解呪Ⅰ
「すみません、ちょっと焦がしてしまって……」
「そうか? 充分美味しいぞ」
謝る霞に笑顔を返して、普段より香ばしい鶏の照り焼きを頬張る。彼女の手元に視線を向ければ、真新しい絆創膏が指に巻かれていた。
「うっかり切っちゃいました。気を付けないといけませんね」
俺の視線に気付いたようで、霞は怪我をした指を俺に見せる。その声は場違いなほど明るくて……逆に彼女の心情を物語っていた。
解呪の準備が整ったと告げたのは、つい二日前のことだ。あの日、霞は「家を追い出されるとか、京弥さんが病気だとか、そんなことじゃなくてよかったです」と笑ってみせた。
だが、彼女が苦悩していることは間違いない。俺の前では気を張っているようだが、明らかに空元気だし、料理やその他の生活においても霞らしくないミスが頻発していた。
「小さい傷でも油断できないからな……薬を用意しようか?」
「京弥さんが言うお薬って錬成薬のことですよね? もったいなくて使えません」
霞は冗談めかして笑うが、やはりその表情には翳りがある。
「錬成薬の一つや二つ、全然構わないさ。霞の健康と……あと、美味しい食事のためにな」
「あ、私は二の次なんですね。ショックです」
「そんなことはない。同じくらい大切だぞ」
「それって、お料理に勝てていませんよね……!?」
そんなやり取りを経て同時に笑い声を上げる。それは、いつも通りの他愛ないやり取りだ。
だが……俺もまた、ちゃんと笑えている自信はなかった。
「――私、部屋に戻りますね」
夕食を終えて、食器の後片付けも終わった頃。霞はそう声を掛けると、自分の部屋がある二階へ戻っていった。
これまでは、夕食の後はリビングのソファーに並んで座り、あれこれ話すのが習慣となっていたのだが……おそらく、自分を取り繕えなくなると思って避けているのだろう。
「どうしたものか……」
解呪の結果、自分という人格は消滅する可能性が高い。そんな死刑宣告を突き付けられて、平然としていられるわけがない。霞の動揺は当然のことだし、あの日以来、俺も解呪の話を一切していない。
だが、このまま放っておいたとしても時間が解決する問題ではない。むしろ、彼女が苦しむ時間を引き延ばしているだけとも言える。
しかし……その一方で、それでも霞と一緒にいたいと思っていることも事実だった。個人的な思いだけで言うなら、解呪を諦めて俺と共に生きてほしい。それが俺の偽らざる本音だった。
「ちゃんと話をするべき、だよな」
一人になったリビングで、俺は誰にともなく呟いた。
◆◆◆
「――霞。話がしたい」
夕食後。霞が部屋へ引き上げようとしたタイミングで、俺はその行く手を阻むように声を掛けた。
「……はい」
霞はびくりと身を震わせた後で、怯えるように頷いた。その反応に悲しさを覚えながら、俺は彼女をソファーへ誘導する。普段なら俺たちのどちらかがコーヒーでも入れるところだが、今はそんな心境になれなかった。
「霞。その、解呪のことなんだが」
死刑宣告を待つような青ざめた顔で、霞は唇をきつく引き結ぶ。それでも彼女は目を逸らさなかった。
「解呪……やめないか」
「え?」
それは完全に予想外の言葉だったのだろう。何度も瞬きをしながら、彼女は俺の顔を見つめる。
「今から言うことは、聞き流してもらっても構わないんだが……」
そんな彼女の回答を待たずに、俺は言葉を続ける。
「錬金術師って、結構稼ぎはいいんだ。よっぽどの贅沢を続けない限りお金に困ることはないし、需要の割に人数が少ないから、仕事に困ることもない」
「あの、京弥さん……?」
突然の説明に困惑しているのだろう。霞は戸惑った声色で呼びかけてくる。その彼女の目を、俺はまっすぐ見つめ返した。
「だから……女性一人を養う程度の力はあるつもりだ」
「っ――」
霞が息を飲む。そして同時に、俺が言いたいことを察したのだろう。彼女は喜びと悲しみが入り混じった表情を浮かべて……そして、一粒の涙をこぼした。
「まるで……プロポーズみたいですね」
瞳に涙を浮かべたまま、霞は微笑む。この選択肢を提示されること自体が、彼女にとってつらい話のはずだった。そうしたいと思っていたとしても、彼女の心根はそれを許さないだろう。
「みたい、じゃないさ。俺は本気だ」
