害意があるなら、記憶の封印だけで解放したことに説明がつきません」
「問題はそこではない。人目をはばからない術師だということが問題なのだ。偶然に破壊されることもあり得る式神に、雷獣の連鎖召喚の術式を組み込むなど、その時点で尋常ではない」
「ですが……」
なおも言い募ろうとする言葉を遮ったのは、意外なことに隣にいた彼女だった。
「――店主さん、お気遣いありがとうございます。私は大丈夫ですから」
意外な発言に視線を向けると、彼女は微笑みを浮かべていた。だが、その表情は明らかに固い。無理をしているのは明らかだった。
「とりあえず、警察に相談してみようと思います。もし家族や友人がいて、捜索願を出してくれていれば、そこから辿ってもらえるかもしれません」
「それは止めんが、それまではどうするつもりだ?」
「幸いなことに、現金の持ち合わせはあります。数日ならホテルに泊まって――」
そこで、霞ははっとした表情を浮かべた。その場合、ホテルの利用客やスタッフを危険に晒す可能性に気付いたのだろう。
途方に暮れた様子の彼女に心を痛めていると、桑名さんが部屋から電話をかけ始める。その内容からすると、霞が身を寄せる先を探しているようだった。
『――そうなのだ。そちらはたしか結界が……ふむ、そうか』
『――奥方に出ていかれた? そうか、タイミングが悪かったな。すまぬ』
だが、結果は芳しくないようだった。断られるたびに、桑名さんが少しずつ気落ちしていく。
そうして何軒に電話をかけただろうか。すっかり困り切った様子の桑名さんは、ぼそりと口を開いた。
「……実は、一つ心当たりがある。施設は結界に守られているし、住人はこの地域で屈指の戦闘力を持っている。そこらの式神では近付くこともできぬだろう。ただ――」
そう切り出した表情からすると、あまり気乗りはしていない様子だった。あまり変な所であれば、俺が制止する必要があるかもしれない。
「そんな施設があるのですか? それなら、ぜひご紹介していただけないでしょうか」
「もちろん儂は構わぬが……」
桑名さんは頷くと、そのまま俺へ視線を移した。
「お嬢さんはこう言っているが……どうするね? 錬金術工房の主殿」
「……は?」
「……え?」
桑名さんの問いかけに、俺と霞の戸惑った声が重なる。やがて言葉の意味を理解したのだろう。彼女は困惑しきった表情でこちらを見つめていた。
「桑名さん。俺が一人暮らしだって知ってますよね?」
「当然だ。強固な結界が張ってあることも、一人で暮らすには広すぎる家があることも知っている」
「結界と家の広さは認めますが、問題はそこじゃ――」
「ついでに、君が誠実で紳士的なことも知っている」
「だとしても、それは桑名さんと俺が長い付き合いだから思うことでしょう。彼女にとって、俺はただの得体の知れない成人男性ですよ」
「いえ、そんなことは思っていませんけど……」
と、霞は控えめに声を挟む。
「知り合って数時間ですけれど、店主さんが優しくて、気遣いができて、頼れる人だということは分かったつもりです」
「……それはどうも」
照れるような台詞を告げられて、俺の視線が少し泳ぐ。
「ただ、私も一人暮らしの男性のお宅にお邪魔するのは、その……」
彼女は困ったように視線を逸らす。それはそうだろう。俺としても落ち着かないし、できれば他を当たってほしいところだが――。
「お嬢さんの気持ちはもっともだ。だが、安全性を重視するなら京弥が適任であることも事実だ。それに、もともと知り合いだったのだろう?」
「まあ、それはそうですが……」
桑名さんの言葉は事実だが、霞にとって安心材料というほどではない。そうして、どうしたものかとあれこれ悩んでいた時だった。ふと霞が口を開く。
「あの……店主さん」
「どうした?」
聞き返すと、彼女はためらいがちに視線を合わせてくる。
「先ほど、あんなことを言った手前で申し上げにくいのですが……その、ご迷惑であることも、図々しいお願いであることも重々承知しています」
そう前置くと、彼女は姿勢を正した。
「その上でお願いしたいのですが、私を泊めてくださいませんか?」
「……分かった。俺は構わない」
俺は静かに頷く。彼女は勇気を振り絞って願い出たはずだ。それを断るつもりはなかった。
「その……不埒な真似はしないから、安心してほしい」
俺が真面目な顔で宣言すると、彼女は目を瞬かせた後で、少しだけ微笑みを浮かべた。
「お気遣いありがとうございます。……よろしくお願いします」
そして、緊張した面持ちでぺこりと頭を下げる。つられて俺も頭を下げると、不思議な沈黙が流れた。
「話は決まったな。京弥、悪いがお嬢さんを頼む」
その沈黙を破って俺に頷きかけると、桑名さんは椅子から立ち上がった。