それでもあえて告げたのは、彼女のことを想い、一緒に生きたいと願っている人間がここにいると、そう伝えたかったからだ。本来なら存在しない人格である霞は、消えるべくして消えるだけ。そう思ってほしくなかった。
俺のエゴかもしれないが、結果として彼女が苦悩することになっても、自分にそれだけの価値があることを知ってほしかったのだ。
「身元が不明でも堂々と社会で生きるために、戸籍を取得する方法も調べてある。桑名さんや陰陽寮の伝手を使えば、決して可能性は低くない」
霞を説得するように、俺は今後の見通しを語る。その過程であちこちに大きな借りを作ることになるだろうが、彼女のためなら惜しくはない。霞がそれを望むなら、俺は手を尽くすつもりだった。
「……解呪を見送った場合、俺たちは罪悪感を抱えて生きることになるだろう。だが、二人で分かち合うことはできる。俺のせいにしてくれてもいい」
「京弥さん……」
しばらく沈黙していた霞は、やがてぽつりと口を開いた。
「ありがとうございます。本当に……嬉しいです」
彼女はソファーから立ち上がると、無言で俺の手を引っ張った。つられて立ち上がった俺は――いつかの日と同じように、霞に抱きすくめられた。そうして密着した彼女の身体からは、震えが伝わってくる。
「できることなら、私もそうしたいです」
そんな声が、顔を押し当てられた胸元から聞こえてくる。俺は彼女を抱きしめ返すと、静かに続く言葉を待った。
「記憶なんて戻らなくていいから……このままずっと、京弥さんと暮らしたいです」
「それじゃあ――」
俺が口を開きかけると、胸元で霞が首を横に振った。
「でも……駄目なんです。本来なら、私は存在しないはずの人格です。だから……これまでこの身体で生きてきた本当の私から、未来を奪うことはできません」
ごめんなさい、と涙声で告げる霞に、俺は何も言えなかった。自分の消滅を覚悟した上で、彼女はそう決断したのだ。それを無碍にすることはできない。
彼女の涙が胸元を濡らしていく中で、俺はただ彼女を抱きしめ続ける。
「……最初の頃は早く記憶を取り戻さなきゃって、そればかり考えていました」
やがて、彼女はぽつりと呟いた。俺の背中に回された彼女の腕にきゅっと力がこもる。
「でも……こうして京弥さんとの幸せな思い出が増えるにつれて、この記憶を、今の京弥さんとの関係を失いたくない。そんな思いのほうが大きくなって……」
自分の思いを、その変遷を再確認するように、彼女は少しずつ言葉を綴っていく。やがて、霞は胸元に埋めていた顔を上げた。そして……。
「――好きです」
それは決して大きな声ではなかった。だが、お互いに強く抱きしめ合っているこの状況で、聞き逃すはずはない。
そして次の瞬間、霞の顔がぐっと近づき――俺と霞の唇が触れる。一秒にも満たない時間だったが、彼女の唇の柔らかさが記憶に刻み付けられる。
「本当の私には悪いですけど……私だって、せめて――」
弁解するように呟いた霞に、今度は俺から唇を重ねていく。驚いたように身体を震わせた彼女は、それ以上抵抗することなく俺を受け入れた。
そして……長いキスの後で、彼女はポツリと告げた。
「私のこと……忘れないでくださいね」
◆◆◆
あと三日もすれば新年を迎えるという年の瀬。年末年始の定休日に入った俺は、錬金術工房で霞と向き合っていた。
……そう。今日こそが、彼女の記憶の封印を解く施術日だった。
「解呪が可能になった理由は、大きく分けて二つ。一つ目は、霞が解放した膨大な妖力に晒されて封印が弱っていること」
「そんな効果があったなんて……」
「そしてもう一つは、霞が俺の魔力に馴染んだことで、緻密な操作が可能になったことだ」
簡単な説明を経て、霞を工房の作業台に横たえる。彼女の解呪実験のために買ったマットレスも、これで使い修めになるのだろう。頭を振ってそんな想念を振り払うと、横たわる霞に話しかける。
「……そろそろ始めようか」
できるだけ平静を装って、俺はそう宣言した。正直に言えば、霞を失う覚悟はまだできていない。だが俺がこんなことでは、もっと辛く、そして恐ろしい思いと覚悟をしている霞に合わせる顔がない。
「はい……お願いします」
答える霞は緊張しきった様子だった。そんな彼女に、俺は調合した錬成薬を差し出す。解呪の補助を担うとともに、霞を睡眠状態へ導くものだ。