「ここまで歩いて来たのだったな? 手配できなかった詫びといってはなんだが、帰りは車で工房まで送ろう」
「あ。桑名さん、それなら一つ頼まれてくれませんか? その方術の腕を見込んでお願いが……」
「ほう?」
そんな会話を経て、俺たちは車に乗り込んだ。
◆◆◆
桑名さんの車から降りた俺は、霞を伴って錬金術工房へ戻ってきていた。
「すっかり夜になったな」
店の扉を閉めると、ようやく一息つく。そして、緊張した面持ちの彼女に声をかけた。
「もう喋っても大丈夫だ。お疲れさま」
「は、はい。ありがとうございます」
声をかけられた霞は、ほぅ、と大きく息を吐いた。帰りは桑名さんの車で送迎してもらったが、この店の周囲に新しい式神が放たれている可能性は高い。
そのため、桑名さんの方術で彼女が認識されないよう細工をしていたのだが、一言でも言葉を発すると術が解けてしまう。そのためずっと気を張っていたのだ。
「後で案内するが、結界は店や工房だけじゃなくて、敷地全体を覆っている。極端な話、庭にいても式神が君を捕捉することはできない」
そう伝えると、彼女の表情が少し緩んだ。監視されているかもしれないという状況に、強いストレスを感じていたのだろう。
「ただ、魔術的な視線は阻むことができるが、一般的な視線を阻むわけじゃない。だから、外の空気を吸いたい場合は、建物に囲まれた中庭にしておいてくれ。窓際にも立たない方がいい」
「分かりました」
霞は真面目な顔で頷く。この様子なら、勝手な行動を取って危険な目に遭うことはないだろう。
「ちなみに、一般人が入りにくいように店には微弱な結界を張っている。ただ、『なんとなく抵抗を感じる』程度のものでしかないから、入ってくる人はいるが」
「はい。気を付けます」
そう答える霞の表情は固い。数時間前に、この店で事情を聞いた時のほうがまだ自然体だっただろう。見知らぬ男の家に泊まる羽目になったのだから、それも無理はないが。
簡単に結界関連の説明を終えると、俺は店舗の奥を手で差し示した。
「じゃあ、住居を案内するよ。工房と繋がっているから行き来に気を遣う必要はない」
「よろしくお願いします。ところで、一つ教えていただいてもいいですか?」
「うん?」
問いかけてくる霞に首を傾げる。だが、彼女が口にした疑問は当然のものだった。
「店主さんのお名前を聞きたいです」
「そう言えば、名乗ってなかったな。……俺は日野京弥。表向きは『健康食品店トワイライト』の店主。実際には『錬金術工房トワイライト』の工房主だ」
対外用の名刺を差し出すと、彼女は丁寧な所作でそれを受け取る。
「日野さん、ですね。よろしくお願いします」
「……ああ」
どこか調子が狂うのを感じて、俺は少し視線を逸らした。かつての彼女は同じ顔で『京弥さん』と呼んでいたからだろうか。
「じゃあ、家を案内しようか」
そんな違和感を振り払って、俺はカウンターの奥から店の裏側へ向かう。住居エリアにはここから入る必要があるからだ。
霞を連れて渡り廊下のような通路を抜けると、店の裏手に位置する住居へ辿り着く。そうして、どこから案内しようかと思案している矢先だった。店ではなく、家のほうの呼び出し音がリビングに鳴り響いた。
「ちょっと待っていてくれ」
「は、はい」
霞をリビングに残したまま、俺は自宅の玄関の扉を開く。そこには予想通りの顔があった。
「京弥、来たよー」
玄関に明るい声が響く。声の主は、陽気な表情と明るい茶色の髪が印象的な女性だ。名前を有川美幸と言い、俺の学友であり、同時にうちの店の常連でもあった。
「助かる。急な話で悪かったな」
「いいよ。連絡をもらった時はびっくりしたけど、面白そうだし? それに京弥に借りを返す機会だから」
言いながら、美幸はブーツを脱いで家へ上がる。彼女を伴ってリビングへ戻ると……なぜか霞の姿が消えていた。
「あれ? 霞?」
大きめの声で呼びかけると、隣の部屋でガタン、という音が聞こえた。そちらに繋がるドアを開けると、焦った顔の霞を見つける。
「ええと……どうしたんだ?」
「あの、違うんです! 私は浮気の相手とかじゃなくて、匿ってもらっているだけで……!」
彼女の視線は、俺ではなく隣の美幸に向いていた。どうやら、美幸を俺の恋人だと勘違いして弁解しているようだった。美幸も同じ結論に達したようで、楽しそうに笑い声を上げる。
「えっと、霞ちゃんだっけ? 焦らなくてもいいよ。私は京弥に呼ばれただけで、別に彼女とかじゃないから」
「え? そうなのですか……?」
「うん。女の子を家に泊めることになったから、力を貸してほしいって言われたの」
そして、美幸はからかうような視線で俺を見つめる。