対象者が覚醒した状態で記憶の封印や解除を行うと、その瞬間に脳に大きな負荷がかかるのではないかと、そう懸念したからだ。
つまり――この錬成薬を飲めば、もう今の霞には会えなくなるかもしれない。
「ありがとうございます」
小瓶を受け取る霞の手は震えていた。それはそうだろう。自分で致死性の毒薬を飲もうとしているようなものだ。その毒薬を調合したのが俺だとは、なんとも皮肉なものだった。
「……」
錬成薬の瓶の蓋を開けようとした霞の手が止まる。だが、決して急かしたりはするまい。そう決意していた俺と、彼女の目が合う。
「京弥さん……最後に、その――」
彼女の意図を察した俺は、マットレスの上で上半身だけを起こしている霞に近付くと、そっと口づけた。同時に彼女の腕が俺の背中に回されて、今の姿勢で固定される。
そうしてどれほど経っただろうか。やがて、霞は名残惜しそうに身を離して……俺を眩しそうに見つめた。
「それじゃ……少し眠りますね。起きたら買い出しに付き合ってもらえますか?」
これからうたた寝をするかのような、日常的で気軽な言葉。それは彼女の願掛けだったのかもしれない。
いつものように眠って……そして、いつものように目を覚ますために。
「もちろんだ。荷物持ちは任せてくれ」
こみ上げる感情を飲み込んで、俺も努めて明るい声で答える。それは、まるで即興の芝居のようだった。
「それに、大掃除の続きをしないと」
「そうだな。一緒に頑張ろう」
「そして何より、急いでおせち料理を作らないといけませんね」
「ああ、楽しみにしてる。絶対に美味いだろうからな」
そう答えるうちに、本当に明日の話をしているような錯覚を覚える。そして、ふと気付けば……彼女は切なくなるような、透明で穏やかな微笑みを浮かべていた。
「京弥さん……愛しています」
そう言い残して、霞は錬成薬を一気に飲み干した。
◆◆◆
意識を失った霞の身体を抱き上げて、住居の二階へ向かう。万が一にも足を踏み外さないよう慎重に階段を上ると、俺は霞の部屋の扉を肩で押し開いた。
「すっかり雰囲気が変わったな……」
初めて入る彼女の部屋に、そんな感想をもらす。これまでも隙間から中が見えることはあったが、こうして足を踏み入れるのは初めてだった。
丁寧に整頓された部屋には、造花やかわいらしい小物が配置されている。本棚には料理や経営の本からファッション雑誌まで、幅広いジャンルのものが収められているようだった。
「――と、観察している場合じゃないな」
俺ははっと我に返ると、抱えていた霞をベッドへ下ろした。寒がりの彼女のために上から毛布を掛けて、暖房を点ける。
「おやすみ」
俺はベッドの脇に立つと、眠る霞に言葉をかけた。すでに解呪には成功しているため、後は彼女が目を覚ますのを待つだけだ。後は……どちらの人格が目を覚ますのか。それだけだ。
「……」
抑えきれない不安が喉元までせり上がり、緊張が途切れることなく胸を突く。そんな状態で霞を眺めていると、ふと家の呼び出し音が鳴り響いた。
「なんだ……?」
俺はやや覚束ない足取りで階段を下りて、玄関の扉を開ける。そこに立っていたのは孝祐だった。
「孝祐か。どうした?」
そう問いかけると、学友はわざとらしく肩をすくめた。
「その様子じゃ、やっぱり着信に気付いてないな」
「え? ……ああ、そう言えば電源を切ったままだ」
霞の解呪で気が散らないようにと、携帯電話の電源をオフにしていたのだ。解呪が終わった後も、霞の部屋でずっと想念に囚われていたせいですっかり忘れていた。
「そんなことだと思ったよ。解呪は今日だったな?」
「ああ。さっき終わって、霞の覚醒待ちだ」
孝祐の問いかけに頷く。霞の解呪を行うことは、孝祐や美幸、桑名さんといった近しい人間には説明してある。
「遅かったか……」
「どういう意味だ?」
聞き逃せない呟きに眉を顰める。すると、孝祐は玄関に入り込みながら口を開いた。
「少し長くなる。中で話そう」
靴を脱ぐと、慣れた様子でリビングへ先に歩いていく。彼を追いかけてリビングへ入ると、俺はテーブルを挟んで孝祐と向かい合った。
「……ようやく霞ちゃんの身元が掴めた」
「なんだって!?」
早速切り出された言葉に、俺は思わず身を乗り出した。そして、先ほどの孝祐の言葉の意味に思い当たる。
「だから、『遅かった』か」
記憶を封印されていた霞にとっては、何よりも知りたい情報だったはずだ。だが、もう封印は解かれている。
そんな俺の前に、いつもの封筒が差し出される。その中には霞の身元に関する資料が入っているのだろう。俺が封筒に手を伸ばすと、孝祐は説明を始めた。
「遅くなって悪かったな。調査の盲点だった上に、ガードが固くて時間がかかった」
そんな言葉を聞きながら、俺は封筒の中身を漁る。最初に出てきたのは、紛れもない霞の顔写真だ。そして……その写真の隅に書かれた名前が目に入った。
「――彼女の本名は神山霞。八岐大蛇の末裔、あの神山家の直系で……現当主の娘だ」
◆◆◆
「神山霞……か」
その名を口の中で何度も繰り返す。少なくとも、霞という名前は合っていたわけだ。そんな現実逃避のような思考に没頭していると、孝祐が意外そうな顔で俺を見ていた。
「意外と驚かないな。もっと呆然とすると思っていた」
「……解放された霞の妖力が、神山透とよく似ていたんだ。規格外の妖力に共通する性質かとも思ったんだが」
そのため、霞が八岐大蛇に連なる存在だという可能性は頭に置いていたのだ。まさか直系だとは思わなかったが。そこまで考えた俺は、今さらながらあることに気付いた。
「ん? ということは、あの神山透は霞の――」
「弟だ。だいぶ歳が離れているが、母親が数年前に亡くなっていることもあって、ずいぶん懐かれていたらしい」
「そうだったのか……」
ルーカスさんと一緒に姿をくらませた彼は、今頃どうしているのだろうか。現金な話だが、霞の弟だと知れば心配になってくる。
「陰陽寮に照会して分からなかったのも道理だ。陰陽寮へお前を勧誘していたのは、神山家としての目論見だったんだろう。あそこは陰陽寮のトップみたいなものだが、正式に所属しているわけじゃないからな」
「神山家の目論見と言われても……どうにもピンと来ないな」
正直なところを告げれば、孝祐は小さく笑った。
「お前は希少な錬金術師だからな。一人くらい取り込みたいという思惑があってもおかしくはないさ」
「だからって、わざわざ自分の娘を仕向けるか?」
「そこは俺も不思議だが……霞ちゃんは、特殊な役回りを担当していたみたいでね。神山家の調整役として、他の陰陽四家なんかと交渉をしていたらしい」
「調整役……」
思わぬ役職に驚くが、孝祐はそうは思わなかったらしい。
「ほら、霞ちゃんはほとんど妖力がなかっただろう? 神山家の直系として権威はあるが、直接的な脅威じゃない。そういう立ち位置の人間が最適解になることもある」
「なるほどな……ここへ来た理由だけは謎のままだが」
「ま、気にするなって。少なくとも、霞ちゃんに出会えたことはプラスだっただろう?」
「ああ。それは認める」
思わず霞の部屋のほうへ視線を向ける。彼女が目覚めるのはもう少し先の話だろうが……どちらの人格の霞が目を覚ますのか。そう考えると再び不安が渦巻き始める。
「霞ちゃんが目を覚ましたら、きっと『すみません、私のままでした。……なんだか恥ずかしいですね』とか言うさ」
そんな俺の気持ちを察したのか、孝祐は朗らかにそう告げた。いかにも霞が言いそうな言葉だと、張り詰めていた俺の表情がわずかに緩む。
「そうだな。……きっと、そう言うだろうな」
自分に言い聞かせるように、俺は何度も呟いた。
◆◆◆
「そろそろか……」
時計を見つめて、ぼそりと呟く。霞の解呪を行ってから、もうすぐ五時間が経とうとしていた。
霞に飲ませた錬成薬は、本人の耐性にもよるが五時間ほどで効き目が切れる。そろそろ目を覚ましてもおかしくない頃合いだ。そう考えた俺は、心を落ち着かせながら彼女の部屋へ向かった。
「……」
扉の前で耳を澄ませるが、物音は何も聞こえてこない。まだ眠っているのだろう。そのことにほっとしながら、俺はドアを押し開いた。そして――。
「――え?」
その声は、俺が発したものではない。声の主は、ベッドから上半身を起こしていた霞だった。
「!」
それを認識した瞬間、抑え込んでいた不安と緊張が破裂せんばかりに身体を駆け巡った。大丈夫だ。きっと大丈夫。そう自分に言い聞かせて、彼女の反応を待つ。
そんな俺をどう思ったのか、彼女は戸惑ったように周りを見回して……そして、不思議そうに呟いた。
「――私、どうしてこんなところに……?」