「正確には、最初の一文は『俺の家に泊まりに来てくれ』だったけどね。さすがの私もパニクったわ」
「まず手短に用件を伝えようと思ったんだが……悪かった」
「あはは、貸し一つね」
そう答えると、美幸は霞をまじまじと見つめた。
「ていうか、京弥って真面目だよね。こんなかわいい子が家に泊まるのに、安心させるために女友達を呼ぶとか」
「え……?」
その言葉に、霞は不思議そうに目を瞬かせた。
「あれ? 聞いてないの? 霞ちゃんが男一人の家で不安にならないように、私も今日はここに泊まるから」
そう説明した美幸の言葉で、ようやく霞は全貌を理解したようだった。考えようによっては、知らない人間がもう一人増えただけとも言えるが、彼女は好意的に受け止めたようだった。
「私のためにそこまで……本当にありがとうございます」
霞は深々と頭を下げる。その所作は実に様になっていて、彼女の育ちのよさが窺えた。
「ねえねえ、凄くいい子なんだけど……どこで拾ったの?」
同じことを考えたようで、美幸がこそっと耳打ちしてくる。
「さあな。……それより、家の中を案内するぞ」
「じゃあ、私はその間に荷物置いてくるねー」
勝手知ったる彼女は、俺たちを置いてあっさり階段を上っていく。客室に向かったのだろう。霞はと言えば、呆気に取られたように彼女の後ろ姿を見送っていた。
「えっと……お付き合いされているわけではないんですよね?」
やがて我に返った霞は、不思議そうに問いかけてくる。
「ああ。学生時代からの付き合いだが、今も昔もそんな関係だったことはない」
そう答えるが、霞は得心がいっていないようだった。
「そうですか。このお家のことをよくご存知のようでしたから、てっきり……」
「あいつにも色々と事情があってな。他にも何人か、この家を根城にしていた友人がいる」
彼女の疑問をあっさり流す。この家には、自分の妖力や生まれの関係で、自分の居場所を見失った人間がよく出入りしていた時期があって、美幸もその一人だ。とは言え、初対面の彼女にわざわざ説明するようなことでもない。
家の中を案内して回り、最後に彼女に割り当てるつもりの部屋へ向かう。すると、すっかりくつろいだ美幸がベッドに寝転んでいた。
「あ、いらっしゃーい」
「お前は家主か」
そんな軽口を返すと、まだ廊下にいた霞を部屋に招く。部屋に入った彼女は、驚いたように室内を見回した。
「……さっきから思っていたんですけど、このお家って広いですよね」
「この家を発注したのは外国の人だからな。自国の基準で考えたんだろう」
俺はふと師匠のことを思い出す。今頃、あの人はどうしているのだろうか。
「ま、おかげで広い部屋で寝られるわけだし? 感謝感謝っ」
そんな美幸の言葉に笑みが浮かぶ。そして、俺は霞に向き直った。
「基本的に俺は工房にいる。工房の二階にも部屋があって、大抵はそっちで寝ているんだ。何か用があったら呼んでくれ」
「こちらのお部屋は使わないんですか?」
俺の説明が予想外だったのか、彼女は小首を傾げた。
「そうだな。工房に籠もっていても、生活に困らない程度の設備はある」
もちろん、普段はこっちの家が生活の拠点なのだが、彼女としても気まずいだろうからな。状況が落ち着くまでの間なら、工房だけで充分やっていけるだろう。
見ず知らずの人間に家を任せるのは、セキュリティ上どうかと思わなくもないが……今の彼女は信用できる気がした。それに、本当に大切なものは魔術的に保護している。大きな問題はないはずだ。
「でも、それって――」
「霞ちゃん、気にしなくても大丈夫だよ? もともと、京弥は研究に熱が入ると工房から出てこないタイプだから。……ちょっと心配になるくらいに」
「そうなんですか……」
美幸の口添えもあって、ようやく彼女は引き下がったようだった。そして、そんな彼女に再び美幸が話しかける。
「ねえねえ、霞ちゃん。今から買い物に行かない?」
「お買い物ですか?」
「そ。だって、お化粧とか洗顔料とか、ないと困るでしょ? それに、男性用のシャンプーやボディソープを使うわけにもいかないし――」
「美幸。悪いが、霞は外に出られないんだ。見つかると彼女の身が危ない」
「あー、そういうこと? じゃあ、私が代わりに買ってくるよ。こんな時間だからコンビニの商品になっちゃうけどね」
彼女はあっさり理解を示すと、再び霞に向き直った。
「小物も大体は揃うし……あとは下着とか? 霞ちゃんはどんな――」
「美幸、後は頼む」
だんだん居たたまれなくなってきた俺は、そう告げて客室から出る。もう二十代半ばになるが、女性の下着の話題に首を突っ込む胆力はない。
「明日から、彼女と上手くやっていけるのか……?」
そんな不安を抱えながら、俺は階段を下りていった。